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第18話:アデルの暴走、未来をなぞる裏切り
しおりを挟む雨は降っていなかった。
でも王都の空気は、濡れていた。
咳の湿り気。
不作の土が吐く乾いた粉。
薬草を煮る匂い。
それらが混ざって、街全体が薄い泥の膜をまとったみたいだった。
「偽物の聖女がいるらしい」
露店の男が言う。
「祈りもしないで光が出るんだと。気味悪いよな」
「神を騙してるんじゃない?」
女が囁く。
「だから神託が乱れたんだわ」
偽物。
騙してる。
その言葉が、私の耳に砂みたいに入り込む。
来た。
ついに来た。
前世の“追放前夜”と同じ匂いがする。
善意の顔をした噂が、私の首にゆっくり巻きついていく匂い。
ルシアンが私の横を歩く。
彼の歩幅は変わらない。
でも、手が剣に近い位置にある。
いつでも抜ける距離。
その緊張が、逆に私を落ち着かせた。
「教会が動いてる」
ルシアンが低い声で言う。
「今朝、貧民街の施療所に司祭が来た。……妙な書状を配ってた」
「書状?」
私は喉を鳴らす。
ルシアンは短く頷く。
「“神託”だと言ってな。内容は、祈りの秩序を乱す偽物が災厄を呼ぶ、だと」
偽物が災厄を呼ぶ。
私の名前は書いていなくても、矢印は私に向いている。
胃がきゅっと縮む。
でも、足は止めない。
止めたら、噂が先に走る。
大聖堂の前広場は、いつもより人が多かった。
祈りに来た人。
様子を見に来た人。
誰かを責める準備をしに来た人。
石畳の中心に簡易の演壇が設けられていて、黒衣の司祭が紙を掲げている。
周囲の人々が息を殺し、耳だけを前に出していた。
「――神は告げ給う」
司祭が朗々と読んだ。
「秩序を乱す偽りの光に、民は惑わされるな――」
ざわめき。
不安の吐息。
怒りの低い唸り。
私は群衆の端からその光景を見つめた。
視界の奥で、白いローブが揺れる。
アデルがいた。
彼女は司祭の横に立っていた。
いつもの完璧な笑顔。
いつもの慈愛の角度。
でも目だけが、乾いている。
泣いていないのに、泣いた後みたいな目。
頬が少しこわばり、口角が硬い。
笑顔が“貼りつけ”になっている。
胸が痛い。
分かってしまう。
あの顔は――追い詰められた顔だ。
司祭の読み上げが終わると、群衆がざわついた。
「偽物って誰だ?」
「祈らない聖女のことだろ」
「じゃあ、エリシアって子か……?」
名前が出る。
ついに、出る。
空気が私の方へ向く。
矢が飛ぶ前の空気。
見えない槍が、こちらへ揃う。
ルシアンが一歩、私の前に出た。
影を落とす。
守る影。
「出るな」
彼が低い声で言う。
「ここは、罠だ」
罠。
そうだ。
でも、罠だと分かっていても、放っておけないことがある。
演壇の横で、アデルがゆっくり手を上げた。
司祭が黙る。
人々も黙る。
アデルが微笑む。
そして、声を出す。
「皆さま、怖がらなくて大丈夫です」
柔らかい声。
でも、微妙に震えている。
「神は、正しい聖女を必ず選びます。……だから、偽りの光に惑わされないで」
偽りの光。
私の胸が冷える。
アデルは続けた。
「私は、皆さまのために祈ります」
言いながら、胸元から何かを取り出す。
小さな聖遺物。
銀の枠に、黒い石が嵌め込まれた首飾り。
光を吸い込むみたいに暗い石。
私は息を止めた。
あれは、匂いが違う。
聖なる匂いじゃない。
冷たい鉄と、焦げた紙の匂い。
――禁術の匂い。
ヴァイスが言っていた。
裂け目の焼け跡。
時間の焦げ。
それに似ている。
アデルが祈りの姿勢を取る。
完璧な角度。
完璧な声。
「神よ……正しき導きを……」
首飾りの黒い石が、鈍く光った。
金じゃない。白でもない。
青黒い、深い光。
群衆が息を呑む。
「光だ……!」
「やっぱりアデルさまが……!」
アデルは目を閉じたまま、唇を動かす。
そして、司祭がさっと紙を掲げる。
まるで打ち合わせ通りに。
「神託が……!」
司祭が叫ぶ。
「神託が降りた! 偽りの聖女を退けよ、と――!」
ざわめきが爆発する。
人々が震え、怒りが形になる。
誰かが叫ぶ。
「偽物を追い出せ!」
「疫病はあいつのせいだ!」
「神を怒らせたのは――!」
矢印が、私を刺し始める。
私の視界の端で、アデルが目を開けた。
その瞳がこちらを見た。
計測じゃない。
願いでもない。
“お願い、消えて”という目。
胸が息を詰まらせる。
分かってしまう。
私も昔、そういう目をしたことがある。
奪われる恐怖に耐えられないとき、人は誰かを消したくなる。
ルシアンが低い声で言う。
「今だ。離れる」
でも、私は動けなかった。
アデルが演壇から降り、こちらへ向かって歩き出したから。
人の波が割れる。
聖女候補の道ができる。
その道は、処刑台への道みたいに冷たい。
アデルは私の前で止まり、作った笑顔を崩した。
崩れた瞬間、彼女は“ただの少女”になった。
目が赤い。
唇が震えている。
頬の筋肉が引きつっている。
「……エリシアちゃん」
彼女は呼んだ。
声が掠れている。
「お願い」
お願い。
その言葉が痛い。
「私、頑張ったの」
アデルは言った。
「ずっと、ずっと。祈って、笑って、我慢して……!」
声が上ずる。
涙が溜まる。
でも彼女は泣きながら笑おうとする。
笑えば愛されると信じているから。
「なのに、なんであなたなの」
彼女の声が割れた。
「祈ってないのに。努力してないのに……!」
努力してない。
その言葉は違う。
でも、否定しても彼女は救われない。
アデルは首飾りの黒い石を握りしめ、叫んだ。
「私が聖女じゃないと、私は何にもなれない!」
その叫びは、哀れで、残酷で、痛いほど分かってしまう。
私も同じ檻にいた。
聖女でなければ価値がない檻に。
胸が詰まり、息が浅くなる。
同情が喉まで上がってくる。
抱きしめてしまいたい気持ちが、一瞬だけ生まれる。
でも――同情で世界は救えない。
この子が今握っているのは、祈りじゃない。
誰かを殺すための近道だ。
偽りの神託で、民を煽り、私を追放する。
未来をなぞる裏切り。
それを止めないと、また同じ結末になる。
私は一歩、前に出た。
ルシアンが動こうとするのを、手のひらで止めた。
殴らない。
怒鳴らない。
剣も抜かない。
私は、静かに言う。
「アデル」
彼女の名を、初めてちゃんと呼んだ。
「それ、神託じゃない」
アデルの目が揺れる。
「うそ……!」
声が震える。
「神が……!」
「神は」
私は息を吸う。
「あなたの“欲しい答え”をくれない」
その言葉は優しくない。
でも真実だ。
アデルの頬に涙が落ちる。
首飾りを握る手がさらに強くなる。
黒い石が、また青黒く光る。
「黙って」
アデルが笑いながら泣く。
「黙って消えてよ……!」
群衆がざわめく。
彼女の涙に同情する声が混じる。
「可哀想だ……」
「偽物が奪ったんだ……」
矢印がまた私を刺す。
私は痛い。
でも折れない。
「消えない」
私は言った。
声は氷みたいに透明で冷たい。
「私は、選ばれた。あなたが欲しがっても、取り返せない」
アデルが息を呑む。
その瞬間、彼女の目に憎しみがはっきり形を持った。
涙の奥で燃える火。
「……じゃあ、奪う」
彼女が囁く。
「奪ってでも、私が聖女になる」
私は首を横に振る。
「奪っても、世界はあなたを選ばない」
その言葉は殴らない。
でも、心の土台を崩す言葉だ。
“選ばれない現実”を、真正面から突きつける言葉。
アデルの笑顔が壊れた。
泣き顔が歪んだ。
「やめて……!」
彼女が叫ぶ。
「そんなこと言わないで……!」
私は、目を逸らさない。
逸らしたら、彼女はもっと深い闇へ落ちる。
「あなたは、聖女じゃなくても生きられる」
私は言った。
それは祈りみたいな言葉だった。
でも、彼女には呪いに聞こえる。
「生きられない!」
アデルが叫ぶ。
「私はそれしかないの!」
その瞬間、黒い石が強く光った。
空気が歪む。
周囲の燭台の火が一斉に揺れる。
冷たい風が吹き抜け、群衆が悲鳴を上げる。
禁術が、暴走しかける。
ルシアンが一歩前に出た。
剣は抜かない。
でも身体が盾になる。
「下がれ!」
彼が群衆に怒鳴る。
その声で人が後ずさる。
恐怖が波のように広がる。
私はアデルに向かって、手を伸ばした。
彼女の手首に触れない距離で止める。
触れたら、彼女は“救われた”と勘違いする。
「アデル」
私はもう一度言う。
「それを握ったままなら、あなたは本当に“何にもなれない”」
アデルの瞳が揺れる。
ほんの一瞬、迷いが浮かぶ。
でも、その迷いを噛み潰すように、彼女は歯を食いしばった。
「うるさい……!」
彼女は震える声で言った。
「私は……私は……!」
言葉が続かない。
涙が落ちる。
そして彼女の肩が小さく震えた。
その震えの奥で、憎しみがまだ息をしているのが分かる。
泣きながら笑う顔が、また少しだけ戻る。
壊れた笑顔の破片が、頬に刺さる。
私は胸が痛い。
でも、痛いまま立つ。
同情で救えない。
殴っても救えない。
罵っても救えない。
ただ、現実を置く。
選ばれない現実。
そこから逃げない現実。
アデルの手から、黒い光が揺れる。
群衆が息を殺し、王都の空気が張り詰める。
未来をなぞる裏切りは、もう始まってしまった。
でも、まだ終わっていない。
私は、ここで終わらせない。
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