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第14話 壊れた国が生んだ姉妹
しおりを挟む最初の眷属が王都の北区に現れた時、それを見た人間の多くは、魔物だとすぐには認識できなかった。
人の形に近いのに、人ではない。
獣の形に似ているのに、獣でもない。
それは輪郭が定まらない黒だった。濃い霧を誰かが無理やり固めたみたいな、不自然な密度の闇。地面に落ちる影だけが異様に濃くて、見ているだけで足元を引かれそうになる。目が二つあるはずの位置には光のない空洞があり、その周囲だけがぬめるように揺れていた。
そして何より、そいつらは生き物らしい息遣いではなく、飢えの音を立てていた。
喉を鳴らすような、穴の奥で風が吸われるような、聞いてはいけない空腹の音。
悲鳴が上がる。
「に、逃げろ!」
「結界の内側だぞ、なんでこんなところに!」
「子どもを連れていけ! 早く!」
王都の空は昼なのに薄暗かった。晴れているはずなのに、結界が明滅するたび光の色が濁る。建物の窓ガラスに青白い揺らぎが反射し、その次の瞬間には、遠くの結界塔から鈍い破裂音が響いた。
逆流だ。
中枢からあふれた圧が、補助塔へ逆向きに走っている。
王都の各所に設置された小型結界灯が、ひとつ、またひとつと消えていく。そのたびに、人の顔から色が抜けていった。
王城の伝令はもう足が地につかないような勢いで走っている。
「北区に眷属出現!」
「西門前でも確認!」
「第二補助塔、逆流により術者三名負傷!」
「避難路が詰まっています、南通りで将棋倒しが——!」
その報告を受けたアルベルト・アストレイアは、椅子に座っていられなかった。
もう書類の前で歯を食いしばっている場合じゃない。もう“王子としてどう見えるか”なんて言っていられる段階じゃない。
剣帯を締める。
白と金の王族用礼装ではなく、実戦用の軽装甲。肩当ての金具を留める指先は、驚くほど静かだった。怖くないわけではない。むしろ、ずっと怖い。王都が揺れ始めてから、胸の奥には冷たい鉄の塊みたいな恐怖が沈みっぱなしだった。
けれど今は、その恐怖を抱えたまま立つしかない。
「殿下、本当に前線へ?」
側近の騎士が声を張る。
「王城の守りに留まられるべきです!」
「王都の中心が崩れている時に、王子だけ壁の内側に隠れていられるか」
「しかし」
「しかし、ではない」
アルベルトは短く言い切った。
「これ以上、誰かに判断の代償を押しつけるつもりはない」
それは、たぶん自分自身に向けた言葉でもあった。
無能だから切った。
国のためだから仕方なかった。
王族として正しい判断だった。
そう言ってきた結果が、この崩壊だ。
ならせめて、崩れていく場所に自分の足で立つしかない。
王城を出た瞬間、空気が変わる。
王都の大通りは、もう知っている街ではなかった。商人たちの呼び声も、貴族の馬車も、甘い菓子の匂いもない。あるのは避難民の押し合う音、泣き声、怒号、そして眷属が地面を這う時に立てる不快な擦過音だけだ。
最初の一体を見つけたのは、北区の石橋の上だった。
黒い塊が、逃げ遅れた男に覆いかぶさろうとしている。
「どけぇっ!」
アルベルトはほとんど反射で飛び込んだ。
剣を抜く。王族の象徴として持つだけの装飾品ではない。幼い頃から叩き込まれてきた戦闘訓練は、こんな日のためにあったのだと、皮肉みたいに体が知っている。
青白い魔力を刃にのせて振り抜く。
眷属の腕らしきものが裂ける。だが血は飛ばない。代わりに黒い霧が噴き出し、石橋の欄干に触れた瞬間、その部分だけ色が褪せた。魔力を喰われたのだと直感する。
「っ……!」
距離を取る。
眷属は苦しむでも怒るでもなく、ただ飢えたようにこちらを向いた。人間を敵として認識するというより、目の前にある“喰えるもの”を見る目。
「殿下、下がってください!」
「民を先に下げろ!」
騎士たちが避難民を押しやりながら道を作る。アルベルトは再び踏み込んだ。怖い。だが怖いまま剣を振るう。
黒を切り裂くたび、目の前に浮かぶのはリリアの顔だった。
あの夜の、静かすぎる眼差し。 今ほしいのは言葉じゃなく責任です、と言い切った声。
自分はずっと、言葉の方へ逃げていたのかもしれない。
国のため、王家のため、責務のため。
聞こえのいい言葉を並べて、実際に誰が傷つくのかをちゃんと見ないまま。
「ああああっ!」
三撃目で、ようやく眷属の中心核らしいものが裂けた。黒い塊が崩れ、地面に落ちる前に灰みたいに散る。
息が荒い。
肩越しに振り返れば、助けた男が呆然と座り込んでいた。妻らしい女性が泣きながらその肩にすがっている。彼らに礼を言う余裕はなかった。ただ騎士へ短く命じる。
「南避難路を開け。北区は西門へ流せ」
「はっ!」
「補助塔の術者に伝えろ。逆流している塔は閉じろ、無理に保持するな」
「しかし塔を閉じれば」
「中で術者が死ぬ。今は人を優先しろ!」
その言葉を発した時、自分の声に、少しだけ驚いた。
昔の自分なら、きっと迷っていた。
王都の見栄えは。王家の象徴は。塔を落とした責任は。そんなことばかり先に考えたはずだ。
でも今は違う。
遅すぎると、分かっていても。
◇
エルフェリア侯爵家の屋敷では、ロイド・エルフェリアが当主私室に古参の家臣たちを集めていた。
重い空気だった。
窓の外では、遠く王都の空が不穏に明滅している。普段なら優雅に整えられている庭園も、今日は風が吹くたび妙に色褪せて見えた。
机の上には文書が何通も積まれている。
古い家系記録。
当主限定の秘匿文書。
王家との盟約写し。
そして、ロイドが自ら封印を解いた“接続役”の記録。
家臣たちの顔には困惑と怯えが混じっていた。誰もがただならないと分かっている。だが、口に出された内容を認めれば、侯爵家の根そのものが腐っていたことになる。
「旦那様、本当に……公表なさるのですか」
執事長が、慎重すぎる声で問う。
「そうする」
ロイドは短く答えた。
「しかし、それでは」
「家が傷つく、か」
「……はい」
「すでに傷ついている」
その一言に、部屋が静まり返る。
ロイドは自分の手元の文書を見下ろした。
そこに書かれているのは、あまりにも淡々とした記録だ。
《接続役は家系内長女を優先》
《幼少期より王都地脈との馴致を開始》
《外部への説明は魔力特性不安定として処理》
《王家への報告は必要最小限》
必要最小限。
なんという言葉だろうと、今更ながら思う。
そこに書かれているのは、国を守る尊い犠牲なんかではない。
ただ、家と王家が都合よく娘を管理し、使い、必要とあれば切るための手順だ。
「私は……」
ロイドは低く言った。
「気づけたはずだった」
その場にいた家臣たちの誰も動かない。
「違和感はあった。記録は曖昧だった。リリアの状態も明らかにおかしかった」
「旦那様」
「だが私は、見なかった。見なければ、家を守れると思った」
その告白は、誰に向けたものなのか自分でも分からなかった。
家臣たちへか。
王家へか。
あるいは、もうここにはいない娘へか。
「旦那様、それを公にすれば……侯爵家だけでは済みません」
「分かっている」
「王家との関係も」
「分かっている」
「では、なぜ」
ロイドはゆっくり顔を上げた。
感情の薄い男だと、自分でも思う。
父として愛情表現が下手だったとか、そういう生ぬるい話ではない。もっと根の部分で、自分は常に“正しい家の形”を優先してきた。人より先に家を、感情より先に体面を選んできた。
だからこそ、今さらそれを覆すのは滑稽だ。
滑稽だが、それでも言わなければならないところまで来た。
「恥を引き受けるためだ」
静かな声だった。
「侯爵としてではなく、父として、ようやく」
その一言は、部屋の全員を黙らせるには十分だった。
遅すぎる。
本当に、何もかも遅い。
でも、遅いからといって黙り続ければ、今度はセレナまで呑まれる。リリアを黙って差し出した構造の延長線上に、次の娘も沈んでいく。
それを止められないなら、自分は父である資格すらない。
「公式記録として提出する」
ロイドは言った。
「接続役の歴史も、家が秘匿してきた経緯も、すべてだ」
「旦那様……!」
執事長の声は震えていた。
ロイドはわずかに目を閉じる。
リリアがどんな顔をするかは分からない。
きっと許されないだろう。
許されるべきとも思わない。
それでも、ようやくここで一つだけ確かなことがあった。
自分は今、初めて“父としての恥”を引き受ける側に立とうとしている。
◇
セレナは、王城の一室に“保護”の名目で隔離されていた。
保護。
綺麗な言い方だと思う。
実際は監視だ。扉の外には騎士。窓には魔力遮断術式。室内の鏡は外され、尖ったものも置かれていない。王太子妃候補への扱いとしては、あまりにも露骨だった。
最初は怒った。
泣いた。
叫んだ。
でも、数日も経てば、怒りよりも別のものが部屋を満たし始める。
囁きだ。
夜だけじゃない。
朝も、昼も、夕方も、隙間があれば耳元へ入り込んでくる。
——かわいそう。
——あなたはずっと二番目。
——姉ばかり見られていた。
——勝たなければ、愛されない。
「うるさい……」
膝を抱えてベッドの端に座り込み、セレナは何度もそう呟いた。
でも、黙れと言うたび、声はもっと近くなる。
——だって本当でしょう?
——お姉様の方が綺麗だった。
——お姉様の方が落ち着いていた。
——お姉様の方が、最初から選ばれていた。
「違う……」
喉が詰まる。
「違う、違う、違うっ」
何が違うのか、自分でもうまく言えない。
リリアは確かに最初から、王子の婚約者だった。
長女で、綺麗で、静かで、なにもかも余裕があって、自分なんていなくても完成しているみたいだった。
だから、嫌いだった。
羨ましかった。
憎かった。
でも同時に、知っていた。
あの姉が、どこかでひどく寂しそうだったことも。
廊下の窓辺で、一人で本を読んでいた背中。
褒められてもいないのに、完璧に礼をしようとする癖。
父が部屋へ来ると、ほんの少しだけ呼吸が止まる顔。
セレナは子どもの頃、何度か思ったことがある。
どうしてお姉様は、あんなふうに、誰にも甘えられないんだろう、と。
そのくせ、母は言うのだ。
お姉様に負けないで。
お姉様より可愛く笑いなさい。
お姉様より選ばれなさい。
その言葉は、幼い胸に少しずつ釘を打ち込んだ。
勝たなければ価値がない。
選ばれなければ意味がない。
気づけば、それが自分の骨になっていた。
「わたしだって……」
セレナは掠れた声で言う。
「わたしだって、見てほしかったのに」
その瞬間、囁きが変わる。
——そう。
——見てほしかった。
——愛されたかった。
——なら奪えばよかったのに。
低く、ぬるい声。
部屋の隅の影が、少しだけ濃くなる。
セレナは息を呑んだ。影の形が、自分の心の中の醜い部分とぴったり重なるのが分かる。姉への憎しみ、羨望、奪ったくせに消えない渇望。その全部を誰かに撫でられているみたいで、気持ち悪いのに、どこか甘い。
「やめて……」
耳を塞ぐ。
でも声は内側から響く。
——お姉様は全部持っていた。
——あなたは奪ってもまだ足りない。
——もっと。
——もっと。
ベッド脇の魔力遮断灯が、ぱち、と小さく弾けた。
セレナの周囲に黒い靄が薄く滲む。
扉の外の騎士が異変に気づいて声を上げる。
「中の魔力値が上がっている!」
「術師を呼べ!」
セレナは頭を押さえた。
痛い。
苦しい。
なのに、胸の奥のどこかは、まだ求めている。
お姉様より。
お姉様より。
その飢えを、自分が本当に捨てたいのかどうか、分からなくなるくらいに。
◇
リリアがセレナの元へ呼ばれたのは、その直後だった。
王城のその部屋へ足を踏み入れた瞬間、胸の奥の魔力が嫌そうに震える。空気が濁っている。目に見えない泥が、部屋の隅へ静かに溜まっているような気配。
「……ひどい」
思わず声が出た。
カイルがすぐ隣に立つ。
「残滓か」
「はい。かなり深い」
ベッドの上でうずくまるセレナは、以前よりずっと痩せて見えた。頬の線が細くなり、瞳の下には影が沈んでいる。綺麗に結われていた金髪も今は乱れていて、姉を出し抜いて輝いていた頃の華やかさはない。
代わりに、壊れかけたガラスみたいな危うさだけがあった。
セレナが顔を上げる。
その瞬間、リリアの胸が鈍く痛んだ。
憎しみが消えたわけじゃない。 嫌いだ。
あの夜のことも、その前の小さな悪意の積み重ねも、忘れていない。
でも今のセレナを見ていると、嫌いだけで片づけてはいけないものまで見えてしまう。
「……お姉様」
セレナが掠れた声で笑う。
「来たの」
「ええ」
「助けに?」
「わからない」
リリアは正直に答えた。
セレナの瞳が揺れる。
憎しみと、羨望と、甘えと、壊れた子どもみたいな色が全部混ざっていた。
「わたし、ずっと……」
セレナの唇が震える。
「お姉様が嫌いだった」
「知ってる」
「でも、羨ましかった」
「それも知ってる」
「お父様に見てほしかった」
「……」
そこで、リリアの呼吸が一瞬止まる。
ああ、と心の奥で何かが鳴った。
同じだ。
違う形をしていても、根っこは同じ檻の中にいたのだ。
期待に応えなければ価値がない。
選ばれなければ意味がない。
見てもらえなければ、存在していないのと同じ。
リリアはずっと“ちゃんとしていれば愛される”と思って育った。
セレナはずっと“勝たなければ愛されない”と思って育った。
違うようでいて、どちらも親の愛を条件つきでしか信じられなかった子どもだ。
「……最悪」
小さく呟く。
「お姉様?」
「なんでもない」
違う。最悪なのは、この子じゃない。
自分の家だ。
この国だ。
娘を価値と役目でしか測らず、比べ、差し出し、沈ませてきた構造そのものだ。
リリアはゆっくりセレナに近づき、黒い靄の濃い部分へ手をかざした。ざらつく。星喰いの残滓は、セレナの心の傷にぴったり貼りつくように巣食っている。
「セレナ 」
リリアは低く言った。
「今からそれを少し剥がす。痛いかもしれない」
「……お姉様、わたしを嫌い?」
唐突な問いだった。
リリアは黙った。
簡単に“嫌いじゃない”とは言えない。
そんな優しさは嘘になる。
「嫌いよ」
はっきり答えた。
「すごく」
セレナの顔が歪む。
「でも、それで終わらないのがもっと嫌」
リリアは吐き捨てるように言った。
「ただ憎めたら楽だったのに」
その本音に、部屋が静かになる。
セレナは涙が出そうな顔をして、それでも泣けない子どもみたいに唇を噛んだ。
リリアは気づいていた。
目の前の妹は、自分と同じ檻の、違う部屋に閉じ込められて育ったのだと。
だから許せるわけじゃない。
でも、ただ断罪して終わるほど簡単でもない。
そんな現実が、ひどく苦かった。
リリアは息を吸い、指先に術式を灯す。
まずは、黒い靄の表層だけを薄く削る。
無理に全部剥がせば、セレナの心ごと裂ける。
だから慎重に、傷口を覗くみたいに。
「……っ、ああ……!」
セレナが苦鳴を漏らす。
「我慢して」
「いた、い……!」
「知ってる」
「お姉様……っ」
「黙って」
叱るように言いながら、リリアの胸の中では別の感情がぐちゃぐちゃに渦巻いていた。
どうしてこんなことをしてるんだろう。
どうして助けようとしてしまうんだろう。
どうして、完全には見捨てられないんだろう。
答えは一つじゃない。
たぶん、自分が壊れた家の中で育ったからだ。
期待に応えなければ価値がないという檻が、どれだけ人を歪ませるか、知っているからだ。
そして何より、星喰いの残滓に、自分たちの醜い傷をこれ以上利用されたくないからだ。
部屋の外では、また遠くで結界塔の逆流音が響いた。
王都はまだ揺れている。
眷属は消えていない。
封印はなお危うい。
その真ん中で、リリアはようやく理解する。
自分とセレナは、ただ憎み合った姉妹ではない。
壊れた家と、壊れた国が、それぞれ違う形で噛み砕いた二つの人生だったのだと。
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