17 / 20
第17話:ヴァイスの執着、救済と破滅の境目
しおりを挟む夜の図書塔は、昼より静かだ。
静かすぎて、紙が呼吸している音がする。
インクの匂い、古い革の匂い、石の冷たさ。
それらが肌に貼りついて、心の熱だけを浮かび上がらせる。
王都の崩れが始まってから、私は眠りが浅くなった。
目を閉じるたび、咳の音が聞こえる。
畑の割れる音が聞こえる。
白い回廊の足音が聞こえる。
逃げるように、私は塔へ来た。
逃げ場を探すみたいに。
でも本当は、逃げ場じゃなく、答えの形が欲しかった。
螺旋階段を上がる。
青白い灯りが揺れない火で壁を照らし、影だけを揺らす。
上へ行くほど空気が冷え、胸の奥が少しだけ落ち着く。
読書室の扉を押すと、そこにいた。
ヴァイス・アストラルは、いつものようにだらしなく椅子に座っていた。
白銀の髪は少し乱れて、眠たげな目は半分閉じている。
机の上は相変わらず紙の海。
星図、裂け目の計算、神託の写し。
そして、奇妙なくらい新しい羊皮紙――文字がまだ乾ききっていない。
「遅い」
ヴァイスが言った。
責める声じゃない。
むしろ、待っていた人の声。
私は頬の内側を噛んだ。
「呼んだのはあなたでしょ」
ヴァイスは軽く笑った。
「うん。君に見せたいものがある」
ルシアンが一歩、部屋の中へ入る。
外套の裾が石床を撫でる音。
剣の気配が、部屋の空気を少し硬くする。
ヴァイスはそれを見て、面倒くさそうに眉を動かした。
「今日も護衛付き。過保護だね」
「必要だからいる」
ルシアンが淡々と言う。
「用件だけ言え」
ヴァイスは肩をすくめ、机の上の羊皮紙を指で押さえた。
その仕草が、子どもが秘密を隠すみたいで妙に幼い。
「ねえ、エリシア」
ヴァイスは私を見た。
眠たげなのに、視線だけは深海みたいに重い。
「君、今の世界……嫌い?」
嫌い。
好き。
どっちでもない。
ただ、怖い。
ただ、痛い。
私は言葉を探している間に、ヴァイスが先に続けた。
「君が世界に選ばれたならさ」
彼は軽い口調で言う。
「世界の改変もできる」
改変。
その二文字が、胸の奥で硬い音を立てた。
「……何言ってるの」
私は声を低くした。
怖いから、怒りっぽくなる。
ヴァイスは怒りを気にしない。
まるでそれが当然だと知っているみたいに、淡々と言う。
「未来を変えるってこと。君が通った裂け目……あれは“戻る”だけじゃない」
彼は指で机上の図をなぞった。
布みたいな線。裂け目。縫い目。
「縫い直せる。……好きな形に」
好きな形。
それは――甘い。
雪の追放も。
血の祈りも。
凍える終焉も。
あの夜の孤独も。
アデルの裏切りも。
アルベルトの冷たい宣告も。
全部、なかったことにできる。
その誘惑が、舌の上に砂糖みたいに広がった。
甘い。
一瞬で溶けて、身体の奥へ落ちる。
楽になれる気がする。
「例えば」
ヴァイスはさらっと言う。
「未来の追放を消す。アデルの裏切りを消す。アルベルトが切り捨てる決断を消す。……全部、“なかったこと”にする」
ルシアンの気配が強くなる。
部屋の空気が刃物みたいに尖る。
「ふざけるな」
ルシアンが低い声で言った。
ヴァイスは眠たげに瞬きをする。
「ふざけてない。真面目。僕、こういうときは割と真面目」
私は喉が鳴った。
心臓が早い。
息が浅い。
「……それ、できるの?」
自分でも驚くくらい、小さな声が出た。
ヴァイスの口角が上がる。
嬉しそうでもあり、怖いほど純粋でもある。
「可能性は高い」
彼は言った。
「君は世界の修復機構に触れた。触れたどころか、“選ばれた”。世界は君を通して縫い直そうとしてる」
縫い直す。
その言葉が、救いに聞こえる。
でも同時に、ぞっとする。
縫い直すって、切るってことだ。
切って、捨てて、なかったことにするってことだ。
「……楽になるよ」
ヴァイスが言った。
声が少しだけ柔らかい。
「君の傷も、痛みも、ぜんぶ消える。誰も君を追放しない。誰も君を裏切らない。君は……あったかい場所にいられる」
あったかい場所。
その言葉が、胸の奥の小さな部分を撫でる。
ずっと欲しかった場所。
私は指先を見た。
震えている。
世界が崩れる音を聞くたび、私は震える。
その震えがなくなるなら、どれだけ楽だろう。
私は、少しだけ前へ出そうになった。
ヴァイスの手が、机の上で軽く動く。
私を招くみたいに。
その瞬間、ルシアンが言った。
「君が苦しんだ事実まで消したら、君は誰になる?」
その問いは、刃じゃなかった。
熱だった。
胸の奥を焼く熱。
私は息を呑む。
喉が痛い。
“苦しんだ事実”。
雪原で倒れたこと。
吐いた血の温度。
涙が冷たかったこと。
祈るたび、何かが削れていったこと。
誰も守ってくれなかったこと。
それらは、私を壊した。
でも同時に、私を作った。
それがなかったら、私は“私”じゃない。
今の私は、エリシアじゃなくなる。
ただの、何も知らない、何も傷ついていない、別の誰かになる。
「……でも」
私は絞り出す。
「痛みがなくなるなら……」
口にした瞬間、胸が苦しくなった。
情けない。
でも本音だ。
ヴァイスが静かに頷いた。
「なくなるよ。君は救われる。……それでいいじゃん」
いいじゃん。
その軽さが、怖い。
彼の目は純粋だ。
人を救いたい純粋じゃない。
“世界を変えたい”純粋。
その純粋は、爆薬みたいだ。
善悪より先に爆発する。
「エリシア」
ルシアンが私の名を呼ぶ。
低い声。
支える声。
「君は痛かった。苦しかった。……それを消したら、君が今ここで掴んでる意思も消える」
彼は言った。
「意思がない君は、また誰かの道具になる」
道具。
その単語が、私の背中を冷やす。
私は思い出す。
祈りが強制された日。
優しい言葉で縛られた日。
笑顔で削られた日。
痛みを消しても、構造が残るなら、私はまた同じ場所に戻る。
何も学んでいない分、もっと簡単に折れる。
ヴァイスは肩をすくめた。
「道具にならない未来も作れるよ。君が強く設定すればいい」
設定。
その言葉が、私の中で嫌な音を立てた。
人間を“設定”で作り直す。
それは救済じゃなく、改造だ。
私はゆっくり首を振った。
喉が震える。
目が熱い。
「……私は」
声が掠れた。
それでも言う。
「痛いまま、ここにいる」
私は言った。
「痛いから、守りたいものが分かる。……痛いから、選べる」
ヴァイスの目が、ほんの少しだけ細くなる。
残念そうに。
でも、怒ってはいない。
「もったいない」
彼はぼそりと言った。
「君なら世界を塗り替えられるのに」
私は一歩、ヴァイスの机に近づいた。
そして、彼の差し出しかけた手を見た。
その手を取れば、甘い未来が開くかもしれない。
すべてがなかったことになるかもしれない。
私は指先を伸ばし――止めた。
取らない。
「……ごめん」
私は言った。
謝る必要なんてないのに、言ってしまった。
彼の純粋を否定するのが怖かったから。
ヴァイスは軽く笑った。
「謝るの、変だよ」
「変でも言う」
私は息を吸う。
「私は、私のまま生きたい」
ルシアンが、ふっと息を吐く。
安堵の匂いがする。
でも彼は何も言わない。
言わない優しさ。
ヴァイスは椅子に深く座り直した。
眠たげな目を細め、遠いところを見るみたいに言った。
「……じゃあ、次は別の手を考える」
その声が、妙に楽しそうで、怖かった。
私は背筋がぞわりとした。
この男は諦めない。
救済と破滅の境目を、楽しそうに歩く。
私は机から離れ、扉の方へ向かった。
ルシアンが隣につく。
扉を開ける前に、ヴァイスがぼそりと呟いた。
「でもさ、エリシア」
軽い声。
でも、深海の重さが戻っている。
「君が選ばれたってことは、世界は君に“決めろ”って言ってるんだよ」
一拍。
「救うか、壊すか。……どっちを選ぶ?」
私は振り返らなかった。
振り返ったら、深海に落ちそうだったから。
ただ、胸の奥で燃える問いを抱えたまま、図書塔の冷たい階段を降りた。
痛みを消さない選択は、楽じゃない。
でも、私の足で歩くための選択だった。
30
あなたにおすすめの小説
救国の代償で白髪になった聖女、一度のミスを理由に「無能の戦犯」として追放される ~隣国の覇王に拾われ、愛され、奇跡の力を見せつける~
スカッと文庫
ファンタジー
聖女アリシアは、百年に一度の大氾濫から国を守るため、禁忌の魔力全解放を行い、単身で数万の魔物を殲滅した。その代償として、彼女の美しい金髪は真っ白な「白雪色」に染まり、魔力は一時的に枯渇してしまう。
しかし、その功績はすべて現場にいなかった「偽聖女セシリア」に奪われ、アリシアは「結界を一部損壊させた戦犯」「魔力を失った役立たず」として、婚約者の王太子ギルバートから国外追放を言い渡される。
「失敗したゴミに、この国の空気は吸わせない」
泥の中に捨てられたアリシア。しかし、彼女を拾ったのは、敵対国として恐れられていた帝国の「武徳皇帝」ラグナールだった。彼はアリシアの白髪が「高純度の神聖魔力による変質」であることを瞬時に見抜き、彼女を帝国の宝として迎える。
数ヶ月後。アリシアが帝国の守護聖女として輝きを取り戻した頃、王国では「一度きりの奇跡」だったセシリアの魔力が尽き、本当の滅亡が始まっていた。
「今さら結界が解けたと泣きつかれても、もう私の魔力は一滴も残っていません」
身代わりで呪いの公爵に嫁ぎましたが、聖女の力で浄化したら離縁どころか国一番の溺愛妻になりました〜実家が泣きついてももう遅い〜
しょくぱん
恋愛
「お前のような無能は、死神の生贄にでもなっていろ」
魔力なしの無能と蔑まれ、家族に虐げられてきた伯爵令嬢レティシア。 彼女に命じられたのは、近づく者すべてを病ませるという『呪いの公爵』アレクシスへの身代わり結婚だった。
鉄格子の馬車で運ばれ、たどり着いたのは瘴気に満ちた死の城。 恐ろしい怪物のような男に殺される――。 そう覚悟していたレティシアだったが、目の前の光景に絶望よりも先に別の感情が湧き上がる。
(な、何これ……汚すぎるわ! 雑巾とブラシはどこ!?)
実は、彼女が「無能」と言われていたのは、その力が『洗浄』と『浄化』に特化した特殊な聖女の魔力だったから。
レティシアが掃除をすれば、呪いの瘴気は消え去り、枯れた大地には花が咲き、不気味だった公爵城はまたたく間にピカピカの聖域に塗り替えられていく。 さらには、呪いで苦しんでいたアレクシスの素顔は、見惚れるほどの美青年で――。
「レティシア、君は一体何者なんだ……? 体が、こんなに軽いのは初めてだ」
冷酷だったはずの公爵様から、まさかの執着と溺愛。 さらには、呪いが解けたことで領地は国一番の豊かさを取り戻していく。
一方で、レティシアを捨てた実家は、彼女の『浄化』を失ったことで災厄に見舞われ、今さら「戻ってきてくれ」と泣きついてくるが……。
「私は今、お城の掃除と旦那様のお世話で忙しいんです。お引き取りくださいませ」
これは、掃除を愛する薄幸令嬢が、その愛と魔力で死神公爵を救い、最高に幸せな居場所を手に入れるまでのお話。
家族に捨てられた公爵令嬢、精霊王に見初められて、世界を救い、ついでに愛も手に入れます。
タマ マコト
ファンタジー
雨の夜、無能と嘲られた公爵令嬢エリシアは、
王太子クラウドに公開の場で婚約破棄され、
家族からも見捨てられて追放される。
絶望のまま森へ倒れ込んだ彼女の前に、
金の光をまとった小さな妖精ピクシアが落ちてくる。
泣き声に呼ばれたという妖精は、
エリシアの中に“人間では本来持ちえない境界の色”を見つけ、
「なんであんた、こんな世界に一人で捨てられてんの」と呟く。
エリシアとピクシアが小さな契約を結んだ瞬間、
周囲の空気が歪み、
精霊界と人間界の境界が薄れ始める。
その異変を感じ取った精霊王ルシアンが
森に降り立ち、
絶望の只中にいる彼女へ静かに手を伸ばす。
──追放された令嬢と、小さな妖精と、世界の王の出会いが、
世界そのものの運命を揺らし始める。
地味令嬢を見下した元婚約者へ──あなたの国、今日滅びますわよ
タマ マコト
ファンタジー
王都の片隅にある古びた礼拝堂で、静かに祈りと針仕事を続ける地味な令嬢イザベラ・レーン。
灰色の瞳、色褪せたドレス、目立たない声――誰もが彼女を“無害な聖女気取り”と笑った。
だが彼女の指先は、ただ布を縫っていたのではない。祈りの糸に、前世の記憶と古代詠唱を縫い込んでいた。
ある夜、王都の大広間で開かれた舞踏会。
婚約者アルトゥールは、人々の前で冷たく告げる――「君には何の価値もない」。
嘲笑の中で、イザベラはただ微笑んでいた。
その瞳の奥で、何かが静かに目覚めたことを、誰も気づかないまま。
翌朝、追放の命が下る。
砂埃舞う道を進みながら、彼女は古びた巻物の一節を指でなぞる。
――“真実を映す者、偽りを滅ぼす”
彼女は祈る。けれど、その祈りはもう神へのものではなかった。
地味令嬢と呼ばれた女が、国そのものに裁きを下す最初の一歩を踏み出す。
追放されたヒロインですが、今はカフェ店長してます〜元婚約者が毎日通ってくるのやめてください〜
タマ マコト
ファンタジー
王国一の聖女リリアは、婚約者である勇者レオンから突然「裏切り者」と断罪され、婚約も職も失う。理由は曖昧、けれど涙は出ない。
静かに城を去ったリリアは、旅の果てに港町へ辿り着き、心機一転カフェを開くことを決意。
古びた店を修理しながら、元盗賊のスイーツ職人エマ、謎多き魔族の青年バルドと出会い、少しずつ新しい居場所を作っていく。
「もう誰かの聖女じゃなくていい。今度は、私が笑える毎日を作るんだ」
──追放された聖女の“第二の人生”が、カフェの湯気とともに静かに始まる。
聖女じゃない私の奇跡
あんど もあ
ファンタジー
田舎の農家に生まれた平民のクレアは、少しだけ聖魔法が使える。あくまでもほんの少し。
だが、その魔法で蝗害を防いだ事から「聖女ではないか」と王都から調査が来ることに。
「私は聖女じゃありません!」と言っても聞いてもらえず…。
平民令嬢、異世界で追放されたけど、妖精契約で元貴族を見返します
タマ マコト
ファンタジー
平民令嬢セリア・アルノートは、聖女召喚の儀式に巻き込まれ異世界へと呼ばれる。
しかし魔力ゼロと判定された彼女は、元婚約者にも見捨てられ、理由も告げられぬまま夜の森へ追放された。
行き場を失った境界の森で、セリアは妖精ルゥシェと出会い、「生きたいか」という問いに答えた瞬間、対等な妖精契約を結ぶ。
人間に捨てられた少女は、妖精に選ばれたことで、世界の均衡を揺るがす存在となっていく。
芋くさ聖女は捨てられた先で冷徹公爵に拾われました ~後になって私の力に気付いたってもう遅い! 私は新しい居場所を見つけました~
日之影ソラ
ファンタジー
アルカンティア王国の聖女として務めを果たしてたヘスティアは、突然国王から追放勧告を受けてしまう。ヘスティアの言葉は国王には届かず、王女が新しい聖女となってしまったことで用済みとされてしまった。
田舎生まれで地位や権力に関わらず平等に力を振るう彼女を快く思っておらず、民衆からの支持がこれ以上増える前に追い出してしまいたかったようだ。
成すすべなく追い出されることになったヘスティアは、荷物をまとめて大聖堂を出ようとする。そこへ現れたのは、冷徹で有名な公爵様だった。
「行くところがないならうちにこないか? 君の力が必要なんだ」
彼の一声に頷き、冷徹公爵の領地へ赴くことに。どんなことをされるのかと内心緊張していたが、実際に話してみると優しい人で……
一方王都では、真の聖女であるヘスティアがいなくなったことで、少しずつ歯車がズレ始めていた。
国王や王女は気づいていない。
自分たちが失った者の大きさと、手に入れてしまった力の正体に。
小説家になろうでも短編として投稿してます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる