婚約者に捨てられた夜、異世界で猫と運命が再起動!猫がいるので全部うまくいきます

タマ マコト

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第13話:棄却の印がほどける条件

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 縁の書庫の深層は、空気が違う。
 紙とインクの匂いは同じはずなのに、もっと重い。
 誰かの願いの残り香が、古い布みたいに幾重にも重なって、息を吸うだけで胸がきゅっとなる。

 その日、セレスはあかりを呼んだ。
 呼び方はいつも通り短い。

「来い」

「命令形やめてって言ったよね」

「今は急ぐ」

 あかりは外套を羽織り、護符を指で押さえた。
 護符の下で、棄却の裂け目が微かに熱を持っている。
 深層に近づくほど、何かが反応する。

 ルゥは当然のように肩に乗った。
 猫は軽いのに、存在感は重い。
 重いというより、芯がある。

「扉、また見る?」

 あかりが囁くと、ルゥの耳がぴんと立った。

「見る。核、近い」

 廊下を進む。
 閲覧室のざわめきが消え、階段を下りるたびに音が薄くなる。
 壁の石が冷たくなり、灯りが少なくなる。
 ここは“書庫の胃袋”みたいだった。
 外の言葉を飲み込み、噛み砕き、残骸を抱え込む場所。

 例の古い扉の前に着いたとき、あかりの胸がひゅっと縮んだ。
 扉は木製なのに金属みたいな鈍い光を帯びている。
 表面の紋様が、脈みたいに薄く光る。

 ルゥが毛を逆立てた。
 唸りはしない。
 ただ、喉の奥で小さな振動が鳴っている。
 警戒の音。

「……やっぱり嫌な感じする?」

「する。でも必要」

「必要って、何が」

「きみの印、ここに繋がってる」

 その言葉で、護符の下の裂け目がじくっと痛んだ。
 痛みは、拒絶じゃなく“反応”だ。
 まるで、扉の向こうから呼ばれているみたいに。

 セレスは扉の横の溝に、銀の糸を通した。
 簡易の鍵。
 糸が張られると、空気が薄く震え、扉の紋様が一瞬だけ明るくなる。

「入るぞ」

「……ここ、一般人入っていいの?」

「一般人じゃない」

「やな言い方」

「事実だ」

 セレスは扉を押した。
 重い。
 木が軋む。
 その音が、胸の奥の何かをこすり起こす。

 扉の向こうは、さらに静かだった。
 いや、静かというより――音が吸われる。
 空気が、湿った古文書の匂いと、金属の匂いと、ほんの少しの焦げた匂いを含んでいる。
 文字の香りがする。
 言葉が腐らずに残った匂い。

 壁一面の棚に、古い巻物が並んでいる。
 紙じゃなく、布や木片、石板、透明な板。
 それらが薄い光の膜の中で保護されている。

「……ここ、すごい」

「危険物倉庫だ」

「すごいって言ったのに!」

「すごい、は危ないと同義だ」

 セレスは淡々と歩き、棚の一角で立ち止まった。
 手を伸ばし、一冊の薄い冊子を引き抜く。
 表紙は黒ずみ、角が擦れているのに、文字だけは鮮明だった。

「見つけた」

 セレスの声が、ほんの少しだけ低くなる。
 興奮の匂いが一瞬だけ立つ。
 でもすぐ抑え込む。
 この人の感情はいつも“出す前に整えられる”。

「何を?」

 あかりが聞くと、セレスは冊子を机に置き、広げた。
 古い文字。
 でも、読める。
 縁の書庫の文字は、見ていると意味が脳に滑り込んでくることがある。
 縁の言語は、心に触る。

「棄却の印についての古記録だ」

 あかりの胸が、また熱を持つ。
 護符の下で裂け目が、呼吸するみたいに脈打つ。

 セレスは指で文章を追いながら、要点だけを言葉にした。

「棄却の印は、切られた縁の“断線”では終わらない」

「……断線じゃなかったもんね。私のは逆流って」

「そう。だがそれとは別に、棄却の印の黒さには法則がある」

 セレスはページの図を指で示した。
 黒い裂け目が、糸で縫われる絵。
 縫われるほど、黒が濃くなる絵。

「切られた縁を、無理に繋ぎ直すほど黒くなる」

 あかりの喉が鳴った。
 無理に繋ぎ直す。
 つまり――“戻りたい”と願い続けるほど、黒が深くなる。

 あの夜の後、あかりは何度も頭の中で相沢を呼んだ。
 「なんで?」
 「どうして?」
 「戻って」
 戻って、を口にしなくても、心が戻ってを繰り返していた。

 そのたびに、黒は濃くなっていたのかもしれない。

「じゃあ……私が相沢のこと、考えるだけでも?」

「“繋ぎ直したい”と願うなら、だ」

 セレスが淡々と言う。

「懐かしむのは違う。怒りも違う。願うことが黒を増やす」

 願う。
 戻る。
 謝ってほしい。
 理解してほしい。
 そういう願いが、鎖になる。

 あかりは胸元を押さえた。
 護符の下の裂け目が、痛いというより、重い。
 自分の願いが自分を沈める感覚。

 セレスはページをめくった。
 次の図は、黒い裂け目の周囲に淡い光が生まれ、黒が薄まっていく絵だった。
 光は糸のように伸び、別の人影へ繋がっている。

「逆もある」

 セレスの声が少しだけ柔らかくなる。
 柔らかいというより、現実が見えた声。

「自分の意志で新しい縁を結ぶほど、印は淡く光へ変わる」

 あかりは息を呑んだ。
 光へ。
 黒が消えるのではなく、変わる。
 傷が消えるんじゃなく、意味が変わる。

「……新しい縁」

 口にすると、その言葉が妙に温かかった。
 怖いのに、温かい。
 欲しいのに、怖い。

 セレスは結論を落とした。

「つまり君が過去を清算するには、相沢への復讐でも救済でもない」

「……」

「自分の未来を、自分で選ぶことだ」

 選ぶ。
 何度も言われた言葉。
 野宿の焚火の夜。
 “明日からは選ぶ番”。
 ルゥのあの言葉が、今ここで、古記録の文字と重なる。

 あかりはページの光の図を見つめた。
 光は、誰かに与えられるものじゃない。
 自分で手を伸ばして結ぶもの。
 それは救いじゃなく、選択。

 ルゥが机の端に前足を置いて、古記録を覗き込んだ。

「ね。だから猫がいる」

「唐突に自画自賛すな」

「猫は新しい縁の媒介」

「どんな役職それ」

 あかりが言い返したら、ルゥは当然みたいに尻尾を揺らした。
 そのふてぶてしさが、あかりの喉を少しだけ緩めた。


 深層から出ると、空気が少し軽くなった。
 それでも、あかりの胸の裂け目は熱を帯びている。
 古記録が、彼女の中の何かを動かしたからだ。

 書庫の廊下で待っていたミラが、あかりを見るなり目を丸くした。

「え、なにその顔! 泣いた? 泣いてない? どっち!?」

「泣いてない……泣いてないけど、なんか、目が熱い」

「それ泣く前のやつ!」

 ミラは勢いよく言って、あかりの手を引いた。
 引く力が強いのに、指先が少し震えている。
 捨てられる恐怖が、いつも視線の端で揺れる子。
 それでも今、あかりを引っ張ることを選ぶ子。

「台所行こ! 熱い目はスープで冷ます! いや、逆に熱くなるか!」

「ミラ、雑すぎ」

「雑が取り柄!」

 台所に入ると、バターとハーブの匂いが迎えた。
 日常の匂い。
 それだけで、あかりの肩が少し下がる。

 ミラは鍋の蓋を開け、湯気を立てながら言った。

「で、なにがあったの」

 あかりは少し迷った。
 言葉にするのは、縁を結ぶこと。
 でも、今は結んでいい気がした。
 新しい縁は、淡く光へ変わる。
 それを知ってしまったから。

「……棄却の印ね」

「うん」

「黒くなる条件と、淡くなる条件があるんだって」

 ミラがスプーンを止めた。
 目が真剣になる。
 その真剣さの奥に、捨てられる恐怖がちらっと覗く。
 でも、目を逸らさない。

「黒くなるのは?」

「切られた縁を無理に繋ぎ直すほど」

 ミラが「うわ……」と声を漏らした。
 その反応が早くて、あかりは少し笑ってしまう。

「で、淡くなるのは?」

 あかりは息を吸った。
 答えるだけで、胸の裂け目が微かに熱くなる。
 でもその熱は痛い熱じゃなく、灯りの熱に近い。

「自分の意志で、新しい縁を結ぶほど」

 ミラが、ぱっと笑った。
 その笑顔は明るいのに、端にいつもの恐怖がある。
 笑顔の横に、崖がある。
 それでも笑うのがミラだ。

「じゃあさ」

 ミラが言った。
 声が軽くて、でも芯がある。

「あかりさんが欲しいもの、ちゃんと欲しいって言う練習しよ」

 その瞬間、あかりの目が熱くなった。
 胸の裂け目が、護符の下でじんとする。
 欲しい、と言う。
 欲しい、と言った瞬間、拒まれるのが怖かった人生。
 欲しい、と言う前に、自分で諦める癖。
 欲しい、と言うと、価値のない自分が露呈する気がしてしまう癖。

 欲しい、はいつも罰に繋がっていた。
 欲しい、の後に来るのは「そんなの無理だよ」か、「わがまま」か、「重い」だった。

「……練習、って」

 声が震える。
 震えは恥じゃない。
 でも、震えるほど怖い。

 ミラはスープをお玉でよそって、あかりの前に置いた。
 湯気の向こうで、目だけが真剣だ。

「いきなり大きいの言わなくていいよ。小さいのでいい」

「小さいの……」

「うん。例えば、パンもう一個欲しい、とか」

「それ、言いやすいだけじゃん」

「言いやすいのからでいいの! 練習ってそういうもん!」

 ミラが胸を張って言う。
 ルゥが足元で「正論」と呟いた。

 あかりはスープの器を両手で包んだ。
 温かい。
 温かさが、指先から心臓に届く。

 欲しいと言って、拒まれたら。
 また値札を貼られたら。
 また奪われたら。

 そう思うだけで胸が痛い。
 でも、痛いのは“鎖”を触っているからだ。
 古い鎖の冷たさを、今、外す番なのかもしれない。

 あかりは喉を鳴らして、息を吸った。

「……パン、もう一個欲しい」

 言った瞬間、世界が終わる気がした。
 拒まれる気がした。
 笑われる気がした。
 怖くて、目が潤む。

 でもミラは、即答した。

「いいよ! てか、パン山ほどあるし! 食べて!」

 ミラがパン籠をどん、と置く。
 その音が明るい。
 ルゥが「ほらね」とでも言いたげに尻尾を揺らす。

 あかりは息を吐いた。
 胸の裂け目が、ほんの少しだけ軽くなる。
 黒が薄まる、というより、黒の周りに薄い光が生まれる感じ。
 痛みが、少しだけ意味を変える感じ。

 ミラが、照れ隠しみたいに言った。

「次はさ、もっと大きいのも練習しよ。……あかりさんがこの世界で、何したいかとか」

 あかりの目が、また熱くなる。
 何したいか。
 欲しい未来。
 自分で選ぶ未来。

 怖い。
 でも、怖いだけじゃない。

 セレスが台所の入口に立って、淡々と告げた。

「結論は出たな。あとは実行だ」

「急に先生モードやめて」

「先生ではない。司書見習いだ」

「それ、先生より厳しいやつ!」

 ミラが吹き出し、ルゥが喉を鳴らし、あかりも小さく笑った。
 笑った瞬間、胸の護符の下で、裂け目が微かにあたたかく光る気がした。

 棄却の印がほどける条件は、復讐でも救済でもない。
 自分の未来を、自分で選ぶこと。
 欲しいと言うこと。
 欲しいと言った自分を、罰しないこと。

 あかりはパンを手に取り、湯気の中で小さく噛みしめた。
 味がした。
 ちゃんと、自分の味がした。
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