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第27話「ミントの不安と、距離を置く決意」
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リリー・バジルが村に“滞在”する。
その事実だけで、村の空気は目に見えない泡立ちを始めた。
朝の井戸端。
昼の市場。
夕方の畑道。
どこに行っても、話題が同じ方向へ流れていく。
「ねえ聞いた? 貴族様、ほんとに泊まるんだって」
「泊まるってどこに?」
「村長の家じゃない? 一番広いし」
「村長んちの息子、緊張で胃が死ぬぞ」
「それはそれで面白い」
面白がってるのが腹立つけど、村の人たちはこういう時、結局最後には面倒を見てしまう。
そういう優しさが、この村の“当たり前”だった。
◇
村長の家の前には、今朝から小さな人だかりができていた。
村の女性陣が勝手に集まって、勝手に準備を始めている。
「ほら! 貴族様が泊まるなら、シーツはこれじゃ薄い!」
「そんなの知らないわよ! うちの一番いい布持ってきたんだから!」
「枕も新しいの詰める? 藁じゃ怒られる?」
「藁はさすがに……でも羽は高い」
あれこれ言いながらも、手は止まらない。
村長は玄関先で頭を抱えていた。
「頼むから勝手に家の中を改造するな! 俺の家だぞ!」
「村長、黙ってて」
「黙れって言うな!」
デイジーが腰に手を当てて、村長を黙らせる勢いで睨む。
「貴族様ってのはな、面倒なんだよ。
機嫌損ねたら、“村が失礼を働いた”ってことになる。
ミントの店を守るためにも、ここは丁寧にやるの」
「え、ミントのため?」
「当たり前でしょ。あの令嬢、ミントを“田舎娘”って言ったのよ?
村全体で壁になるに決まってるじゃない」
デイジーがさらっと言い切った。
村の人たちが、頷く。
「そうだそうだ」
「ミントはうちの子だ」
「うちの店主だ」
「うちの王家認定だ」
「最後のはよくわからんけど、まあいい!」
妙な団結に、ミントはグリーンノートの軒下から苦笑いするしかなかった。
店の準備をしながらも、心はどうしてもそちらへ引っ張られる。
(私を守るために、ここまでやってくれるんだ)
嬉しい。
ありがたい。
でも、それでも――。
(これって、結局“貴族”が来たから、だよね)
力の差。
立場の差。
そういうものが、田舎にも波のように押し寄せてくる。
リリーは、村長の家の玄関から出てきた。
今日の服は、昨日より少しだけ動きやすそうなワンピースにショール。
それでも生地の艶は隠せないし、指先の美しさも隠せない。
村の空気の中に、あまりにも“違う匂い”で立っている。
「……」
リリーは、まず空気を吸った。
そして、ほんの少し眉をひそめる。
土の匂い。
家畜の匂い。
朝露の匂い。
王都の香水と石畳の世界から来た彼女には、刺激が強いはずだ。
でも。
「……悪くはありませんわね」
小さく、そう呟いた。
すぐ近くにいた村のおばさんが、聞き逃さなかった。
「お嬢さん、朝ごはん食べた? 今からパン焼くけど」
「パン……?」
「こっちはね、固いパンにスープ浸して食べると最高なのよ」
リリーは一瞬たじろいだ。
(“下々の食事”に誘われている)
脳内の貴族教育が叫んでいるのが、顔に出かける。
でも、昨日の旅路で腹が減っていたことも、村長の家で出された素朴なスープが意外と美味しかったことも、事実だった。
「……いただけるなら」
リリーは、負けたみたいに小さく言う。
「まあ! 素直じゃない! かわいい!」
「かわ……っ」
リリーの頬が真っ赤になった。
この村の人たちは、貴族相手でも躊躇がない。
いや、躊躇がないというより、躊躇の仕方を知らない。
それが、リリーにとっては一番の衝撃だった。
◇
グリーンノートは今日も大繁盛だった。
リリーが村にいると聞きつけて、むしろ客が増えた気さえする。
「貴族様見たさに来た」
「ついでに腰も見てもらう」
「ついでが本命じゃない?」
そんな軽口が飛び交いながら、店は回っていく。
ミントはいつものように、ひとりひとりの話を聞く。
「どんな時に痛みます?」
「朝が一番だな」
「じゃあ、夜の冷え込みで固まってるかも。
寝る前にこれ、温めて塗ってください」
口は慣れている。
手も慣れている。
だけど心の奥には、ずっと小さな棘が刺さったままだった。
(リリーさんがいる)
(王都の貴族が、この村にいる)
(そしてサフランさんの“婚約話”)
昨日の言葉が、頭の中で何度も反芻される。
――俺の人生は俺が決める。
――ミントのことも、俺が決める。
嬉しい。
嬉しすぎる。
でも、その嬉しさが、逆に怖い。
(本当に?)
(本当に、私でいいの?)
そんな問いが、胸の奥から勝手に湧いてくる。
「ミント姉ちゃん!」
カウンターの外から、子どもが顔を覗かせた。
「どうしたの、クローバ」
「ねえねえ、サフラン兄ちゃんと結婚するの?」
「ぶっ……!」
ミントは盛大にむせた。
「ちょ、ちょっと待って、それ何回目!?」
「村長が言ってた!」
「村長ーーーー!!」
店内に笑いが起こる。
デイジーが会計しながら、口元だけで笑う。
「村長、絶対それ言うと思った」
「でもみんな思ってるよね」
「思ってる思ってる」
無責任な賛同の嵐。
ミントは顔を真っ赤にして、手元の薬包紙をぎゅっと握った。
「まだ、そういう話じゃないから!」
「でもさ、サフラン兄ちゃん、ミント姉ちゃんのこと好きだよ」
「……っ」
子どもって、残酷なほど真っ直ぐだ。
好きだよ、なんて言葉を、刃みたいに投げてくる。
「……そういうのはね、軽々しく言わないの」
ミントは、できるだけ大人の顔で言った。
クローバはきょとんとして、でもすぐ笑う。
「じゃあ、重々しく言う! サフラン兄ちゃん、ミント姉ちゃんのこと好きだよ!」
「重くなってない!!」
店内がまた笑いに包まれる。
その笑いの中で、ミントの胸の奥だけが、別の音を立てていた。
ドクン、ドクン。
(結婚)
(私が、サフランさんと)
(いいのかな)
問いが、また湧く。
そして、答えは簡単に出ない。
だって、現実が目の前にいる。
王都の貴族令嬢、リリー・バジル。
完璧な見た目。
家柄。
教育。
“サフランにふさわしい”と周囲が決めた存在。
比べたくなくても、比べてしまう。
(サフランさんの家柄)
(宮廷薬師としての立場)
(王都での役割)
(私の……田舎娘という出自)
言葉にならない不安が、じわじわと心の底に沈殿していく。
◇
昼過ぎ、客が切れた一瞬の隙。
ミントは裏の調合台で、薬草を刻んでいた。
手は動いているのに、頭の中は別の場所にいる。
そこへ、サフランが水差しを持って入ってくる。
「休憩しろ。顔が疲れてる」
「大丈夫。まだいける」
ミントは、笑う。
笑顔のつもりだった。
でも、サフランの目がわずかに細くなる。
「……最近、無理してる」
「してないよ」
即答。
その瞬間、ミントは自分が“逃げた”とわかった。
サフランは何も言わず、コップに水を注いで差し出す。
ミントは受け取り、喉を潤す。
水が冷たくて、胸の熱を少しだけ落ち着かせた。
「リリーが来てから、空気が変わった」
サフランがぽつりと言う。
「……うん」
「お前も」
ミントの手が止まりそうになる。
「……変わった?」
「少し」
サフランは、淡々と続ける。
「距離がある」
その言葉に、胸の奥がきゅっと縮んだ。
(バレてる)
(そりゃそうだよね、サフランさんはこういうの、鋭い)
ミントは、無理に笑った。
「気のせいだよ。忙しいだけ」
「忙しいのはいつもだ」
サフランの返しが、やけに優しくて、やけに厳しい。
ミントは、指先で薬草をつまんだまま、視線を落とした。
「……何かあったか?」
サフランの声が、少しだけ低くなる。
怒っているわけじゃない。
心配している声。
その心配に、胸が痛む。
言いたい。
全部言いたい。
怖い。
不安。
嬉しい。
でもその嬉しさが怖い。
私がサフランさんを縛ってしまうんじゃないか。
あなたにはもっとふさわしい世界があるんじゃないか。
でも、言えない。
言ったら、自分の弱さが露骨に見えてしまう気がした。
“田舎娘の自信のなさ”を、そのまま差し出してしまう気がした。
「……何もないよ」
結局、ミントはそう言ってしまった。
笑顔で。
サフランは、数秒黙った。
そして、何も追及せずに、ただ頷いた。
「そうか」
その“そうか”が、逆に胸に刺さる。
信じてくれている。
でも、信じられるほど、ミントは自分を信じきれていない。
(ごめん)
口に出せない謝罪が、喉の奥で詰まる。
サフランが背を向け、店の表へ戻っていく。
ミントは、ひとりになった調合台の前で、手をぎゅっと握った。
(距離を置こう)
突然、そう思った。
自分でも驚くほど、はっきりした言葉が頭に浮かんだ。
(リリーさんがいる間だけでも)
(私が変に期待して、変に傷つかないように)
(サフランさんが、私のせいで困らないように)
その決意は、守りの形をしていた。
でも、その守りは同時に、刃でもある。
自分を守りながら、相手も切ってしまう刃。
◇
夕方。
村長の家の前では、リリーが素朴な夕食を前に、じっとスプーンを見つめていた。
今日のメニューは、根菜の煮込みと、焼きパンと、ハーブ入りのスープ。
飾り気はない。
でも、湯気の匂いは優しい。
「……」
リリーは、慎重に一口すくって口に運ぶ。
咀嚼。
目が、ほんの少しだけ見開かれる。
「……おいしい」
ぽつり。
侍女が目を丸くする。
「お嬢様?」
「ち、違いますわ! おいしいと言っただけですわ!」
「それが驚きです」
「失礼ですわね!」
村長の奥さんが笑う。
「お嬢さん、味付け薄いかと思ったけど、いける?」
「……悪くなくてよ」
その言い方が、いちいち素直じゃない。
でも、村の人たちはその素直じゃなさを「かわいい」に変換してしまう。
「ほら、もっと食べな。旅で疲れてるんだから」
「そんなに食べたら太りますわ」
「太ったっていいじゃない。田舎じゃ“よく食べるのは元気の証拠”よ」
「価値観が乱暴ですわ……!」
リリーは文句を言いながらも、結局二口目を食べた。
少しずつ、ほだされていく。
その様子を、ミントは遠くから見てしまっていた。
店を閉めた帰り道、村長の家の明かりが見えた時、つい足が止まった。
(リリーさんも、ここで息をしてる)
(この村に、少しずつ馴染んでいく)
その現実が、ミントの不安をさらに刺激する。
(彼女は“貴族”で)
(でも、ここでもちゃんと生きられる)
(私は……王都で生きられる?)
胸がきゅっとなる。
“ふさわしさ”という言葉が、頭の中で鳴り続ける。
ふさわしい。
ふさわしくない。
そんな尺度、本当は嫌いなのに。
嫌いなのに、心が勝手に当てはめてしまう。
◇
夜。
グリーンノートの灯りは消え、店は静かになった。
虫の声が外から聞こえる。
風が窓を撫でる音がする。
ミントは一人、奥の棚の前に座っていた。
棚の奥から、小さな瓶を取り出す。
乾燥したハーブが入っている。
淡く、星屑みたいに細かな光を含んだ――星眠り草。
祖母タイムが“ここぞという時”のために残したもの。
王太子セージを救った、あの夜の鍵。
瓶を両手で包むと、冷たさが掌に染みた。
「……おばあちゃん」
小さく呼ぶ。
返事はない。
当然だ。
でも、タイムのノートの文字はいつも耳元にある。
薬は人に合わせるもの。
人を見て作るもの。
それはできている。
でも。
(恋は?)
恋は、誰に合わせればいい?
自分に?
相手に?
世界に?
ミントは、瓶の中の星眠り草を見つめた。
あの夜、これが“命”を救った。
自分の手が、誰かの未来を繋いだ。
だから、思ってしまう。
(私は、どこまで欲張っていいんだろう)
ぽつりと、言葉が零れた。
欲張り。
それは、ずっと自分に禁じてきた言葉だった。
王都では、欲張ったら叩かれた。
声を上げたら潰された。
頑張ったら“田舎娘のくせに”と笑われた。
だから、欲張らない。
そうやって身を守ってきた。
でも今は。
サフランがいる。
村がある。
店がある。
守ってくれるものが、確かにある。
それでも、心の奥の自分が囁く。
(欲張ったら、また失うよ)
(手に入れたものが大きいほど、失った時の痛みも大きいよ)
ミントは、瓶を胸に抱えた。
冷たいはずなのに、胸の中では熱が広がっていく。
涙が出そうになるのを、必死で堪えた。
泣いたら、決意が溶けてしまう気がしたから。
(距離を置こう)
(少しだけでいい)
(私が壊れないために)
(彼を縛らないために)
そう思いながらも、胸の奥の別の自分が叫んでいる。
(本当は、近づきたい)
(手を繋ぎたい)
(“田舎娘でも幸せになっていい”って、もう知ってるはずなのに)
矛盾が、胸の中で絡まって、ほどけない。
星眠り草の瓶が、微かに光る。
まるで、“眠らせる”のではなく、“目を覚ませ”と言っているみたいに。
ミントは、喉の奥で息を詰めた。
夜の静けさが、今だけは残酷だった。
静かだからこそ、自分の心臓の音がよく聞こえる。
ドクン、ドクン。
恋と自己評価の問題が、ゆっくりと絡まり始める。
そしてその絡まりは、次の嵐の前兆みたいに、胸の奥でじっと息を潜めていた。
その事実だけで、村の空気は目に見えない泡立ちを始めた。
朝の井戸端。
昼の市場。
夕方の畑道。
どこに行っても、話題が同じ方向へ流れていく。
「ねえ聞いた? 貴族様、ほんとに泊まるんだって」
「泊まるってどこに?」
「村長の家じゃない? 一番広いし」
「村長んちの息子、緊張で胃が死ぬぞ」
「それはそれで面白い」
面白がってるのが腹立つけど、村の人たちはこういう時、結局最後には面倒を見てしまう。
そういう優しさが、この村の“当たり前”だった。
◇
村長の家の前には、今朝から小さな人だかりができていた。
村の女性陣が勝手に集まって、勝手に準備を始めている。
「ほら! 貴族様が泊まるなら、シーツはこれじゃ薄い!」
「そんなの知らないわよ! うちの一番いい布持ってきたんだから!」
「枕も新しいの詰める? 藁じゃ怒られる?」
「藁はさすがに……でも羽は高い」
あれこれ言いながらも、手は止まらない。
村長は玄関先で頭を抱えていた。
「頼むから勝手に家の中を改造するな! 俺の家だぞ!」
「村長、黙ってて」
「黙れって言うな!」
デイジーが腰に手を当てて、村長を黙らせる勢いで睨む。
「貴族様ってのはな、面倒なんだよ。
機嫌損ねたら、“村が失礼を働いた”ってことになる。
ミントの店を守るためにも、ここは丁寧にやるの」
「え、ミントのため?」
「当たり前でしょ。あの令嬢、ミントを“田舎娘”って言ったのよ?
村全体で壁になるに決まってるじゃない」
デイジーがさらっと言い切った。
村の人たちが、頷く。
「そうだそうだ」
「ミントはうちの子だ」
「うちの店主だ」
「うちの王家認定だ」
「最後のはよくわからんけど、まあいい!」
妙な団結に、ミントはグリーンノートの軒下から苦笑いするしかなかった。
店の準備をしながらも、心はどうしてもそちらへ引っ張られる。
(私を守るために、ここまでやってくれるんだ)
嬉しい。
ありがたい。
でも、それでも――。
(これって、結局“貴族”が来たから、だよね)
力の差。
立場の差。
そういうものが、田舎にも波のように押し寄せてくる。
リリーは、村長の家の玄関から出てきた。
今日の服は、昨日より少しだけ動きやすそうなワンピースにショール。
それでも生地の艶は隠せないし、指先の美しさも隠せない。
村の空気の中に、あまりにも“違う匂い”で立っている。
「……」
リリーは、まず空気を吸った。
そして、ほんの少し眉をひそめる。
土の匂い。
家畜の匂い。
朝露の匂い。
王都の香水と石畳の世界から来た彼女には、刺激が強いはずだ。
でも。
「……悪くはありませんわね」
小さく、そう呟いた。
すぐ近くにいた村のおばさんが、聞き逃さなかった。
「お嬢さん、朝ごはん食べた? 今からパン焼くけど」
「パン……?」
「こっちはね、固いパンにスープ浸して食べると最高なのよ」
リリーは一瞬たじろいだ。
(“下々の食事”に誘われている)
脳内の貴族教育が叫んでいるのが、顔に出かける。
でも、昨日の旅路で腹が減っていたことも、村長の家で出された素朴なスープが意外と美味しかったことも、事実だった。
「……いただけるなら」
リリーは、負けたみたいに小さく言う。
「まあ! 素直じゃない! かわいい!」
「かわ……っ」
リリーの頬が真っ赤になった。
この村の人たちは、貴族相手でも躊躇がない。
いや、躊躇がないというより、躊躇の仕方を知らない。
それが、リリーにとっては一番の衝撃だった。
◇
グリーンノートは今日も大繁盛だった。
リリーが村にいると聞きつけて、むしろ客が増えた気さえする。
「貴族様見たさに来た」
「ついでに腰も見てもらう」
「ついでが本命じゃない?」
そんな軽口が飛び交いながら、店は回っていく。
ミントはいつものように、ひとりひとりの話を聞く。
「どんな時に痛みます?」
「朝が一番だな」
「じゃあ、夜の冷え込みで固まってるかも。
寝る前にこれ、温めて塗ってください」
口は慣れている。
手も慣れている。
だけど心の奥には、ずっと小さな棘が刺さったままだった。
(リリーさんがいる)
(王都の貴族が、この村にいる)
(そしてサフランさんの“婚約話”)
昨日の言葉が、頭の中で何度も反芻される。
――俺の人生は俺が決める。
――ミントのことも、俺が決める。
嬉しい。
嬉しすぎる。
でも、その嬉しさが、逆に怖い。
(本当に?)
(本当に、私でいいの?)
そんな問いが、胸の奥から勝手に湧いてくる。
「ミント姉ちゃん!」
カウンターの外から、子どもが顔を覗かせた。
「どうしたの、クローバ」
「ねえねえ、サフラン兄ちゃんと結婚するの?」
「ぶっ……!」
ミントは盛大にむせた。
「ちょ、ちょっと待って、それ何回目!?」
「村長が言ってた!」
「村長ーーーー!!」
店内に笑いが起こる。
デイジーが会計しながら、口元だけで笑う。
「村長、絶対それ言うと思った」
「でもみんな思ってるよね」
「思ってる思ってる」
無責任な賛同の嵐。
ミントは顔を真っ赤にして、手元の薬包紙をぎゅっと握った。
「まだ、そういう話じゃないから!」
「でもさ、サフラン兄ちゃん、ミント姉ちゃんのこと好きだよ」
「……っ」
子どもって、残酷なほど真っ直ぐだ。
好きだよ、なんて言葉を、刃みたいに投げてくる。
「……そういうのはね、軽々しく言わないの」
ミントは、できるだけ大人の顔で言った。
クローバはきょとんとして、でもすぐ笑う。
「じゃあ、重々しく言う! サフラン兄ちゃん、ミント姉ちゃんのこと好きだよ!」
「重くなってない!!」
店内がまた笑いに包まれる。
その笑いの中で、ミントの胸の奥だけが、別の音を立てていた。
ドクン、ドクン。
(結婚)
(私が、サフランさんと)
(いいのかな)
問いが、また湧く。
そして、答えは簡単に出ない。
だって、現実が目の前にいる。
王都の貴族令嬢、リリー・バジル。
完璧な見た目。
家柄。
教育。
“サフランにふさわしい”と周囲が決めた存在。
比べたくなくても、比べてしまう。
(サフランさんの家柄)
(宮廷薬師としての立場)
(王都での役割)
(私の……田舎娘という出自)
言葉にならない不安が、じわじわと心の底に沈殿していく。
◇
昼過ぎ、客が切れた一瞬の隙。
ミントは裏の調合台で、薬草を刻んでいた。
手は動いているのに、頭の中は別の場所にいる。
そこへ、サフランが水差しを持って入ってくる。
「休憩しろ。顔が疲れてる」
「大丈夫。まだいける」
ミントは、笑う。
笑顔のつもりだった。
でも、サフランの目がわずかに細くなる。
「……最近、無理してる」
「してないよ」
即答。
その瞬間、ミントは自分が“逃げた”とわかった。
サフランは何も言わず、コップに水を注いで差し出す。
ミントは受け取り、喉を潤す。
水が冷たくて、胸の熱を少しだけ落ち着かせた。
「リリーが来てから、空気が変わった」
サフランがぽつりと言う。
「……うん」
「お前も」
ミントの手が止まりそうになる。
「……変わった?」
「少し」
サフランは、淡々と続ける。
「距離がある」
その言葉に、胸の奥がきゅっと縮んだ。
(バレてる)
(そりゃそうだよね、サフランさんはこういうの、鋭い)
ミントは、無理に笑った。
「気のせいだよ。忙しいだけ」
「忙しいのはいつもだ」
サフランの返しが、やけに優しくて、やけに厳しい。
ミントは、指先で薬草をつまんだまま、視線を落とした。
「……何かあったか?」
サフランの声が、少しだけ低くなる。
怒っているわけじゃない。
心配している声。
その心配に、胸が痛む。
言いたい。
全部言いたい。
怖い。
不安。
嬉しい。
でもその嬉しさが怖い。
私がサフランさんを縛ってしまうんじゃないか。
あなたにはもっとふさわしい世界があるんじゃないか。
でも、言えない。
言ったら、自分の弱さが露骨に見えてしまう気がした。
“田舎娘の自信のなさ”を、そのまま差し出してしまう気がした。
「……何もないよ」
結局、ミントはそう言ってしまった。
笑顔で。
サフランは、数秒黙った。
そして、何も追及せずに、ただ頷いた。
「そうか」
その“そうか”が、逆に胸に刺さる。
信じてくれている。
でも、信じられるほど、ミントは自分を信じきれていない。
(ごめん)
口に出せない謝罪が、喉の奥で詰まる。
サフランが背を向け、店の表へ戻っていく。
ミントは、ひとりになった調合台の前で、手をぎゅっと握った。
(距離を置こう)
突然、そう思った。
自分でも驚くほど、はっきりした言葉が頭に浮かんだ。
(リリーさんがいる間だけでも)
(私が変に期待して、変に傷つかないように)
(サフランさんが、私のせいで困らないように)
その決意は、守りの形をしていた。
でも、その守りは同時に、刃でもある。
自分を守りながら、相手も切ってしまう刃。
◇
夕方。
村長の家の前では、リリーが素朴な夕食を前に、じっとスプーンを見つめていた。
今日のメニューは、根菜の煮込みと、焼きパンと、ハーブ入りのスープ。
飾り気はない。
でも、湯気の匂いは優しい。
「……」
リリーは、慎重に一口すくって口に運ぶ。
咀嚼。
目が、ほんの少しだけ見開かれる。
「……おいしい」
ぽつり。
侍女が目を丸くする。
「お嬢様?」
「ち、違いますわ! おいしいと言っただけですわ!」
「それが驚きです」
「失礼ですわね!」
村長の奥さんが笑う。
「お嬢さん、味付け薄いかと思ったけど、いける?」
「……悪くなくてよ」
その言い方が、いちいち素直じゃない。
でも、村の人たちはその素直じゃなさを「かわいい」に変換してしまう。
「ほら、もっと食べな。旅で疲れてるんだから」
「そんなに食べたら太りますわ」
「太ったっていいじゃない。田舎じゃ“よく食べるのは元気の証拠”よ」
「価値観が乱暴ですわ……!」
リリーは文句を言いながらも、結局二口目を食べた。
少しずつ、ほだされていく。
その様子を、ミントは遠くから見てしまっていた。
店を閉めた帰り道、村長の家の明かりが見えた時、つい足が止まった。
(リリーさんも、ここで息をしてる)
(この村に、少しずつ馴染んでいく)
その現実が、ミントの不安をさらに刺激する。
(彼女は“貴族”で)
(でも、ここでもちゃんと生きられる)
(私は……王都で生きられる?)
胸がきゅっとなる。
“ふさわしさ”という言葉が、頭の中で鳴り続ける。
ふさわしい。
ふさわしくない。
そんな尺度、本当は嫌いなのに。
嫌いなのに、心が勝手に当てはめてしまう。
◇
夜。
グリーンノートの灯りは消え、店は静かになった。
虫の声が外から聞こえる。
風が窓を撫でる音がする。
ミントは一人、奥の棚の前に座っていた。
棚の奥から、小さな瓶を取り出す。
乾燥したハーブが入っている。
淡く、星屑みたいに細かな光を含んだ――星眠り草。
祖母タイムが“ここぞという時”のために残したもの。
王太子セージを救った、あの夜の鍵。
瓶を両手で包むと、冷たさが掌に染みた。
「……おばあちゃん」
小さく呼ぶ。
返事はない。
当然だ。
でも、タイムのノートの文字はいつも耳元にある。
薬は人に合わせるもの。
人を見て作るもの。
それはできている。
でも。
(恋は?)
恋は、誰に合わせればいい?
自分に?
相手に?
世界に?
ミントは、瓶の中の星眠り草を見つめた。
あの夜、これが“命”を救った。
自分の手が、誰かの未来を繋いだ。
だから、思ってしまう。
(私は、どこまで欲張っていいんだろう)
ぽつりと、言葉が零れた。
欲張り。
それは、ずっと自分に禁じてきた言葉だった。
王都では、欲張ったら叩かれた。
声を上げたら潰された。
頑張ったら“田舎娘のくせに”と笑われた。
だから、欲張らない。
そうやって身を守ってきた。
でも今は。
サフランがいる。
村がある。
店がある。
守ってくれるものが、確かにある。
それでも、心の奥の自分が囁く。
(欲張ったら、また失うよ)
(手に入れたものが大きいほど、失った時の痛みも大きいよ)
ミントは、瓶を胸に抱えた。
冷たいはずなのに、胸の中では熱が広がっていく。
涙が出そうになるのを、必死で堪えた。
泣いたら、決意が溶けてしまう気がしたから。
(距離を置こう)
(少しだけでいい)
(私が壊れないために)
(彼を縛らないために)
そう思いながらも、胸の奥の別の自分が叫んでいる。
(本当は、近づきたい)
(手を繋ぎたい)
(“田舎娘でも幸せになっていい”って、もう知ってるはずなのに)
矛盾が、胸の中で絡まって、ほどけない。
星眠り草の瓶が、微かに光る。
まるで、“眠らせる”のではなく、“目を覚ませ”と言っているみたいに。
ミントは、喉の奥で息を詰めた。
夜の静けさが、今だけは残酷だった。
静かだからこそ、自分の心臓の音がよく聞こえる。
ドクン、ドクン。
恋と自己評価の問題が、ゆっくりと絡まり始める。
そしてその絡まりは、次の嵐の前兆みたいに、胸の奥でじっと息を潜めていた。
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そして、新たな婚約者として、その妹が王太子本人から指名されたのだった。
「私は君と夫婦になるつもりはないし、辺境伯夫人として扱うこともない」
この判断によって、どうなるかなども考えずに…
※ 中世ヨーロッパ風の世界観です。
※ ご都合主義ですので、ご了承下さい、
※ 画像はAIにて作成しております
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ただし、彼は持った全ての力を愛娘リリアンの為にしか使わない。
財力も、魔力も、顔の良さも、権力も。
なぜなら彼は、娘命の、究極の娘馬鹿だからだ。
※このお話は、日常系のギャグです。
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※2024年5月 タイトルとあらすじを変更しました。
いらない子のようなので、出ていきます。さようなら♪
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追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。
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