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第3話 夜の馬車、霧の森
しおりを挟む車輪が石畳の端で何度か跳ねて、王都の灯りが背中に遠のいていく。朝に出立したはずなのに、境門をくぐって街道に入る頃には、空はすでに群青色だった。昼のうちにここまで来るはずが、関所の手続きだの、荷の検分だのと、どうでもいい時間がいくつも挟まったせいだ。予定通りなんて、最初からなかったのかもしれない。
「お嬢様、窓は閉めて。夜風で体が冷えます」
対面に座る護衛の青年が、遠慮がちに声をかける。名前はフリッツ。父が「最低限」と言った護衛の、その“最低限”のうちの一人だ。もう一人は御者のハロルド。年季の入った帽子を目深にかぶり、口数は少ない。
「ありがとう。大丈夫よ」
ローザは窓の留め金を少しだけ下げ、隙間を細くした。夜の匂いが鼻先をくすぐる。乾いた草の匂い、遠い土の匂い、そして街道の石に残る昼の熱の名残り。王都の香水の層が、少しずつ剥がれていく気がした。
膝の上には、小さな布袋。エミリアから渡された銀花の種が入っている。布越しに指先で撫でると、中の粒がこつこつと当たって、確かにここにいると教えてくれる。彼女は布袋をもう少し強く握り、胸のあたりに引き寄せた。
「辺境までは、ここから三日はかかる」
フリッツが地図を膝に広げる。
「今日は森の手前の宿営地まで。明日は峠のふもと。三日目に山脈に入る」
「山脈……グレイリッジ」
口に出すと、言葉が息に触れて冷える。あの地名は石でできているみたいに重く、硬く、そして冷たい。
「怖いですか?」
「……正直に言うと、怖い。でも、知りたい気持ちも同じくらいあるの」
「知りたい?」
「うん。何をそんなに恐れているのか。私が何を怖がっているのか。知ってしまえば、怖さの形が分かるでしょう?」
フリッツは少しだけ笑った。
「お嬢様は強い方だ」
「強くなんてない。ただ、わからないままの“嫌な想像”が苦手なだけ」
会話はそこで切れた。馬車は城壁の影を離れ、街道を素直に進む。両脇の畑は暗く、月が雲に隠れるたびに黒の濃度が変わる。御者台からハロルドの低い鼻歌が漏れて、それが夜の静けさを壊さない範囲で馬たちを安心させている。
ローザは窓の隙間に頬を寄せ、遠ざかっていく王都の灯を見ていた。あそこには何もかもが揃っていて、何もかもが欠けていた。兄弟の笑い声、母の微笑、父の決断、姉の視線。どれも彼女に向かってはいるのに、届いてはいなかった。届かないものばかりの中で、彼女は土に手を入れていた。土は嘘をつかない。芽は嘘をつかない。時間だけが、正直だ。
幼い頃の夢を思い出す。夢というより、願いに近い。誰かに、名前を呼ばれたい。名前の最後の母音が、相手の呼吸で少しだけ揺れるくらいの近さで。彼女は音の記憶が好きだった。温室の雨だれ、鉢に水が染み込む音、茎が風で擦れ合う小さな音。人の声も、ほんとうは好きだ。けれど、彼女に向けられる声は、いつも途中で別の方向に反れていった。
「眠れますか」
フリッツが姿勢を崩さないまま、目だけで優しさを寄こす。
「少しだけ。森に入る前に」
「森は、音が増えます。眠るなら今のうち」
「そうする」
彼女は頭を窓枠に軽く預け、目を閉じた。馬の足音が規則を刻み、車輪がそれに追いついたり、遅れたりする。脳の中でリズムが揃い始め、意識がゆっくり沈んでいく。沈む途中、温室の匂いを思い出す。土と緑の濃い匂い。鼻腔の奥がじんわりと満たされる。そこに、別の匂いが混ざった。冷たい金属の匂い。夜露の冷たさ。何かの影の匂い。
どれくらい眠ったのか、自分でも分からない。肩が揺さぶられて、ローザは目を開けた。フリッツが片手を口に当て、静かにという合図をする。馬車は止まっていた。御者台のハロルドが、手綱を少し引き、耳を澄ませている。外は濃い霧だった。さっきまで見えていた星が、白い膜の向こうに隠れている。
「霧が早い」
ハロルドの声が低く落ちる。
「森の前でこれとは珍しい」
「何か、いますか」
フリッツが窓からそっと身を乗り出す。夜の空気が馬車の中に滑り込み、肌を冷やす。ローザは布袋を握り直し、喉の奥で唾を飲み込む。霧の向こうで、葉が擦れる音。遠くなったり、近くなったり。風のせいだけじゃない。
カサ、カサ、と乾いた草を踏む音。フリッツが剣の柄に手を置いた。
「お嬢様、下がって」
次の瞬間、霧の外縁から影が三つ、四つ、音を立てずに現れた。顔に布を巻き、腕には粗末な棍棒。靴は泥で重く濡れている。
「夜分に失礼」
一番背の高い男が、作り笑いを浮かべた。歯に欠けたところがあって、その隙間から霧が漏れる。
「ちょっとした通行税をね」
「王都の関税で十分だろう」
ハロルドが吐き捨てる。
「王都の関税は王都の腹に入る。俺たちの腹は満たされない」
「お嬢様、扉から離れて」
フリッツの声が低く鋭く変わる。ローザは腰を浮かせ、馬車の中央に身を寄せた。心臓が跳ね、指先に血が集まる。霧の粒が頬に触れて、水になる前の冷たさで刺してくる。
「動くなよ。女の影が見える。金目の物を出して、あとは行っていい」
男が棍棒を持ち直し、一歩こちらに踏み込む。フリッツが剣を半ば抜き、金属の音が霧の中で短く光る。
「やめて」
ローザの声が、自分でも思ったよりはっきり出た。男の目がわずかに細くなる。
「お? お嬢様が喋った」
「私たちは辺境へ行く途中です。何も取らないで。あなたたちに渡せる金は、ありません」
「辺境? 竜の花嫁か?」
別の男がからかうように囁き、仲間の肩を突いた。霧の中で笑いが弾け、すぐに沈む。
「伝説の飾りもの。いいじゃないか。俺たちも伝説を触ってみたい」
やめて、と言いかけたときだった。霧が、ひと呼吸ぶんだけ止まった。風が止んだのではない。霧そのものが、空気に縫い付けられたみたいに動かなくなった。その沈黙の底から、低い音が上ってくる。喉の奥で鳴るような、遠雷のような、胸の骨を内側から指でなぞられるような音。
フリッツが反射的に身を引き、剣を構え直す。ハロルドが手綱を握り直し、馬を宥める。馬の耳が後ろに倒れ、鼻息が白い線になって出る。賊の一人が「なんだ」と囁く。その囁きは霧に飲まれて、周りの空気の温度だけを下げた。
音は、すぐに光になった。上から、落ちてきた。雷のようにまっすぐではなく、水がこぼれ落ちるみたいに、静かで、広がりながら。銀だった。銀としか言いようのない、冷たいのに熱を持つ色。霧の粒ひとつひとつに光が宿って、世界が一瞬、別の向きに裏返る。夜の黒が、銀の裏地を見せた。
「……なに、あれ」
ローザは立ち上がってしまっていた。フリッツが腕を伸ばして庇おうとするより早く、光は賊の足元に落ちて、彼らの影を長くした。影の先に、別の影が重なる。巨大な、羽の形にも、翼のない獣の形にも見える輪郭。霧が、その輪郭に沿って震えている。
低い音が、はっきりと音になった。咆哮ではない。怒りではない。名を名乗るような、宣言の音。胸の内側がその音を覚えてしまう種類の、最初の一音。
「ひ、ひっ……!」
一番背の高い男が尻餅をつき、棍棒を落とした。乾いた音。他の影も後ずさり、霧の中で足をもつらせる。
「逃げろ!」
誰かが叫んだ。次の瞬間、四つの影は四方に割れて、霧を撒き散らしながら消えていった。残ったのは、銀の光の名残。霧の輪郭に貼り付いて震える微細な粒と、馬の荒い鼻息、そして彼ら三人の、言葉にならない呼吸だけ。
ローザは窓枠に手を添えたまま、天を見上げた。そこに“いる”と、体のどこかが分かっていた。目で見える形を持たないのに、確かにそこに“存在”がある。銀の光が細くなり、薄くなり、やがて雲の裏に吸い込まれていく。その間、彼女は目を逸らせなかった。逸らせば、二度と見られない気がして。
「今のは……」
フリッツが言葉を探す。
「雷ではない。魔法でも」
「竜だ」
ハロルドが、吐き出すように言った。手綱を持つ手が汗で滑っている。
「見たことはない。だが、今のは竜だ。古い、古い何かの音だ」
フリッツは頷くことも否定することもせず、剣を鞘に半分戻した。
「お嬢様、怪我は?」
「ううん。大丈夫」
ローザはようやく座り直した。膝の上の布袋が、さっきより温かい。種は、彼女の体温を受け取っていた。胸の鼓動が少し落ち着くまで、彼女は目を閉じた。瞼の裏で、銀の光がまだ揺れている。揺れは小さくなり、点になり、やがて線にもならない記憶の粒になる。
「追ってこないといいが」
ハロルドが周囲を見回し、馬の首を撫でた。
「今の光が何者であれ、あれが味方である保証はない。急ごう」
「はい」
フリッツが御者台の脇に移動し、歩調を合わせて警戒に立った。馬車はゆっくりと動き出し、霧を切り分けて進む。霧は戻ろうとするが、車輪が形を与え、道を残す。
ローザは布袋を握りながら、窓の外の白い世界を眺めた。さっきまでの恐怖が、すべて消えたわけではない。体はまだ、逃げ出したい方角を探している。けれど、心のどこか、深い場所に、小さな火が灯っていた。誰かがいた。彼女の上に、確かに。あれは偶然かもしれない。彼女のためではないかもしれない。けれど、あの光は、賊を退け、彼女たちを通した。
窓に額を寄せた。冷たいガラスが皮膚に触れ、思考が少し澄む。あの音。名を名乗る音。彼女は心の中で、何度も聞き直す。低く、広く、遠いのに近い。言葉ではないのに意味があった。意味は、簡単には言語に置き換わらない。けれど、彼女にはなんとなく分かった。――おまえは見えているか、と問われた気がした。見えている、と答えた気がした。
「ローザ様」
フリッツが窓越しに声をかける。
「大丈夫ですか?」
「ええ」
「怖かったら、言ってください。人は、怖いと言葉にした時が一番強い」
「……エミリアに似てること言うのね」
「エミリア様?」
「私の侍女。私の、お医者さん」
「いい方なんですね」
「とても」
会話が短く終わり、また夜の音が戻る。森の入り口が見えてきた。霧は濃く、木々の影は高く、枝は互いに腕を組むように絡み合っている。入り口に立つ古い石の標が、半分苔に飲まれていた。そこに刻まれた古い文字が、霧の水滴に濡れて、読めない。
彼女は布袋から一粒、種を取り出した。フリッツが振り返る。
「ローザ様?」
「お守り。……投げないわ。ただ、握っていたいの」
「分かりました」
種は冷たく、指先の体温を少しずつ奪っていく。その冷たさが、逆に彼女の体の熱を確かめさせる。生きている。指先に、心臓の脈が届く。
森の中は、噂通り音が増えた。見えない鳥、見えない獣、見えない風。葉を叩く雨のような音もするのに、雨は降っていない。霧が音を増やし、形を変えて返してくる。誰かの足音にも、木の実の落ちる音にも聞こえる。ローザは目を閉じて、分類しようとした。分からない音は、すぐに想像が上書きする。だから、たぶん、これはただの葉の音。ただの枝のきしみ。
馬車はゆっくり、慎重に進む。道の脇にぽっかりと開いた空地を見つけ、ハロルドが手綱を引いた。
「ここで野営しよう。森の中で無理に進むより、霧が薄くなるのを待つのがいい」
フリッツが頷き、焚き火の準備に取りかかる。湿った空気の中で火はなかなか上がらないが、やがて小さな赤が生まれ、黒を押しのけ始める。ローザは馬車から降り、火のそばに手をかざした。指先がじんわりと温まる。さっき握った種の冷たさが、内側から消えていく。
「少し食べましょう」
フリッツが固いパンを分け、干し肉を小さく切る。ハロルドが革袋から水を回す。三人で輪になり、火を囲む。火の向こうで、互いの顔が少しだけ柔らかくなる。
「王都には戻らないのですか」
ハロルドが唐突に問いを投げた。ローザは一瞬だけ迷って、首を横に振る。
「戻る場所は、あるようで、ないの。戻れないわけじゃない。ただ、戻っても、届かないから」
「届かない」
「ええ。声も、手も。温室の土だけが、届く場所だった」
ハロルドは「そうか」とだけ言って、それ以上は聞かなかった。彼の胸の内にも、届かない場所があるのかもしれない。
火のはぜる音。霧の向こうで、また遠い低音が揺れた。さっきの音とは違う。もっと小さく、もっと遠い。けれど、同じ響きの一部。ローザは顔を上げる。フリッツも、ハロルドも、耳をそばだてた。
「聞こえるか」
「……ええ」
それは挨拶のようでもあり、監視の合図のようでもある。彼女は胸の中で、言葉にならない返事を返した。ありがとう、とも、またね、とも違う。ただ、こちらにいる、とだけ。
「休もう。交代で見張りをする」
フリッツが火のそばに毛布を広げる。ローザは頷き、毛布に身を入れた。地面の固さが背中に伝わる。ごつごつはしているのに、不思議と安心する。大地は柔らかくはないが、受け止めることをやめない。
目を閉じると、銀の光の残像が深いところで細く伸びて、彼女の意識を縫い止めた。今夜、彼女は初めて、伝説を遠目に見た。笑い話のために用意された舞台の外側で、ほんものの影が、こちらを見ていた。
眠りに落ちる直前、エミリアの声が聞こえた気がした。「同じ星を見ましょう」と。彼女は空を見上げる。霧の幕の向こう、星は見えない。けれど、そこに星があることは、知っている。見えないものを、あると信じる練習を、彼女は土から学んだ。
火が小さくなり、霧が寄ってくる。寄ってきて、火に遠慮して留まる。森の呼吸と、馬の寝息と、人の微かな寝返り。彼女は銀花の種を胸に抱き、静かに目を閉じた。胸の鼓動は、馬の呼吸と少しずつ合い、やがて森の低い音とも合った。三つのリズムが重なって、ひとつの輪になる。その輪の外側で、銀の影が、ゆっくりと空を巡った。
――夜明け前。火の最後の赤が消える頃、霧の端で何かが一度だけ光った。彼女は眠っていた。けれど、その光は彼女の夢の中で、ちゃんと見られていた。夢の中の温室に、小さな芽が顔を出した。芽は銀色ではなく、ただの緑だった。けれど、十分だった。芽は、前に向かっていた。彼女もまた、前に向かっていた。霧の森の真ん中で。銀の目に見守られながら。
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