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第31話「クローブの影を引きずる者」
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宮廷薬師団の資料室は、夜になると息をひそめる。
昼間の騒がしさが嘘みたいに、紙と木とインクの匂いだけが残る。
棚の隙間に溜まった埃が、灯りに照らされて小さく舞う。
窓の外では王都の灯りが瞬いているのに、ここだけは別世界みたいに冷たい。
机の上には、束ねられた記録が山みたいに積まれていた。
偽ミント薬。
商会。
裏市場。
貴族サロン。
そして――クローブの元側近の名。
ミントは、ページをめくる指先に力が入っていた。
紙が擦れる音が、やけに耳に残る。
「……この線、やっぱり気になる」
ホップが、目の下の隈を指で押さえながら言う。
机の向こうにはサフラン。
その横にミント。
三人とも、疲労の色は隠せない。
でも、眠れるほど状況は優しくない。
「クローブ殿下の件に関わっていた記録が、偽薬のルートに“混じっている”」
ホップは、一本の指で紙面を叩く。
「混じっている、というより……意図的に重ねてる」
サフランが低く言った。
彼の声は静かだが、底に怒りが沈んでいる。
ミントは唇を噛む。
(クローブ殿下は……)
第一部の終わり。
クローブは自分の罪を告白し、修道院へ送られた。
歪んだ願いと孤独の果ての罪。
それを受け止めて、贖う道を歩き始めたはずだった。
それなのに。
今、王都で広がる偽薬の影の中に、クローブの“過去”が利用されている。
まるで、罪がまだ終わっていないみたいに。
まるで、彼の贖いが無意味だったみたいに。
「……これ」
ミントが、あるページで指を止めた。
何度も出てくる名前。
“元宮廷官僚 ナツメグ”。
ナツメグ。
植物の名を持つ男。
冷たい香りが鼻に残る、乾いたスパイスの名。
ミントは、喉の奥が冷えるのを感じた。
「ナツメグ……」
ホップが短く頷く。
「出てくる頻度が異常だ。
商会の許可証の署名。
倉庫の貸し出し記録。
裏市場への搬入許可。
しかも、どれも“表向きは合法”の顔をしてる」
「つまり、手慣れてる」
サフランが呟く。
「宮廷の仕組みを知ってる奴の動きだ」
ミントは、さらにページをめくる。
ナツメグの経歴。
“かつて第二王太子クローブの側近として、政策・物流に関わる業務を担当”。
その文字が、目に刺さった。
ミントの頭に浮かぶのは、クローブの告白の時の顔。
「私は予備だった」と笑った、あの暗い目。
(その隣にいた人が)
(まだ、動いてる?)
ホップが、紙束の端を引いた。
「夜哭百合事件の後、ナツメグは処罰されたことになっている。
――だが、“軽い処分で済まされた”」
ミントが顔を上げる。
「軽い……?」
「職務停止と、形式的な降格。
それだけだ」
ホップの声には苛立ちが滲む。
「本来なら、クローブ殿下の側近として毒の流通に関わった可能性がある時点で、もっと重い処分になる。
それがならなかったということは――」
「庇ったやつがいる」
サフランが言い切った。
空気が一段冷えた。
ホップが苦く笑う。
「有力貴族派だろうな。
改革を嫌う、変化を嫌う、昔の権力構造にしがみつく連中」
ミントの指先が震えた。
怒りと、悲しみが混ざって、うまく形にならない。
「……クローブ殿下は」
声がかすれる。
「クローブ殿下は、自分の罪を受け入れたのに」
あの日、護衛付きで対面した時。
彼はうつむいたまま「ありがとう」と言った。
歪んだ愛情に、決別するみたいに。
「なのに、その影を利用してる人がいるんですね」
ミントの胸の奥が、熱くなった。
怒りの熱。
悲しみの熱。
そして、悔しさの熱。
「……許せない」
ぽつりと出た言葉は、震えていた。
ホップがミントを見た。
「怒るのは当然だ。
だが、感情だけで動けば、相手の思う壺になる」
「わかってます」
ミントは頷く。
わかっている。
わかっているのに、心は揺れる。
(クローブ殿下は、悪かった)
(でも、贖おうとしてた)
(それを踏み台にして笑う人がいるのは、違う)
サフランが静かに言った。
「ナツメグが動いてるなら、偽薬は“終盤”だ」
「終盤?」
ミントが聞くと、サフランは紙を指で示した。
「流通ルートの記録が、最近になって急に増えてる。
大量に流す準備をしてる」
ホップが深く息を吐く。
「王都全体にばら撒いて、“本物のミントを疑わせる”
そして王家と宮廷薬師団の信用も落とす。
最後に、改革派を黙らせる」
ミントの背筋がぞくりとした。
偽薬は単なる商売じゃない。
これは政治だ。
権力だ。
人を薬で殴る戦争だ。
「……止めないと」
ミントが言う。
「止める」
サフランも、ホップも、同時に頷いた。
言葉が揃うのに、心は苦い。
相手が“宮廷の内側を知っている”時点で、この戦いは簡単じゃない。
◇
同じ夜。
バジル伯爵家の屋敷は、灯りが少なかった。
広い廊下。
静かな絨毯。
壁に掛けられた絵画の目が、やけに冷たい。
リリーは自室ではなく、家の帳簿室にいた。
普段なら侍女が「お嬢様、そんな場所に」と止める。
でも今日は、止める者がいない。
止められたくなかった。
机の上には、家の帳簿が積まれている。
数字。
取引名。
商会名。
寄付金。
出費。
整然としていて、綺麗で、嘘みたいに正しい。
リリーは、指先でページをめくった。
目が痛い。
頭が熱い。
でもやめられない。
(バジル家の名が利用されている)
(私の家が、偽薬の噂に絡んでいる)
(それが本当なら、私は――)
胸の奥が軋む。
“田舎娘にふさわしくない”なんて言っておきながら、今は自分の足元が崩れている。
リリーは、ある項目で手を止めた。
商会名。
聞いたことのない商会。
でも、記録には“定期的な資金の出入り”がある。
そして、その出入りの形が……不自然に綺麗だった。
まるで、汚れた水を何度も濾して透明にするみたいに。
「……これ」
リリーの喉が鳴った。
帳簿の端に、小さな符号が書かれている。
家臣が使う、内部の印。
“外部からの預かり資金”。
預かり。
そんな言い方で、何を預かった?
リリーは、さらに過去の帳簿を引っ張り出す。
同じ商会。
同じ符号。
増えていく額。
そして――別の欄に、別の名前が浮かぶ。
ナツメグ。
取引の連絡先として、さらりと書かれていた。
たった一行。
たった一つの名前。
でも、リリーの背筋が冷えた。
「……ナツメグ」
その名は、宮廷の噂で聞いた。
クローブの側近。
表向き処罰されたはずの男。
(私の家が)
(知らぬ間に)
(資金洗浄に利用されていた……?)
リリーの胸が、ぎゅっと潰れる。
怒り。
屈辱。
恐怖。
そして、もっと嫌な感情。
(私は、何も知らなかった)
貴族として生きることは、知っているふりをすることでもある。
知らないことを、知らないと言えない世界。
でも今、帳簿は淡々と告げている。
あなたは、知らないまま、誰かを傷つけていたかもしれない。
「……っ」
リリーは、歯を食いしばった。
プライドが軋む音が、耳の奥で鳴る。
(下品な真似はしない)
(家の名を汚さない)
そう言った自分が、薄っぺらく聞こえてしまう。
家は、綺麗な顔をして、裏で汚れた金を流していたのかもしれない。
リリーは、帳簿をぎゅっと握った。
「……許せない」
小さく呟く。
誰に対して?
ナツメグに。
家臣に。
父に。
そして、何も知らなかった自分に。
全部だ。
リリーは立ち上がった。
揺れる足元を叱るように、背筋を伸ばす。
(逃げない)
(私は、バジル家の令嬢だから)
その言葉が、今夜だけは逃げ道じゃなく、武器になる。
――調べる。
――突き止める。
――そして、切る。
家の中に巣食った影を。
◇
王都の裏市場。
灯りは少なく、匂いは濃い。
酒。
汗。
腐った果物。
乾いた薬草。
そして、金の匂い。
狭い路地の奥、布で仕切られた倉庫の中で、男が笑っていた。
ナツメグ。
黒髪は整えられ、服装は質素に見せている。
でも指先の動きは上品で、言葉の選び方は宮廷仕込みのそれだった。
彼の前には木箱。
中には小瓶がぎっしり。
薄い緑色の液体。
どこかで見たような、ミントの名を騙る色。
「次のロットは?」
部下らしき男が尋ねる。
ナツメグは口角を上げる。
「明後日には流す」
「量が多すぎませんか」
「多いから意味がある」
ナツメグは、瓶を一本手に取って光にかざした。
「“ミントの薬”が王都を埋め尽くす」
低い声が、ぞっとするほど甘い。
「そうすれば、本物が何を言っても遅い。
人は、先に広がった噂に縋る」
部下が笑う。
「田舎娘を潰すんですか?」
ナツメグは、鼻で笑った。
「潰す? 違う」
瓶をそっと箱に戻し、指を払う。
「彼女はただの道具だ。
王家と宮廷薬師団の信用を削る刃。
そして、改革派の口を塞ぐ鎖」
部下が目を輝かせる。
「さすが、元宮廷官僚……」
「褒めるな」
ナツメグは冷たい目で言った。
「褒め言葉は、成功の後でいい」
彼は、倉庫の奥にある帳簿に目を落とす。
そこには、商会名と、貴族の紋章のような印。
バジル伯爵家を思わせる符号もある。
「……バジル家も便利だな」
ナツメグが小さく呟く。
「名は強い。名は盾になる。
盾は、汚れを隠すのにちょうどいい」
笑い声が、倉庫の暗がりに溶けた。
その笑い声は、冷たくて、乾いていて。
クローブの影を引きずりながら、別の男の欲望で動いている。
偽薬事件は、最終段階に入った。
王都の闇が、大きく息を吸い込む音がした。
昼間の騒がしさが嘘みたいに、紙と木とインクの匂いだけが残る。
棚の隙間に溜まった埃が、灯りに照らされて小さく舞う。
窓の外では王都の灯りが瞬いているのに、ここだけは別世界みたいに冷たい。
机の上には、束ねられた記録が山みたいに積まれていた。
偽ミント薬。
商会。
裏市場。
貴族サロン。
そして――クローブの元側近の名。
ミントは、ページをめくる指先に力が入っていた。
紙が擦れる音が、やけに耳に残る。
「……この線、やっぱり気になる」
ホップが、目の下の隈を指で押さえながら言う。
机の向こうにはサフラン。
その横にミント。
三人とも、疲労の色は隠せない。
でも、眠れるほど状況は優しくない。
「クローブ殿下の件に関わっていた記録が、偽薬のルートに“混じっている”」
ホップは、一本の指で紙面を叩く。
「混じっている、というより……意図的に重ねてる」
サフランが低く言った。
彼の声は静かだが、底に怒りが沈んでいる。
ミントは唇を噛む。
(クローブ殿下は……)
第一部の終わり。
クローブは自分の罪を告白し、修道院へ送られた。
歪んだ願いと孤独の果ての罪。
それを受け止めて、贖う道を歩き始めたはずだった。
それなのに。
今、王都で広がる偽薬の影の中に、クローブの“過去”が利用されている。
まるで、罪がまだ終わっていないみたいに。
まるで、彼の贖いが無意味だったみたいに。
「……これ」
ミントが、あるページで指を止めた。
何度も出てくる名前。
“元宮廷官僚 ナツメグ”。
ナツメグ。
植物の名を持つ男。
冷たい香りが鼻に残る、乾いたスパイスの名。
ミントは、喉の奥が冷えるのを感じた。
「ナツメグ……」
ホップが短く頷く。
「出てくる頻度が異常だ。
商会の許可証の署名。
倉庫の貸し出し記録。
裏市場への搬入許可。
しかも、どれも“表向きは合法”の顔をしてる」
「つまり、手慣れてる」
サフランが呟く。
「宮廷の仕組みを知ってる奴の動きだ」
ミントは、さらにページをめくる。
ナツメグの経歴。
“かつて第二王太子クローブの側近として、政策・物流に関わる業務を担当”。
その文字が、目に刺さった。
ミントの頭に浮かぶのは、クローブの告白の時の顔。
「私は予備だった」と笑った、あの暗い目。
(その隣にいた人が)
(まだ、動いてる?)
ホップが、紙束の端を引いた。
「夜哭百合事件の後、ナツメグは処罰されたことになっている。
――だが、“軽い処分で済まされた”」
ミントが顔を上げる。
「軽い……?」
「職務停止と、形式的な降格。
それだけだ」
ホップの声には苛立ちが滲む。
「本来なら、クローブ殿下の側近として毒の流通に関わった可能性がある時点で、もっと重い処分になる。
それがならなかったということは――」
「庇ったやつがいる」
サフランが言い切った。
空気が一段冷えた。
ホップが苦く笑う。
「有力貴族派だろうな。
改革を嫌う、変化を嫌う、昔の権力構造にしがみつく連中」
ミントの指先が震えた。
怒りと、悲しみが混ざって、うまく形にならない。
「……クローブ殿下は」
声がかすれる。
「クローブ殿下は、自分の罪を受け入れたのに」
あの日、護衛付きで対面した時。
彼はうつむいたまま「ありがとう」と言った。
歪んだ愛情に、決別するみたいに。
「なのに、その影を利用してる人がいるんですね」
ミントの胸の奥が、熱くなった。
怒りの熱。
悲しみの熱。
そして、悔しさの熱。
「……許せない」
ぽつりと出た言葉は、震えていた。
ホップがミントを見た。
「怒るのは当然だ。
だが、感情だけで動けば、相手の思う壺になる」
「わかってます」
ミントは頷く。
わかっている。
わかっているのに、心は揺れる。
(クローブ殿下は、悪かった)
(でも、贖おうとしてた)
(それを踏み台にして笑う人がいるのは、違う)
サフランが静かに言った。
「ナツメグが動いてるなら、偽薬は“終盤”だ」
「終盤?」
ミントが聞くと、サフランは紙を指で示した。
「流通ルートの記録が、最近になって急に増えてる。
大量に流す準備をしてる」
ホップが深く息を吐く。
「王都全体にばら撒いて、“本物のミントを疑わせる”
そして王家と宮廷薬師団の信用も落とす。
最後に、改革派を黙らせる」
ミントの背筋がぞくりとした。
偽薬は単なる商売じゃない。
これは政治だ。
権力だ。
人を薬で殴る戦争だ。
「……止めないと」
ミントが言う。
「止める」
サフランも、ホップも、同時に頷いた。
言葉が揃うのに、心は苦い。
相手が“宮廷の内側を知っている”時点で、この戦いは簡単じゃない。
◇
同じ夜。
バジル伯爵家の屋敷は、灯りが少なかった。
広い廊下。
静かな絨毯。
壁に掛けられた絵画の目が、やけに冷たい。
リリーは自室ではなく、家の帳簿室にいた。
普段なら侍女が「お嬢様、そんな場所に」と止める。
でも今日は、止める者がいない。
止められたくなかった。
机の上には、家の帳簿が積まれている。
数字。
取引名。
商会名。
寄付金。
出費。
整然としていて、綺麗で、嘘みたいに正しい。
リリーは、指先でページをめくった。
目が痛い。
頭が熱い。
でもやめられない。
(バジル家の名が利用されている)
(私の家が、偽薬の噂に絡んでいる)
(それが本当なら、私は――)
胸の奥が軋む。
“田舎娘にふさわしくない”なんて言っておきながら、今は自分の足元が崩れている。
リリーは、ある項目で手を止めた。
商会名。
聞いたことのない商会。
でも、記録には“定期的な資金の出入り”がある。
そして、その出入りの形が……不自然に綺麗だった。
まるで、汚れた水を何度も濾して透明にするみたいに。
「……これ」
リリーの喉が鳴った。
帳簿の端に、小さな符号が書かれている。
家臣が使う、内部の印。
“外部からの預かり資金”。
預かり。
そんな言い方で、何を預かった?
リリーは、さらに過去の帳簿を引っ張り出す。
同じ商会。
同じ符号。
増えていく額。
そして――別の欄に、別の名前が浮かぶ。
ナツメグ。
取引の連絡先として、さらりと書かれていた。
たった一行。
たった一つの名前。
でも、リリーの背筋が冷えた。
「……ナツメグ」
その名は、宮廷の噂で聞いた。
クローブの側近。
表向き処罰されたはずの男。
(私の家が)
(知らぬ間に)
(資金洗浄に利用されていた……?)
リリーの胸が、ぎゅっと潰れる。
怒り。
屈辱。
恐怖。
そして、もっと嫌な感情。
(私は、何も知らなかった)
貴族として生きることは、知っているふりをすることでもある。
知らないことを、知らないと言えない世界。
でも今、帳簿は淡々と告げている。
あなたは、知らないまま、誰かを傷つけていたかもしれない。
「……っ」
リリーは、歯を食いしばった。
プライドが軋む音が、耳の奥で鳴る。
(下品な真似はしない)
(家の名を汚さない)
そう言った自分が、薄っぺらく聞こえてしまう。
家は、綺麗な顔をして、裏で汚れた金を流していたのかもしれない。
リリーは、帳簿をぎゅっと握った。
「……許せない」
小さく呟く。
誰に対して?
ナツメグに。
家臣に。
父に。
そして、何も知らなかった自分に。
全部だ。
リリーは立ち上がった。
揺れる足元を叱るように、背筋を伸ばす。
(逃げない)
(私は、バジル家の令嬢だから)
その言葉が、今夜だけは逃げ道じゃなく、武器になる。
――調べる。
――突き止める。
――そして、切る。
家の中に巣食った影を。
◇
王都の裏市場。
灯りは少なく、匂いは濃い。
酒。
汗。
腐った果物。
乾いた薬草。
そして、金の匂い。
狭い路地の奥、布で仕切られた倉庫の中で、男が笑っていた。
ナツメグ。
黒髪は整えられ、服装は質素に見せている。
でも指先の動きは上品で、言葉の選び方は宮廷仕込みのそれだった。
彼の前には木箱。
中には小瓶がぎっしり。
薄い緑色の液体。
どこかで見たような、ミントの名を騙る色。
「次のロットは?」
部下らしき男が尋ねる。
ナツメグは口角を上げる。
「明後日には流す」
「量が多すぎませんか」
「多いから意味がある」
ナツメグは、瓶を一本手に取って光にかざした。
「“ミントの薬”が王都を埋め尽くす」
低い声が、ぞっとするほど甘い。
「そうすれば、本物が何を言っても遅い。
人は、先に広がった噂に縋る」
部下が笑う。
「田舎娘を潰すんですか?」
ナツメグは、鼻で笑った。
「潰す? 違う」
瓶をそっと箱に戻し、指を払う。
「彼女はただの道具だ。
王家と宮廷薬師団の信用を削る刃。
そして、改革派の口を塞ぐ鎖」
部下が目を輝かせる。
「さすが、元宮廷官僚……」
「褒めるな」
ナツメグは冷たい目で言った。
「褒め言葉は、成功の後でいい」
彼は、倉庫の奥にある帳簿に目を落とす。
そこには、商会名と、貴族の紋章のような印。
バジル伯爵家を思わせる符号もある。
「……バジル家も便利だな」
ナツメグが小さく呟く。
「名は強い。名は盾になる。
盾は、汚れを隠すのにちょうどいい」
笑い声が、倉庫の暗がりに溶けた。
その笑い声は、冷たくて、乾いていて。
クローブの影を引きずりながら、別の男の欲望で動いている。
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