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第14話 『アレクシオンの暴走』
しおりを挟むアレクシオンは、眠れなかった。
夜が何度変わったか、もう分からない。
窓の外で朝焼けが滲み、やがて昼の光に変わり、また夕闇に沈んでいくのを、ただぼんやりと眺めていた。
机の上には、山のように積み上がった文献と報告書。
竜に関する古記録。
“竜の主”に関する伝承。
王宮半壊後の民心調査。
軍部や神殿からの意見書。
どれもこれも、同じことを突きつけてくる。
──竜の主はカルヴェルト伯爵令嬢エリーナ。
──民衆は「竜に選ばれた少女」に熱狂しつつある。
──王太子は竜に見放された。
読み飽きるほど繰り返された文言が、頭の中で渦を巻く。
(見放された、ね)
苦い笑いが、喉の奥で乾いた音を立てた。
王族会議。
父王の冷たい瞳。
ユリウスのまっすぐな指摘。
「まずは“人としての償い”が先です」
(分かっている。そんなことは、分かってる)
謝るべきだ。
頭を下げるべきだ。
エリーナの選択を尊重すべきだ。
頭では、理解している。
だが、その先を想像したとき──
胸の奥に、黒く重たい塊が生まれる。
(もし、エリーナが“戻らない”と言ったら?)
竜の主は、王宮には戻らない。
王太子の隣にも二度と立たない。
竜は、伯爵家に居座り、王家の呼びかけには応じない。
民は、「竜の主のほうが王にふさわしい」と囁き始める。
王家は、竜と“第二の象徴”を失った、古いだけの家。
その王太子は──
(“廃太子”)
あの二文字が、頭の内側に焼き付いて離れない。
拳を握りしめる。
爪が掌に食い込む痛みで、なんとか意識を現実に引き戻した。
「……クソッ」
思わず、机の上の紙束を乱暴に払った。
古い羊皮紙が床に散らばる。
その中の一枚が、ひらりと裏返った。
目に入った、その見出し。
──【竜縛の禁術について】
アレクシオンの動きが、そこで止まった。
「……竜縛?」
聞き慣れない単語。
眉をひそめながら、彼はその羊皮紙を拾い上げた。
◆
薄暗い文献室。
王族しか入れない最奥の棚のさらに隠し扉の奥。
そこに、“触れてはならない歴史”が眠っている。
アレクシオンは、手に持った灯りを掲げた。
古びた背表紙。
擦り切れた革装丁。
どれも、長い時間の重みを感じさせる。
指先でなぞると、埃が舞い上がった。
「……“竜縛の記録”。
ここにあるのは“閲覧禁止”のはずですがな、殿下」
背後から、かすれた声がした。
振り返ると、そこには背の曲がった老人が立っていた。
宮廷魔術師、マグヌス・ベルン。
父王の代から仕えている古参の魔術師。
「勝手に背後に立つな、マグヌス」
「扉の封印が破られれば、否応なく分かりますとも。
ここは“王家の禁忌”を封じた場所」
老人は、細い目を細めて、アレクシオンの手元を見た。
「……それに、殿下。
その棚は、“触れているところを誰かに見られたら、それだけで廃太子案件”でございますぞ」
冗談めかした言い方だが、目は笑っていない。
アレクシオンは、ほんの一瞬だけ手を引っ込めかけ──やめた。
「なら、誰にも見られなければ問題ない」
「わしが見ておりますが」
「お前は、漏らさないだろう」
静かな確信。
マグヌスは、鼻で笑った。
「……まあ、陛下にだけはお伝えしますがな」
「裏切る気満々じゃないか」
「陛下は“誰よりも先に真実を知る権利”がおありですので」
あくまでも、国王を第一に置く態度。
それが、王太子であるアレクシオンの胸を、少しだけざらつかせる。
(俺は、もう“第一”ではない)
竜に見放された王太子。
竜の主と違い、選ばれなかった者。
胸の奥の黒い塊が、また少し大きくなる。
「……竜縛の禁術、か」
アレクシオンは、視線を棚に戻した。
「父上から話を聞いたことはない。
だが、記録は、ここにある」
「“話してはならないこと”だから、ですな」
マグヌスが、静かに言う。
「王家の歴史には、“三つの禁忌”がある。
ひとつは、“竜の血を飲むな”。
ひとつは、“竜の死肉を取引するな”。
そして最後が──」
「“竜を縛る術を使うな”」
羊皮紙に刻まれた古い文字を、アレクシオンがなぞる。
そこには、明確に書かれていた。
【竜の意志を捻じ曲げ、王家の鎖につなぎ止めようとした愚王の記録】
【その結果、国土が焼かれ、王家に災いが降りかかったこと】
「愚王、ね」
呟きながら、自嘲気味に笑う。
「どうせ民の噂の中では、俺ももう“愚かな王太子”だろう」
「殿下」
マグヌスの声には、警告の色が混ざっていた。
「その道に足を踏み入れる前に、言わせていただきますがな。
“竜縛の禁術”に手を伸ばした時点で、王太子としての資格は本当に危うくなる」
「それは、竜に見放されたと噂される今よりもか?」
「……」
老人は、言葉を飲み込んだ。
アレクシオンは、棚から一冊の古い本を抜き出す。
ひどく重い。
手の中に重み以上のものが乗っている気がした。
「昔の王は、竜を恐れ、同時に望んだ」
マグヌスが、ゆっくりと語り始める。
「竜に守られる王家でありながら、竜の機嫌に左右されることに耐えられなかった。
そこで、一部の魔術師が提案したのです。“竜の力を、完全に王家のものにしてしまおう”と」
アレクシオンは、無言でページをめくる。
絵が描かれていた。
巨大な竜。
その首に巻き付いた鎖。
鎖の先は、王冠に繋がれている。
「……醜いな」
「醜いですとも」
マグヌスは、淡々と言った。
「この術は、“竜と契約した者”を媒介に、竜そのものを縛る。
竜は、契約者の魂を通じて世界と繋がっている。
その繋がりに結び目を作り、王家の血で固める」
「契約者……」
アレクシオンの指先が、ページの一節で止まる。
──【竜を縛らんと欲すれば、まず竜の主を縛れ】
胸の奥で、何かが嫌な音を立てた。
「つまり」
自分の声が、妙に遠く聞こえる。
「“竜を王家に縛り付けるには、竜の主を王家に縛る必要がある”」
「平たく言えば、そうなりますな」
老人は目を伏せた。
「竜の主の血。
竜の主の心臓の鼓動。
竜の主の“誓い”。
それらを鍵として、竜に枷をはめる」
「血と、心臓と、誓い」
アレクシオンは、その三つをなぞるように繰り返す。
「血と鼓動はともかく……“誓い”か」
「そこへ話が行く時点で、殿下は少々危険な思考に入っていますな」
マグヌスの皮肉は鋭い。
「まあよい。
とにかく、この禁術は、“竜の主の意思をねじ曲げる”前提で成り立っている。
それが、最初の王家の“罪”だった」
「……結果は」
「記録の通りです」
老人は、指で別のページをトン、と叩く。
そこにも、絵があった。
燃える城。
崩れ落ちる塔。
空を覆う炎。
鎖につながれていたはずの竜が、鎖ごと千切って暴れ狂っている様子。
「竜は、“主の魂を傷つける鎖”そのものに怒り狂い、国土を焼いた。
それでもなお、王家は生き残ったが……竜は二度と姿を見せなくなった」
それが、“竜の不在の時代”の始まりだ。
アレクシオンは、その絵から目を離せなかった。
(また、同じことを繰り返すのか)
頭のどこかで、理性的な自分が呟く。
(だからこそ、これは“禁忌”なんだ)
だが、それと同時に──
別の声が、耳元で囁く。
(だからこそ、竜を縛れる)
竜を縛る。
竜の主を、王家に繋ぎとめる。
“竜の主が離れていく”未来を、根本から断ち切る方法。
王家を守るために。
国を守るために。
そして何より──
自分の立場を守るために。
「殿下」
マグヌスが、静かに言った。
「言っておきますぞ。
これは、“王家の保険”ではありません。
“王家の自殺手段”のようなものです」
「自殺手段」
「使えば、ほぼ確実に竜の怒りを買う。
奇跡的に成功したとしても、その鎖はいつか千切られる。
千切れたとき、何が起きるか──」
「分かっている」
アレクシオンは、本を閉じた。
分かっている。
分かっているのに、頭の中には別の図が描かれていく。
竜。
竜の主。
王家。
その三者の位置を、どう変えれば、自分たちの側に天秤を傾けられるか。
「質問だ、マグヌス」
「なんでございましょう」
「“竜の主の誓い”は、具体的にどう扱われる」
老人は、ほんの一瞬だけ口をつぐんだ。
それから、観念したように答える。
「古い言葉での誓約。
“王家に忠誠を誓う”“王家と運命を共にする”“王家と竜との間を取り持つ”など……その内容が、竜と王家の鎖となる」
「つまり、“誓わせればいい”」
「……殿下」
「エリーナに、“王家に忠誓を誓わせれば”」
口に出した瞬間、自分の声が冷たく聞こえた。
王宮の中庭。
涙を浮かべながら、それでも誇りを曲げなかったエリーナの姿が、脳裏に蘇る。
『わたくしの心を、公開処刑なさいましたのよ』
あのとき、自分が叩き折ったのは、彼女の心だった。
それでも──
竜は、彼女を“主”と呼んだ。
あの白銀の巨体が、彼女を守って立ちはだかった。
そして今。
竜魔を覚醒させた彼女は、竜との絆をさらに強めている。
(放っておけば、いずれ誰かが彼女を担ぎ上げる)
王家に代わる、“新しい象徴”として。
竜の主を中心とした勢力が生まれれば、王家の権威は地に落ちる。
それだけは──
どうしても受け入れられなかった。
「殿下」
マグヌスの声が、少しだけ強くなる。
「本気で、その術に手を出すおつもりですか」
「まだ何も決めていない」
「“まだ”という言い方自体が、危ういのです」
老人は杖を軽く床に打ち付けた。
「わしは、王太子殿下のこれまでの努力を見てきましたぞ。
勉学も、剣術も、政治も。
どれも手を抜かず、“王としての器”を磨いてこられた」
「だから?」
「だからこそ、今、ここで愚王の道を選んでほしくはない」
真正面からの願い。
アレクシオンは、目を細めた。
「愚王、ね」
「竜を縛ろうとする王は、例外なく愚王です」
マグヌスは、はっきりと言った。
「竜は、“隣に立つ相手”を選ぶ。
“鎖で繋がる相手”ではなく」
エリーナと、アークヴァン。
あの夜、並んで立っていた姿が浮かぶ。
竜は、彼女の横にいた。
彼女の頭上に翼を広げ、守ろうとした。
王家の紋章ではなく、ひとりの少女の涙に応えた。
それが悔しかった。
「……俺は、選ばれなかった」
気づけば、口から言葉が零れていた。
マグヌスが、目を見開く。
「竜は、俺を見もしなかった。
王家の血より、彼女の涙を優先した」
笑うべきか、泣くべきか分からない響きの声。
「王宮を半壊させたあの夜。
俺は、彼女を“捨てた側”としてしか、竜に見られていなかった」
言葉にした途端、その事実が胸に突き刺さる。
竜にとって、自分は“主を傷つけた側”だ。
敵とまではいかなくても、好意を向ける対象ではない。
ならば──
(力で、位置を変えるしかない)
竜の意志を変えることはできない。
だが、竜の“選択肢”を減らすことはできる。
王家以外を選べないようにすればいい。
「殿下、やめなさい」
マグヌスの声が、低く響いた。
「その考え方は、“竜の怒り”を買うだけではなく──
“人の心”も離れさせます」
「人の心など」
アレクシオンは、吐き捨てるように言った。
「もう離れかけている」
竜の主に熱狂する民。
白竜に希望を見出す兵士たち。
ユリウスに向けられる、淡い期待の視線。
自分は、少しずつ“中心から外されて”いる。
その感覚が、たまらなく怖い。
「……殿下」
老人は、深い溜息をついた。
「わしは、王家の忠臣です。
だからこそ言いますがな」
その目が、アレクシオンの瞳を真っ直ぐ射抜く。
「“竜縛の禁術”に手を出せば──
殿下が王位に就く道は、おそらく完全に閉ざされる」
「分かっている」
「それでも」
「それでもだ」
アレクシオンは、きっぱりと遮った。
「俺は、“廃太子”になるつもりはない。
王家が竜に見放され、“竜の主”に主導権を奪われる未来を、黙って見ている気もない」
「殿下──」
「分かっている。
これは王国の禁忌だ。
愚王の選んだ道だ」
自覚している。
だからこそ、笑えてくる。
「だがな、マグヌス」
アレクシオンは、わざと軽い口調を装った。
「“何もしないで壊れていく王家”を見届けるのと、“禁を犯してでも足掻く王家”──
どちらがまだ、マシだと思う?」
老人は沈黙する。
その沈黙が、アレクシオンの中では「反論できない証拠」にすり替わっていく。
「俺は、足掻くほうを選ぶ」
それは、彼にしてみれば「責任ある選択」だった。
マグヌスは、深く目を伏せた。
「……ならば、せめて一つだけ約束を」
「何だ」
「“竜の主の命そのものを奪う形”での術の行使は、決しておやめください」
老人の声は、切実だった。
「竜の主の血や鼓動を使うにしても、“生きていること”が前提の術式に留めるのです。
命を奪ってしまえば、竜は間違いなく、王家を滅ぼしに来る」
「……分かっている」
命までは奪わない。
それは、アレクシオンの中でも一線だった。
(エリーナを殺してまで、竜を縛るつもりはない)
そこまで落ちぶれたくはない。
だが──
“王家の道具として連れ戻す”くらいなら、まだ許容範囲だと、どこかで思ってしまっている自分がいる。
(彼女は、王家にいるべきだ)
王太子の婚約者として。
竜の主として。
俺の隣に。
あの夜、自分から切り捨てた相手を、今度は「王家のために必要だから」と言って連れ戻そうとしている。
矛盾している。
身勝手だ。
そんなことは、分かっている。
分かっているからこそ──
「禁術」という言葉が、むしろ相応しく思えた。
◆
「殿下が、カルヴェルト伯爵家に?」
王妃リュシアの声は、わずかに掠れていた。
薄い紅を引いた唇。
形の良い眉が、不安げに寄っている。
「正式な訪問として、だ」
アレクシオンは、淡々と答えた。
「父上からの許可は、もう出ている。“竜の主との関係修復を図れ”とな」
それ自体は嘘ではない。
国王は、王族会議のあと、「しばらく直接動くな」とは言ったが、「完全に動くな」とは言っていない。
王妃は、扇を握り締めた。
「……エリーナ嬢は、今や“竜の主”。
あなたが簡単に手を伸ばせる存在では、なくなっているわ」
「だからこそ、今、動く」
アレクシオンは、窓の外を見やった。
王都の屋根の向こうに、カルヴェルト伯爵家の屋敷があるはずだ。
その上に、白銀の影がちらつく錯覚が見えた。
「今ならまだ、“王太子が婚約者との誤解を解きに行く”という形で通る。
竜が完全に彼女の側につききる前に」
「アレクシオン」
リュシアは、息子の名を呼んだ。
「あなた、本当に……エリーナ嬢を“愛して”いるの?」
その問いは、妙に鋭かった。
アレクシオンは、一瞬言葉を失う。
愛。
その言葉は、今の彼にはあまりにも遠い。
(俺にとって彼女は──)
王妃候補。
政治的な駒。
そして、今は──竜の主。
彼女の笑顔も、泣き顔も、知っているはずなのに。
そこに「愛」というラベルが貼れるかと言われると、迷う。
迷う時点で、きっと足りていない。
「……分からない」
正直に答えるしかなかった。
「だが、必要だとは思っている」
王家にとって。
王国にとって。
そして、自分にとって。
「それは、“道具が必要だ”という言い方と、どれほど違うのかしら」
リュシアの声は、決して責める響きではなかった。
ただ、息子の在り方を案じる、ひとりの母の声。
「……分からない」
同じ答えしか出てこない自分が、少し嫌になる。
「でも、今は、“必要だ”が先に立つ。
感情は、そのあとからでも追いつける」
リュシアは、息を詰めた。
「……あなた、やっぱり陛下の子だわ」
「どういう意味だ」
「“愛は後からついてくる”って顔をしているところが、よく似ている」
苦笑まじりの言葉。
アレクシオンは、胸の奥に小さな棘が刺さるのを感じた。
父王・レグナートも、若い頃、同じようなことを言ったらしい。
王妃リュシアとの政略結婚を前に、そう呟いたと。
“愛は後から育てればいい”
その言葉の結果が、今の夫婦なのかどうか──
アレクシオンには、判断がつかない。
リュシアは、静かに息を吐いて、扇を閉じた。
「……行くなら、せめて」
「何だ」
「本当に、“禁を犯す顔”はしないことね」
その言い方に、どきりとする。
アレクシオンは、表情を引き締めた。
「俺がするのは、“婚約者との誤解を解く努力”だ」
「そう」
王妃は、それ以上何も言わなかった。
だが、その目は、“それだけで終わらないこと”をどこかで察しているようだった。
◆
アレクシオンの部屋に戻ると、マグヌスが待っていた。
「殿下。
例の準備は、整いましたぞ」
「……早いな」
「禁術というのは、“完全に仕上げておいて二度と使わない”のが理想形でしてな」
老人は、皮肉っぽく笑った。
「王家の禁術は、いつでも“封印”と“破滅”の両方に転がれるよう、常に形だけは整えられているものです」
「嫌な言い方だ」
「事実ですとも」
マグヌスは、小さな木箱を差し出した。
中には、古い指輪と、小瓶に入った赤黒い液体。
「これは?」
「初代王の血を媒介に、術式を書き換えるための鍵です。
“竜縛の儀”を行うには、王家の血と、竜の主の誓い、そして竜に関する契約情報が必要となる」
「契約情報……」
「竜の名と、竜の主の名。
それだけでも、十分です」
アークヴァン。
エリーナ・カルヴェルト。
どちらも、もう知っている。
「殿下」
マグヌスは、真剣な目でアレクシオンを見つめた。
「繰り返しますがな。
わしは、これは“最後の最後の、最悪の場合の保険”だと考えております」
「……分かっている」
「できることなら、カルヴェルト嬢と真正面から向き合い、謝罪し、彼女の意志で王家の側に戻っていただくほうが、百倍マシです」
「分かっている」
「それでも、“エリーナ嬢を王家の道具として連れ戻す”ことを選ぶのであれば──」
老人の声が、少しだけ震えた。
「殿下。
その時点で、あなたは、“本当に愚王の道を歩み始める”ということですぞ」
アレクシオンは、しばし沈黙した。
愚王。
その言葉は、重い。
だが今の彼の耳には──
その重さよりも、“まだ王の道に足を残している”という響きのほうが大きく聞こえてしまっていた。
「……俺は、王になる」
やっと絞り出した声は、かすれていた。
「愚かだと言われようと、足掻きだと言われようと。
それでも、王位を放り出すつもりはない」
「そのために、禁術をも使うと?」
「必要なら」
短く答える。
マグヌスは、深く目を伏せた。
「……分かりました」
老人は、それ以上何も言わなかった。
ただ、木箱を机の上に置き、ゆっくりと下がる。
「どうか、殿下」
扉の前で、振り返りざまに呟いた。
「最後の一線だけは、踏み越えぬように」
その“一線”がどこなのか。
今のアレクシオンには、はっきりとは見えていなかった。
(エリーナを殺さないこと。それくらいか)
それを守っていれば、まだ引き返せる気がしていた。
甘い。
浅い。
それでも、彼にとっては、それが精一杯の“ブレーキ”だった。
◆
夜。
アレクシオンはひとり、机の上に広げた紙片と向き合っていた。
“竜縛の儀”の術式。
マグヌスがまとめた、現代語訳と補足。
そこには、こんな一節があった。
──【竜の主を、王家の庇護者と定める誓約を結ばせよ】
──【その誓約の言葉が、竜の鎖となる】
「……誓わせれば、いい」
口の中で、何度も繰り返す。
王家を守るため。
王国を守るため。
そして、自分自身を守るため。
(エリーナ)
名前を呼ぶだけで、胸が少しだけ痛む。
彼女の涙。
彼女の怒り。
彼女の誇り。
“全部無かったことにして、戻ってこい”と言うのは、さすがに無理だ。
だから──
“王家のため”という名目を用意する。
“竜の力を暴走させないために”
“国を守るために”
そう言えば、彼女はきっと断りきれない。
優しいから。
弱いから。
誰かを傷つけることを、何より嫌うから。
その優しさを、弱さを──
再び利用しようとしている自分に、薄ら寒いものを感じる。
でも、それでも。
「……取り戻さなきゃ」
小さく呟いた。
エリーナを。
竜を。
王家の象徴を。
そして、自分自身の位置を。
窓の外に、遠くカルヴェルト伯爵家の方角の夜空が見える。
そこに、白銀の影が浮かんでいる気がした。
アレクシオンの胸の奥で、焦りがさらに加速する。
王族会議は崩れかけている。
廃太子の噂は、密やかに、しかし着実に現実味を増している。
だからこそ──
彼は、禁忌の綱を掴もうとしていた。
それが、自分と、エリーナと、王国の未来を、さらに大きく狂わせていくとも知らずに。
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