無魔力の令嬢、婚約者に裏切られた瞬間、契約竜が激怒して王宮を吹き飛ばしたんですが……

タマ マコト

文字の大きさ
8 / 20

第8話 『幼き日の契約の記憶』

しおりを挟む


 胸の奥で、何かが「カチ」と鳴った気がした。

 鍵穴に鍵が差し込まれて、ゆっくり回り始めるときみたいな、あの独特の感覚。
 痛くもないし、苦しくもないのに、心臓の裏側がじわじわ熱くなる。

「……アークヴァン」

 裏庭の白い光の中で、エリーナは竜を見上げたまま、そっと目を閉じる。

「あなたの話、聞いたから……ちゃんと“見る”わ。あの日のこと」

 逃げ続けてきた記憶。
 ずっと靄がかかっていた、幼い日の森での出来事。

 それが今、胸の奥からせり上がってくる。

 怖い。
 けれど、怖いままにしておくほうが、もっと怖い。

「一緒にいて」

 小さく呟くと、頭上から低い声が降ってきた。

「いる。
 そなたが目を背けぬかぎり、我も見ていよう」

 その声に押されるように、エリーナはゆっくりと意識を沈めた。

 ──足元の芝生の感触が薄れていく。
 代わりに、別の土の、ざらついた冷たさが蘇る。



 最初に戻ってきたのは、“音”だった。

 かさ、かさ、と枯れ葉を踏む小さな足音。
 どこか遠くで鳥が鳴いて、風が木々を揺らしている音。

 そして──

『ひっ……ひぐっ……』

 ぐしゃぐしゃにつまった、幼い自分の泣き声。

(……ほんとに、こんな泣き方してたんだ、私)

 記憶の中の自分を、今の自分が斜め上から見下ろしている、不思議な視点。
 映画の観客みたいに、でも感情だけは本人と共有させられているような、奇妙な一体感。

 泣きながら走っている少女は、今のエリーナから見れば「まだ子ども」の一言に尽きる。

 髪は今より少しだけ明るい栗色で、肩口辺りでゆるく跳ねている。
白いワンピースの裾は泥で汚れて、片足の靴はどこかで脱げてしまって、裸足の足裏には小さな傷がいくつもついていた。

『おかあさま……っ、どこ……?』

 必死に呼んでも、返事はない。
 森の奥深く、木々の影が濃くなっていくばかりだ。

 あの日のことを、エリーナは断片的にしか覚えていなかった。
 馬車から降りて、ほんの少し目を離した隙に──気がついたら森の中にひとりだった。

 護衛も、乳母も、誰の気配もしない。

『こわい……やだ……』

 幼いエリーナは、枝に引っ掛かったドレスの裾をぐいっと引きはがしながら、ふらふらと進んでいく。
 足元の根っこに躓いて転び、そのたびに膝を擦りむいて、泥と血でぐちゃぐちゃになっていた。

(よく生きてたな、これ……)

 今のエリーナは、内心でツッコミを入れる。
 でも、笑う余裕なんてすぐに消えた。

 森の匂いが、生々しく蘇ってきたからだ。

 湿った土。
 濡れた葉と苔。
 少し遠くで流れる水音。

 冷たい空気を吸い込むたび、鼻の中までひんやりする。

『……あ』

 幼いエリーナがピタリと足を止める。

 目の前、木々の隙間から、別の光が漏れているのが見えた。

 柔らかい、緑がかった光。
 森の薄暗さとは違う、少し開けた空間の気配。

 枝を手で押しのけて、一歩踏み出す。

 ──そこは、ぽっかりと穴が開いたみたいな、小さな泉だった。

『きれい……』

 思わず、涙が止まるくらいの光景。

 水面は鏡のように滑らかで、空と木々がそのまま映り込んでいる。
 周りには苔むした石や小さな花が点々と咲いていて、森とは思えないほど静かだった。

 でも、その“静けさ”は、どこかおかしかった。

 空気が、張り詰めている。
 音が、なさすぎる。

 鳥の声も、風の音も、ここだけ消えてしまったみたいに──

『……え』

 幼いエリーナは、その原因をすぐに見つけてしまった。

 泉のほとり。
 苔に覆われた岩場の上に、それはあった。

 おとなが胸に抱えるほどの大きさの卵。
 真珠色の殻に深い亀裂が走り、その隙間から赤いものがじわりとにじみ出ている。

『……』

 言葉が消える。
 音が全部吸い込まれて、世界が無音になる。

 血だ、と気づいた瞬間、胸がぎゅっと掴まれた。

 殻の下に、小さな赤い水たまり。
 ぽとり、ぽとり、と今も少しずつ落ちている。

 生き物が、死にかけている匂い。

『いたい、の……?』

 自分でも分からない声が口から漏れた。

 恐怖より先に、胸の奥に浮かんできた感情は──
 “かわいそう”だった。

 誰もいない森の真ん中で。
 こんなに冷たくなって。
 ひとりぼっちで、血を流している。

(ああ、そうだ……)

 今のエリーナが、そのときの感情を反芻する。

(“自分みたい”だって、思ったんだ)

 迷子になって、ひとりぼっちで、怖くて。
 森に捨てられたみたいな心細さ。

 目の前の卵は、まるで鏡だった。

 同じくらい、世界から取り残されている。

『……ひとり?』

 幼いエリーナが、卵ににじり寄る。
 かがんで、そっと手を伸ばした。

 指先が、殻の表面に触れる。

『つめた……』

 びくっと手を引っ込めるくらい冷たかった。

 氷みたい。
 でも、氷と違って、そこには“生き物”の気配がかすかに残っている。

 その矛盾が、余計に怖い。

『……しんじゃう、の?』

 問いかけても、返事はない。
 ただ、ぽとり、ぽとり、と血が落ちる音だけが続く。

 たぶん、本当ならここで離れるべきだった。
 危険な匂いもする。
 知らないものに近づかないのが、子どもの生存本能だ。

 でも──

『やだ……』

 幼い自分は、そこから逃げなかった。

 むしろ逆だった。

 両手を殻にぺたりとつけて、そのままぎゅうっと抱きしめる。

『ひとりにしないで……』

 涙が、また溢れ出す。

 森に入ってから、何度目の涙だろう。
 でも、このときの涙だけは、少し意味が違った。

『ひとりにしないでよ……! いかないで……! わたしおいて、どこにもいかないで……!』

 叫びながら、自分でもよく分からない言葉を重ねる。

 “ひとりにしないで”と訴えながら、同時に“ひとりにさせたくない”とも願っていた。

『しなないで……っ』

 鼻水と涙でぐちゃぐちゃになりながら、幼いエリーナは必死に卵にしがみつく。

 殻は冷たくて、頬についた血は生暖かくて、服の裾は泥と赤で染まっていく。

 それでも、離せなかった。

 離したら、この卵が完全に冷たくなってしまう気がしたから。

『生きてよ……っ! わたしを、ひとりにしないで……』

 その瞬間──

 胸の奥で、何かが弾けた。

 今のエリーナは、その感覚をはっきり追体験する。

 心臓そのものじゃない。
 もっと奥。
 骨より深い、魂の真ん中みたいな場所で、ぴしりとひびが入る。

 そこから、熱が溢れ出していく。

 痛くはない。
 でも、苦しい。
 涙が溢れるのも、声が震えるのも、その熱のせいだ。

 その熱が、腕を伝い、指先を抜け、卵へと流れ込む。

 じゅ、と音がした気がした。

 錯覚かもしれない。
 でも確かに、何かが“繋がった”。

 殻の向こうから、別の熱が返ってくる。

 ドクン。

 卵の中で、心臓が動いた。

『……っ!』

 幼いエリーナは、びくっとして目を見開く。

 今のエリーナも、その瞬間、自分の胸がぎゅうっと絞られるような感覚に襲われた。

(覚えてる。これ……)

 ここから先の記憶だけ、なぜかずっと靄がかかっていた。
 けれど今、その靄が一気に風で吹き飛ばされるみたいに晴れていく。

 ドクン、ドクン、ドクン──。

 卵の中の鼓動が、確実に強くなっていく。

 それと同時に、エリーナ自身の鼓動も、不思議なことに同じリズムを刻み始めた。

 ふたつの心臓が、ぴったりと重なって拍を刻む感覚。

 殻のひびが、ゆっくり広がっていく。

 最初は、細い線だった。
 それがじわじわと伸びて、蜘蛛の巣みたいに広がる。

『……こわ……』

 震える声が漏れた。

 怖い。
 なにが出てくるのか分からない。

 でも、目は離せなかった。

 もしここで目を逸らしたら──
 この瞬間を見逃したら──

 きっと、一生後悔する。

『だいじょうぶ、だいじょうぶ……』

 泣きながら、幼いエリーナは殻に額を押し当てる。

『こわくないよ……いっしょに、いきよう……』

 自分でも何を言っているのか分からない。
 でも、その言葉は確かに、卵の中の“何か”に届いていた。

 ひび割れが一気に広がる。

 バキッ──。

 乾いた音とともに、殻の一部がぱかりと開いた。

 その隙間から、強烈な光が溢れ出す。

『っ、まぶし……!』

 思わず目を瞑る。
 まぶたの裏側まで白く染まるほどの光。

 でも、不思議なことに、その光は熱くない。
 焼くような炎ではなく、春の日差しみたいな柔らかさと、深い底冷えの両方を含んだ、不思議な温度だった。

 光の中から、ぬるりと何かが出てくる。

 最初に触れたのは、“額”だった。

 ちいさくて、まだ柔らかい鱗の感触。
 ぺたりと自分の額にくっついてくる、湿った温度。

『……あったかい』

 思わず、笑いが漏れる。

 泣き顔のまま、笑っていた。

 光の中から、金色の双眸がぱちりと開く。

 今のアークヴァンの瞳よりも、少し淡くて、まだ“赤ちゃん”の色をしている。
 だけど、その奥に宿っているものは、今と同じだった。

 深くて、冷たくて、なのにどこか優しい光。

『……』

 言葉にならない何かが、頭の中に直接流れ込んでくる。

 音ではない。
 概念とか、感情とか、そういうものの塊。

 “寒い”
 “痛い”
 “暗い”

 そして──

 “きた”
 “きみ”
 “なに”

 ばらばらの感情と言葉が、つたない子どもの絵みたいに溢れ出してきて、エリーナの中にまとわりつく。

『……こんにちは』

 幼いエリーナは、自然にそう言っていた。

 怖くない。
 むしろ、嬉しい。

 あの冷たい森の中で、自分ひとりじゃないことが、こんなにも救いになるなんて。

『いきて、くれたんだね……』

 ぽろぽろと涙が、また落ちる。
 今度の涙は、さっきまでの恐怖と孤独だけじゃない。

 “よかった”という安堵。
 “間に合った”という嬉しさ。
 “ひとりじゃない”という救い。

 それらが全部混ざり合った涙。

 光の中の小さな竜──生まれたばかりのアークヴァンは、じっとその涙を見ていた。

 涙の一滴が、鱗の上に落ちる。

 じわり、と染み込んでいく。
 それは、さっき服が血を含んだのとおんなじ感覚だった。

 今度は逆。
 自分の感情が、竜の身体の中へ入り込んでいく。

『なまえ……ないの?』

 幼いエリーナが、ぽつりと呟いた。

 名前。

 貴族にとって名前は、誇りと意味の塊だ。
 家名。
 血筋。
 祝福。

 でも、目の前の存在には、そういった“しがらみ”が一切ない。

 だからこそ、まっさらな音を乗せたくなった。

『じゃあね──』

 幼いエリーナは、少しだけ考えてから、口を開いた。

『あなたの名前は、アーク……ヴァン。
 光みたいで、かっこいいでしょ』

 その瞬間。

 世界が、ピンと張り詰めた。

 空気が止まり、風が止み、森のざわめきが消える。
 代わりに、胸の奥で、ものすごい勢いで熱が燃え上がった。

 ドクン。

 鼓動が、さっきまでとは明らかに違う拍を打つ。

 骨が震え、血が逆流しそうになり、頭の中が真っ白になる。

『あ……』

 幼いエリーナは、身体のバランスを崩してよろめいた。
 でも、倒れない。

 光の中から伸びてきた白銀の小さな身体が、彼女を支えたからだ。

 額と額が、こつん、とぶつかる。

『……っ』

 息が止まった。

 その瞬間、すべてが繋がった。

 自分の“内側”に、今までなかった何かが増える感覚。
 そこに、別の心臓が住み着いたみたいな、重い気配。

 アークヴァンの存在全体が、熱と光と“意志”の塊になって、エリーナの魂と絡みついてくる。

 怖くない。
 痛くもない。

 ただ──圧倒的だった。

『エ、リ……』

 頭の中に、はっきりとした音が響く。

 ひとつひとつの音節を大事そうに確かめるみたいな、ゆっくりとした呼び方。

『エリ……ナ』

 自分の名前。

 幼いエリーナは、びっくりして目を見開く。

『わたしの……なまえ……』

 小さく笑うと、光の中の竜も、なにか嬉しそうな感情を返してくる。

 そして──

『そなた』

 それまでの拙い音とは違う、はっきりとした言葉。

『そなたが、主か』

 その瞬間。
 魂の中心に、冷たい印が押された気がした。

 所有の刻印。
 約束の鎖。
 契約の証。

 でも、それは「縛り」ではなかった。

 不思議なことに、胸の奥がふわっと軽くなる。

『あるじ……?』

 言葉の意味が分からずに首を傾げる自分に、竜の感情が返ってくる。

 “よりそう”
 “まもる”
 “そばにいる”

 言葉を持たないままの概念たちが、じわじわとエリーナの中に染み込んでいく。

 エリーナは、なんとなく理解した。

『じゃあ……』

 額をくっつけたまま、にこっと笑う。

『わたし、あなたの“あるじ”になるね』

 その言葉に、アークヴァンの感情が大きく揺れた。

 喜び。
 安堵。
 驚き。

 そして、とても遠くて、とても古い「なにか」が、ふっと微笑んだような、温かい波。

 胸の奥で鼓動が高鳴る。
 それが、ふたつ分重なっていることに気づいた瞬間──

 森の景色が、ぐるりと回った。



「──ッ……!」

 現実に引き戻されたとき、エリーナは膝から崩れ落ちていた。

 芝生の上に、へたり込む。
 肩で荒く息をして、胸を押さえる。

 熱い。
 苦しい。
 でも、嫌な苦しさじゃない。

 胸の奥から、じわじわと温かさが広がっていく。

「……見たのか」

 頭上から、低い声が降ってくる。

 見上げると、アークヴァンの金色の瞳が、真剣な色でこちらを覗き込んでいた。

 エリーナは、震える唇を噛んで──そして、笑った。

「……ずるい」

「またそれか」

「だって……あんなの、反則でしょ……」

 声が震える。
 目の端から、ぽろりと涙が零れ落ちた。

 森の記憶。
 冷たい卵。
 血の匂い。
 光。
 触れた額の温度。

 それらが全部、鮮やかに蘇ってしまったせいで、胸の中がぐちゃぐちゃだ。

「わたし……あのとき、本当に……あなたを“生きて”って思ってたんだ」

 言葉にして、ようやく自分でもそれを認められた。

「怖くて、さみしくて、どうしようもなくて……
 でも、あなたが死んじゃうことのほうが、もっと怖かった」

 初めて口にする本音。
 誰にも話したことのない、七年前の感情。

 アークヴァンは、じっと黙って聞いていた。

「“ひとりにしないで”って言ったの、あれ……あなたに言ったんだか、自分に言ったんだか、分かんないけど……」

 エリーナは、笑いながら、頬を伝う涙を拭った。

「でも、結果的に──」

 胸に手を当てる。

 そこには、はっきりと“ふたつの鼓動”がある気がした。

「本当にひとりじゃなくなってたんだね、あの日から」

「そうだ」

 アークヴァンの声が、静かに頷く。

「我は主の涙で生まれ、主の願いで立ち上がった。
 だからこそ、主が“ひとりじゃない”と感じるまで、どこにいても駆けつける」

「……ねえ、アークヴァン」

 エリーナは、ぐしぐしと雑に目元を拭ってから、真っ直ぐ竜を見上げた。

「もし、あの日──私が卵に抱きつかずに、怖くて逃げてたら。
 あなたは、どうなってたの?」

 少し間があってから、竜は答えた。

「消えていた」

 その言葉には、悔いも恐れもなかった。

「静かに、冷たく、殻の中で。
 誰にも知られず、誰にも呼ばれず、ただ終わっていた」

 エリーナの胸に、冷たいものが落ちる。

(そんなの……)

 嫌だ。
 想像しただけで、息が詰まる。

「だから我は、あの日のそなたに借りがある」

 アークヴァンは続けた。

「主は“助けてやった覚えはない”と言うかもしれぬが──生かされた側からすれば、紛れもない恩だ」

 巨大な頭が、わずかに傾く。

「その借りを、どう返すか」

 金色の瞳の奥で、静かな炎が灯る。

「それは、我が好きに決めていいのだろう?」

 問いかけというより、確認。

 エリーナは、一瞬だけ言葉を失って──それから、小さく笑った。

「……好きに、ね」

「うむ」

「じゃあ、そんな怖い顔で王宮を吹き飛ばすの、半分くらいにしてくれない?」

「難しい注文だ」

 即答。

「主のためでなければ、全力でやっていたところだ」

「それが怖いって言ってるの」

 思わずツッコミを入れながら、エリーナはふっと息を吐いた。

 森の記憶を直視したことで、逆に胸の中の靄が晴れた気がする。

 自分は、竜を“助けた側”でもあったのだ。

 弱いだけじゃない。
 守られるばかりの、何もできない存在でもない。

 七年前。
 ただ必死で、必死で、目の前の命にしがみついた。

 その行為が、今この瞬間に繋がっている。

「……ねえ、アークヴァン」

「なんだ」

「あなたが“主”って呼ぶ、この関係」

 胸に手を当てながら、エリーナは少しだけ悪戯っぽく笑った。

「もうちょっと、ちゃんと名前をつけるなら──“契約”って呼んでもいいのかしら」

 竜の瞳が、細められる。

「契約、か」

「うん。
 わたしがあなたを生かした。
 あなたがわたしを守るって決めた。
 お互い、勝手にやったことだし……でも今さらなかったことにはできない」

 肩をすくめる。

「だったら、“一方的な借り”じゃなくて、“お互いの契約”ってことにしたいの」

 そう言うと、アークヴァンはしばらくエリーナを見つめ──やがて、小さく息を吐いた。

「……主は、時々、人間にしておくには惜しい考え方をする」

「褒めてる?」

「褒めている」

 竜の巨大な頭が、ゆっくりと下りてきた。

 額と額が、再び、こつんと触れ合う。

 七年前と同じ位置。
 今はもう身体の大きさが全然違うけれど、魂の距離は変わっていない。

「ならば、契約と呼ぼう」

 アークヴァンの声が、胸の奥に直接響く。

「我が魂は、主に預ける。
 主の願いは、我が刃と翼で形にする」

 胸の内側で、熱がふっと強くなった。

 エリーナは、目を閉じたまま、ぽとりと涙を零す。

 それは、七年前の自分への返事でもあり。
 今の自分への覚悟でもあり。

「……じゃあ、わたしも宣言しなきゃね」

 額をくっつけたまま、そっと微笑む。

「わたしの命は、もう“わたしだけのもの”じゃない。
 あなたのものでもあって、あなたのためにも、生きる」

 小さな声だけど、その言葉には、不思議と自分でも驚くほどの重さがあった。

「それでいい?」

「それがいい」

 アークヴァンの感情が、どっと押し寄せてくる。

 安堵。
 喜び。
 少しの照れくささみたいなものまで含んだ、まっすぐな波。

 胸の奥のふたつの鼓動が、ぴたりと揃う。

 幼き日の契約は、あの日、森の泉で確かに結ばれていた。

 それを今、もう一度。

 涙と、言葉と、互いの額の温度で、正式に“再契約”したのだ。

 エリーナは、額を離しながら、頬を伝う涙を指で拭った。

「……よし」

「なにが“よし”だ」

「過去に負けっぱなしだったら、なんか嫌じゃない?
 ちゃんと見て、ちゃんと泣いて、ちゃんと決め直したから──“よし”。」

 アークヴァンは、しばらく黙ってエリーナを見つめ──

「そうか」

 短く、それだけ言った。

 でも、その声には、どこか誇らしげな色が混ざっていた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

私の息子を“愛人の子の下”にすると言った夫へ──その瞬間、正妻の役目は終わりました

放浪人
恋愛
政略結婚で伯爵家に嫁いだ侯爵令嬢リディアは、愛のない夫婦関係を「正妻の務め」と割り切り、赤字だらけの領地を立て直してきた。帳簿を整え、税の徴収を正し、交易路を広げ、収穫が不安定な年には備蓄を回す――伯爵家の体裁を保ってきたのは、いつも彼女の実務だった。 だがある日、夫オスヴァルドが屋敷に連れ帰ったのは“幼馴染”の女とその息子。 「彼女は可哀想なんだ」 「この子を跡取りにする」 そして人前で、平然と言い放つ。 ――「君の息子は、愛人の子の“下”で学べばいい」 その瞬間、リディアの中で何かが静かに終わった。怒鳴らない。泣かない。微笑みすら崩さない。 「承知しました。では――正妻の役目は終わりましたね」

婚約破棄された翌日、兄が王太子を廃嫡させました

由香
ファンタジー
婚約破棄の場で「悪役令嬢」と断罪された伯爵令嬢エミリア。 彼女は何も言わずにその場を去った。 ――それが、王太子の終わりだった。 翌日、王国を揺るがす不正が次々と暴かれる。 裏で糸を引いていたのは、エミリアの兄。 王国最強の権力者であり、妹至上主義の男だった。 「妹を泣かせた代償は、すべて払ってもらう」 ざまぁは、静かに、そして確実に進んでいく。

わたくしがお父様に疎まれている?いいえ、目に入れても痛くない程溺愛されております。

織り子
ファンタジー
王国貴族院の卒業記念パーティーの場で、大公家の令嬢ルクレツィア・アーヴェントは王太子エドワードから突然の婚約破棄を告げられる。 父であるアーヴェント大公に疎まれている―― 噂を知った王太子は、彼女を公衆の面前で侮辱する。

婚約破棄されたので、隠していた聖女の力で聖樹を咲かせてみました

Megumi
恋愛
偽聖女と蔑まれ、婚約破棄されたイザベラ。 「お前は地味で、暗くて、何の取り柄もない」 元婚約者である王子はそう言い放った。 十年間、寡黙な令嬢を演じ続けた彼女。 その沈黙には、理由があった。 その夜、王都を照らす奇跡の光。 枯れた聖樹が満開に咲き誇り、人々は囁いた。 「真の聖女が目覚めた」と——

私の人生に、おかえりなさい。――都合のいい「お姉ちゃん」は、もうどこにもいません

しょくぱん
恋愛
「お姉ちゃんなんだから」 ――それは私を縛る呪いの言葉だった。 家族の醜い穢れを一身に吸い込み、妹の美しさの「身代わり」として生きてきた私。 痛みで感覚を失った手も、鏡に映らない存在も、全ては家族のためだと信じていた。 でも、、そんな私、私じゃない!! ―― 私は、もう逃げない。 失われた人生を取り戻した今、私は、私に告げるだろう。 「私の人生に、おかえりなさい。」

婚約破棄に、承知いたしました。と返したら爆笑されました。

パリパリかぷちーの
恋愛
公爵令嬢カルルは、ある夜会で王太子ジェラールから婚約破棄を言い渡される。しかし、カルルは泣くどころか、これまで立て替えていた経費や労働対価の「莫大な請求書」をその場で叩きつけた。

真実の愛を見つけた王太子殿下、婚約破棄の前に10年分の王家運営費1.5億枚を精算して頂けます?

ぱすた屋さん
恋愛
「エルゼ、婚約を破棄する! 私は真実の愛を見つけたのだ!」 建国記念祭の夜会、王太子アルフォンスに断罪された公爵令嬢エルゼ。 だが彼女は泣き崩れるどころか、事務的に一枚の書類を取り出した。 「承知いたしました。では、我が家が立て替えた10年分の王家運営費――金貨1億5800万枚の精算をお願いします」 宝石代、夜会費、そして城の維持費。 すべてを公爵家の「融資」で賄っていた王家に、返済能力などあるはずもない。 「支払えない? では担保として、王都の魔力供給と水道、食料搬入路の使用を差し止めます。あ、殿下が今履いている靴も我が家の備品ですので、今すぐ脱いでくださいね?」 暗闇に沈む王城で、靴下姿で這いつくばる元婚約者。 下着同然の姿で震える「自称・聖女」。 「ゴミの分別は、淑女の嗜みですわ」 沈みゆく泥舟(王国)を捨て、彼女を「財務卿」として熱望する隣国の帝国へと向かう、爽快な論理的ざまぁ短編!

追放即死と思ったら転生して最強薬師、元家族に天罰を

タマ マコト
ファンタジー
名門薬師一族に生まれたエリシアは、才能なしと蔑まれ、家名を守るために追放される。 だがそれは建前で、彼女の異質な才能を恐れた家族による処刑だった。 雨の夜、毒を盛られ十七歳で命を落とした彼女は、同じ世界の片隅で赤子として転生する。 血の繋がらない治療師たちに拾われ、前世の記憶と復讐心を胸に抱いたまま、 “最強薬師”としての二度目の人生が静かに始まる。

処理中です...