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第7話 魂装適性という伝説
しおりを挟むあの夜から、二日が経った。
森の魔獣は、それ以来一度も姿を見せていないらしい。
村の空気は、まだ緊張の名残を引きずりながらも、少しだけ軽くなっていた。
その代わり──私とライアンの方が、村の視線を集めることになった。
「ねえ見て、あの人たちが森の魔獣をやっつけたんだって」
「王都から来た追放組なのに? よくわかんないね」
「でもお母さん言ってた、『命の恩人だから変なこと言うんじゃないよ』って」
そんなヒソヒソ話が、診療所の窓の外から普通に聞こえてくる。
褒められてるのか、警戒されてるのか、まだ判断がつかない。
(……まあ、悪口より全然マシか)
ベッドから起き上がれるくらいには回復した私は、まだ体を大事にしろと言う治療師さんの視線を必死にかわして、村長の家へ向かっていた。
今日は、紹介された人に会いに行く日だ。
「かつて王都の学舎で教鞭を執っていた、ちょっと変わり者の学者先生だ」
村長はそう言っていた。
変わり者、というフレーズに何とも言えない親近感を覚えたのは秘密だ。
***
村長の家の一角。
生活スペースから少し離れた、小屋……と言うには頑丈な、横に長い建物があった。
外から見ただけで「ここだけ空気が違う」とわかる。
扉の前には、ライアンが腕を組んで立っていた。
「あ、もう来てたんだ」
「体調、平気か」
「昨日よりは。ちゃんと歩けてるし」
「さっき一回ふらついてただろ」
「見てた?」
軽く睨まれて、肩をすくめる。
「そっちこそ、まだ頭痛いんでしょ」
「……まあな」
認めた。
お互いボロボロだけど、こうして歩いてこれるくらいには元気になった、ということにしておく。
軽くノックすると、扉の向こうからくぐもった声がした。
「開いておる、入りなさい」
村長よりも、少し高くてかすれた声。
扉を押し開けた瞬間──別世界が広がった。
壁一面の、本。本。本。
床から天井まで届く本棚が、左右の壁をぎっしり埋め尽くしている。
紙の匂い、インクの匂い、古い革表紙の乾いた匂い。
それに混ざって、少しだけ薬草と蝋の香り。
視界の情報量が多すぎて、思わず「わぁ」と声が出た。
「ずいぶんと素直な反応をする娘さんだ」
部屋の奥から、細い笑い声が聞こえる。
見れば、背の低い老人が、山積みの本の隙間から椅子ごと滑り出てきた。
白髪は後ろでひとつに束ねられ、丸い眼鏡が鼻の上にちょこんと乗っている。
年齢は村長より上かもしれない。
けれど、その目はやけに生き生きとしていた。
「君が、エリア嬢だね」
正確に私の名前を呼ばれて、少し背筋を伸ばす。
「はい。エリア・フォン・リーデルです。えっと、元・王都魔導省所属の」
「知っておる。君たちの武勇伝は、村中で嫌というほど耳にしたよ。
森の魔獣を光の檻で止めて、一瞬で消し飛ばしたとかなんとか」
老人──あとで村長から聞いた名で言えば、アロイス老は、いかにも「話が大げさに膨らんでるのは理解している」という顔をした。
「こっちの君は、ライアン・ハウエルくんだね。
“無能騎士”の烙印を押されたとか」
「……“元・王都護衛隊の下級騎士”でお願いします」
ライアンが眉をひそめて訂正する。
その肩に、アロイス老はおかしそうに目を細めた。
「よろしい、よろしい。肩書きにこだわるのは、まだ若い証拠だ」
ひとりで納得したように頷くと、彼は私たちに向き直った。
「さて──村長から話は聞いておる。
君が森の中で“異常な現象”を起こしたこと。
そして、その後に掌に現れた“歯車の紋様”のことも」
「はい……」
思わず右手のひらをぎゅっと握りしめる。
あの光の紋様は、今はもう浮かんでいない。
でも、目を閉じれば、くっきり思い出せる。
アロイス老は、ふむ、と喉を鳴らしてから、奥の棚を指さした。
「わしは昔、王都の学舎で魔導理論を教えていてね。
王都の図書館から“役に立たない古文書だ”と放り出された本を、こうしてコツコツ集めておる」
「役に立たないって……」
思わず口が出る。
王都らしい判断というか、なんというか。
「でも、“役に立たない”と烙印を押されたものほど、面白いのだよ」
老人はにやりと笑う。
「人間も、本も、魔導理論もね」
その言葉が、妙に心に残った。
アロイス老は、慣れた手つきで棚を登るようにして、本を何冊か引き抜いていく。
革表紙、麻ひもで綴じただけの薄い冊子、半分崩れかけの巻物。
それらをテーブルの上に並べた。
「さあ、座りなさい。立ち話には長すぎる話だ」
私とライアンは素直に椅子に腰を下ろす。
木製の椅子は少し軋んだけれど、座り心地は悪くなかった。
アロイス老は、一冊の薄い本を開き、指でなぞりながら古い文字を追っていく。
「これは、百年以上前に書かれた学者の覚え書きだ。
当時ですら、“非公式な研究”としてほとんど日の目を見なかった」
ページの端には、びっしりと細かい文字と図が描かれている。
丸と線、歯車のような図。
見覚えのある形が、そこにあった。
「……これ」
思わず身を乗り出す。
「この形、私の掌に浮かんだ紋様と似てます」
「そうだろうとも」
アロイス老は、満足そうに頷いた。
「ここには《魂装適性(ソウルギア・アフィニティ)》についての記述がある」
その単語を聞いた瞬間、胸の奥で何かが反応した。
あのとき、頭の中に直接流れ込んできた言葉。
「魂装、適性……」
「聞き覚えがある顔だね」
図星を刺されて、軽く頷く。
「森で、“心臓から頭に直接響いてきた”感じで……」
うまく説明できる自信はなかったけれど、アロイス老は「それでいい」とでも言うように片手を振った。
「魂装適性とは、簡単に言えば──世界の根幹機構にアクセスする資格のことだ」
「世界の……機構?」
耳慣れない言葉の組み合わせに、首をかしげる。
「君が見たという歯車。あれは、“世界を動かしている仕組み”の一部を象徴的に映したものだろう」
アロイス老は、指で歯車の図をとん、と叩いた。
「普通の魔導は、目に見える現象に働きかける。
火を出す、風を操る、水を凍らせる……そういう類だ」
「はい。魔導省で教科書くらいは読まされました」
「だが、魂装は違う」
老人の声のトーンが、少しだけ低くなる。
「魂装は、現象ではなく、“現象を決めているルールそのもの”にアクセスする。
世界の歯車に自分の歯車を噛み合わせるようなものだ」
胸の中で、カチ、と音がした気がした。
あのときの感覚。
森の中で、歯車に囲まれて、魔獣の動きを“遅く”したり“止めた”あの瞬間。
私は、ただ魔力をぶつけていたわけじゃない。
もっと根本的な部分に触れていた。
「それはつまり……」
言葉を探しながら、口を開く。
「私の能力は、表面だけじゃなくて、“仕組み”に干渉してるってことですか?」
「そう理解していい」
アロイス老は頷いた。
「そして、その力の発現形態は、“個人専用の武装やシステム”として現れる」
「個人専用の……」
思わず、自分の掌を見つめる。
「私の場合は、歯車の檻とか、防御陣みたいな……?」
「そうだろう。
魂装は、「持ち主の魂」に最も適した形をとる。
剣の形だった者もいれば、本の形だった者もいる。
君は“機構”のイメージと繋がりが深いようだね」
機構。
歯車。
時間。
あのとき、魔獣の動きは、確かに「遅く」なり、「止まった」。
「……じゃあ、私の魂装は、“動きとか時間を制御する系”ってこと?」
自分で言って、自分で鳥肌が立つ。
そんなの、チートじゃないか。
アロイス老は、わずかに口角を上げた。
「使いこなせれば、そういうことになる。
だからこそ、危険でもある」
「危険……」
「世界の歯車に触れるということは、“誤れば全体のバランスを崩す”ということでもある。
過去に、魂装適性持ちと思われる者の暴走例も、記録上は存在する」
老人の指が、別の巻物をたどる。
そこには「魂装持ちと推測される存在による局地的時間停止現象」「周辺因果の歪み」といった物騒な文字が並んでいた。
背筋に、冷たいものが走る。
あの夜、もし私がもっと取り乱して、歯車をめちゃくちゃに回していたら──
森どころか、村全体がおかしなことになっていたのかもしれない。
(……怖)
自分の中に、そんな可能性があると思うと、足元がぐらつく。
と同時に、別の感情が胸を刺した。
「──でも」
言葉が勝手にこぼれる。
「普通の魔導とは、系統が違う。
測定器に反応しない」
アロイス老がさっき言った内容が、頭の中で鮮明に反芻される。
「だから、測定器で測っても“ゼロ”に見える。
わしの見立てでは、君は最初から“魔力がない”わけではなかった。
ただ、従来の尺度では測れなかっただけだろう」
その言葉に、喉の奥がじんと熱くなった。
「……つまり──」
「君が『魔力ゼロの欠陥品』と呼ばれてきた理由の一端は、
“向こう側の無知”にあった、ということだ」
胸の奥で溜め込んでいた泥水に、小さな穴が空いた気がした。
悔しさ。
虚しさ。
安堵。
いろんな感情が、一気に押し寄せてくる。
「じゃあ、私……」
喉の奥が詰まるのをごまかすように、笑ってみせる。
「最初から、“測れないだけの何か”を持ってたってことですか」
「そうだ」
アロイス老は、迷いなく言い切った。
「王都の測定器がすべてではない。
この世界は、あの小さな箱で測れるほど単純にはできておらんよ」
ぽろり、と。
何かが、心の奥からこぼれ落ちた気がした。
嬉しい。
でも、同じくらい悔しい。
あの寒い測定室。
無機質な測定器。
結果を告げる上司の、うっすら笑った目。
『魔力量値、不能。以上』
その一言で、私の価値は地面に押しつけられた。
でも、本当は。
あのとき測ろうとしていたものが、そもそも違っていたんだ。
「……今さら、ですよね」
笑いながら言うと、声が少し震えた。
「今さら『本当はありました~』って言われても、
あのときの私にとっては、“不能”って言われた事実しか残らなくて」
魔導省で浴びた視線。
陰口。
ため息。
「王都の人たちが、“違う種類の力かもしれない”なんて考えもしないで、
『不能』ってだけ見て、私を切り捨てたのは、変わらない事実だから」
悔しくて、唇を噛む。
アロイス老はしばらく黙って私を見て、それからゆっくり口を開いた。
「怒っていいんだよ」
その言葉に、はっと顔を上げる。
「……え?」
「君は、自分が知らないものを怖がる人間たちに、理不尽に切り捨てられた。
それに怒る権利は、間違いなく君にある」
老人の声は穏やかだったけれど、その奥に炎のようなものが見えた。
「ただ、忘れてはいかん。
君自身も、君の中にあるものを知らなかった。
そして、今、知ろうとしている。
それは、過去に閉じ込められてしまった者には決してできないことだ」
静かに、でもはっきりと。
「怒りと同じくらい、今の自分を誇っていいと思うよ、エリア嬢」
胸の奥に、じわっと熱が広がる。
褒められ慣れていない体が、どう反応したらいいかわからない、みたいに落ち着かない。
隣でライアンが、ほんの少しだけ目を細めていた。
何も言わないけれど、「そうだ」と同意してくれているのが伝わってくる。
私は、小さく息を吐いた。
「……ありがとうございます」
本当に、それしか言えなかった。
アロイス老は、別の本をめくりながら話を続ける。
「魂装は、“心の深層にある願い”によって形を変える。
持ち主が何を望み、何を恐れているか──その在り方が、そのまま魂装の性質に現れる」
「心の、深層……」
自分の胸を見下ろす。
「じゃあ、この歯車の檻とか、時間っぽいアレとかも……」
「君の“本音”の一部だろうね」
ぞわっと、鳥肌が立つ。
本音。
今まで、自分でもちゃんと見たことがない場所。
「君は、何を止めたかった?」
アロイス老の問いかけは、柔らかかった。
責めるでも、詮索するでもなく。
ただ、「自分で見てごらん」と背中を押してくるような声音。
あの夜を思い出す。
爪が振り下ろされる瞬間。
世界が白く飛んで。
胸の奥で何かが割れて。
──いやだ。
そう、心の底から叫んだ。
「……多分」
喉が乾く。
「“奪われるのが嫌だった”んだと思います」
口にした瞬間、自分でも「あ」と思った。
「何を?」
アロイス老が、静かに促す。
目を閉じる。
王都で、評価を奪われた。
魔導の場から、立場を奪われた。
居場所も、未来も、「あなたにはありません」と言われた。
でも、この村で。
森で。
ライアンと笑って、村の人たちに「ありがとう」って言われて。
ようやく見えかけていた「何か」が、あの黒い魔獣に全部壊されそうになった。
「……今まで、ずっと何かを“奪われる側”だったから。
今度こそ、奪われたくなかったのかもしれません」
声が少し震えた。
「ライアンさんが死ぬ未来も。
村の人たちが壊される未来も。
自分の生きていく場所が、またゼロになる未来も。
全部、いやだって」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
アロイス老は、目を細めて頷いた。
「だから、君の魂装は、“動きを止める檻”として現れた。
奪われる未来を、一度止めて見直したかったんだろう」
心の深層。
そんなところまで、丸裸にされるみたいで、恥ずかしいような、でも少しだけ納得するような。
「……なんか、私、重いですね」
冗談めかして言うと、ライアンが小さく吹き出した。
「今さら」
「ちょっと!?」
「いい意味でだ」
いい意味とは、どこの次元の辞書だろう。
アロイス老が、咳払いをしてから締めくくった。
「とにかく──魂装を扱うためには、自分の心と向き合う必要がある。
何を望み、何を恐れ、何を守りたくて、何を壊したいのか。
その軸がぶれると、魂装も不安定になる」
「自分の心……」
今まで、できるだけ見ないようにしてきた場所。
「どうせ無能だから」と蓋をして、
「期待されても裏切るだけ」と目を逸らして。
でも、これからは。
「君の願いを、君自身が知らないまま、力だけ使おうとするのは危うい。
だからこそ、急がなくていいから、ゆっくり考えなさい」
アロイス老の言葉は、命令ではなく、提案の形をとっていた。
私は深く息を吸い込んで、ゆっくり吐き出した。
「……はい」
自分の中にあるものと向き合う。
それは、魔導の教科書よりずっと難しそうだった。
でも、逃げたくないと思った。
***
その夜。
診療所のベッドには戻らず、私は村の外れの小さな丘にいた。
まだ完全に体力は戻っていないけれど、どうしてもここに来たかった。
空は、王都で見た夜空よりずっと近かった。
星の数が桁違いだ。
なめらかな黒い布を、銀の針で無数に刺したみたいな空。
息を吸えば、少し冷たい草の匂いが肺に入る。
村の灯りは、ここからだと小さな点になっていた。
風に、髪がふわりと揺れる。
一人で、空を見上げる。
アロイス老の言葉が、何度も胸の中で反芻された。
──心の深層にある願い。
私の本当の願いって、なんだろう。
王都にいた頃は、ただ「認められたい」と思っていた。
魔力量ゼロと言われた自分にも、何か価値があるって証明したかった。
魔導省の一員として胸を張って歩きたかった。
「役立たず」じゃないと、誰かに言ってほしかった。
でも、それはたぶん、表層だ。
本当は。
もっと奥に、別の願いがある気がした。
誰かを守りたい。
奪われるのは嫌だ。
置いていかれるのは、もっと嫌だ。
そう思うのは、ただのワガママなんだろうか。
「……私」
そっと声に出してみる。
「どうしたいんだろう」
誰かに聞かせるためじゃない。
自分に響かせるための問い。
王都に戻りたいのか。
戻って、あの人たちを見返したいのか。
それとも、もうあの世界とは決別して、
この辺境で、新しく生き直したいのか。
あるいは──そのどちらでもない場所へ、行きたいのか。
考えれば考えるほど、答えは霧みたいに形を変えていく。
ただひとつだけ、はっきりしていることがあった。
「ひとりは、やだな」
ぽろっと本音が落ちた。
王都でも、ずっと一人だった。
同僚はいたし、上司もいたけれど、誰も本当の意味では隣に立ってくれなかった。
でも今は、隣に「ライアン」という存在がいる。
彼のことをどう呼べばいいのか、まだわからない。
仲間? 相棒? 友達?
どの言葉も、まだしっくりこない。
でも、ただひとつ。
彼が隣にいる未来だけは、守りたいと思った。
それも、私の願いの一部なんだろうか。
掌を開いてみる。
紋様は浮かんでこない。
でも、そこに確かに何かが眠っている気配がした。
「……私の本当の願いって、何だろう」
星空に向かって問いかける。
もちろん、空は何も答えない。
ただ、夜風が少しだけ優しくなった気がした。
胸の奥で、小さな歯車がひとつ、
カチ、と音を立てて噛み合った気がしたのは──気のせいかもしれない。
でも、それでもいい。
今はまだ、わからないままで。
でも、ちゃんと知りたいと思った。
魂装という伝説みたいな力じゃなくて。
「無能」でも「特別」でもなく、
本当の、自分の願いを。
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