婚約者に捨てられた夜、異世界で猫と運命が再起動!猫がいるので全部うまくいきます

タマ マコト

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第14話:選ばれないことを、私が選ぶ

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 夜の書庫は、昼よりも“音が少ない”。
 少ないのに、心臓の音だけが大きくなる。
 本棚の影は深く、灯りは点々と浮かび、廊下は長い。
 紙とインクの匂いが、静けさを縫う糸みたいに続いている。

 あかりは台所の片づけを終えて、ミラに押しつけられたパン籠を抱えたまま廊下を歩いていた。
 「夜食! 夜食は心の保険!」
 ミラの口癖は、軽いようで重い。
 捨てられる恐怖を抱えた子の“保険”は、命綱と同じ意味を持つ。

「ねえ、あかりさん!」

 ミラが最後に言った声が、耳に残っている。

「欲しいって言う練習、明日もね! 逃げたら追いかける!」

 追いかける。
 あかりはその言葉を、初めて怖くなく受け取れた。
 追いかけられるのは、束縛じゃなく“手放さない”の証明にもなるのだと知ったから。

 足元でルゥが静かに歩いている。
 尾が床を撫で、耳が時々ぴくりと動く。
 猫は夜の空気を読むのがうまい。
 読みすぎて怖い。

「……ルゥ」

「ん」

「今日、なんか変じゃない?」

 あかりが囁くと、ルゥは足を止めた。
 金色の目が、廊下の奥を刺す。

「匂いが汚い」

「汚いって何……」

「甘いのに、腐ってる」

 甘いのに腐ってる。
 それは一番嫌な匂いだ。
 優しさの顔をした執着。
 救いのふりをした支配。
 “君しかいない”の匂い。

 あかりの胸の護符が、じわっと熱を帯びた。
 裂け目が、呼応する。
 息が浅くなる。

 そのとき、廊下の向こうから足音がした。
 書庫の夜に似つかわしくない、焦った足音。
 それを追うように、誰かの息遣い。
 そして、紙とインクの匂いを裂く、現代のスーツの匂い。

 あかりの身体が固まった。

「……まさか」

 角の向こうから、人影が現れた。
 暗い廊下の灯りが、顔の輪郭を浮かび上がらせる。
 目の下の影。
 貼り付いた笑顔が剥がれかけた口元。
 そして胸元に漂う、鈍い灰色――縁の停止痕。

 相沢 恒一。

 ここに来るはずがない。
 来てはいけない場所。
 でも彼は、息を切らして、目をぎらつかせて、迷子みたいに立っていた。

「……あかり」

 相沢が名前を呼ぶ。
 呼び方だけが昔のままなのが怖い。
 彼の中で時間が止まったまま、あかりだけを“以前の役割”に戻そうとしている。

 あかりの膝が震えた。
 昔の自分が喉の奥で息をする。
 「大丈夫?」って言いそうになる。
 「どうしたの?」って聞きそうになる。
 でも、その言葉を出したら終わる。

 ルゥが一歩前に出た。
 低い声で唸り、相沢の足元に立つ。

「ここ、入るな」

 相沢はルゥを見た。
 前なら驚いたかもしれない。
 でも今の相沢は、驚く余裕すらない。
 ただ焦っている。
 焦りの匂いは甘く、そして腐っている。

「……猫、どけ」

 相沢の声が荒い。
 その瞬間、彼の指先に灰色が絡んだ。
 怒りの灰色。
 自分の不安を認めたくなくて、外に投げる灰色。

 あかりの胸の裂け目が、護符の下でずきっと痛んだ。
 逆流痕が、彼に引っ張られる。
 切れたはずの縁が、傷として残っているから。

「どうして……ここに」

 あかりは言葉を絞り出した。
 震えている。
 でも震えは恥じゃない。
 震えたままでも、言葉を選べると知ったから。

 相沢は、一歩近づいた。
 廊下の灯りが彼の顔を照らす。
 更新されない顔。
 止まった目。
 それなのに、口だけが必死に動く。

「俺、逃げてきた……王宮の連中、俺を閉じ込めて……」

 言葉が途切れ途切れになる。
 途中で咳き込む。
 胸元の停止痕が、鈍く揺れる。
 鎖に引かれているみたいに、動きが不自由だ。

「助けてくれ」

 相沢が、唐突に言った。
 そして――次の言葉が落ちた。

「君しかいない」

 甘い。
 言葉の形は甘い。
 でも匂いは腐っている。
 逃げ道を塞ぐ甘さ。
 責任を押し付ける甘さ。
 “選択肢を奪う”甘さ。

 昔のあかりなら、そこに価値を感じてしまった。
 “君しかいない”と言われたら、選ばれた気がして。
 必要とされた気がして。
 そして、必要とされることで自分の存在を保ってきた。

 でも今は、違う。

 ルゥの背中の温度を知っている。
 ミラの笑い声を知っている。
 セレスの冷静な目を知っている。
 “必要とされる”じゃなく、“ここにいていい”をくれる縁を知っている。

 あかりの胸の護符が、すっと温度を落とした。
 裂け目が、痛みから離れる。
 黒の周りに、淡い光が灯る気がした。

 あかりはパン籠を床に置いた。
 両手が空く。
 それだけで、身体の重心が戻る。
 自分の足で立っている感覚。

「……相沢くん」

 呼び方を変えた。
 婚約者じゃない。
 “あの夜”の相手でもない。
 ただの名前。

 相沢の目が揺れる。
 揺れは期待の匂いを連れてくる。
 “まだ戻れる”と信じた匂い。

「俺、ほんとに……」

「私は、あなたの人生の修理担当じゃない」

 あかりははっきり言った。
 声は震えている。
 でも言葉の芯は揺れない。
 まるで、本棚の背表紙みたいにまっすぐ。

 相沢の顔が崩れた。
 貼り付いた笑顔が、完全に剥がれる。
 その下から出てきたのは、怒りと恐怖と、子どもみたいな拗ね。

「……は?」

 相沢の声が上ずる。

「何言ってんだよ。俺、今……人生終わりそうなんだぞ」

「終わりそうなのは、あなたが終わらせ方を他人に任せてきたから」

 セレスみたいな冷たさが、あかりの中にも芽を出していた。
 でもそれは冷酷じゃない。
 境界線の言葉だ。

「俺だって必死なんだ!」

 相沢が叫ぶ。
 叫びは廊下に反響して、紙の匂いを揺らす。
 でも揺れるだけで、定着しない。
 言葉が灰色に濁って、空中で薄くなって落ちる。

 相沢の運命は“更新されない”。
 彼の言葉も、更新されない。
 昔の型のまま叫んでも、この世界は受け取らない。

 相沢は膝をついた。
 石畳ではなく、書庫の木の床に。
 それが余計に惨めに見える。
 そして彼は、あかりの前に跪いた。

「頼む……助けてくれ」

 目が濡れている。
 声が震えている。
 人間としての弱さが、むき出しになる。

 あかりの胸が痛んだ。
 痛む。
 同情なのか、罪悪感なのか、分からない。
 でも分からないまま動くと、また鎖に引っかかる。

 ルゥが、相沢の前に立つ。
 淡々と、釘を打つみたいに言う。

「君しかいない、は毒」

 相沢がルゥを睨む。
 怒りの灰色が濃くなる。

「黙れ、猫!」

 その言葉は灰色のまま、床に落ちて消えた。
 書庫は、雑な言葉を棚に入れない。
 ここは整理される場所だから。

 相沢はあかりに向き直り、泣きながら、怒りながら、責めながら言う。

「お前、冷たくなったな!
 昔はそんな言い方しなかった!
 俺がどれだけ不安だったか分かってんのか!?
 お前がいつも正しい顔してるのが、俺には――」

 言葉が途中で崩れる。
 灰色が濁り、形にならず、空気に溶ける。
 彼は“更新されない”。
 だから、彼の言葉も世界に刻まれない。
 ただ消える。

 その消え方が、あかりを少しだけ救った。
 昔なら、相沢の言葉は刺さって、あかりの中に居座って、何年も膿んだ。
 でも今は、世界が受け取らない。
 だから、あかりも受け取らなくていい。

 あかりはゆっくり息を吸い、吐いた。
 護符が落ち着く。
 棄却の裂け目の熱が、痛みから灯りに変わる。

「……相沢くん」

 あかりは言った。
 もう一度。
 境界線を引くために。

「私は、ここで生きてる。
 私の未来は、私が選ぶ」

 相沢の目が見開かれる。
 “自分の未来”という言葉に、彼は触れられない。
 触れられないから、怒る。

「じゃあ俺は!? 俺はどうすればいいんだよ!」

 あかりは答えそうになって、止めた。
 答えを出すのは、修理担当の役目だ。
 そして、あかりはもうそれじゃない。

 あかりは、ただ言った。

「……あなたが選んで」

 相沢の肩が震えた。
 泣き声が漏れた。
 でもその泣き声も、灰色に混じって薄く消える。
 止まった運命は、感情さえ定着させない。
 更新されない悲鳴は、世界に残らない。

 あかりは、その残らなさに気づいて、胸の奥が少しだけ軽くなった。
 残らない。
 あかりが背負わなくていい。

 セレスの足音が、廊下の向こうから近づいた。
 いつの間にか、結界の糸が張られていたらしい。
 セレスは状況を見て、眉ひとつ動かさずに言った。

「侵入者だ」

 相沢が顔を上げる。
 恐怖の匂いが一気に甘くなる。
 毒の甘さ。

「待って! 俺は――」

「言い訳は書庫では定着しない」

 セレスが淡々と言う。
 相沢の言葉は灰色のまま、また落ちて消える。
 相沢は口を開けたまま、何も掴めない顔をした。

 あかりはその顔を見て、最後に一つだけ自分のために言った。

「私は、あなたに選ばれないことを選ぶ」

 相沢に選ばれることで生きてきた自分を、もう選ばない。
 “君しかいない”という甘い毒に、もう価値を感じない。
 選ばれないことで、自分を守る。
 それは負けじゃない。
 自分の人生の主導権だ。

 ルゥが、あかりの足元に寄り添った。
 背中の温度が、確かな現実をくれる。

「いい選択」

 ルゥが短く言う。

 ミラの台所の笑い声が、遠くで聞こえる気がした。
 パンの匂いと、スープの湯気。
 日常の匂い。
 新しい縁の匂い。

 あかりは息を吸って、護符の下の裂け目にそっと触れた。
 黒はまだある。
 でも黒の縁が、ほんの少しだけ淡く光っていた。
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