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第15話 『決裂と廃太子』
しおりを挟むカルヴェルト伯爵邸の門扉の前が、異様な静けさに包まれた。
衛兵が二列に並び、固く口を結んでいる。
通りを行き交う人々は遠巻きに足を止め、「王太子の紋章だ」「なんで伯爵家に」とひそひそと囁き合っていた。
黒塗りの馬車の扉が開く。
金の刺繍が施された紺の上着。
肩にかかる金の髪。
ゆっくりと降り立った青年を、誰もがひと目で認識した。
アレクシオン・アストライア王太子。
──だった男。
「ようこそおいでくださいました、殿下」
門前まで出迎えたカルヴェルト伯爵が、形式通りに頭を下げる。
その姿勢は決して無礼ではない。
だが、これまで王太子に向けていた“わずかな遠慮”は、どこか薄れていた。
「突然の来訪、ご無礼をお許しください、伯爵」
アレクシオンは笑みを作った。
完璧に整えられた“王太子の微笑み”。
だが、その端に張り詰めたものがあるのを、伯爵は見逃さなかった。
「エリーナ嬢と、話がしたい。
王家の名において、正式に」
伯爵の瞳がわずかに揺れる。
その背後、玄関ホールの影から、エリーナが姿を現した。
淡い青のシンプルなドレス。
髪はきちんとまとめているが、装飾は少ない。
胸元には、白銀の竜紋がうっすらと浮かんでいる。
その姿だけで──誰も「無魔力の令嬢」とは口にできないだろう。
「ごきげんよう、殿下」
エリーナは、静かに礼をした。
王宮で何度も繰り返した動作。
けれど、今のそれは“王太子の婚約者”のそれではない。
“伯爵令嬢エリーナ・カルヴェルト”としての礼。
「話を、きちんと伺いたいのは、こちらも同じですわ」
その言葉には、かすかな棘があった。
◆
応接室は、妙に広く感じられた。
向かい合って座る二人の間に、低いテーブル。
銀のポットと、湯気の立つ紅茶。
伯爵は席を外し、部屋にはアレクシオンとエリーナ、そして壁際に控えるミナだけが残された。
廊下には護衛がいるが、この部屋の会話は届かない。
「まずは……」
アレクシオンが口を開く。
喉が少し乾いている。
「先日の夜会の件。
公開の場で婚約を破棄したことについては──」
「“誤解でした”とでも?」
エリーナの言葉が、すっと割り込んだ。
その声は、驚くほど静かだった。
激昂も、嗤いもない。
ただ、事実を確認するような淡々さ。
アレクシオンは、一瞬言葉に詰まる。
「……あれは、感情的になっていた。
神殿や世論の圧力もあった。
聖女との婚姻が王国に必要だと──」
「殿下」
エリーナは小さく首を振った。
「言い訳の種類は、もうだいたい想像がつきますわ」
その一言が、ぐさりと刺さる。
ミナが壁際で、息を飲む気配がした。
「わたくし、あの夜──」
エリーナは、自分の指先を見つめた。
白銀の紋章が、指の動きに合わせて微かに揺れる。
「殿下から“あなたを王妃にふさわしくないと判断した”と、はっきり仰っていただきました。
“無魔力の令嬢より、聖女のほうがこの国には必要だ”と」
アレクシオンの喉が、ひゅ、と鳴る。
言った。
確かに、言った。
熱に浮かされたように。
自分の中の恐怖をごまかすように。
「あれは“誤解”ではなく、“ご自身の判断”ですわ。
そうでしょう?」
逃げ道を塞ぐような言い方。
だが、優雅な言い回しの中に、刺すような鋭さはない。
代わりにあるのは──
静かな、諦めと距離。
「……そうだ」
アレクシオンは、絞り出すように答えた。
「俺は──あのとき、お前を切り捨てる判断をした」
「ええ。
だから、ありがたかったのです」
「……ありがたい?」
意外な言葉に、思わず聞き返す。
エリーナは、視線をアレクシオンに戻した。
「曖昧にされるより、ずっとマシでしたもの」
淡々と、続ける。
「“無魔力だけれど、家柄はいいから”“人柄はいいから”と、取り繕われたまま、“保険”のように扱われるよりも──
あの場で、はっきりと“不要”と宣言していただいたほうが、まだ誠実でしたわ」
胸の奥が、ずしんと重くなる。
殴られたわけでもないのに、息が詰まりそうだ。
「そのうえで、今日いらしたのは──」
エリーナは、わずかに笑った。
その笑みは、美しいけれど、どこか寂しい。
「“やっぱり必要になりました。戻ってきてください”というお話でしょう?」
アレクシオンは、ほんの一瞬迷い──そして、踏み込んだ。
ここで「違う」と否定しても、もう通じない。
ならば、真正面から“必要だ”と言うしかない。
「……そうだ」
彼は、真っ直ぐエリーナを見た。
「戻ってこい、エリーナ」
空気が震えた。
「王宮に。
俺の隣に。
王妃の座を──お前にやる」
ミナが、思わず咳き込むような咳をした。
「“やる”……」
エリーナは、ぽつりと繰り返した。
その言葉の選び方が、あまりにも自然で、あまりにも傲慢だという事実に、アレクシオン自身は気づいていない。
「王家は、竜の主を必要としている。
民も、竜と、その主を求めている。
竜魔法師としての力も、お前の存在そのものも──全部、王家の側にあるべきだ」
「“あるべき”」
軽く反射しながら、エリーナは紅茶のカップを持ち上げた。
ひと口、口をつける。
少し冷めた紅茶。
それでも、喉を通る温度は優しい。
「具体的には?」
「王妃として、竜と王家の架け橋になる。
民の前に立ち、“竜は王家と共にある”と示してほしい。
王宮の再建にも、お前の竜魔法の力を──」
「つまり、わたくしと竜の力を“使いたい”と」
エリーナは、カップをそっとソーサーに戻した。
「道具のように?」
「そんなつもりは──」
「なくても、そう聞こえますわ」
きっぱりと切り捨てる。
その声には、もはや震えはない。
あの夜会のときのように、泣き出しそうな表情も見せない。
「殿下」
エリーナは背筋を伸ばした。
王宮の大広間で、何度も横に並んだ相手を、真正面から見据える。
「“王妃の座をやる”と仰いましたわね」
「……ああ」
「それは、“殿下の判断ひとつで、他人の人生を好きに差し出し、好きに奪える”という意味かしら」
アレクシオンの肩がびくりと揺れる。
「べつに、今に始まった話ではありません。
王家と貴族の婚姻は、いつだって政略ですもの。
“座を与える”感覚で物を言われるのも、程度の差こそあれ、よくあることです」
そこまでは、どこか他人事のように語る。
だが、次の瞬間。
「──ですが」
エリーナの瞳に、静かな炎が宿った。
「“一度公開処刑した椅子を、あとから“やっぱり座っていいよ”と差し出すのは、礼儀としてどうかと思いますわ」
ミナが、ぐっと口元を押さえる。
「こう言ってはなんですけれど」
エリーナは淡く微笑んだ。
「血が付いている椅子には、もう座りたくありませんの」
アレクシオンの心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。
血。
心。
公開処刑。
あの夜の光景が、鮮明に蘇る。
『わたくしの心を、公開処刑なさいましたのよ』
そう言って涙を浮かべた彼女は、今、涙ひとつ浮かべていない。
それが、余計に怖かった。
「エリーナ」
思わず、名前を呼ぶ。
敬称も、形式も忘れて。
「俺は──」
「謝罪なら、もう結構ですわ」
やんわりと遮られる。
「いまさら“あれは間違いだった”“やり直そう”と言われても、わたくしの側にその余裕はありませんの」
「だが、王国は──」
「王国のことを口にするのは、王太子として当然の責務でしょう」
エリーナは頷く。
「ですが、その“王国”のために、わたくしを切り捨てたのも殿下です。
同じ“王国”のために、“やっぱり必要だから戻ってこい”と仰るのも、殿下です」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「では、“わたくし自身のために、なにかをしてくださったことはありますか?」
ぐ、と喉が詰まった。
「“王国のため”“王家のため”“民のため”──」
エリーナは、自嘲気味に笑う。
「その中に、“わたくしのため”は、一度でも含まれていました?」
返せない。
よく考えれば、簡単な問いだ。
だが、アレクシオンは今まで、一度も真剣に問われたことがなかった。
王太子としての責任。
王国の将来。
民心。
竜の伝承。
そのどれもの中に、エリーナを組み込んできた。
“王妃候補”として、“竜の伝説を継ぐ器”として。
“エリーナ自身”を見てきたかと問われれば──
自信を持って頷けない。
「わたくしは、もう」
エリーナは、小さく息を吐いた。
「“王太子殿下のもの”には戻りませんわ」
その宣言は、静かなのに、決定的だった。
「カルヴェルト家の令嬢として。
竜の主として。
アークヴァンと共に、自分の足で立ちます」
アレクシオンの胸に、冷たい空洞が広がった。
拒絶。
はっきりとした線引き。
“戻らない”と告げる彼女の瞳は、揺れていない。
(……このままでは、本当に)
竜は彼女の側に残る。
王家は、完全に「竜に見放された家」として歴史に残る。
おそらく、ユリウスが王位を継ぐ。
民は、「竜の主と竜は正しい選択をした」と囁くだろう。
それが耐えられなかった。
「エリーナ」
アレクシオンは、ゆっくりと立ち上がった。
胸ポケットに忍ばせていた、小さな指輪をそっと撫でる。
古い銀の指輪。
その内側には、細かい術式が刻まれている。
初代王の血で起動される、禁忌の儀式の鍵。
(……これ以上、突き放されるくらいなら)
拒まれる前に、縛る。
「お前は、王家と離れてはいけない」
彼の声が、微かに低くなった。
「竜の主が、王宮から離れれば──この国は、割れる」
「それは、殿下の“恐れ”の話ですわ」
「恐れでも、現実だ」
アレクシオンは、一歩、彼女に近づいた。
ミナが思わず前に出ようとして、エリーナに袖を引かれて止まる。
「竜の主が、誰かに担ぎ上げられれば、内乱の火種になる。
お前が望むと望まないとに関わらず、だ」
その言葉は、ある意味では真実だ。
だが、その真実を武器にしている時点で──
彼はすでに「王太子」ではなく、「追い詰められた男」に成り下がっていた。
「だから」
アレクシオンは、指輪を握りしめた。
右手に、ひやりとした感触。
その中心で、古い血の匂いがわずかに立ちのぼる。
「誓え、エリーナ」
空気が一瞬、変わった。
ミナが、おそるおそる顔を上げる。
「えっ……?」
「王家に、忠誠を誓え」
アレクシオンの瞳が、深い青から、わずかに鈍い光を帯びる。
「竜の主として。
竜の力を、王家と王国のために使うと」
その瞬間──
エリーナの胸の奥で、何かがざわり、と動いた。
白銀の紋章が、じりじりと熱を帯びる。
焼けるような痛みではない。
だが、“何かに触れられている”感覚。
「……なに、これ」
思わず、胸元を押さえる。
心臓の鼓動が、妙なリズムを刻み始めた。
自分の意志とは違う“何か”が、そこに割り込もうとしてくる。
アレクシオンの指輪が、淡く赤く光った。
そこから見えない鎖のようなものが伸びて、エリーナの胸の紋章に絡みつこうとする。
「殿下……?」
ミナの声が震える。
「な、に……して……」
「これは“安全のための枷”だ」
アレクシオンの声は妙に落ち着いていた。
自分に言い聞かせるように。
「お前を傷つけるためじゃない。
お前の力が、王家から離れて暴走しないようにするためだ」
「わたしが、暴走させるとでも?」
エリーナは歯を食いしばる。
胸元の痛みが増す。
竜魔の流れが乱れ、視界が揺らいだ。
「王宮を半分吹き飛ばした竜を、忘れたのか」
アレクシオンは、ふっと笑った。
「竜魔は強すぎる。
それを扱う竜の主には、“鎖”が必要なんだ」
「……殿下」
エリーナは、はっきりと彼を見つめた。
痛みで額に汗がにじんでいる。
呼吸も乱れ始めている。
それでも、その瞳は──はっきりと怒っていた。
「それは、“竜の主の安全のため”ではなく」
細く、鋭い声。
「“王家の安心のため”ではなくて?」
アレクシオンの眉が、ピクリと動く。
図星だった。
「お前は善良だ。
だからこそ、危険だ」
彼は、言葉を重ねる。
「自分のためには力を振るえなくても、誰かのためなら、いくらでも力を使うだろう。
そんなお前を、“王家の外野”に置いておくほうが──よほど危なくないか?」
「……それを、“王家の器”と仰っていたのは、どなたでしたかしら」
エリーナは、笑った。
空気が、ぴん、と張り詰める。
「殿下」
その呼びかけには、もう敬意はない。
「殿下は、わたくしを“道具”としか見ておられない」
言い切った瞬間、指輪の光がぎくりと揺れた。
アレクシオンの心臓も、同じように揺れる。
「そんなことは──」
「では、なぜ“鎖”を使うのです」
エリーナは、胸の痛みに耐えながら、言葉を重ねる。
「話し合いではなく。
謝罪とお願いではなく。
最初から、“誓いを強制する術”を持ってきて」
彼女の瞳が、細められる。
「それを、“禁術”と呼ぶのだと──わたくしは聞いていますわ」
アレクシオンの背筋に、冷たいものが走った。
「……誰からだ」
「父から。
そして、アークヴァンから」
エリーナは、自分の胸元に力を込めた。
焼けるような痛みの向こうで、もうひとつの鼓動が跳ねる。
(ねえ、アークヴァン)
心の中で、呼びかけた。
(これ、すごく腹立つんだけど)
返ってきたのは、低く、冷たい怒りの波。
『同意する』
次の瞬間──
庭全体が、白い光に包まれた。
◆
カルヴェルト邸の裏庭。
さっきまで穏やかに風が吹いていたそこに、突然、空間の歪みが生じた。
光が裂ける。
空が捻じ切れる。
白銀の巨体が、その裂け目から押し出されるように現れた。
アークヴァン。
降臨というより、もはや“転移”と呼ぶべき速度。
その金色の瞳が、真っ直ぐにアレクシオンを射抜く。
『──愚か者』
咆哮ではない。
だが、その声は、地面の奥底まで震わせた。
カルヴェルト家の騎士たちが、慌てて庭に飛び出してくる。
遠くで悲鳴が上がり、屋敷の窓から使用人たちが顔を出す。
アレクシオンの足元の空間が、ぎちり、と軋むような感覚に包まれた。
指輪の光が、暴発しかけている。
『我が主に、鎖を伸ばしたな、人の子』
アークヴァンの声は、氷より冷たかった。
『しかも、王家の禁忌を用いて』
「禁忌……?」
ミナが、小さく悲鳴を上げる。
エリーナの胸元には、見えない鎖の影が絡みついていた。
白銀の紋章の上に、赤黒い縛め。
アークヴァンは、その鎖を認識するやいなや──翼を広げた。
『──焼き切る』
白炎が、空気を裂いた。
音もなく、眩いほどの光。
指輪から伸びていた見えない鎖が、一瞬で灰になる。
アレクシオンの身体を、冷水のような寒気が突き抜けた。
「……っ!」
思わず膝をつきそうになるのを、必死で堪える。
指輪が、ぴしり、とひび割れた。
古い血の匂いが、一気に立ちのぼる。
それは、王家そのものの“罪の匂い”だった。
『王家よ』
アークヴァンの視線が、遠く王城の方角へと向かう。
その声は、もはやカルヴェルト邸の庭だけには留まらない。
『また、同じ過ちを繰り返すつもりか』
低い咆哮が、王都中に響き渡った。
街の人々が空を見上げ、震え上がる。
王城の塔の上で、見張りの兵士が膝をついた。
◆
王城・謁見の間。
急ぎ集められた王族と重臣たちの前で、宰相グラーデンが報告書を読み上げていた。
「──以上が、カルヴェルト伯爵邸における出来事の概略です」
王座に座ったレグナート王の顔から、血の気が引いている。
第二王子ユリウスは、拳を握りしめたまま俯いていた。
「王太子殿下は、王家に伝わる禁忌・“竜縛の術”の触媒を持ち出し、カルヴェルト令嬢に対して、誓約の強制を試みました」
グラーデンは、淡々と告げる。
「その瞬間、白竜アークヴァンが現れ、術を焼き切り、“王家の過ち”を公然と指弾したのです」
謁見の間の空気が、ぴりぴりと張り詰める。
神殿代表の神官は青ざめ、軍務卿は顔をしかめた。
「……愚か者が」
王の低い呟きが、広間に落ちた。
「マグヌス」
「はい、陛下」
呼ばれて進み出た老魔術師は、深く頭を下げる。
「この禁術を、誰がアレクシオンに見せた」
「……わたくしでございます」
マグヌスは、逃げなかった。
「殿下が、竜縛の記録に手をかけておられるのを見て、止めようとしました。
しかし──わたしの言葉は、殿下の焦燥には届きませんでした」
その声には、深い悔恨が滲んでいる。
「王家の禁忌に再び手を伸ばさせてしまった責任。
この老いぼれに、処罰は甘んじて受ける所存です」
「お前を罰しても、過去は変わらぬ」
レグナート王は目を閉じた。
けれど、その瞼の下には、たった今も王都上空に響いた竜の声が焼き付いている。
──【また、同じ過ちを繰り返すつもりか】
(あの愚王と同じ道を、また歩むところだったか)
胸の奥が、重く痛む。
「ユリウス」
静かに、次男の名を呼ぶ。
「……はい」
ユリウスは顔を上げたその目に、複雑な光が宿っていた。
兄を思う弟の痛みと、王家の行く末を案じる王子の責任と。
「お前の考えを、聞こう」
「兄上は──」
ユリウスは、言葉を選ぶようにゆっくりと続けた。
「兄上は、竜に見放されたのではありません。
“自分から、竜と竜の主の心から遠ざかっていった”のです」
広間に、静かなざわめきが走る。
「焦りと恐れから、“力だけを繋ぎ止めようとした”。
それは、王家の禁忌であり、人の道から外れた行為です」
ユリウスは、父を真っ直ぐ見た。
「陛下。
このままでは、兄上を“王太子の座”に置いておくことは、王家にとっても、王国にとっても危険です」
はっきりと、“王太子としての不適格”を口にした。
それは、弟から兄への宣告でもあった。
「……そうか」
レグナート王は、深く息を吐いた。
「グラーデン」
「はい、陛下」
「王太子アレクシオン・アストライアの件。
王家の禁忌に手を染め、竜の主に枷をはめようとした罪。
そのすべてを勘案し──」
言葉を区切り、王座から立ち上がる。
その声が、広間全体に響いた。
「本日をもって、アレクシオンの王太子位を剥奪する」
静寂が落ちる。
誰もが、息をするのを忘れたようだった。
「以後、王位継承権もまた、剥奪とする。
王子の身分のみを残し、“王族アレクシオン”として、王家の庇護の下におく」
それは、“命までは取らない”という宣告でもある。
だが、アレクシオンにとっては、ほとんど処刑に等しい。
王太子としての未来。
王位への道。
王国の象徴としての自分。
そのすべてが、今この瞬間、断ち切られた。
ユリウスは、目を閉じた。
自分の肩に重いものがのしかかる気配を感じながら。
同時に、兄の肩からそれが取り上げられたことを痛感しながら。
◆
その頃。
カルヴェルト邸の庭では、エリーナがゆっくりと深呼吸を繰り返していた。
胸元の痛みは、ようやくひいてきたところだ。
白銀の紋章は、じんわりとした熱を残しているものの、先ほどのような焼ける感覚はない。
「お嬢様……!」
ミナが涙目でエリーナの腕を支える。
「怖かったです……っ。胸の紋章、なんか黒くなりかけて……! 竜の主の心臓が奪われる呪いかと思いました……!」
「そんなホラーなことはしないわよ、アークヴァンは」
エリーナは、ふっと笑った。
そのすぐそばで、アークヴァンが静かに翼を畳む。
『傷は、ない』
竜の声が、エリーナの内側に響いた。
『王家の古い枷は、焼き切った。
主の魂は、何者にも繋がれておらぬ』
「……ありがとう」
エリーナは、竜の白銀の鱗に手を触れた。
ひやりとしているのに、内側からじん、と温かさが返ってくる。
『礼を言うべきは、我のほうだ』
アークヴァンの金色の瞳が、わずかに細められる。
『主が、“鎖を拒んだ”からこそ、我は怒ることができた』
「怒る理由にわたしを使わないでくれる?」
『主のことでなければ、ここまで本気では怒らぬ』
「それはそれで、困るわね」
軽口を叩きながらも、エリーナの胸の奥には、ひとつの確信が芽生えつつあった。
(わたしは、もう──“王家のもの”じゃない)
王太子の婚約者でもなく。
王妃候補でもなく。
“竜の主を王家に繋ぎ止めるための鎖”でもない。
カルヴェルト伯爵家の娘として。
ひとりの人間として。
竜と契約した存在として。
自分の立つ場所を、自分で決められる。
そう実感した瞬間、胸の奥の怖さが、少しだけ和らいだ。
◆
アレクシオンは、王城の自室で、廊下の足音を聞いていた。
玉座の間から戻る兵士の重い足。
伝令が走る気配。
扉がノックされる。
間を置かずに、開く音。
「殿下」
入ってきたのは、宰相グラーデンと、マグヌスだった。
アレクシオンは、窓辺から振り返る。
「……“殿下”と呼ばれるのも、今日までか」
自嘲気味に笑った。
「決まったのだな」
「陛下より、正式にご宣言がありました」
グラーデンは、淡々と告げる。
「アレクシオン殿下の王太子位剥奪。
並びに、王位継承権の剥奪。
以後は“王族アレクシオン”として城内での生活は保証されますが──」
「“王になる道は閉ざされた”、か」
アレクシオンは、ベッドの縁に腰を下ろした。
その声は、不思議なほど静かだった。
怒鳴り散らすことも。
物を壊すことも。
何も、しなかった。
ただ、胸の奥にぽっかりと開いた穴を、どう扱えばいいのか分からない。
「兄上……」
背後から、別の声がした。
ユリウスだ。
彼は迷ったような顔をして、部屋の入り口に立っていた。
「……来たのか、ユリウス」
「来るなと言われても、来ました」
苦笑い。
アレクシオンは、肩をすくめた。
「王太子殿下、もとい、アレクシオン様」
「やめろ、その呼び方はえぐる」
思わずツッコミが出る。
ユリウスも、少しだけ笑った。
だが、すぐに真顔に戻る。
「兄上」
まっすぐな視線。
「どうして、禁術なんて」
その問いには、責める色だけでなく、悲しみも混ざっていた。
アレクシオンは、窓の外を見た。
王都の屋根。
遠くのカルヴェルト伯爵家の方向。
その上に浮かぶ、白竜の気配。
「……怖かったんだ」
ぽつりと漏らす。
「竜に見放された王家なんて、誰もついてこない。
竜の主を失った王太子なんて、価値はない」
「そんなこと──」
「ある」
遮る。
「民は、“分かりやすい象徴”に集まる。
竜と、その主の側に」
自分で自分に突き刺さる言葉。
「だから、取り戻そうとした。
王家の側に、無理やりでも」
「禁術で?」
ユリウスの声は、静かだが、痛い。
「兄上。
それは、“王家のため”じゃなくて──“兄上自身のため”だったんじゃないですか」
アレクシオンは、目を伏せた。
否定できない。
王家を守るため、王国を守るため──
その裏に、自分の立場への執着があった。
王太子としての誇り。
王位への道。
それらを失いたくないという我欲。
その全部が渦巻いて、彼を禁術へと追い込んだ。
「……そうかもしれない」
やっと絞り出した言葉。
グラーデンは、黙ってそれを聞いている。
マグヌスは、目を閉じた。
「愚かだったな」
アレクシオン自身が、自分にそう告げた。
誰からも言われる前に、先に。
「愚王には、なりたくなかったのに」
「まだ、“王”にすらなっていませんよ」
ユリウスのツッコミは、どこか優しかった。
「愚かな王太子でしたけど」
「フォローになってないぞ」
そんな軽口を挟みながらも、アレクシオンの胸は苦しい。
(俺は、エリーナを道具にしようとした)
王妃の座を“やる”と。
鎖をはめて、“王家の安全のためにそこにいてくれ”と。
それが、どれだけ彼女の心を踏みにじることだったか。
あの瞳。
静かな怒り。
“血の付いた椅子には座りたくありません”と告げる声。
全部が、耳に残って離れない。
「兄上」
ユリウスが、一歩近づく。
「これから先、兄上は“王太子ではない兄上”として、生きていかなければなりません」
「そうだな」
「それが、どれほど苦しいか、俺には想像しきれない。
でも──」
ユリウスは、小さく息を吸った。
「“禁術に手を出した兄”としてだけ、終わらせたくはありません」
その言葉は、弟なりの精一杯だった。
アレクシオンは、少しだけ目を見開いた。
「……そうか」
喉の奥が、熱くなる。
「王位は、お前が継ぐ」
「そうなります」
「……頼んだぞ、ユリウス」
それは、王太子から次期王への正式な引き継ぎではない。
ただひとりの兄から、弟への願い。
ユリウスは、静かに頷いた。
「兄上も」
「俺も?」
「“自分の罪”から逃げないでください」
真っ直ぐな緑の瞳。
「エリーナ嬢にも、竜にも、王家にも。
そして、自分自身にも」
アレクシオンは、視線を逸らせなかった。
逃げたい。
全部忘れてしまいたい。
だが、それをやってしまえば、本当に何も残らない。
「……努力は、してみる」
精一杯の返事。
グラーデンとマグヌスは、ほとんど同時に小さく息を吐いた。
「では、アレクシオン様」
宰相が、一歩前に出る。
「今日をもって、王太子の執務室から荷物をすべて移動させます。
この部屋も、いずれ“王太子の間”から“王族の一室”に変わる」
「そうか」
アレクシオンは、部屋の中を見回した。
幼い頃から過ごしてきた空間。
剣の練習をして床を傷つけたこと。
夜遅くまで書類に向かっていたこと。
窓から王都を眺め、「この国を守る」と誓ったこと。
それらの記憶が、まるで他人のもののように遠い。
「……少し、一人にしてくれ」
静かにそう言うと、三人は黙って頭を下げ、部屋を出て行った。
扉が閉まる音。
足音が遠ざかる。
静寂。
残されたのは、ひとりの男だけ。
元・王太子。
竜に見放され、禁術に手を出し、座を追われた男。
「……はは」
喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。
床に、ゆっくりと膝が落ちる。
支えを失った人形みたいに。
胸の奥に広がる空洞は、竜の咆哮の残響でいっぱいだ。
“また、同じ過ちを繰り返すつもりか”
「分かってるよ……」
誰もいない部屋で、アレクシオンは呟いた。
「俺は、愚かだ」
初めて、はっきりと自分にそう言い聞かせる。
エリーナの拒絶。
竜の怒り。
王家の判断。
弟の言葉。
その全部を、一気に飲み込んだ結果。
彼の中で、何かがぽっきりと折れた。
王冠への執着。
“選ばれた者”としての自負。
王太子としての矜持。
そのすべてが崩れ落ち、残ったのは──
ひとりの、どうしようもなく孤独な男だけだった。
373
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その瞬間、リディアの中で何かが静かに終わった。怒鳴らない。泣かない。微笑みすら崩さない。
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