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第13話 黒蝕孔が脈を打つ夜に、私はまだ自分で選べる
しおりを挟む王都の地下は、ひどく静かなくせに、耳を澄ますほど不吉だった。
静寂って、時々いちばん大きい音になる。誰も喋っていないはずなのに、石壁の冷たさとか、湿った土の匂いとか、遠くでかすかに震える空気とか、そういう全部がまとわりついてきて、逃げ場のない気配になる。
リリアは灯りの少ない回廊を歩きながら、無意識に自分の腕を抱いていた。
中立会館での会談から数日。王国側は、渋々ながらも一部資料の開示と辺境避難の優先を進め始めた。けれど、それで状況が好転するほど、奈落封環の綻びは浅くなかった。むしろ、王都の地下深くにある封印中核――黒蝕孔が、ここへ来て明確に“脈動”を始めたという報告が届いた。
脈動。
その言葉を最初に聞いた時、リリアは嫌な汗をかいた。
封印は、ただ壊れるわけじゃない。
死にかけた獣みたいに痙攣し、押し返されるたびに暴れ、最後は檻の形そのものを歪めながら外へ出ようとする。
黒蝕孔が脈を打つということは、下にいるものが、もうただ眠っている段階ではないという意味だった。
回廊の先で、青白い光が断続的に明滅している。
王都地下の封印観測室。帝国側と王国側の合同観測員が慌ただしく出入りし、記録板を抱えた術師たちの顔は、みな揃って青かった。
「第三波形、また上がってる!」
「中核圧、昨日比一・八倍!」
「補助塔の逆流、抑えきれません!」
「王都南区の地脈震動、住民避難を急がせろ!」
怒鳴り声が飛び交うたび、観測室の中にある巨大な水晶盤が暗く脈打つ。その中心に映し出されているのは、王都地下のさらに奥――人が本来、見てはいけない深さにある黒い穴の輪郭だった。
黒蝕孔。
名前の通り、光を食べるみたいな黒だ。真っ暗ではない。むしろ、黒すぎて、周囲の光がそこへ吸い込まれていくのが分かる。
リリアは扉の前で立ち止まった。
「……近い」
喉の奥から、かすれた声が漏れる。
懐かしい、に似た感覚があった。
でもそれは優しい再会なんかじゃない。昔、自分の手で封じた傷口を、もう一度こじ開けられるみたいな気分だ。
「入れるか」
横からカイルの声。
彼は今日も同じ歩幅で隣に立っていた。王国地下の視察という最悪に近い任務の最中でも、その立ち姿は妙にぶれない。黒い外套の裾だけが、回廊の冷気に少し揺れていた。
「入れます」
「嘘だな」
「……入らないわけにいかない、が正しいです」
「それでいい」
カイルは先に扉を押し開けた。
観測室の中は、空気そのものが震えていた。
円形の大広間。床一面に組まれた観測術式。中央に据えられた巨大な透視水晶。そこに黒蝕孔の映像が映っている。黒い穴の縁には、封環術式の線が何層にも重なっていたが、そのいくつかはもうひび割れたガラスみたいに歪んでいた。
「帝国代表補佐殿!」
王国側の若い術師が振り向く。
「見てください、これを……!」
差し出された記録板を一目見て、リリアの指先が冷えた。
数値だけでも分かる。中核圧が危険域に入っている。しかも悪いのは圧だけではない。地脈の流れそのものが、黒蝕孔の周囲だけ逆向きに吸い込まれ始めていた。
「……始まってる」
そう言ったのが自分だと、少し遅れて気づく。
「何が」
カイルが問う。
リリアは透視水晶の前まで歩いた。近づくほど、頭の奥が痛む。記憶の扉が、勝手に軋んで開こうとする。嫌なのに、止まらない。
「星喰いの“呼吸”です」
観測室が静まり返る。
王国側術師の一人が顔を青くした。
「呼吸……?」
「封印の中で、まだ完全に死んでいない。押さえ込まれているだけ。だから封環が弱ると、内側から魔力循環へ干渉してくる」
リリアは水晶盤の縁へ手を置いた。
冷たい。
なのに、掌の奥へぬるい飢えが触れてくる気がする。
「星喰いは、ただ暴れる怪物じゃありません」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「魔物の王とか、古代の化け物とか、そういう言い方では足りない。あれは……世界の巡りそのものを喰う」
視線を上げる。
そこにいた王国側の術師たちも、帝国側の研究員も、誰もが息を殺していた。
「大地を流れる地脈。空を巡る星脈。人が魔法を使うための根っこにある循環。その全部に噛みついて、吸い尽くして、淀ませて、自分の飢えに変える」
「つまり」
エドガーが低く言う。
「放置すれば魔力社会そのものが死ぬ?」
「はい」
リリアは頷いた。
「国が一つ滅びるとか、王都が崩壊するとか、その程度じゃ済みません。魔力を前提に築かれた都市、防壁、農耕、治療、交通……全部が根元から崩れる」
「……冗談ではないな」
王国側の老術師が震える声で言う。
「冗談ならよかったんですけどね」
苦く笑ったつもりだった。
でもたぶん、表情はうまく動いていなかった。
だって、その恐ろしさを、リリアは知識としてだけでなく、記憶として知っているからだ。
頭の奥で、また光が裂ける。
黒い空。
崩れかけた大地。
途切れていく地脈の光。
叫ぶ人々。
そして、その中央で血を吐きながら禁術を組む、自分。
「……っ」
膝が少し揺らぐ。
カイルがすぐ横に立った。
「来たか」
「はい……少し」
呼吸を整えようとする。うまくいかない。視界の端が白くちらつく。けれど今ここで倒れるわけにはいかなかった。
「続けられるか」
「……やります」
観測室の空気は、今やリリアの言葉を待っている。嫌でも分かる。王国も帝国も、この災厄について知る者が自分以外にほとんどいないのだと。
そんな立場、死ぬほど嫌だ。
でも現実は、好き嫌いで選べない。
「前世の私は」
喉の奥が乾く。
「これを封じるために、禁術を使いました」
ざわめきが起きる。
「禁術?」
「どの種別の」
「星辰系最上位、地脈干渉型……いえ、分類で呼んでも意味がないかもしれません」
リリアは首を振る。
「簡単に言えば、“世界の外側の法則”を無理やり借りてきて、黒蝕孔の上から封環を被せたんです」
言葉にするほど、記憶が現実になる。
あの時の絶望。
封じなければ全部が喰われるという確信。
そして、使った瞬間に、自分が何をやらかしたのか悟った時の、背骨の冷え。
「封じること自体は、成功しました」
リリアは言う。
「でも代償に、地脈と星脈の均衡が崩れた。世界全体の循環が割れて、あと少しで、封じた側まで一緒に壊すところだった」
その一言は、観測室の全員の顔色を変えるのに十分だった。
エドガーすら眉を深く寄せる。
「封印で世界崩壊寸前、か」
「はい」
「笑えんな」
「まったくです」
誰も笑わない。
リリアの指先は、知らないうちに震えていた。
前世の自分がやったことは、英雄譚ではない。
世界を救うために禁術を使い、結果として世界そのものの首を絞めかけた。
だから次は、自分自身を封じた。
もう二度と、何も考えずにあの力を振るわないように。
なのに今、その力がまた必要になるかもしれない。
「……怖いんです」
気づくと、そう言っていた。
観測室にいた何人かが、はっとしたようにこちらを見る。
今まで淡々と説明してきたからだろう。こんなふうに感情の混じった声が落ちるとは思わなかったのかもしれない。
「また同じことをしたらって」
リリアは視線を黒蝕孔から逸らせないまま続ける。
「封じなきゃいけないのに、封じる手段が、世界ごと壊す力だったらどうしようって」
息を吸う。肺が冷たい。
「私、もう一度あの力を使ったら、また間違えるかもしれない」
「……」
「今度こそ取り返しがつかないかもしれない」
声がわずかに震えた。
怖い。
嫌だ。
でも逃げられないかもしれない。
それがどれだけ最悪か、言葉にするたび現実味を帯びていく。
「リリア」
カイルが名を呼ぶ。
低くて、いつも通りの声だった。慰めるように甘くもなければ、奮い立たせるように熱くもない。ただ、ここにいると分かる声。
「一度、外に出るぞ」
「でも」
「今のまま続けても精度が落ちる」
反論しようとして、できなかった。
たしかに、今の自分は少し危うい。観測室の中心に立ったままでは、記憶に引っ張られすぎる。
カイルは他の者へ短く指示を飛ばした。
「観測継続。波形の変化は全記録。リリアの解析なしに接続補助へ手を出すな」
「承知しました!」
観測室を出ると、回廊の空気が少しだけまともだった。
冷たい石壁。遠くの足音。かすかな土の匂い。
それだけなのに、さっきよりずっと息がしやすい。
「座れ」
カイルが壁際の長椅子を示す。
リリアは素直に腰を下ろした。膝の上で組んだ手が、まだ少し震えている。見られたくないのに、隠しきれなかった。
「情けないですね」
「何が」
「怖いって言ったことです」
「情けなくない」
「でも、期待されてるのに」
「誰が?」
「……みんなに」
「勝手に期待しているだけだ」
カイルは壁に寄りかからず、少し前に立ったまま続ける。
「君が前世で何を背負っていたかは知らない。だが今の君に、同じ答えを強制する気はない」
「……」
「逃げてもいい」
「え」
思わず顔を上げた。
黄金の瞳は、まっすぐこちらを見ている。そこには嘘も情緒的な煽りもなかった。
「本当に、って顔だな」
「だって……」
「誰かが君を縛ってここへ立たせているのか?」
「それは」
「違うだろう」
言葉に詰まる。
違う。
少なくとも今、ここに座っているのは、自分で選んで来たからだ。
「君が怖くて、嫌で、もう関わりたくないと思うなら、それも答えだ」
カイルは言う。
「俺は責めない」
「……皇子殿下」
「ただし」
そこで、ほんのわずかに声が深くなる。
「君が選んだ答えに、俺は立つ」
「……」
理解するのに、少し時間がかかった。
何を選んでもいい。
やれとも言わない。
逃げるなとも言わない。
でも、選んだなら、その側に立つと。
そんな言葉、今まで一度ももらったことがなかった。
父も、王子も、家も、王国も、いつだって最初から“正しい答え”を持っていた。お前はこうあるべきだ。国のために、家のために、役目のために。そこに自分の選択なんてものはなかった。
だからこそ、その一言は、胸の奥の何かをひどく静かに揺らした。
「……ずるいです」
かすれた声で言う。
「何が」
「そういう言い方」
「どこがだ」
「だって、それなら私、ちゃんと選ばなきゃいけないじゃないですか」
逃げる言い訳が、少しだけ消えてしまう。
誰かに押しつけられたのなら、後で恨める。
でも、自分で選ぶなら、その結果ごと引き受けなければならない。
それは怖い。
怖いけれど——
「……でも」
リリアは手の震えを見つめた。
「嫌じゃないです」
「そうか」
「初めてなので」
「何が」
「答えを決められないまま、置いていかれないの」
言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなる。
泣きそう、ではなかった。
むしろ逆だ。
冷えきっていた場所へ、ようやく小さな火が置かれたような感覚。
カイルはそれ以上踏み込まず、ただ言った。
「急がなくていい。だが、時間は多くない」
「はい」
「観測結果から見て、黒蝕孔の次の脈動は今日中にもう一度来る」
「最悪」
「知っている」
思わず少しだけ笑ってしまう。
その笑いが出たことで、さっきまで喉を塞いでいた恐怖が、ほんのわずかに後ろへ下がった。
回廊の向こうから、また観測員の慌ただしい足音が聞こえてくる。
王都の地下で黒蝕孔が脈を打つたび、地上でも異変は広がっていた。
◇
王都の大通りでは、その日の午後から、目に見える形で人の流れが変わり始めた。
避難命令が出た区域から、荷車を引く家族が城門へ向かう。
家財を抱えた商人。
泣きながら母親の手を握る子ども。
何が起きているのか完全には分からないまま、ただ“結界が危ないらしい”という噂に背中を押されるように動く人々。
「南区も出るんだって」
「西の塔が揺れてるって本当か?」
「王都まで危ないなんて、聞いてないぞ!」
「落ち着け、押すな!」
叫び声と怒号が交じる。
普段は華やかな市場通りも、今日は空気が違った。香辛料や焼き菓子の匂いより、焦りと汗の匂いの方が強い。店先を畳む者、逆に物資を買い占めようとする者、荷馬車を奪い合って口論になる者。
王都はまだ壊れていない。
でも、人の心は先にひび割れ始めている。
王城の高窓からその様子を見下ろしながら、アルベルトは無言で拳を握った。
辺境の避難優先を決めたのは自分だ。
王都備蓄の一部開放も、帝国側の圧力とリリアの要求を受けて実行した。
理屈としては正しい。
だがその結果、今まで“王都は安全だ”と信じていた民衆にまで、じわじわと恐慌が広がっている。
「殿下」
側近が低く告げる。
「黒蝕孔の脈動が再び」
「……分かっている」
アルベルトは目を閉じた。
今なら、ようやく認められる気がした。
自分は“国のため”を免罪符にして、恐怖から目を逸らしていたのだと。
無能な婚約者を切るのは正しい。
王妃に相応しい魔力を持つ者を選ぶのが正しい。
王子として、王国を守るために必要な判断だ。
そう繰り返してきた。
でも本当は違った。
怖かったのだ。
自分の隣に、価値を測れない存在がいることが。
王族としての正しさが、自分の中で揺らぐことが。
そして、王国そのものが足元から壊れるかもしれないという現実が。
だから切った。
切れば簡単になると思った。
結果は、この有様だ。
窓の下を流れていく人波は、王都の栄華がゆっくりと恐慌へ染まっていく色だった。
◇
地下回廊に戻る。
観測室の扉が再び開き、リリアは立ち上がった。足はまだ少し重い。けれどさっきまでの“何も選びたくない”という固まり方は、ほんの少しだけほどけていた。
「行けますか」
近くにいた帝国研究員が問う。
「はい」
リリアは頷く。
「……まだ、怖いですけど」
それでも扉の向こうへ進む。
黒蝕孔の前で、自分が何を選ぶのか。
禁術に手を伸ばすのか、別の道を探すのか。
まだ答えはない。
でも少なくとも、今ここに立つのは、自分で決めたことだ。
その事実だけが、不思議なくらい足元を支えてくれる。
観測室に入ると、透視水晶の中の黒が、また一つ大きく脈打った。
闇が呼吸する。
世界の底で、飢えが目を覚ます。
その前に立ちながら、リリアは小さく息を吸った。
怖い。
逃げたい。
でも、それでも。
自分で選べる。
そのことだけが、今の彼女にとっては、夜の海へ投げ込まれた細い光みたいに、確かな救いだった。
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