8 / 20
第8話:アルベルト、合理の瞳が彼女を測る
しおりを挟む王都の空気は、いつも誰かの噂で濁っている。
パン屋の店先で小麦粉を払っていても、宿の階段を降りていても、酒場の前を通り過ぎても――耳が勝手に拾う。
「王太子殿下が視察だって」
「聖女候補の件だろ」
「最近、奇跡が妙だって話もあるしな」
奇跡。
その単語が出るたび、私の背中に冷たいものが走る。
噂の矛先がいつか自分に向くことを、身体のほうが先に知っているみたいだった。
「今日は外を歩かないほうがいい」
宿の部屋で、ルシアンが帯を締めながら言った。
窓の外からは、馬の蹄の音と、鎧の金属音が途切れ途切れに聞こえる。誰かが整列して、誰かが怒鳴っている。
「なんで?」
私は聞き返した。わざと軽く。
「面倒が起きる匂いがする」
ルシアンは淡々と答えた。
「王太子が動く日は、街が変に張り詰める。余計な目立ち方はするな」
余計な目立ち方。
それはもう、遅いかもしれない。
広場でのアデル。
村でのリオ。
盗賊騒ぎ。
全部が糸になって、今、王都の空に絡まっている。
「……でも、買い物行かないと」
私は小さく言った。
マルタから預かったお金を思い出す。宿代も、食事も。ずっとルシアンに出させるわけにはいかない。
ルシアンは私の顔を見た。
「一緒に行く」
「……護衛みたい」
口に出してから、苦笑する。
ルシアンは肩をすくめた。
「護衛だ」
即答。
その即答が、今は少しだけ苦しい。
守られるのが嬉しいのに、守られるほど自分が弱く見える気がするから。
外へ出ると、街の色が一段濃くなっていた。
兵が道の端に立ち、通行人を誘導している。旗が揺れ、馬が鳴く。
香水の匂いに、金属の匂いが混ざる。
それは戦場の前の匂いに似ていた。
「王太子殿下のお通りだ!」
声が走る。人々が道の両側へ寄る。
私は反射でルシアンの影に入った。
「落ち着け」
ルシアンが低い声で言う。
「見る必要はない」
見る必要はない。
でも、視線が勝手に探してしまう。
あの冷たい声。あの整った横顔。
私を“結果”で切り捨てた人。
人波が割れ、行列が通る。
鎧を着た騎士たち。豪奢な馬車。
そして、その後ろを歩く若い男。
王太子アルベルト・フォン・アイゼンリート。
若いのに、もう完成されている。
背筋は真っ直ぐで、歩幅が一定。
顔立ちは端正で、彫刻みたいに整っている。
でも、その美しさには体温がない。
彼の目が、周囲を撫でるように動く。
笑わない。驚かない。
ただ、情報を集める目。
その目が、ふっとこちらに向いた。
私は息を止めた。
まだ距離がある。
なのに、刺さる。
温度のない定規で測られるみたいに、皮膚の上を一直線に引かれる感覚。
――見られてる。
ルシアンが一歩、私の前に出た。
さりげなく。
でもはっきりと、視界を遮る。
その動きに、アルベルトの足が止まった。
周囲の空気が、ぴんと張る。
護衛の騎士が警戒して、手を剣にかける。
「……何だ」
アルベルトが言った。
声がよく通る。冷たい。
ルシアンは礼儀として頭を下げた。
でも膝はつかない。
背中は曲げない。
「通行の邪魔をするつもりはない」
ルシアンが言う。
「ただ、こちらに視線が向いた。理由を伺いたい」
周囲がざわつく。
王太子に、理由を伺いたい。
そんな言い方をする人間は少ない。
アルベルトは眉を僅かに動かした。
興味でも怒りでもない。ただの反応。
「……君は?」
「旅の騎士、ルシアン・ヴァルグレイヴ」
ルシアンは淡々と名乗った。
アルベルトの目が、今度はルシアンを測る。
剣の位置。姿勢。呼吸。
戦えるかどうか、瞬時に判断している目。
そして、その目がまた――私へ戻った。
「そちらの少女は?」
逃げたい。
でも逃げたら、終わる。
私は口を開こうとして、声が詰まった。
ルシアンが先に言う。
「同行者だ。名はエリシア」
アルベルトは頷いた。
「エリシア。姓は?」
私は舌が乾いた。
名乗りたくない。
でも黙れば怪しまれる。
「……ノクス=セレスティア」
私はやっと言った。
その瞬間、アルベルトの瞳がほんの少しだけ細くなった。
理解したのか、引っかかったのか。
二重姓。貴族名。
どこかの系統に繋がる可能性。
「出自は?」
矢のような質問。
余計な情緒がない。
ただ核心だけを刺してくる。
「……分からない」
私は正直に近い嘘を答えた。
「村で拾われたの」
アルベルトは納得したような、しないような顔で頷く。
そして、次の質問を投げた。
「奇跡の再現性は?」
私は一瞬、意味が分からなかった。
でもすぐに分かる。
彼は私が何かをしたと知っている。噂を掴んでいる。
喉の奥が冷える。
あの白い回廊が、背中に触れる。
「……何の話ですか」
私は声を絞り出した。
アルベルトは表情を変えない。
「村で、落馬した少年の骨折が即時に治癒したと報告がある」
淡々と事実だけを並べる。
「加えて、街道で盗賊を制圧した騎士が同行している。情報は繋がる」
繋がる。
糸が、もう首まで巻きついている。
「負荷は?」
アルベルトの声が続く。
「発動時の代償は? 体力の消耗か、血液の喪失か、精神の摩耗か」
一切のためらいがない。
質問が、刃物みたいに次々刺さる。
「持続は?」
彼はさらに言う。
「一回限りか、連続可能か。範囲は。対象は。――制御はできるか?」
私は、息ができなかった。
前と同じだ。
胸の奥で、冷たい記憶が牙をむく。
祭壇の前で、司祭が問うた言葉。
王太子が望む言葉。
私を“機能”として扱う言葉。
私は震えた。
でもそれは寒さじゃない。
怒りと恐怖と、吐き気。
「……私は……」
言葉が出ない。
出したら、また“聖女”にされる。
出したら、また削られる。
アルベルトの目は、私の震えすらデータにする。
瞳孔の動き。呼吸の乱れ。
彼の視線は、温度がない定規だ。
ルシアンが一歩、前へ出た。
「それ以上は必要ない」
声は落ち着いている。
でも、空気が変わった。
剣を抜く前の張り詰めた空気。
アルベルトがルシアンを見る。
「必要かどうかは私が判断する」
「違う」
ルシアンが言い返す。
「彼女が決める」
周囲の護衛が一斉に息を呑んだ。
誰もが凍る。
王太子の前で、そんな言葉を言う人間は少ない。
アルベルトの眉が、ほんの少しだけ上がった。
驚きではない。
興味だ。
「……君は何を根拠に、彼女に選択権があると言う」
アルベルトの声は相変わらず冷たい。
でも、問いの角度が変わった。
“命令”から“観察”へ。
ルシアンは迷わない。
「根拠は単純だ」
彼は言った。
「彼女は人です」
その言葉が落ちた瞬間、世界が止まった。
人。
そのたった一言が、胸の奥の壊れた何かを叩いた。
私は思わず息を吸う。
涙が出そうになるのを堪える。
こんな場所で泣いたら、また何かを奪われる。
アルベルトは、しばらく無言だった。
沈黙が、重い。
護衛の騎士が剣の柄を握りしめ、村人が遠巻きに息を殺す。
やがて、アルベルトはゆっくり瞬きをした。
その動きだけが、人間らしかった。
「……面白い」
ぽつりと、彼は言った。
面白い。
その言葉が怖い。
興味を持たれることは、捕獲されることに近い。
アルベルトは私を見る。
まるで初めて“人”として見たみたいに。
いや、違う。
“人として扱う騎士”という現象込みで、観察している。
「エリシア」
彼は私の名を呼ぶ。
その呼び方に、甘さはない。
でも以前のように“器”と呼ぶ感じもない。
「君の奇跡が偶然かどうか、私は確認する必要がある」
淡々と続ける。
「王国は偶然に依存できない」
王国。
その単語が、私の背中を撫でる。冷たい指で。
「だが」
アルベルトは一拍置いた。
「強制はしない。……今は」
今は。
その二文字に、未来の刃が潜む。
ルシアンの肩が僅かに緊張した。
でも彼は言い返さない。
今ここで衝突しても、私が巻き込まれるだけだから。
アルベルトは護衛に視線を送った。
「行くぞ」
行列が動き出す。
人波が、またざわめき始める。
緊張が解けた反動で、足元が少しふらつく。
アルベルトは歩き出しながら、ちらりと振り返った。
ほんの一瞬。
でもその目は、私の中に線を引いた。
“観察対象”。
行列が遠ざかり、音が戻ってくる。
荷車の軋み、呼び込みの声、馬の鼻息。
王都の雑音が、私の耳を塞ぐように降りかかる。
私は膝が笑いそうになり、壁に手をついた。
石が冷たい。
それでやっと、今が現実だと分かる。
「……大丈夫か」
ルシアンが低い声で聞く。
私は頷こうとして、首が動かない。
代わりに、唇が勝手に動いた。
「……同じだった」
声が小さく震える。
「質問の仕方が……全部」
ルシアンは何も聞かない。
ただ、私の前に立つ。
人波から私を隠す位置に。
さっきと同じように。
「もう行く」
彼は言った。
「ここは空気が悪い」
私はやっと頷いた。
歩き出す。
足が重い。
背中に、まだ温度のない定規が当たっている気がする。
測られている。
価値を計られている。
でも――その前に、ルシアンの背中がある。
守る剣の気配がある。
それだけが、今の私の呼吸を繋いでくれる。
そして私は、胸の奥で小さく思った。
この王都で、私はまた“機能”にされる。
そう簡単に逃げられない。
だからこそ――逃げ方を、選び方を、間違えない。
3
あなたにおすすめの小説
ゴースト聖女は今日までです〜お父様お義母さま、そして偽聖女の妹様、さようなら。私は魔神の妻になります〜
嘉神かろ
恋愛
魔神を封じる一族の娘として幸せに暮していたアリシアの生活は、母が死に、継母が妹を産んだことで一変する。
妹は聖女と呼ばれ、もてはやされる一方で、アリシアは周囲に気付かれないよう、妹の影となって魔神の眷属を屠りつづける。
これから先も続くと思われたこの、妹に功績を譲る生活は、魔神の封印を補強する封魔の神儀をきっかけに思いもよらなかった方へ動き出す。
公爵令嬢は結婚式当日に死んだ
白雲八鈴
恋愛
今日はとある公爵令嬢の結婚式だ。幸せいっぱいの公爵令嬢の前に婚約者のレイモンドが現れる。
「今日の結婚式は俺と番であるナタリーの結婚式に変更だ!そのドレスをナタリーに渡せ!」
突然のことに公爵令嬢は何を言われたのか理解できなかった。いや、したくなかった。
婚約者のレイモンドは番という運命に出逢ってしまったという。
そして、真っ白な花嫁衣装を脱がされ、そのドレスは番だという女性に着させられる。周りの者達はめでたいと大喜びだ。
その場所に居ることが出来ず公爵令嬢は外に飛び出し……
生まれ変わった令嬢は復讐を誓ったのだった。
婚約者とその番という女性に
『一発ぐらい思いっきり殴ってもいいですわね?』
そして、つがいという者に囚われた者の存在が現れる。
*タグ注意
「魔道具の燃料でしかない」と言われた聖女が追い出されたので、結界は消えます
七辻ゆゆ
ファンタジー
聖女ミュゼの仕事は魔道具に力を注ぐだけだ。そうして国を覆う大結界が発動している。
「ルーチェは魔道具に力を注げる上、癒やしの力まで持っている、まさに聖女だ。燃料でしかない平民のおまえとは比べようもない」
そう言われて、ミュゼは城を追い出された。
しかし城から出たことのなかったミュゼが外の世界に恐怖した結果、自力で結界を張れるようになっていた。
そしてミュゼが力を注がなくなった大結界は力を失い……
欠席魔の公爵令嬢、冤罪断罪も欠席す 〜メイリーン戦記〜
水戸直樹
ファンタジー
王太子との婚約――それは、彼に恋したからでも、権力のためでもなかった。
魔王乱立の時代。
王も公爵も外征に出ている王都で、公爵令嬢メイリーンは“地味な婚約者”として王城に現れる。
だが、王太子は初顔合わせに現れなかった。
にもかかわらず、記録に残ったのは「公爵令嬢の欠席」。
抗議はしない。
訂正もしない。
ただ一つ、欠席という事実だけを積み上げていく。
――それが、誰にとっての不合格なのか。
まだ、誰も気づいていない。
欠席から始まる、静かなるファンタジー戦記。
婚約破棄された私が辺境で薬師になったら、元婚約者が後悔し始めました
たくわん
恋愛
病弱で役立たずと侮られ、婚約破棄されて辺境の寒村に追放された侯爵令嬢リディア。しかし、彼女には誰も知らない天才的な薬学の才能があった。絶望の淵から立ち上がったリディアは、持ち前の知識で村人たちの命を救い始める。やがて「辺境の奇跡の薬師」として名声を得た彼女の元に、隣国の王子レオンハルトが研究協力を求めて現れて――。
何かと「ひどいわ」とうるさい伯爵令嬢は
だましだまし
ファンタジー
何でもかんでも「ひどいわ」とうるさい伯爵令嬢にその取り巻きの侯爵令息。
私、男爵令嬢ライラの従妹で親友の子爵令嬢ルフィナはそんな二人にしょうちゅう絡まれ楽しい学園生活は段々とつまらなくなっていった。
そのまま卒業と思いきや…?
「ひどいわ」ばっかり言ってるからよ(笑)
全10話+エピローグとなります。
居候と婚約者が手を組んでいた!
すみ 小桜(sumitan)
恋愛
グリンマトル伯爵家の一人娘のレネットは、前世の記憶を持っていた。前世は体が弱く入院しそのまま亡くなった。その為、病気に苦しむ人を助けたいと思い薬師になる事に。幸いの事に、家業は薬師だったので、いざ学校へ。本来は17歳から通う学校へ7歳から行く事に。ほらそこは、転生者だから!
って、王都の学校だったので寮生活で、数年後に帰ってみると居候がいるではないですか!
父親の妹家族のウルミーシュ子爵家だった。同じ年の従姉妹アンナがこれまたわがまま。
アンアの母親で父親の妹のエルダがこれまたくせ者で。
最悪な事態が起き、レネットの思い描いていた未来は消え去った。家族と末永く幸せと願った未来が――。
冤罪で殺された聖女、生まれ変わって自由に生きる
みおな
恋愛
聖女。
女神から選ばれし、世界にたった一人の存在。
本来なら、誰からも尊ばれ大切に扱われる存在である聖女ルディアは、婚約者である王太子から冤罪をかけられ処刑されてしまう。
愛し子の死に、女神はルディアの時間を巻き戻す。
記憶を持ったまま聖女認定の前に戻ったルディアは、聖女にならず自由に生きる道を選択する。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる