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第16話 涙の冠
しおりを挟む夜会が終わると、王都は急に現実に戻ったみたいに冷えた。広間の絹の波は片づけられ、花器は水だけになり、扇の骨は沈黙した骨に戻る。私は廊下を歩き、角を二つ曲がって、いつもの白薔薇の庭へ出た。三年前と同じ月。今夜だけは、少し近く見える。
“器”の蓋をなぞる。怒りは糸、悲しみは霧、恐れは点。いつもの手順で並べるのに、呼吸の奥で何かがきしむ。張ったままの弦。弾けば音が出る。でも今は、弾く指が怖い。
「セレナ」
直線の声。振り向くと、カイルが距離を保って立っている。剣は下げていて、手には何も持っていない。風に外套の裾がわずかに揺れて、月の白を細く切った。
「殿下は?」
「王妃のもと。短い協議。……お前には、風の場所を」
「ありがとう」
それだけ言って、私は白薔薇の前に立った。蕾は半分開いて、縁に夜露。指先で触れたら壊れそうで、触れない。触れないから、壊さないでいられる。そんな距離。
「終わったな」
カイルの言い方は、いつだって等速だ。祝うでも悼むでもない、事実の速度。
「……まだ途中。でも、大きい山は越えた」
「そう思う」
短い合意。私は息を一度、深く吸って、弁をほんの少し緩めた。胸の奥にたまっていた何かが、そこですべって落ちた。音は出ないのに、世界の輪郭がにじむ。
「ねえ、カイル。正義って、こんなに軽いの?」
「軽いのは“言葉”のほうだ。正義そのものは、重い」
「じゃあ、私が今、持ってるのはどっち?」
「両方だと思う」
答え方が、ずるい。ずるいのに、救われる。私は白薔薇から目を外し、空を見た。月は相変わらず、他人事みたいに明るい。三年前のあの夜、私は月を嫌いになった。今夜は、嫌いじゃない。好きでもない。ちょうどいい距離。
「……泣いていい?」
自分で言って、自分で驚いた。泣く、という動詞が口から出るのが、こんなに難しいなんて。処刑台の月の下で神に渡したもの――“愛”と一緒に、“涙”もどこかへ置いてきたと思っていた。
カイルはすぐ答えない。少しだけ近づいて、彼の影が白薔薇の葉にかかる距離で止まる。手は伸ばさない。伸ばさないで、声だけを置く。
「もう、復讐は終わりだ」
その言葉が、頬の内側に当たって、長い氷をひとつ割った。音は小さい。けれど、割れ目から水が出る。あたたかいのに、冷たい。出方がわからなくて、笑いそうになって、笑えなくて、代わりに喉が鳴った。
「……終わった、のかな」
「終わらせていい」
「許可、いる?」
「いるなら、俺が出す」
彼なりの冗談だと思ったけど、笑うのはあとにした。胸の鈴が、初めて合図じゃない仕方で震えた。ほんの少し。誰にも聞こえない音で。弁が自動で動く。怒りの糸がゆるみ、悲しみの霧がやっと濃くなって、恐れの点が粒になった。私は“器”の蓋を開けて、その粒を空に解いた。夜気が私の涙腺に触れて、やっと涙になった。
泣いた。音はしなかった。息も詰まらない。静かに、長く。目の縁を反射した月が、冠みたいに歪んで、額に落ちる。涙が王冠になるなら、それは重さじゃなく、冷たさで私の頭に乗る冠だ。私の正義は、きっとそういう質感でできている。
「ごめん」
誰に言ったのかわからない。私自身か、三年前の私か、断罪の夜の誰かか、アレンか、王妃か、母か。言葉は対象を選ばずに落ち、地面に染み込んだ。カイルは何も言わない。沈黙で私の泣き方に合わせてくれる。沈黙が合図になる夜は、きっと良い夜だ。
「……大丈夫か」
「大丈夫じゃない。でも、平気」
「お前の“平気”は、俺の“大丈夫”より信用できる」
「へんな比較」
「直線の比較だ」
涙は止まる時を知らない。だから、止め方を決めるのは自分だ。私は掌で頬を拭うと、器の蓋をもう一度撫で、小さく息を吐いた。吐く息に、悔いと怒りの残り滓が混ざって、そのまま夜に溶けた。
「カイル。私、ひとつだけ怖い」
「言え」
「復讐を終わらせたあと、私に何が残るのか」
「残すんだろ」
「何を?」
「仕事。習慣。人。……それから、好み」
「好み?」
「塩だけのスープ、白のドレス、軽い髪飾り、短い音、薄い影。お前の“好き”は戦いのために整えられていた。だが、戦いが終わっても、残る“好き”はある」
言葉が胸に落ちる。重さはない。けれど、消えない。好み。私にもあるのか、戦い以外の輪郭。思い浮かべる。朝の白、昼の紙の匂い、塔の薄暗がり、ジェイルの早口、フロレンスの匙、王妃の扇の影、カイルの無駄のない足音。ひとつ、またひとつ。案外、残るものは多い。
「……うん。たぶん、ある」
「ある」
彼が先に断言する。それが嬉しいと、今は言える。涙の冠は、少しだけ位置を変えて軽くなった。
「殿下には、今夜は何も渡さない。明日、短い言葉だけ置く。『床が乾いたら、立って』」
「直線だ」
「直線でいく」
白薔薇の奥で、小さな足音。ジェイルだ。気配の隠し方がまだ甘いくせに、遠慮は一人前だ。茂みの手前で止まり、ひょこっと顔を出す。
「セレナ様……あ、すみません、夜の空気に割り込むつもりはなくて。影布の薄さ、全部戻りました。禁環の毛羽立ちも、今夜で消える見込みです。レオンから“手順報告”。王妃の監察が確認済み」
「ありがとう。よくやった」
短く返すと、ジェイルは肩の力を抜いた。「あと、フロレンス先生から伝言。『泣くときは食堂の隅で。紙が波打つ』」
私は思わず笑った。涙と笑いは仲が悪いくせに、たまに握手する。今夜は、それを許す。
「先生に伝えて。今夜は庭で泣いたから、紙は無事」
「了解です。……じゃあ、僕は退散します。おやすみなさい、護衛殿も」
カイルが顎だけで会釈し、ジェイルは影へ溶ける。去り際の早足が、夜の砂利を軽く鳴らした。その軽さに、救われる。
「セレナ」
「なに」
「寝ろ」
「命令?」
「願い」
私は頷いた。今夜の願い事は、叶えられる範囲で叶える。ドレスの裾を整え、白薔薇に背を向けた。
「……ねえ、カイル」
「ん」
「私、たぶん明日の朝、塩だけじゃなくて、蜂蜜の薄いスープが飲みたい」
「好みが増えたな」
「うん。たぶん」
「用意する」
「自分で用意する」
「なら、一口もらう」
「……半分はだめ」
「一口でいい」
下らないやりとりが、夜の建物にやさしく反響して、角を丸くして返ってくる。世界がやっと普通の厚みに戻る感じ。私は歩幅を少し広げ、庭を出た。
廊下の角で、鈴を取り出して、掌の中で軽く転がす。合図じゃない。確認の儀式。鳴らさない。鳴らない。なのに、確かにそこにある。私の手の中に、戻ってきた実感。復讐で空けていた穴に、別の重さが入る。心の弁は、今は触らない。今夜くらい、自然に動かせばいい。
自室に戻ると、机の上に父の字で短い紙。〈終わったら、休め。床は明日から張ればいい〉。笑って、紙を伏せた。窓を少しだけ開ける。月が窓枠の角をなぞる。私は靴を脱いで、ベッドに体を沈めた。沈む、という言葉がぴったり合って、肩の力が抜ける。
目を閉じる前に、天井へ言う。
「――これが、私の求めた正義なの?」
返事はない。ないままでいい。代わりに、脳裏に浮かぶ情景がいくつも、短く点滅する。断罪の舞踏会の光、断頭台の月、塔の紙の匂い、薄い影布の手触り、王妃の扇の角度、レオンの目の色、アレンの膝の音、ミリアの止まった扇、ジェイルの早口、フロレンスの匙、父の短い紙、そして――カイルの直線の声。
「もう、復讐は終わりだ」
その言葉が、冠の形を決めた。涙でできた、軽くて冷たい冠。私はそれを頭にのせたまま、眠る。外れない。落ちない。だって、重さじゃなく、形で留まっているから。
翌朝、蜂蜜の薄いスープは、自分で作る。約束は守る。それから床を張る。釘を数える。名を呼ぶ順番を決める。生きる。たぶん、笑う。ときどき、泣く。私の“好み”を増やしながら、まっすぐに。
――復讐は、終わり。物語は、まだ。
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