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第20話 今さら戻ってこいは遅い
しおりを挟む災厄が静まってから、季節がひとつ巡った。
アルシェルド王国――そう呼ばれていた土地は、地図の上ではまだその名を残しているけれど、実際にはもう「ひとつの国」ではなくなりつつあった。
王都は、封印の崩壊と瘴気の爆発で半ば瓦礫と化し、王城は塔の一本が根元から折れている。
かつて玉座があった場所には、崩落を防ぐための仮設の柱が立ち並び、王の姿はそこにはない。
王冠は、とうに意味を失っていた。
ユリウスは、その瓦礫の街を歩いていた。
肩に、薄く埃をかぶった黒い外套。
胸元にはもう、王族を示す紋章はない。
かつて彼を示していた色と装飾は、全部剥がれ落ちている。
足元には、砕けた石畳。
かつて華やかな商店が並んでいた通りは、今や、崩れかけた壁を支える木の支柱と、仮設の屋根でかろうじて形を保っている。
「殿下――いえ、ユリウス様。こちらの区画、ようやく水が通りました」
声をかけてきたのは、元近衛騎士団長だった男だ。
今は鎧も脱ぎ、粗末な作業着に袖を通している。
「水路を塞いでいた瓦礫をどかして、簡易の浄化陣も設置しました。
これで、疫病の広がりも少しはマシになるかと」
「……ご苦労」
ユリウスは小さく頷いた。
かつては、指示を出す側だった。
今は、共に動く側だ。
“王太子殿下”と呼ぶ者はもういない。
そこにいるのは、ただのユリウスという男。
「北の村は、どうだ」
「自治団が中心になって、隣国との取引を始めたそうです。
“アルシェルド王国”ではなく、“谷の自治領”として名乗りを上げると」
「……そうか」
かつて、自分が治めていたはずの土地が、「別の名前」で立ち上がろうとしている。
胸の奥が、乾いた痛みで軋んだ。
別の区画では、小さな集会が開かれている。
「西の街は、南方の大国の庇護に入るらしい」
「うちはどうする。守ってくれるなら、それに越したことはないが……」
「“守る”と“支配する”は違うぞ。気をつけなきゃな」
行き交う言葉の中に、「王家」という単語はほとんど出てこない。
人々は生き延びることで精一杯で、
誰かの血筋や、かつての権威に縋る余裕すらなくなっている。
(……当たり前だ)
ユリウスは、自嘲するように笑った。
王家が民を守れなかった。
聖女を捨て、封印を崩壊させ、国をこの有様にした。
その原因の一端を背負っているのが、自分だと分かっている。
玉座から追われた王太子の肩書きより、
瓦礫を運ぶ一人の男としての肩書きの方が、今の彼にはずっと現実だった。
足元の瓦礫に、小さな花が咲いているのを見つける。
誰かが種をまいたのか、それとも鳥が運んできたのか。
ひび割れた石の間から顔を出したその花は、あり得ないほど健気に風に揺れていた。
「……リディアなら、こういうのを見て喜ぶんだろうな」
思わず、声が漏れた。
返事をする者は、誰もいない。
彼女はもう、ここにはいない。
彼女の祈りは、別の空の下で、別の人々のために捧げられている。
それを、自分の決断でそうさせてしまったのだと――骨の髄まで分かっている。
(今さら、“戻ってきてくれ”なんて)
あの国境の謁見の間で言ってしまった言葉を思い返し、拳を握りしめる。
彼女の答えは、あまりにも静かで、あまりにも正しかった。
『アルシェルドの聖女には、戻れません』
その宣告の瞬間、自分の「ざまぁ」が始まっていたのだと、ようやく認められるようになっていた。
今彼にできるのは――。
失ったものの上に、残った人たちと小さな未来を積み上げることだけ。
王冠を失った男は、今日も瓦礫の街を歩く。
己が選択の結果から、目を逸らさないために。
◇
一方、ノルディアと旧アルシェルドの国境付近。
山を削って作られた新しい道は、まだところどころ土の色が生々しい。
けれど、そこには確かに「道」があった。
かつて国境線を示していた険しい山道は、今、新しい交易路として整えられつつある。
両側には、簡易の関所と休憩所。
馬車が通れる広さの街道。
崖側には、頑丈な柵と護符が取り付けられている。
「……ここ、本当に道になるんですね」
リディアは、開けた山の斜面に立って、遠くの景色を見渡した。
ノルディア側には、見慣れた森と谷と、小さな村の屋根。
旧アルシェルド側には、ところどころ赤茶けた斜面と、まだ瘴気の名残が薄く漂う岩山。
それでも、あの災厄のときのような圧迫感はもうない。
「時間はかかるだろうがな」
隣から、レオンの声がした。
「最初は物資のやり取りだけだ。“避難”ではなく、“交易”としての往来は、これが最初だ」
ノルディアに逃れてきた人々が安定し始めると、今度は逆に、「向こうに残った家族」に物資を送ろうという動きが出てきた。
かつての国境は、拒絶と対立の象徴だった。
今は、慎重に――ゆっくりと――人と物と情報が行き来し始めている。
「この道ができれば、アル……いえ、旧アルシェルドの自治領とも、もう少しちゃんと話し合いができるでしょうか」
「“アルシェルド”という国は、もうひとつには戻れないだろう」
レオンは、遠くの山並みを眺めながら言う。
「だが、“そこに生きている人たち”となら、話はできる」
国ではなく、人。
それがノルディアの新しい原則だった。
「……向こう、まだ、瘴気が残ってますね」
山肌に、ところどころ黒い斑点のようなものが見える。
リディアは目を細めた。
「でも、前よりずっと薄いです。
アルシェルドで封印を維持していた頃の、“油断できないけれど何とか押さえ込めている状態”くらいには」
「君とノルディアの魔術師たちのおかげだな」
「それだけじゃないですよ」
リディアは首を振る。
「災厄のあと、向こうの人たちも必死に祈ってました。
崩れた聖堂の跡地で、小さな祈りの輪がいくつもできているのを、感じましたから」
ノルディアに届く避難民の言葉の中に、何度か、「向こうに残った家族が祈り続けている」という話があった。
彼らはもう、“一人の聖女に全部押しつける祈り”ではなく、
自分たちで小さな火を灯そうとしているのだろう。
(時間は、かかるけれど)
奇跡は、祈る人がいる限り、完全には途切れない。
それを知っているからこそ、今のリディアは、あの山の向こうを「絶望の地」とだけは見なかった。
◇
新たな交易路の完成を祝う式は、簡素なものだった。
石をひとつ、基点として据え、その前でノルディアと旧アルシェルド側の代表者が握手を交わす。
「こちらからは食糧と薬を」
「そちらからは木材と鉱石を」
そんな具体的なやり取りの言葉が交わされる。
その少し後ろで、リディアはレオンと並んで立っていた。
今日は聖女としての正装ではなく、動きやすい旅装に薄いマント。
胸元には、ノルディアの紋章を模した小さなペンダントが揺れる。
遠くに、かつての祖国の山並みが見える。
あの向こうに、王都があった。
聖堂があった。
王城があった。
公開断罪の大広間があった。
そして――。
雨の森と、冷たい剣と、自分の血があった。
記憶の中の景色が、重なり合って胸の奥をつつく。
「……戻りたいと思うか?」
ふと、レオンが問うた。
軽い調子ではない。
茶化すような声音でもない。
ただ、静かに。
ここにいるひとりの「リディア」という人間に向けて。
リディアは、すぐには答えなかった。
山並みを見つめる。
風の匂いを吸い込む。
耳に届く人々の声を聞く。
国境のこちら側と、向こう側。
どちらにも、人の営みがある。
少し前の自分なら、この問いに「分からない」と答えていたかもしれない。
懐かしさと、憎しみと、未練と。
色んな感情が渦巻いて、ひとつの答えにまとめられなかっただろう。
今は――。
「……戻りたい、とは、もう思いません」
リディアは、ゆっくりと口を開いた。
言葉を選びながら、ひとつひとつ置いていく。
「恋しくないわけじゃ、ないです。
あそこで生まれて、育って、祈り続けた時間は、確かにわたしの一部だから」
幼い頃の思い出。
聖堂のステンドグラス。
王城のテラスから見た夕焼け。
それらを全部、「なかったこと」にするつもりはない。
「でも、“帰る場所”かと聞かれたら――」
そこで、リディアは小さく首を振った。
「もう、違うんだろうな、って思います」
あそこは、自分を切り捨てた国だ。
聖女としての役目を“無能”と断じ、
森に捨て、剣を向けた場所。
「わたしを捨てた国で、わたしも、あの国を“国として”は捨てたんだと思います」
アルシェルドの聖女として死んだ夜。
ノルディアで目を覚ました朝。
その間に、一本の線が引かれた。
「だから、“帰る場所”じゃないです。
あそこは、わたしから見れば“別の国”で、“たまたま生まれた土地”で」
自分で言いながら、その実感が胸の中にゆっくりと沈殿していく。
「じゃあ、君の“帰る場所”は?」
レオンの問いに、リディアは今度は少し早く答えられた。
「今いる、ここだと思います」
ノルディアの大地。
この空。
この風。
この人たち。
「わたし、あのとき、“今を選んだ”んです」
ノルディアに残ると決めた夜。
聖女としてではなく、“リディアとして”ここにいたいと願った瞬間。
「あの選択は、今も正しかったって思ってます」
胸の奥の痛みは、消えていない。
でも、その痛みを抱えたまま、その選択に誇りを持てるようになっていた。
レオンが、少しだけ目を細めて笑う。
「なら、いい」
「いいんですか?」
「“戻りたい”と言われたら、全力で止めるところだった」
「止めるんですね、やっぱり」
「当然だ。せっかく“今を選んだ”君を、過去に引き戻されてたまるか」
言い切る声が、妙に頼もしい。
リディアの胸の中で、ひとつの言葉が、はっきりと形を取っていた。
(――今さら、戻ってこいは、遅い)
アルシェルドの誰かが、今この瞬間、「やっぱり聖女に戻ってくれ」と言ったとしても。
それは全部、“今さら”だ。
切り捨てた日の言葉も。
謝罪も。
懇願も。
あの日の国境で、すでに答えは出ている。
声には出さない。
出してしまえば、それは向こうを刺す刃になってしまう。
今、リディアが握ろうとしているのは、誰かを刺す刃ではなく――自分の未来だ。
「新しい道、いいですね」
リディアは、国境の街道を見下ろした。
荷馬車が、ゆっくりと通り抜けていく。
その荷台には、穀物の袋と、木材と、布と。
その傍らには、子どもがしがみついて景色を見ている。
「避難のための道じゃなくて、“行き来するための道”っていうのが」
「ああ。ようやく、“逃げるだけじゃない往来”ができる」
レオンは頷く。
「ここから先の旧アルシェルドがどうなるかは、俺にも分からない。
いくつかの自治領として立ち上がるかもしれないし、他国の庇護下に吸収される場所も増えるだろう」
「それでも、そこに生きる人たちが……」
「“生きていたい”と望む限り、ノルディアは門戸を閉じない」
レオンの言葉は、もはや宣言に近かった。
国という枠は変わる。
名前も形も変わる。
けれど、「生きている人」がいる限り、その人たちに手を伸ばす国でありたい――
それが、レオンの選んだ王としての道なのだろう。
「……レオンさん」
「なんだ」
「さっき、“戻りたいと思うか”って聞かれたとき、ちょっとだけ答えに迷ったんですけど」
「迷っていたようには見えなかったが」
「心の中で、過去と今を天秤にかけてました」
リディアは、自分の胸に手を当てた。
「過去のわたしは、きっとどこかで、“ちゃんとやり直したら、うまくいくんじゃないか”って期待してたと思います。
アルシェルドで、“今度こそ上手くやれるんじゃないか”って」
ユリウスや王家、神官たちが、本当に心から変わってくれたら――。
すべてをやり直せるんじゃないか、なんて。
そんな甘い幻想を、ほんの少しだけ手放せずにいた。
「今は?」
「今のわたしは、“こっちで上手くやりたい”って思ってます」
迷いなく言えた。
「過去をやり直すんじゃなくて、“今ここから先”をちゃんと生きたいです」
それは、自分への約束でもある。
レオンが、ゆっくりと手を差し出した。
最初に出会った頃より、ずっと自然な動きだった。
「じゃあ、行くか」
「どこにですか?」
「“今から先”だ」
相変わらず、少しだけ照れくさい言い回しを平然と口にしてくる。
けれど、リディアはもう、その照れくささを受け止めることに慣れ始めていた。
差し出された手を、迷わず取る。
レオンの手は、いつもどおり温かい。
その指先に、力を少しだけ込めた。
「――はい」
短い返事と共に、リディアはノルディア側へと歩き出す。
一歩。
二歩。
山の稜線の向こう――かつての祖国は、少しずつ遠ざかっていく。
振り返らない。
そこに未練がないわけじゃない。
戻って何かをやり直したくならないわけでもない。
それでも、振り返らないと決めた。
背中に、アルシェルドで積もった年月の重さが確かにある。
けれど、胸の中には、ノルディアで積み始めた新しい日々の重みがある。
かつて聖女として“国に捧げられた”少女は――。
今、ひとりの女性として、“自分で選んだ幸せ”へと進んでいく。
今さら誰かが「戻ってこい」と叫んでも、その足は止まらない。
彼女の歩く先にあるのは、“義務としての未来”ではなく、
自分の意志で選び取った、“今から先の人生”だった。
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