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第8話 因果を断ち切る騎士
しおりを挟むライアンは、自分の運の悪さに関しては、もう諦めていた。
物心ついた頃から、ずっとそうだった。
最初の記憶は、血の色だ。
真っ赤で、やけに鮮やかな。
──小さな村の坂道。
同い年の友達が、錆びた一輪車を押して走っていた。
荷台には石ころが山盛り。
子どもから見れば、それは“宝物を乗せた馬車”みたいなものだ。
「なぁライアン、押してみろよ!」
「お、俺? 転びそう」
「大丈夫だって! お前、体でかいし!」
嫌な予感は、ほんの少しだけしていた。
けれど、あの頃の彼は、今よりずっと素直だった。
「……じゃあ、ちょっとだけ」
錆びついた取っ手を掴んだ瞬間、手の中で嫌な感触がした。
ガタガタと、車輪が震える。
「あれ──」
次の瞬間、前輪が石に乗り上げて、勢いよく横転した。
ライアンは、友達を庇うように身を投げ出した。
体は勝手にそう動いていた。
そうしないといけないと、本能が叫んでいた。
代わりに、彼の膝と掌が地面を削った。
「っっ!!」
遅れて、痛みがやってくる。
膝に走る灼けるような感覚。
掌がじんじんして、血が土にじわっと滲んでいった。
「うわ、血、いっぱい出てる!」
「ライアン、大丈夫!?」
友達は無傷だった。
泣きそうな顔で、怪我だらけの彼を覗き込んでくる。
その顔を見た瞬間、ライアンは何故か、心のどこかでほっとしていた。
痛いより先に、「良かった」と思っていた。
家に帰ると、母親は大急ぎで薬を塗りながらため息をついた。
「またあんたかい……。なんでいつも、あんたばっかり怪我するの」
父親は、苦い顔で頭をかいた。
「ライアンは本当に、運が悪いな」
その言葉は、呪いでも悪意でもなく。
ただの「事実」として、家の空気の中に沈んでいった。
その日以来、「運が悪い」は、彼の名前にくっついて回った。
木から落ちそうになった弟を突き飛ばして、自分だけが枝に激突した。
村の井戸の石蓋がずれかけていたとき、止めようとした自分だけが足を滑らせて腰を打った。
祭りの日に倒れかけた屋台の下敷きになりかけた子どもを引き寄せて、代わりに自分の肩が外れた。
何かが起こるたびに、周りの大人たちは同じことを言った。
「お前はほんと、運が悪い」
ライアンは、それを否定しなかった。
事実だったから。
ただ──
(本当に、ただの“運”だったのか?)
今は、そう思う。
***
「……っていうのが、まあ、子どもの頃からの話で」
ライアンはアロイス老の蔵書部屋の椅子に座りながら、ぽつぽつと過去を語っていた。
いつもの無表情より、わずかに顔が陰っている。
横で聞いているエリアは、何度も「えっ」とか「それ絶対たまたまじゃない」とか小声で挟み込みながら、拳を握りしめていた。
「ねえそれ、“運が悪い”の範囲越えてない?」
「自分でも薄々そう思ってた」
ライアンは苦笑した。
「騎士団に入ってからも、似たようなことは多かった。
訓練中の事故、仲間のミス、落馬、魔物の奇襲……」
「全部、ライアンさんの方に来た?」
「ああ。他の誰かに降りかかるはずのものが、なぜか俺に来ることが多かった」
訓練場で爆散した魔力球が、隣で呪文を詠唱していた同期ではなく、自分の盾にぶつかったこと。
模擬戦で斬りつけられるはずの新人騎士が足を滑らせ、その斬撃の軌道がなぜか自分に向きを変えたこと。
思い出すたびに、体のどこかが疼く。
「そのたびに、大怪我して。
『お前はほんと、貧乏くじばっか引くな』って笑われて」
「それ笑い事じゃないからね!?」
隣でエリアが半泣きみたいな顔でツッコむ。
自分のことみたいに眉間に皺を寄せている彼女を見ると、なぜか少し救われる気がした。
アロイス老は腕を組み、じっとライアンを見ていた。
「で、君はそれを『偶然だ』と思い込もうとしていた、と」
「……はい」
ライアンは視線を逸らす。
「王都でもそうだった。
君を庇ったのも、森で魔獣に飛び込んだのも──」
ちらり、とエリアを見る。
彼女は真剣な顔でこちらを見返していた。
「全部、たまたまだ。
気づいたら体が動いてて、俺が“損な役回り”を引き受けただけで」
「……そうやって、自分を安く扱うの、やめてもらっていい?」
エリアの声が、ぴしゃりと飛んできた。
「え」
「“たまたま体が動いた”って、都合よく言いすぎ。
ライアンさんが痛い目見るたびに、『たまたま』で片付けられたら、こっちの気持ちが迷子になる」
真っ直ぐな言葉に、思わず固まる。
アロイス老が、そこでゆっくりと口を開いた。
「たまたま、ね」
老人は椅子から身を乗り出し、ライアンの目を覗き込んだ。
近い。
目の前の丸い眼鏡が、妙に大きく感じる。
「君は、見えているんだね」
「……何をですか」
「“まだ起きていないはずの線”が」
心臓が、一拍遅れて脈打った。
あの夜、森で見た光景。
エリアの周りに伸びていた無数の線。
村へ続く線。
魔獣の足元から伸びる線。
そして──
黒い線。
エリアの命が終わる未来へと繋がっていた、最悪の一本。
ライアンは、唇を引き結んだ。
「……見えてました」
観念したように、白状する。
「森だけじゃない。
思い返せば、子どもの頃から、なんとなく“嫌な線”が見えていました」
「嫌な線?」
エリアが首を傾げる。
「例えば、友達が坂道を全力で走っているとき、“このまま走り続けたら、あいつはここで転んで頭を打つ”って、
頭の中に映像が浮かぶんです」
あの頃は、「嫌な予感」で済ませていた。
「家の梁のひびを見たときも、“このまま放っておくと、来月の嵐で折れて、下にいた父さんの頭に落ちる”とか。
井戸のロープの摩耗を見て、“次に汲むときに切れて、弟が落ちる”とか」
エリアの顔色がどんどん悪くなっていく。
「それ、ただの勘じゃないじゃん……完全に未来視だよ……」
「いや、全部が当たるわけじゃない。
むしろ、大体は“外れた”ことになってる」
「外れたって……」
「俺が、先に動いたから」
そう言うと、部屋の空気が少し重くなった。
「友達を突き飛ばして、自分が転んだ。
梁を支えに行って、自分が肩を痛めた。
ロープを張り替えようとして、自分が手を切った。
だから、“予感は外れた”ことになる。
俺の中では、“未来を変えた”って感覚なのに」
言葉にした瞬間、自分で驚いた。
ずっと「運が悪い」で片付けてきたことに、違うラベルが貼られる。
「……君は、自分の望まない未来を見て、それを避けるように動いてきたわけだ」
アロイス老の声は静かだった。
「今までは無意識に。
そして、この前の森では──意識して“切った”」
ライアンは、無意識に片手を握りしめる。
あのときの感覚が蘇る。
黒い線を掴んで。
「そんな未来、いらない」と願って。
バツン、と音を立ててそれが弾け飛んだ瞬間。
「──《因果断ち切り(カット・オブ・フェイト)》」
アロイス老が、その名前を口にした。
空気が、一瞬だけひんやりする。
「それが、君の魂装だ」
エリアが、はっと息を呑む。
「ライアンさんも……魂装適性?」
「厳密には、エリア嬢のような“世界機構へのアクセス”とは少し性質が異なるが、
同じ根っこから伸びた枝だろう」
アロイス老はテーブルに広げていた古文書の一枚をめくる。
そこには、こう記されていた。
『──ある者は、未来の分岐を見たという。
ある者は、その一部を断ち切り、別の結果へと収束させたという』
「因果断ち切りは、“自分が望まない結果に繋がる因果の線”を切る能力だ。
つまり、“嫌な未来”を強制的に別の分岐へと変える力」
「それって……」
エリアが目を丸くする。
「チートにもほどがあるんじゃ……」
お前が言うか、というツッコミを喉まで出かけて飲み込む。
アロイス老は、続けた。
「ただし、代償は重い。
世界は、“決まっていたはずの流れ”を捻じ曲げられたとき、その歪みをどこかで均そうとする。
その“穴埋め”を引き受けるのが、因果断ち切りの持ち主だ」
ライアンのこめかみが、じわりと痛んだ。
「今まで君が怪我をしてきたのも、その一端だろう。
本来なら他人が引き受けていたはずの不幸を、自分の体で肩代わりしていた」
肩代わり。
その言葉は、妙にしっくりきた。
「では、森であれほど頭痛がひどかったのも……」
「君は、一度に相当数の“線”を見て、切ったはずだ。
エリア嬢の死、村の壊滅、自分の死……ありとあらゆる“最悪”を拒否して、別の未来へと収束させた」
アロイス老の指が、古文書の一節をトントンと叩く。
『──代償として、術者の精神・肉体には甚大な負荷がかかる。
過度に使用すれば、寿命を削る危険あり』
その言葉を見た瞬間、エリアが椅子から立ち上がりかけた。
「ちょっと待って、それって──!」
「落ち着きなさい、エリア嬢」
「落ち着いてられないです!」
目が今にも泣きそうなくらい潤んでいる。
「寿命削るって、何そのブラック魔法!?
そんな危ない力、なんで無意識に使ってたの!?
なんで森でそんな無茶したの!? 死ぬ気だったの!?」
「いや、死ぬ気はなかった」
ライアンは慌てて手を振る。
「ただ、エリアが死ぬ未来を見たら、勝手に体が……」
「そういうのを“死ぬ気で守る”っていうの!!」
真正面から怒鳴られた。
彼女の声は震えていたけれど、その分だけ本気だった。
「私のために、そんなもん使わないでよ」
喉の奥から、かすれた声が漏れる。
「私、やっと“生きててもいいのかな”って思え始めてきたところなのに。
そのために、ライアンさんの命が削られてました、なんて知ったら、絶対また“生きててごめんなさい”って戻っちゃうから」
その言葉は、さっきまでの説明よりよほど刺さった。
ライアンは、思わず視線を逸らす。
「……悪い」
本能のままに動いてきた結果が、彼女をそんなふうに追い詰める。
それは、望んだ未来ではない。
アロイス老が、ふう、と溜息をついた。
「まあ、そう責め立てるものでもない」
「でも──」
「因果断ち切りは、そもそも“自分の望まない未来を拒否する力”だ。
君を守ったのも、その一部ではあるが……」
そこで、老人はライアンを見据えた。
「君はどうなんだい? ライアン・ハウエル」
「……え?」
「自分のために、その力を使ったことはあるか?」
虚を突かれた。
頭の中を探る。
誰かを庇うため。
誰かの怪我を肩代わりするため。
誰かの不幸を引き受けるため。
そうじゃない使い方を、したことがあったか。
──ない。
気づいてしまった。
「……ないかもしれません」
言葉にすると、妙に寒々しい。
「俺はいつも、自分より誰かの方を優先して……
その結果として“嫌な未来”を避けていたけど」
父親の期待、母親のため息、騎士団での評価。
全部、「誰かの望む“良い未来”」のために動いていた。
「“俺がこうなりたい”っていう未来は、見ようともしなかった」
一度でも、自分の未来を守るために線を切ったことがあっただろうか。
黙り込んだライアンに、エリアがそっと尋ねる。
「……じゃあ、森で私の線を切ったのも」
「君が死ぬ未来が、嫌だったからだ」
それだけははっきりしていた。
エリアが泣く未来も、
笑えなくなる未来も、
ここからいなくなる未来も──全部、嫌だった。
口にするのは、少し怖かったけれど。
「それは、“俺のためでもあった”」
エリアの目が、大きく見開かれた。
「俺は、君が死ぬ世界で生きていたくなかった」
それが、今のライアンの本音だった。
「だから、切ったんだ。
君のためでもあるし──俺のためでもある」
沈黙が落ちる。
アロイス老は、満足そうに目を細めていた。
エリアは、口元をぎゅっと結んで俯いていた。
何か言おうとして、飲み込んで。
また何か言おうとして、やっぱり飲み込んで。
その繰り返しのあと、ぽつりと呟いた。
「……ずるい」
「え?」
「そんなこと言われたら、『私のために使わないで』って言いづらいじゃん……」
顔を上げた彼女の目は、潤んでいたけれど、その奥にはあたたかいものが宿っていた。
「“自分のためにも”って言われたら、
それ止めるのは……私のわがままになるじゃん」
ライアンは、少しだけ笑った。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
アロイス老が、軽く咳払いをした。
「まとめるとだ」
場を切り替えるように、淡々とした声が響く。
「ライアン・ハウエル。
君の《因果断ち切り》は、“望まない未来線を切る”という非常に強力な力だ。
だが、使うたびに君の精神と身体には負荷がかかる。
使いすぎれば、本当に命を削ることになる」
老人の眼差しが、ほんの少しだけ厳しくなる。
「君に必要なのは、“どの線を切るか”の見極めだ。
全ての不幸を肩代わりしようとすれば、君が先に壊れる」
「……肝に銘じます」
ライアンは真面目に頷いた。
たしかに、あの夜は無茶をした。
目に見えた限りの「最悪の線」を片っ端から切って、頭が割れそうになった。
今度同じことをしたら、本当に死ぬかもしれない。
(それでも、多分またやるんだろうな、俺)
苦笑が漏れそうになる。
エリアが、じっとこちらを見ていた。
「約束して」
「……何を」
「自分の命を軽く扱わないって」
真剣な目。
さっきまで半泣きで怒鳴っていたときと同じくらい、必死な顔。
ライアンは、少し考えてから頷いた。
「わかった。約束する」
口から出たその言葉は、自分にとっても意外なほど、すんなり馴染んだ。
「俺は……」
言葉が続く。
アロイス老が、静かに席を外す気配がした。
気を利かせて、別の本棚の整理に向かったのだろう。
部屋の中には、ライアンとエリアだけの空気が残った。
「俺は、自分のためにも君を守りたい」
静かな声だった。
大声で叫ぶような熱さはない。
でも、その分だけ重く、確かだった。
エリアの目が、揺れる。
胸の奥が熱くなるのが、自分でもわかった。
「……ずるいって言ったの、撤回する」
エリアが、小さく笑った。
「そんなの、ずるいじゃなくて、反則だから」
「褒め言葉として受け取っていいのか」
「いいよ」
短い言葉のやり取りなのに、やたらと心臓がうるさい。
胸の中で、何かがカチリと噛み合った気がした。
世界のどこかで、未来の線がまた一本、違う方向へ伸び始めている。
そんな感覚が、ふとよぎる。
今までずっと「貧乏くじを引く役」だと思っていた人生が、
少しだけ、自分の意思で選び取れるものに変わりつつある。
因果を断ち切る騎士は──
これからは、誰かのためだけじゃなく、自分のためにも剣を振るう。
その決意が、静かに胸の内側で根を下ろした。
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