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第28話「“リリーが犯人?”という疑惑」
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王都の噂は、風吹けば風上から来る。
それは鳥より速くて、馬よりしつこくて、毒草より人を弱らせる。
そしてその日、村に届いた噂は――匂いが違った。
ただの面白半分じゃない。
笑って消化できない。
胸の奥を冷たく撫でて、息を詰まらせる匂い。
「……王都で、“ミントの薬”の被害が広がってるらしい」
昼下がり、グリーンノートの前で村人がひそひそと話しているのが聞こえた。
「最初はだるいだけだったのが、最近は意識が飛んだり、内臓がやられたりって……」
「怖……」
「そりゃ王都の貴族が騒ぐわけだ」
ミントは、店の奥で薬包紙を折る手を止めた。
紙の角が、指先に食い込む。
痛みがあるのに、痛みより胸の奥の冷たさが勝つ。
(来た)
嫌な予感は、最悪の形で現実になってしまう。
偽薬の被害が増える。
そしてその矛先が――“ミント”に向く。
ミントは、唇を噛んだ。
(私の薬じゃない)
(でも、名前は私の名前)
王都の誰かが倒れるたび、自分の胸の奥が少しずつ削れていく気がした。
◇
その日の夕方。
村の入り口に、また見慣れない人影が現れた。
今度は、貴族の馬車じゃない。
黒い外套に身を包んだ騎士が二人。
その後ろに、紋章の入った箱を抱えた書記官らしき男。
村人が一斉にざわつく。
「また王都か?」
「今度は何だよ……」
「ミント、大丈夫か?」
心配する声が、あちこちから飛んでくる。
ミントは店の前に出た。
サフランも、当然のように隣に立つ。
背中を半歩前に出し、いつでも守れる位置。
騎士が村長に向かって一礼する。
「王都より参った。王家の命により、薬師ミント・フェンネル殿に事情聴取を行う」
村長の眉が跳ねた。
「事情聴取……?」
その言葉が、村に冷たい風を吹かせた。
事情聴取。
つまり――疑われている。
ミントの喉が、きゅっと縮んだ。
サフランが一歩前に出る。
「目的は」
「王都で流通している“ミント薬”による被害の拡大。
軽症だけでなく、意識障害、肝機能障害、腎機能障害など、深刻な症状が報告されている」
騎士の声は淡々としている。
淡々としているからこそ、数字のない言葉が重い。
書記官が紙を広げ、淡々と読み上げる。
「“やはり田舎娘の薬は危険だ”“王家はなぜこんな者を特認したのか”
一部貴族より、そのような声が上がっている」
ミントの胸が、ぐっと沈んだ。
田舎娘。
またその言葉。
でも今は、その棘が痛いというより、冷たい。
(王都の人たちは、私を叩く理由を探してる)
サフランの横顔が、硬くなる。
「ミント殿を疑うのか」
騎士は目を伏せ、言葉を選んだ。
「疑いというより、確認だ。
王都に流通している薬が、本当にミント殿の処方に基づくものかどうか」
ミントは、深く息を吸った。
ハーブの匂い。
土の匂い。
自分の店の匂い。
震えそうになる膝を、心の中で押さえつける。
「……わかりました。店の中でお話しします」
声が、思ったよりも落ち着いていた。
それだけで少し救われる。
◇
グリーンノートの店内。
騎士二人、書記官、村長、デイジー、サフラン、ミント。
狭い店が、普段の倍以上に狭く感じた。
騎士の鎧の匂いが、薬草の香りに混ざって違和感を作る。
書記官のインクの匂いが、空気を固くする。
ミントはカウンターの内側に立ち、目の前の机に問題の偽薬の瓶を置いた。
「これが、王都で“ミントの薬”として売られているものの一つです」
騎士が瓶を手に取る。
「見た目はそれらしいな」
「見た目だけです」
ミントは、深く息を吐いた。
「まず、ラベルの文字が違います。
私はこういう崩し方はしません。
それから、匂いの層が荒い。混ぜ方が雑です」
瓶の蓋を開け、香りを空気に放つ。
店内の空気が、ほんの少し刺々しくなる。
「……確かに、刺激が強い」
書記官が眉をひそめた。
ミントは頷く。
「私は、体を無理やり動かすような配合はしません。
この薬は、覚醒作用のある成分を混ぜて、“効いた気にさせる”方向に寄せています」
「効いた気にさせる?」
騎士が眉を寄せる。
ミントは、丁寧に言葉を選んだ。
「熱が下がる、痛みが引く、眠気が飛ぶ。
そういう反応は確かに出ます。
でも、原因が治っているわけではありません。
体に負担をかけて、無理やり反応を起こさせている」
サフランが補足する。
「長期で使えば、内臓に負担がかかる。
依存の芽もある」
騎士の表情が、少しだけ厳しくなる。
「……その話は、王都でも同様の所見が出ている」
ミントは続けた。
「私が作る薬は、“明日も動ける体にする”ためのものです。
今日だけ元気に見せるための薬ではありません」
言葉が、店の空気を少しだけ柔らかくした。
少なくとも、ここにいる人たちは“話を聞いている”。
書記官がペンを走らせる。
騎士が静かに頷く。
村長が腕を組んで、鼻を鳴らした。
「ほら見ろ。ミントがそんな悪さするわけねぇだろ」
「村長、声が大きい」
デイジーが小声で突っ込む。
その軽口が、ミントの肺に少しだけ空気を戻してくれる。
騎士は紙束をめくり、別の質問を投げた。
「ミント殿。この偽薬に、あなたの処方の“元”となる記録が必要だ。
あなたの処方ノートの一部を、提出できるか」
ミントは、一瞬迷った。
処方は、店の命。
簡単に外へ渡せば真似される。
でも、ここで出さなければ、誰かが倒れ続ける。
サフランが、ミントの横で小さく頷いた。
“俺が守る”という無言の合図。
ミントは、祖母タイムのノートと、自分の処方ノートを取り出した。
「全ては出せません。
でも、偽薬との差異が判別できる部分だけ、提出します。
そして、偽薬の判別法も簡単にまとめます」
書記官が目を丸くする。
「……協力的だな」
「人が苦しむのは、嫌です」
ミントは、震えないように指を組んだ。
「私の名前が使われているなら、なおさら」
騎士が一礼する。
「感謝する。王都にも伝える」
その言葉に、少しだけ救われた。
――しかし。
次に落ちた言葉が、店の空気をまた冷やした。
「ただ」
騎士が、わずかに言いにくそうに続ける。
「一つ、厄介な噂がある」
村長が眉を寄せる。
「噂?」
「偽薬を広めている商会の背後に――“バジル伯爵家”の名がちらついている」
その瞬間。
店内の空気が、凍った。
村長の目が、ぎょろりと動く。
デイジーが息を呑む。
サフランの表情が、一段と硬くなる。
そして――自然と、皆の視線が同じ方向へ流れた。
店の奥、仕切りの向こう。
ちょうどその時、扉の鈴がカラン、と鳴った。
「……皆さま、何をそんな顔で固まっていらっしゃるの?」
凛とした声。
リリー・バジルが、店に入ってきた。
今日は少しだけ素朴な服装。
それでも生地の艶も所作の美しさも隠れない。
そして――視線の集中に気づいた瞬間、リリーの眉がぴくりと動く。
「……何ですの」
沈黙が一拍。
村長が口を開きかけた。
デイジーが止めるように袖を掴む。
ミントは喉の奥で息を詰める。
騎士が、淡々と告げた。
「バジル伯爵家の名が、偽薬流通の噂に上がっている。
確認のため、令嬢にも話を伺いたい」
リリーの顔が、真っ赤になった。
怒りで。
「……は?」
低い声が出たのが、自分でも意外だったのか、すぐに咳払いをする。
「失礼。
――ありえませんわ」
リリーは顎を上げた。
「そんな下品な真似、するはずがないでしょう」
言い切った。
言い切ったのに、空気は晴れない。
なぜなら。
“ありえない”と言うだけでは、証明にならないから。
リリーは気づいている。
気づいているのに、貴族としてのプライドが邪魔をする。
下町の商会。
偽薬。
そんな話題に、自分が関わっていると想定されること自体が屈辱。
だからこそ、言葉が荒くなる。
「第一、私がそんなことをして、何の得があると?」
リリーの瞳が、ミントを掠める。
ほんの一瞬。
でも、見逃せない。
(得があるとしたら――私を潰すこと)
ミントの胸が、きゅっと縮む。
村人たちの目が、さらにリリーに集まる。
“あんたが犯人なのか?”と直接言わない代わりに、視線がそれを言っている。
リリーは、息を詰めた。
言い返したい。
弁明したい。
でも、うまく言えない。
だって、村の人たちの世界の言葉で話すのが、彼女は不得手だ。
「……っ」
リリーの拳が、スカートの上でぎゅっと握られる。
「私は、家の名を汚すような真似はしませんわ」
やっと出た言葉は、“家”の言葉だった。
それが、余計に距離を作る。
村人にとっては、“家の名”より“目の前の人”の方が大事だから。
デイジーが口を開く。
「じゃあ、なんでバジル伯爵家の名前が出るわけ?」
直球。
リリーの肩が、びくりと跳ねた。
「知りませんわよ! そんなの!」
「知らないで済む話じゃないでしょ。今、人が倒れてるんだから」
デイジーの声には、怒りがある。
ミントを守る怒り。
村を守る怒り。
リリーは反射的に言い返す。
「だから! 私は関係ないと――」
「関係ないって言うなら、証明してよ」
デイジーが畳みかける。
リリーの喉が詰まる。
証明。
貴族の世界でも、そういう言葉はある。
でもそれは、証拠を持つ者が握っている。
一般に“令嬢”が自分で証明を集めることなんて、想定されていない。
リリーの世界では、侍女が整えて、父が決めて、家が動く。
リリー個人が“路地裏の偽薬”を追うなんて、ありえない。
(……だから、私は今、何も出せない)
その事実が、リリーの頬をさらに赤く染めた。
怒りと羞恥が混ざった色。
ミントは、その横顔を見てしまった。
(……犯人じゃない)
直感が言う。
リリーは確かに意地悪だし、言葉も刺々しい。
でも、“人を毒で傷つける”方向の悪意ではない。
彼女の悪意は、もっと分かりやすい。
正面から刺してくる。
陰で毒を盛るような手つきじゃない。
(……でも)
同時に、胸の奥が冷える。
(貴族の事情は、見えない)
リリー本人が関わっていなくても、バジル家の誰かが関わっている可能性はある。
伯爵の命令なのか、家臣の暴走なのか、商会との繋がりなのか。
“家”は大きすぎて、個人の手を離れて動く。
その現実が、ミントには怖かった。
サフランが、静かに口を開く。
「リリー」
リリーがはっと顔を上げる。
その一瞬、助けを求めるみたいな顔が見えた気がした。
すぐに引っ込めたけど。
「ここで感情的になっても、何も解決しない」
「感情的ですって?」
「今のお前は、そうだ」
サフランの言葉は容赦がない。
「……っ」
「俺はお前を犯人だとは思っていない」
その一言で、リリーの喉が鳴った。
「でも、バジル伯爵家の名前が出ている以上、調べる必要はある」
リリーの目が揺れる。
誇りが痛む。
でも、否定できない。
「……私の家が、関わっていると?」
「可能性としては、ゼロではない」
「……っ!」
リリーが唇を噛んだ。
その表情を見て、ミントはまた胸が締め付けられる。
(ほら、私には見えない)
(この人が今、何を背負ってるのか)
“令嬢”という肩書きの重さ。
“家”という檻。
それを、ミントは想像するしかない。
騎士が、淡々と書記官に目配せする。
「本件は王都に持ち帰り、バジル伯爵家にも照会する。
令嬢の発言も記録する」
「勝手にしなさい」
リリーは冷たく言った。
冷たく言うしか、自分を保てないみたいに。
村の空気は、完全にざらついていた。
“疑惑”という粉が舞って、誰の肺にも入り込む。
ミントは、息が苦しかった。
リリーを信じたい。
でも、貴族の事情が見えない。
信じたいのに、信じ切れない自分が嫌になる。
そして。
読者の頭の中には、きっと強く焼き付く。
――リリーが犯人なのでは?
そんな疑いが、村の空気と同じように、心に張り付く。
◇
騎士たちが帰った後も、店の空気は戻らなかった。
村人たちは口には出さない。
でも視線が、リリーの周りだけ温度を変える。
リリーはそれに気づいている。
気づいているからこそ、さらに背筋を伸ばす。
“私は揺らがない”という鎧。
ミントは、カウンターの奥で指先を握りしめた。
(リリーさんは黒幕じゃない)
直感が、何度もそう言う。
でも。
(貴族の“背後”は見えない)
現実が、それを否定する。
ミントは、自分がどこに立っているのか、急にわからなくなった。
田舎の店主でいればよかったのに。
そう思う自分が、また嫌だった。
店の外では夕暮れが深まり、空に星が滲み始めている。
偽薬の影。
貴族の疑惑。
そして、揺れる恋。
全部が一度に重なって、ミントの胸の奥で鈍い音を立てた。
嵐は、もう始まっている。
それは鳥より速くて、馬よりしつこくて、毒草より人を弱らせる。
そしてその日、村に届いた噂は――匂いが違った。
ただの面白半分じゃない。
笑って消化できない。
胸の奥を冷たく撫でて、息を詰まらせる匂い。
「……王都で、“ミントの薬”の被害が広がってるらしい」
昼下がり、グリーンノートの前で村人がひそひそと話しているのが聞こえた。
「最初はだるいだけだったのが、最近は意識が飛んだり、内臓がやられたりって……」
「怖……」
「そりゃ王都の貴族が騒ぐわけだ」
ミントは、店の奥で薬包紙を折る手を止めた。
紙の角が、指先に食い込む。
痛みがあるのに、痛みより胸の奥の冷たさが勝つ。
(来た)
嫌な予感は、最悪の形で現実になってしまう。
偽薬の被害が増える。
そしてその矛先が――“ミント”に向く。
ミントは、唇を噛んだ。
(私の薬じゃない)
(でも、名前は私の名前)
王都の誰かが倒れるたび、自分の胸の奥が少しずつ削れていく気がした。
◇
その日の夕方。
村の入り口に、また見慣れない人影が現れた。
今度は、貴族の馬車じゃない。
黒い外套に身を包んだ騎士が二人。
その後ろに、紋章の入った箱を抱えた書記官らしき男。
村人が一斉にざわつく。
「また王都か?」
「今度は何だよ……」
「ミント、大丈夫か?」
心配する声が、あちこちから飛んでくる。
ミントは店の前に出た。
サフランも、当然のように隣に立つ。
背中を半歩前に出し、いつでも守れる位置。
騎士が村長に向かって一礼する。
「王都より参った。王家の命により、薬師ミント・フェンネル殿に事情聴取を行う」
村長の眉が跳ねた。
「事情聴取……?」
その言葉が、村に冷たい風を吹かせた。
事情聴取。
つまり――疑われている。
ミントの喉が、きゅっと縮んだ。
サフランが一歩前に出る。
「目的は」
「王都で流通している“ミント薬”による被害の拡大。
軽症だけでなく、意識障害、肝機能障害、腎機能障害など、深刻な症状が報告されている」
騎士の声は淡々としている。
淡々としているからこそ、数字のない言葉が重い。
書記官が紙を広げ、淡々と読み上げる。
「“やはり田舎娘の薬は危険だ”“王家はなぜこんな者を特認したのか”
一部貴族より、そのような声が上がっている」
ミントの胸が、ぐっと沈んだ。
田舎娘。
またその言葉。
でも今は、その棘が痛いというより、冷たい。
(王都の人たちは、私を叩く理由を探してる)
サフランの横顔が、硬くなる。
「ミント殿を疑うのか」
騎士は目を伏せ、言葉を選んだ。
「疑いというより、確認だ。
王都に流通している薬が、本当にミント殿の処方に基づくものかどうか」
ミントは、深く息を吸った。
ハーブの匂い。
土の匂い。
自分の店の匂い。
震えそうになる膝を、心の中で押さえつける。
「……わかりました。店の中でお話しします」
声が、思ったよりも落ち着いていた。
それだけで少し救われる。
◇
グリーンノートの店内。
騎士二人、書記官、村長、デイジー、サフラン、ミント。
狭い店が、普段の倍以上に狭く感じた。
騎士の鎧の匂いが、薬草の香りに混ざって違和感を作る。
書記官のインクの匂いが、空気を固くする。
ミントはカウンターの内側に立ち、目の前の机に問題の偽薬の瓶を置いた。
「これが、王都で“ミントの薬”として売られているものの一つです」
騎士が瓶を手に取る。
「見た目はそれらしいな」
「見た目だけです」
ミントは、深く息を吐いた。
「まず、ラベルの文字が違います。
私はこういう崩し方はしません。
それから、匂いの層が荒い。混ぜ方が雑です」
瓶の蓋を開け、香りを空気に放つ。
店内の空気が、ほんの少し刺々しくなる。
「……確かに、刺激が強い」
書記官が眉をひそめた。
ミントは頷く。
「私は、体を無理やり動かすような配合はしません。
この薬は、覚醒作用のある成分を混ぜて、“効いた気にさせる”方向に寄せています」
「効いた気にさせる?」
騎士が眉を寄せる。
ミントは、丁寧に言葉を選んだ。
「熱が下がる、痛みが引く、眠気が飛ぶ。
そういう反応は確かに出ます。
でも、原因が治っているわけではありません。
体に負担をかけて、無理やり反応を起こさせている」
サフランが補足する。
「長期で使えば、内臓に負担がかかる。
依存の芽もある」
騎士の表情が、少しだけ厳しくなる。
「……その話は、王都でも同様の所見が出ている」
ミントは続けた。
「私が作る薬は、“明日も動ける体にする”ためのものです。
今日だけ元気に見せるための薬ではありません」
言葉が、店の空気を少しだけ柔らかくした。
少なくとも、ここにいる人たちは“話を聞いている”。
書記官がペンを走らせる。
騎士が静かに頷く。
村長が腕を組んで、鼻を鳴らした。
「ほら見ろ。ミントがそんな悪さするわけねぇだろ」
「村長、声が大きい」
デイジーが小声で突っ込む。
その軽口が、ミントの肺に少しだけ空気を戻してくれる。
騎士は紙束をめくり、別の質問を投げた。
「ミント殿。この偽薬に、あなたの処方の“元”となる記録が必要だ。
あなたの処方ノートの一部を、提出できるか」
ミントは、一瞬迷った。
処方は、店の命。
簡単に外へ渡せば真似される。
でも、ここで出さなければ、誰かが倒れ続ける。
サフランが、ミントの横で小さく頷いた。
“俺が守る”という無言の合図。
ミントは、祖母タイムのノートと、自分の処方ノートを取り出した。
「全ては出せません。
でも、偽薬との差異が判別できる部分だけ、提出します。
そして、偽薬の判別法も簡単にまとめます」
書記官が目を丸くする。
「……協力的だな」
「人が苦しむのは、嫌です」
ミントは、震えないように指を組んだ。
「私の名前が使われているなら、なおさら」
騎士が一礼する。
「感謝する。王都にも伝える」
その言葉に、少しだけ救われた。
――しかし。
次に落ちた言葉が、店の空気をまた冷やした。
「ただ」
騎士が、わずかに言いにくそうに続ける。
「一つ、厄介な噂がある」
村長が眉を寄せる。
「噂?」
「偽薬を広めている商会の背後に――“バジル伯爵家”の名がちらついている」
その瞬間。
店内の空気が、凍った。
村長の目が、ぎょろりと動く。
デイジーが息を呑む。
サフランの表情が、一段と硬くなる。
そして――自然と、皆の視線が同じ方向へ流れた。
店の奥、仕切りの向こう。
ちょうどその時、扉の鈴がカラン、と鳴った。
「……皆さま、何をそんな顔で固まっていらっしゃるの?」
凛とした声。
リリー・バジルが、店に入ってきた。
今日は少しだけ素朴な服装。
それでも生地の艶も所作の美しさも隠れない。
そして――視線の集中に気づいた瞬間、リリーの眉がぴくりと動く。
「……何ですの」
沈黙が一拍。
村長が口を開きかけた。
デイジーが止めるように袖を掴む。
ミントは喉の奥で息を詰める。
騎士が、淡々と告げた。
「バジル伯爵家の名が、偽薬流通の噂に上がっている。
確認のため、令嬢にも話を伺いたい」
リリーの顔が、真っ赤になった。
怒りで。
「……は?」
低い声が出たのが、自分でも意外だったのか、すぐに咳払いをする。
「失礼。
――ありえませんわ」
リリーは顎を上げた。
「そんな下品な真似、するはずがないでしょう」
言い切った。
言い切ったのに、空気は晴れない。
なぜなら。
“ありえない”と言うだけでは、証明にならないから。
リリーは気づいている。
気づいているのに、貴族としてのプライドが邪魔をする。
下町の商会。
偽薬。
そんな話題に、自分が関わっていると想定されること自体が屈辱。
だからこそ、言葉が荒くなる。
「第一、私がそんなことをして、何の得があると?」
リリーの瞳が、ミントを掠める。
ほんの一瞬。
でも、見逃せない。
(得があるとしたら――私を潰すこと)
ミントの胸が、きゅっと縮む。
村人たちの目が、さらにリリーに集まる。
“あんたが犯人なのか?”と直接言わない代わりに、視線がそれを言っている。
リリーは、息を詰めた。
言い返したい。
弁明したい。
でも、うまく言えない。
だって、村の人たちの世界の言葉で話すのが、彼女は不得手だ。
「……っ」
リリーの拳が、スカートの上でぎゅっと握られる。
「私は、家の名を汚すような真似はしませんわ」
やっと出た言葉は、“家”の言葉だった。
それが、余計に距離を作る。
村人にとっては、“家の名”より“目の前の人”の方が大事だから。
デイジーが口を開く。
「じゃあ、なんでバジル伯爵家の名前が出るわけ?」
直球。
リリーの肩が、びくりと跳ねた。
「知りませんわよ! そんなの!」
「知らないで済む話じゃないでしょ。今、人が倒れてるんだから」
デイジーの声には、怒りがある。
ミントを守る怒り。
村を守る怒り。
リリーは反射的に言い返す。
「だから! 私は関係ないと――」
「関係ないって言うなら、証明してよ」
デイジーが畳みかける。
リリーの喉が詰まる。
証明。
貴族の世界でも、そういう言葉はある。
でもそれは、証拠を持つ者が握っている。
一般に“令嬢”が自分で証明を集めることなんて、想定されていない。
リリーの世界では、侍女が整えて、父が決めて、家が動く。
リリー個人が“路地裏の偽薬”を追うなんて、ありえない。
(……だから、私は今、何も出せない)
その事実が、リリーの頬をさらに赤く染めた。
怒りと羞恥が混ざった色。
ミントは、その横顔を見てしまった。
(……犯人じゃない)
直感が言う。
リリーは確かに意地悪だし、言葉も刺々しい。
でも、“人を毒で傷つける”方向の悪意ではない。
彼女の悪意は、もっと分かりやすい。
正面から刺してくる。
陰で毒を盛るような手つきじゃない。
(……でも)
同時に、胸の奥が冷える。
(貴族の事情は、見えない)
リリー本人が関わっていなくても、バジル家の誰かが関わっている可能性はある。
伯爵の命令なのか、家臣の暴走なのか、商会との繋がりなのか。
“家”は大きすぎて、個人の手を離れて動く。
その現実が、ミントには怖かった。
サフランが、静かに口を開く。
「リリー」
リリーがはっと顔を上げる。
その一瞬、助けを求めるみたいな顔が見えた気がした。
すぐに引っ込めたけど。
「ここで感情的になっても、何も解決しない」
「感情的ですって?」
「今のお前は、そうだ」
サフランの言葉は容赦がない。
「……っ」
「俺はお前を犯人だとは思っていない」
その一言で、リリーの喉が鳴った。
「でも、バジル伯爵家の名前が出ている以上、調べる必要はある」
リリーの目が揺れる。
誇りが痛む。
でも、否定できない。
「……私の家が、関わっていると?」
「可能性としては、ゼロではない」
「……っ!」
リリーが唇を噛んだ。
その表情を見て、ミントはまた胸が締め付けられる。
(ほら、私には見えない)
(この人が今、何を背負ってるのか)
“令嬢”という肩書きの重さ。
“家”という檻。
それを、ミントは想像するしかない。
騎士が、淡々と書記官に目配せする。
「本件は王都に持ち帰り、バジル伯爵家にも照会する。
令嬢の発言も記録する」
「勝手にしなさい」
リリーは冷たく言った。
冷たく言うしか、自分を保てないみたいに。
村の空気は、完全にざらついていた。
“疑惑”という粉が舞って、誰の肺にも入り込む。
ミントは、息が苦しかった。
リリーを信じたい。
でも、貴族の事情が見えない。
信じたいのに、信じ切れない自分が嫌になる。
そして。
読者の頭の中には、きっと強く焼き付く。
――リリーが犯人なのでは?
そんな疑いが、村の空気と同じように、心に張り付く。
◇
騎士たちが帰った後も、店の空気は戻らなかった。
村人たちは口には出さない。
でも視線が、リリーの周りだけ温度を変える。
リリーはそれに気づいている。
気づいているからこそ、さらに背筋を伸ばす。
“私は揺らがない”という鎧。
ミントは、カウンターの奥で指先を握りしめた。
(リリーさんは黒幕じゃない)
直感が、何度もそう言う。
でも。
(貴族の“背後”は見えない)
現実が、それを否定する。
ミントは、自分がどこに立っているのか、急にわからなくなった。
田舎の店主でいればよかったのに。
そう思う自分が、また嫌だった。
店の外では夕暮れが深まり、空に星が滲み始めている。
偽薬の影。
貴族の疑惑。
そして、揺れる恋。
全部が一度に重なって、ミントの胸の奥で鈍い音を立てた。
嵐は、もう始まっている。
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