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第15話:公開の場での“静かな逆転”
しおりを挟む大広間は、声がよく響く。
それは祝祭のための響きじゃない。
裁判のための響き。
誰かを吊るし上げるための響き。
高い天井。
柱の連なり。
壁に掛けられた歴代の王の肖像。
金箔の縁取りが光を反射して、目が疲れる。
香が焚かれ、空気は甘いのに、喉の奥が乾く。
人がいる。
貴族。騎士。聖職者。役人。
そして、壁際に押し込められた民。
布の質が違う。匂いが違う。
でも、同じ空気を吸っている。
同じ結界の内側で生きている。
その空気が、今、薄い。
結界の歪みが、誰の目にも見えないのに、誰の身体にも見えている。
息が浅い。喉が乾く。
笑い声が乾いて、すぐ途切れる。
大広間の全員が、見えない崖の縁に立っている。
「公開審議を始める」
国王ハルディンの声が落ちる。
玉座の間より広い場所で、王は小さく見えた。
小さく見えるのに、背負っているものだけが巨大で、肩が壊れそうだった。
セリアは広間の中央、少し後ろに立っていた。
兵に囲まれているわけじゃない。
でも囲まれている。視線に。
背中の空気が澄んでいる。
それは隠せない。
香の甘さの中に、森の冷たさが一本混じっている。
その一本が、全員の皮膚をざらっと撫でる。
“妖精がいる”
誰も口にしないのに、全員が理解している。
妖精たちは、姿を見せない。
ただ沈黙する。
柱の影。天井の梁。壁の隙間。
気配だけがそこにあり、誰にも肩入れしない。
それが怖い。
人間は、味方か敵かを求める生き物だから。
沈黙は、どちらにもならない。
どちらにもなれない者の首を、静かに締める。
貴族たちが前へ出た。
その動きは、まるで潮。
一斉に動く。
けれど足元は揃っていない。
焦りが混ざると、波は汚くなる。
最初に声を上げたのは、エドガーの父――ヴェルディス侯だった。
髭は整えられ、眼光は鋭い。
しかしその鋭さの奥に、薄い汗が浮いている。
権力者の汗は、香水で隠せない。
「国王陛下」
ヴェルディス侯は続けた、そして“丁寧に”言う。
「我らは、王国と民のために尽くしてまいりました。妖精との契約もまた――」
契約。
言葉を口にした瞬間、広間の温度が一段下がった。
誰もが感じる。
その言葉の下に、長い歪みがあることを。
ヴェルディス侯は続けた。
「……更新の滞りは、誤解と不運の積み重ね。今こそ対話を」
「そして、ここにいるセリア殿」
彼の視線がセリアに刺さる。
「彼女を、我が家が庇護し、適切に導くことで――」
導く。
庇護。
甘い言葉の形をした檻。
別の貴族も続いた。
「彼女は“異物”ゆえ、保護が必要です」
「聖女候補ミレーヌ殿の側に置けば――」
「王国の象徴として――」
象徴。
また、道具にしようとする言葉。
セリアは息を吸い、吐いた。
怒りが湧く。
けれど怒号にはしない。
怒号は、彼らの土俵だ。
彼らは怒号の中で“正義”を作る。
「……セリア」
胸の奥で、ルゥシェの声がする。
姿は見えない。
でも、いる。
近すぎない距離で、支えになる距離で。
“引っ張らない”距離。
セリアは頷くように、指先を軽く握った。
護符の感触。
指先の微かな光。
本物の重さ。
ハルディン王が苦い声で言う。
「庇護、導く、象徴……」
その言葉を舌で転がして、吐き捨てるように続けた。
「お前たちは、まだそれを言うのか」
貴族たちが顔色を変える。
王が貴族を叱るのは、この広間では珍しい。
それだけ、追い詰められている。
ミレーヌが前に出た。
白いドレス。
しかし昨日の崩壊の影が、彼女の肩に残っている。
泣いた跡。
それでも仮面を直し、慈悲の声を作る。
「陛下……」
ミレーヌは柔らかく言う。
「私が、もう一度祈ります。妖精の方々に――」
その瞬間、広間の空気がひゅっと冷えた。
拒絶。
蝋燭が消えた夜と同じ拒絶が、まだ残っている。
ミレーヌの唇が震える。
彼女は笑おうとして、笑えない。
昨日の闇が喉に詰まっている。
妖精たちは沈黙したままだ。
助けない。
咎めない。
肩入れしない。
その沈黙が、最も残酷な裁定になる。
「……では」
王が言った。
「セリア・アルノート。前へ」
その名が、公開の場で呼ばれる。
追放した国が、追放した名を、今は国の中心で呼ぶ。
その事実だけで、空気が少しだけ変わる。
“国家のミス”が、公式に輪郭を持ち始める。
セリアは一歩、前に出た。
たった一歩。
でも、その一歩で広間の音が変わる。
ざわめきが、波から砂に変わる。
全員が息を止める。
セリアの足元の石が冷たい。
心臓は速い。
でも足取りは落ち着いている。
もう捨てられない場所が胸にあるから。
そして――空気が、柔らかく震えた。
“澄む”とは違う。
冷えるのでもない。
柔らかい。
森の朝の霧みたいな柔らかさが、一瞬だけ広間に混ざる。
誰かが息を呑む。
民が目を見開く。
貴族が青ざめる。
兵が槍を握り直す。
セリアの周囲に、微かな光が咲いた。
花の形じゃない。
でも、花が咲く時の気配に似ている。
静かに、確かに、増えていく。
小さな光の粒が、セリアの肩、髪、指先の周囲を漂い、輪になる。
妖精の微光。
姿は見えないのに、光だけが存在を示す。
“選ばれている”。
それが、誰の目にも分かった。
身分じゃない。
血統じゃない。
王の許可でもない。
ましてや貴族の庇護でもない。
“姿勢”だ。
嘘をつかない。
奪わない。
切り捨てない。
怖いのに立つ。
その姿勢に、妖精は寄った。
貴族たちの顔色が、一斉に白くなる。
彼らが欲しかったのは、この光だ。
この光を、血統の証明にしたかった。
国を支える道具にしたかった。
でも光は、彼らを見ない。
セリアの周囲にだけ、静かに咲く。
ルゥシェの笑いが、胸の奥で小さく響く。
意地悪じゃない笑い。
“ほらね”という笑い。
王が、静かに言った。
「……見たか」
誰にともなく。
しかし全員に刺さる声で。
「選ばれたのは、血ではない」
「肩書でもない」
「在り方だ」
大臣が震える声で言う。
「し、しかし陛下。契約の更新は、家門ごとの――」
王が首を振った。
「家門ごと、ではない」
「更新とは、選び合いだ」
「そして今、選び合いの相手は――」
王の視線が、ヴェルディス侯へ向く。
次に、ミレーヌの背後にいる聖職者たちへ向く。
彼らの背後には、権威がいる。
聖女候補を支え、制度を支えてきた権威。
王は、呼吸を整え、宣言した。
「ヴェルディス家」
「更新は拒まれた」
空気が落ちる。
重い石が落ちる音みたいに、静かに落ちる。
怒号は起きない。
叫びは出ない。
出せない。
妖精の沈黙が、喉を塞ぐ。
ヴェルディス侯が口を開いた。
しかし声が出ない。
出たとしても、誰も信じない。
今この場で、光が彼の家に寄っていないから。
王は続ける。
「ミレーヌを後ろ盾とする教会派閥」
「更新は拒まれた」
「聖女候補の奇跡は、契約の代替にはならぬ」
ミレーヌが、膝を折りかけた。
白い布が震える。
彼女は歯を食いしばり、必死に立つ。
主役の座から落ちる恐怖が、彼女の背骨を支えている。
王の声は、冷たいほど静かだった。
「よって、称号剥奪を宣言する」
称号剥奪。
それは処刑ではない。
血が流れない。
首も飛ばない。
でも、彼らにとっては首が飛ぶより怖い。
“元貴族”になる。
看板が剥がれる。
正当性が剥がれる。
誰も彼らの言葉を“正義”として受け取らなくなる。
怒号も断罪もない。
だからこそ重い。
静かな宣告は、逃げ道を焼く。
ヴェルディス侯が震える声で言った。
「陛下……! 我らは……我らは民を守って……!」
王は首を横に振る。
「民を守るのは、称号ではない」
「守るなら、在り方で守れ」
その言葉が、刃だった。
血を流さない刃。
しかし確実に切る刃。
セリアは、光の輪の中で息を吐いた。
長い息。
森で学んだ、生きるための息。
“見返す”という言葉が、胸の奥で形を変える。
復讐じゃない。
怒号でもない。
罰を与える快感でもない。
ただ、事実を提示した。
国の裏帳簿を、光の下に置いた。
そして世界が、それを読んだ。
セリアは自分の声を探して、静かに言った。
「私は、あなたたちを倒しに来たんじゃない」
「あなたたちが、何を支えに立っていたかを示しに来た」
「そして――何を切り捨てたかを」
貴族たちが息を呑む。
民が、セリアを見る。
その目には怖さと期待が混ざっている。
救いを求める目。
でもセリアは救い主じゃない。
ただ、切り捨てない人間だ。
セリアはもう一度息を吐く。
喉の奥に、覚悟の塩味がある。
背後の空気の底で、フィオラルの気配が静かに揺れた。
肯定でも否定でもない。
観測の揺れ。
均衡が、変わり始めた揺れ。
大広間の空気は、まだ薄い。
結界はまだ歪んでいる。
民の飢えも消えていない。
それでも。
この瞬間だけは、確かに逆転だった。
大声じゃない。
剣も抜かない。
派手な奇跡もない。
ただ、沈黙と微光で――
世界の序列が、静かにひっくり返った。
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