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第19話 役目がなくても、ここにいていいと知った夜
しおりを挟む胸の奥に落ちた星喰いの核は、熱ではなく飢えとして脈を打っていた。
どくん、どくん、と心臓とは少しずれた拍で鳴る。そのたびに、リリアの視界の端が黒く煤ける。血の中へ夜そのものを流し込まれたみたいだった。息を吸っても肺が満たされない。逆に世界の方が薄くなって、自分の中の穴だけが深くなる。
それでも、倒れるわけにはいかなかった。
床に崩れたセレナは、まだ気を失ったまま細く呼吸している。黒蝕孔は開いた口を閉じず、底のない飢えをこちらへ向けたままだ。中枢空間を支えていた封環術式はすでに半壊し、砕けた光の破片が暗闇の中で、死にかけの蛍みたいに明滅している。
「……っ、まだ……終わってない……」
膝をついたまま、リリアは呼吸を整えようとした。だが整う前に、核の飢えが胸の奥で笑う。
——いいだろう。
——お前が器だ。
——お前なら、もっと深く喰える。
「黙れ……!」
吐き捨てた声が、かすかに黒く濁る。
カイルがすぐ横で剣を構えたまま、短く問うた。
「立てるか」
「……立ち、ます」
「無理なら言え」
「言ったら、止めますか」
「必要なら」
「じゃあ言いません」
カイルの眉がわずかに寄る。けれど彼はそれ以上、軽い慰めで揺らしたりしなかった。ただリリアの肩へ手を置く。その手の重さだけが、今はやけに現実だった。
「選べ」
低い声。
「ここで切るか、最後まで行くか」
言葉がシンプルすぎて、逆に逃げ場がなかった。
切る。
つまり、ここで退く。セレナを引き剥がすところまでは成功した。中枢から撤退し、王都防衛を優先する手もある。だが黒蝕孔は閉じない。星喰いの本体は、核の欠片をこちらへ滑り込ませることに成功している。このまま放置すれば、王都は今夜を越えない。
最後まで行く。
つまり、核を抱えた自分自身を器にして、再封印術を完成させる。成功すれば黒蝕孔は閉じる。失敗すれば——自分が新しい災厄になる。
シンプルだ。
その分だけ残酷だった。
「……最後までやります」
口にした瞬間、胸の中の飢えが喜んだ気がした。
でも、同時に別の感情も生まれる。
恐怖だけではない。
意志だ。
「わかった」
カイルは短く頷く。
「なら、俺は最後までそばにいる」
「怪物になったら?」
「止める」
「即答」
「約束した」
その言葉に、リリアはほんの少しだけ笑った。笑う余裕なんてないのに、なぜかその短いやり取りが、刃先みたいに尖った神経を少しだけ鈍らせてくれる。
背後で、地鳴りに似た揺れが広がった。
黒蝕孔の縁から、また新しい眷属が這い出してくる。今度は人型に近い。黒い骨のような四肢、空洞の眼窩、薄い霧を纏った口元。飢えだけを形にした兵隊たちだ。
「始まるぞ」
カイルが一歩前へ出る。
リリアは立ち上がった。足元が揺れる。胸の中の核が脈を打つたび、視界の向こうに前世の景色が滲む。
崩れる空。
割れる地脈。
魔力を失って倒れる都市。
その中心で、禁術を組み続ける賢者の自分。
あの時の私は、何を思っていたのだろう。
世界を救わなければ。
止めなければ。
自分がやるしかない。
それはきっと、本当だった。
でも、それだけだったのだろうか。
リリアは黒蝕孔を睨む。
最終封印術式は、前世の賢者としての完全術式と、今世の魂魄位相を一時的に重ねることで成立する。記憶、判断、感情、魔力流路、その全部を統合しなければ届かない深さがある。
怖い。
でも、もう迷っている時間はない。
「《星律最終封環・再編成》」
リリアが両手を広げると、中枢空間全体へ銀と蒼の術式が走った。砕けた封環の残骸が、まるで失った骨を探すように震え、新しい線へ吸い寄せられる。床に刻まれた補助陣が起動し、遠く地上の結界塔からも応答の光が返ってくる。
それと同時に、王都各所の補助陣を通して、外から魔力が流れ込んだ。
ロイドだ。
◇
地下補助術式室で、ロイド・エルフェリアは片膝をついていた。
魔力を流し込み続ける両手は、もう感覚が薄い。補助陣は中枢へ繋がっている。つまり、今の王都全体の歪みと、黒蝕孔の飢えの一部が、この術式を通して逆流してきている。
痛い。重い。息をするだけで肺が焼ける。
「侯爵閣下、流量が危険です!」
補佐術師が叫ぶ。
「これ以上は身体が——」
「黙れ」
ロイドは歯を食いしばったまま言う。
「切るな。娘が向こうで立っている」
娘。
その呼び方を、自分がこんな場で使う資格があるのか、ロイド自身にも分からない。
だが今、術式の向こう側に感じるのは、国家の接続役ではない。家の役目を背負わされた装置でもない。ただ、自分が守れなかった長女の気配だ。
「リリア……」
ようやく、父親らしい名前の呼び方が喉を通る。
遅すぎる。
それでも今さらしかできない。
ロイドは魔力をさらに押し込んだ。補助陣が明滅し、中枢へ細い橋が何本も伸びる。血の気が引く。視界が白む。それでも彼は術式を手放さなかった。
◇
地上では、アルベルトが騎士団とともに王都中枢の防衛線を維持していた。
広場を埋める避難民は、ようやく外周へ流し始めている。だが、その背後へ眷属が雪崩れ込もうとする。黒蝕孔が開いている以上、地上は完全な戦場だ。
「第三隊、南東を塞げ!」
アルベルトが叫ぶ。
「結界灯の切れた路地に魔導壁を張れ!」
「殿下、無理です、数が!」
「なら時間を稼げ!」
剣が黒を断つ。
眷属の核は一撃では割れない。剣筋が鈍れば、そのままこちらの魔力を喰われる。
アルベルトはもう、自分が何度傷を負ったか数えていなかった。肩当ては裂け、腕には浅くない傷がある。だがそれでも立っている。立っていなければならない。
王子だから、ではない。
ここで崩れたら、何もかも言い訳だけになってしまうからだ。
「殿下! 中枢より術式再編成の反応!」
騎士が叫ぶ。
「リリア殿が動いたか……!」
「その名で呼ぶな」
反射的にそう言いかけて、アルベルトは自分で息を詰まらせる。
違う。
もう、そういう段階じゃない。
「……いや、呼べ」
低く言い直す。
「今あそこで世界を繋いでいるのは、彼女だ」
その言葉は、刃みたいに自分へ返る。
自分が捨てた相手。
無能と断じた相手。
その彼女が、今は国のいちばん深い傷を縫おうとしている。
「なら私は」
アルベルトは血の滲む掌で剣を握り直す。
「ここを死守する」
誰に聞かせるでもない宣言だった。
けれど、それだけが今の彼の責任の形だった。
◇
中枢空間へ戻る。
リリアの術式は第二段階へ入っていた。封環の再編。黒蝕孔の縁へ新しい骨組みを通し、地脈と星脈のずれを強引に縫い直す。そのために必要なのが、自身の魂魄位相の完全重ね合わせだ。
前世の賢者の術式人格が、今世の自分の奥から浮上してくる。
冷静で、合理的で、痛みを切り捨ててでも正解を取りに行く意識。
便利だ。
強い。
そして危険だ。
星喰いの核は、その人格へ絡みつこうとする。
絶望と合理性が結びつけば、怪物になるのは簡単だから。
——お前は知っている。
——感情など邪魔だ。
——喰ってしまえばいい。
——期待も、裏切りも、愛も、全部。
「違う……」
リリアは歯を食いしばる。
術式を維持する指先が震える。
眷属がまた飛び込む。
カイルが斬る。
でも数が減らない。
「リリア! 位相が揺れてる!」 カイルの声。
「わかって、ます……!」
だが、揺れは止まらない。
前世の記憶が、次々に押し寄せる。
賢者として称えられた日。
人々が希望を向けた目。
その期待の重さ。
そして、封印の直前、世界を壊しかけた瞬間に浴びた恐怖と絶望。
今世の記憶も重なる。
無能と呼ばれた日。
父の無関心。
婚約破棄。
追放。
帝国でようやく「選べ」と言われた夜。
どっちも自分だ。
どっちも本物だ。
でも、どっちか片方になれば楽だ。
賢者に寄れば、感情を切れる。 被害者に寄れば、全部を憎める。
なのに、そのどちらにもなりきれない。
「……なんで、こんなに中途半端なのよ……!」
自分を責めるみたいに吐き出したその時、胸の奥で別の記憶がほどけた。
それは大きな出来事じゃなかった。
王都の庭園で、一人で本を読んでいた幼い日の午後。
父が通りかかるかもしれないと思って、少しだけ背筋を伸ばしたこと。
褒められたくて、完璧な礼を何度も練習したこと。
婚約者の立場が欲しかったわけじゃない。ただ、自分がここにいていいと、誰かに言ってほしかっただけだったこと。
称賛じゃない。
王妃の座でもない。
最強の賢者としての敬意ですらない。
欲しかったのはもっと小さくて、もっと切実なものだった。
役目がなくても、ここにいていい。
たったそれだけの承認。
リリアの喉が震える。
「……ああ、そうか」
視界の奥で、前世の自分が振り返る。
今世の幼い自分が、父を待つ背中で立っている。
その二つが、ようやく重なる。
私はずっと、役目になりたかったわけじゃない。
役目がなくても、捨てられない自分でいたかったんだ。
その気づきは、胸の奥に落ちた星喰いの核とは逆方向の熱を生んだ。
国家の装置じゃない。
王妃候補でもない。
賢者でも、無能令嬢でもない。
私は、リリアだ。
それだけで、ここにいていい。
「……っ、あああああ!」
術式が変わる。
魂魄位相の重なり方が、前世の賢者へ完全に寄るのをやめた。今世の感情、怒り、痛み、願い、その全部を含んだまま、賢者の術式人格と噛み合い始める。
それは前例のない再編だった。
エドガーが中継術式越しに叫ぶ。
『位相が再安定! まさか、自己統合か!?』
ロイドの補助陣も呼応して光を強める。
地上の結界塔が、一斉に脈打つ。
リリアは両手を黒蝕孔へ向けた。
「《星律最終封環・統合再編》」
銀と蒼の術式が、今度はぶれずに落ちる。
黒蝕孔の縁へ、新しい環が通る。
星脈と地脈がずれていた接続点が、ひとつずつ噛み合い直す。
黒蝕孔の底で、星喰いが怒りとも飢えともつかない咆哮を上げた。
巨大な影が浮かぶ。
もはや影ではない。世界の一部を喰いちぎって固めたような、黒い核の王。
その中心へ、リリアは自分の魂の一部を錨みたいに打ち込む。
痛い。
怖い。
でも、もう揺れない。
「閉じなさい!」
最後の術式が完成する。
環が重なり、黒蝕孔の裂け目が内側から縫い合わされていく。ひび割れた世界の縁を、誰かの優しさじゃなく、自分で選んだ意志が繋ぎ止める。
星喰いが暴れる。
眷属が崩れる。
中枢空間全体が一度、世界ごと沈むみたいに大きく揺れた。
それでも、封環は折れない。
黒い穴が、少しずつ縮む。
飢えの音が遠のく。
最後に残った星喰いの咆哮が、底なしの奈落へ沈んでいく。
そして——
ぱちん、と。
何かが静かに閉じた。
轟音ではなく、むしろあまりに静かな終わりだった。
黒蝕孔は消えていない。
そこにある。
だが今はもう、ただの底知れない穴ではなく、封じられた傷として閉じている。新しい環がその縁を取り巻き、明滅していた結界の脈動は、ようやく一つの拍へ整い始めた。
成功した。
王都を覆う星律結界が、上の方で安定反応を返しているのが分かる。
地脈の逆流も止まりつつある。
地上の眷属も、もう長くは保たないはずだ。
リリアはその場に崩れ落ちた。
「リリア!」
カイルが駆け寄る。
視界が白く霞む。耳の中が遠い。
でも、まだ分かる。
黒蝕孔は閉じた。
再封印は成功した。
その代わり、胸の奥には重いものが残っていた。
星喰いの核。
完全には消えていない。
再封印の過程で、核の一部は自分の内側へ深く沈んだままだ。
けれど今は、それより先に、ただひとつだけはっきりしていることがあった。
私は、役目のためにここにいたんじゃない。
私は、私として、生きたかった。
その気づきは、国家の装置だった自分を、ようやく一人の人間へ戻していた。
「……でき、た」
かすれた声でそう言う。
カイルの腕が、肩を支える。 「聞こえた」
「王都……」
「持ち直す。お前が閉じた」
今この瞬間だけ、彼の声は、ちゃんとリリアへ届いていた。
リリアは薄く笑って、目を閉じる。
意識が落ちる寸前、遠くで地上の歓声とも悲鳴ともつかない音が重なった。
王国は、たしかに救われたのだ。
けれど、その代償がまだ終わっていないことも、胸の奥の重さが静かに告げていた。
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