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第1話「平凡メイドのささやかな日常」
しおりを挟む夜がまだ完全には明けきっていない王都の朝は、ひんやりとした青さを帯びている。
けれど――オルフェリア侯爵家の台所だけは、もうとっくに昼みたいな熱気で満ちていた。
「ほらほら! ぼさっと突っ立ってたら指、落とすよ! そのパンはあと二籠焼くの、急ぎな!」
年季の入った料理長の怒号が飛び、巨大なオーブンからは香ばしい匂いが立ちのぼる。大鍋で煮込まれるスープの湯気、鉄板で焼かれるベーコンの脂のはぜる音。
汗と香辛料と焼きたてのパンの匂いが混ざり合って、台所は朝一番の戦場だ。
「おはようございます、シモンさん。このパン、焼き上がった順に上のサロン用でいいですか?」
その戦場の片隅で、慣れた手つきで籠を運んでいる小柄な少女がひとり。
薄茶色の髪をきゅっと一つに結い、地味と言われても仕方ないくらい控えめな顔立ち。
――ユナ・アークレット。オルフェリア侯爵家の下級メイド。孤児院出身。
「おう、ユナか。早いな、今日も。誰より先に来てるじゃねえか」
「ふふ、起きちゃうんですよね、どうしても。シモンさん、少し顔色悪いですよ。昨日も遅くまで仕込みでした?」
「……よく見てやがんな、お前は」
シモンが照れ隠しのように鼻を鳴らす。その肩に、ユナはそっと視線を落とした。
目の下にはうっすらとクマ。肩も少しこわばっている。
「朝のスープ、味見しました? 味は絶対シモンさんの方が分かるから、私が代わるよりも……」
「いや、お前がやってみろ。最近腕上げてきただろ。……ついでに、おれはちょっとだけ座らせてもらうわ」
「じゃあ、その間だけ代わってますね」
ユナは大鍋の前に立ち、木べらを握る。
スープを一口すくって、口に含む。舌の上に広がる塩気と野菜の甘み。
でもそれより先に――
(あ、なんか……重い)
鍋から立ちのぼる湯気と一緒に、台所全体の疲労感まで吸い込んでしまうような気がした。
胸の奥がきゅっと痛む。みんな、毎日こんなに早くから働いて、眠いだろうな。足も腰も痛いだろうな。
「……もうちょっとだけ、塩とハーブ、足した方が元気出そうです」
自分に言い聞かせるみたいに言って、ひとつまみ塩を落とす。
ローリエを一枚足し、くつくつと煮立つ鍋を静かに見つめる。
木べらでゆっくり底を撫でていると、不思議と自分の胸の痛みもすうっと溶けていく気がした。
ほんの一瞬、鍋の上の湯気が柔らかな光を宿したように見えたのは――気のせいだと思うことにする。
「シモンさん、どうですか?」
戻ってきた料理長にスプーンを差し出す。
シモンが一口飲んだあと、目を丸くした。
「……おい。何だこれ、急に体が軽くなった気がするんだが」
「えっ、塩、入れすぎました?」
「違ぇよ。疲れが抜けた感じだ。……ったく、お前のスープ飲むと、変に元気出るんだよな」
「よかった。じゃあ、この味で行きますね」
ユナはふっと笑う。その笑みは控えめだけれど、朝日に照らされた水面みたいに静かにきらめいていた。
◆
台所から廊下に出ると、侯爵家の朝が本格的に動き出した気配がする。
ピカピカに磨かれた大理石の床、壁にずらりと並ぶ絵画と燭台。窓から差し込む朝の光は、全てが整えられているこの屋敷を誇らしげに照らしていた。
「ユナ、ちょうどいいところに。二階の客間に水差し運んで。あと、廊下に花びら落ちてたから掃除しながら行って」
「はい、すぐ行きます」
同じ下級メイドの先輩に呼び止められ、ユナは両手で銀の水差しを受け取る。
それを抱えて廊下を――走らず、しかし急ぎたくて、つい“小走り”になる。
コツ、コツ、と靴音が規則的に鳴るたび、胸の中で小さなリズムが刻まれる。
大声を出すのは得意じゃない。目立つのも怖い。
だからせめて、自分ができることを、黙って丁寧にやる。それだけが、ここにいられる理由だ。
(今日も、失敗しませんように)
祈りにも似た願いを心の中でそっと唱えた、そのとき。
「ユナ、ストップ!」
背後から飛んできた声に、ぴたりと足を止める。
振り向けば、同年代の侍女仲間、リサが息を切らしていた。
「もー、あんた急ぎすぎ。水、こぼれるよ」
「あ、ごめん。そんなに急いでるつもりはなかったんだけど……」
「顔が“急いでます!”って書いてるの。はい、これ」
リサはユナの額の汗を、ハンカチでぺちっと軽く拭く。
「大事なとこで転んだら、あんたじゃなくて、こぼれた水で私が怒られるんだからね?」
「そこまで想像してくれるの、リサくらいだよ」
「でしょ?」
リサは得意げに胸を張るが、その顔色はあまり良くない。目の下に隈が浮かび、肩も重そうに落ちていた。
「……リサ、ちゃんと寝た?」
「バレた?」
「目の下、ちょっと青い。昨日も夜番だったでしょ?」
「うん……三日連続。さすがに限界。もうソファ見たらそのまま死んだみたいに寝れる自信ある」
「これ、飲んで」
「え、何これ?」
ユナは自分のエプロンのポケットから、小さな包みを取り出した。
中には、薄い茶色の粉末が入っている。
「厨房で余ったハーブをちょっとだけもらって、蜂蜜と混ぜてお湯で溶かしたら、体があったかくなるの。味は……ちょっと薬っぽいけど」
「まさかの自家製薬物……!」
「ちゃんとシモンさんにも飲ませて、平気だったから」
「あの人に試すのやめてあげて」
リサは苦笑しながらも、ユナの持ってきた小さなカップを受け取る。
一口飲んだ瞬間、肩の力が少し抜けたように見えた。
「……あれ。なんか、ふわってする」
「変な感じ?」
「ううん。逆。体の芯があったかくなってきた。徹夜明けの頭にじわっと効く感じ。何これ、すご」
リサが目を丸くしてユナを見る。
ユナは照れたように笑い、首を振った。
「ただのハーブだよ。ローズヒップと、カモミールと……あと、ちょっとだけ秘密」
「はい出た、その“ちょっとだけ秘密”がヤバいんだよねぇ。……ありがと、ユナ。マジで楽になった気がする」
本当に、というようにリサは大きく息を吐いた。
さっきまで硬かった肩が、少し下がっている。
(……よかった。ちゃんと効いてる)
胸の奥が、くすぐったいような温かさで満たされる。
自分がした小さなことが、誰かの役に立てた。
それだけで、一日分の元気をもらえる気がする。
「さっ、行こ。エレナ様、今日は朝からお客様がいらっしゃるんだって。機嫌悪いときに当たったら面倒くさいからね」
「うん。転ばないように、急ぐね」
二人で顔を見合わせて笑い合い、それぞれの持ち場へと散っていく。
ユナは水差しを抱えなおし、再び廊下を――今度は本当に、走らずに小走りで進んだ。
◆
オルフェリア侯爵家の主が使う大広間に近づくにつれ、空気が少しずつ張り詰めていく。
壁に飾られた巨大な肖像画、深紅の絨毯、磨かれた金の柱。
ここから先は、“ただのメイド”が気軽に歩いていい場所ではない、と体が覚えている。
(落ち着いて。深呼吸)
胸の高鳴りを宥めながら、ユナは客間の扉をノックする。
「下級メイドのユナ・アークレットです。失礼いたします」
返事を待って、静かに扉を開く。
中には、オルフェリア侯爵と侯爵夫人が座っていた。
侯爵は鋭い鷹のような目をした壮年の男で、スーツの襟元まで非の打ちどころがない。
夫人は真珠のような肌に気品を宿す女性で、そのまま肖像画から抜け出してきたみたいに優雅だ。
そして――窓際。
淡い金髪をゆるく巻き、光を受けてきらきらと揺らしている少女。
レースと薄桃色のリボンに包まれたドレスは、どの角度から見ても完璧に計算されている。
「おはようございます、旦那様、奥様。エレナ様、お飲み物をお持ちしました」
ユナは一歩下がり、膝を折って頭を下げる。
その仕草は何度も練習したもので、もう体に染みついている。
「ええ、ご苦労さま」
侯爵夫人が微笑みながら答える。
柔らかな声だが、その奥には“当然”という冷たい芯がある。
「そこに置いておきなさい」
侯爵の声は短く、よそよそしい。
ユナはそれに素直に従い、テーブルの上に静かに水差しとグラスを置く。
エレナ・オルフェリア――この屋敷の一人娘にして、王都でも噂の「完璧令嬢」。
彼女はユナに視線を向けると、ふわりと花が咲くような笑みを浮かべた。
「いつもありがとう、ユナ」
「い、いえ。私の仕事ですから」
「そういうところよ。“仕事だから”って、当たり前みたいな顔して何でもやってくれるところ。……ねえ、お父様、お母様。ユナって本当に、よく動いてくれるの」
エレナがくすくすと笑う。
侯爵夫人も、つられて口元に笑みを浮かべる。
「そうね。孤児院出身にしてはよくできた子だわ。粗相も少ないし」
「ええ。粗相“は”少ないな」
侯爵の言葉に、ユナの胸がひゅっと細くなる。
――“は”。その一文字が、彼女の出自と立場をきれいに線引きする。
「ユナ」
「はい、エレナ様」
「今日の午後、私の部屋に新しいドレスが届くから、箱を運ぶのを手伝ってくれる? それから鏡も動かしたいの。重くて、私じゃ無理」
「もちろんです。お時間は――」
「午後二時くらいかしら。あなた、午後はそんなに用事入ってないわよね?」
エレナが、当たり前のように言う。
ユナは一瞬だけ手元を見下ろし、それから笑顔を作った。
「午後二時ですね。大丈夫です、他のメイドと交代してもらいます」
「助かるわ。ユナがいると、変に空気が落ち着くんだもの。ね?」
エレナが、どこか観察するような目でユナを眺める。
試すような、値踏みするような、その眼差しに、ユナの胸が少しざわついた。
(落ち着く……のかな、私がいると)
自分では実感がない。
ただ、孤児院の子どもたちも、ここの使用人たちも、よく自分の周りに集まってくるのは分かっていた。
「……そうね。ユナがいると、変な言い争いが減る気はするわ」
侯爵夫人が何気なく言う。
それを聞いたエレナが、ふと目を細めた。
その瞳の奥に、一瞬だけ――
チリッ、と火花のようなものが走る。
(……?)
ユナの肌を、冷たい風が撫でた気がした。
エレナの周囲の空気が、ほんの少しだけ硬くなる。
けれどその感覚は、すぐに彼女の柔らかな笑みで塗りつぶされた。
「じゃあ、お願いね、ユナ。あなたがいてくれると、私も助かるの」
「……はい。精一杯務めさせていただきます」
そう答えるとき、ユナの声はわずかに震えていた。
けれどそれに気づいたのは、誰でもなく――彼女自身だけだった。
◆
その日の仕事は、いつも通りに忙しく、いつも通りに過ぎていった。
廊下の床を磨き、花瓶の水を替え、エレナの部屋に届いたドレスの箱を運び込み、鏡を動かして、カーテンの裾を整える。
気づけば、夕陽はすっかり窓の外の屋根を赤く染めていた。
「ふぅ……今日も無事に終わった、かな」
最後のタスクを済ませて、ユナはこっそりと息を吐く。
部屋の隅で、エレナは新しいドレスを身体にあてて鏡の前でくるりと回っていた。
「ユナ、どう? 似合ってる?」
「とてもお似合いです。エレナ様の髪の色と、ドレスの青が、すごく……綺麗です」
「ふふっ。やっぱりね。ねえ、ユナ」
エレナがふいに鏡越しにユナを見る。
その瞳は、どこか探るように細められていた。
「あなた、自分のこと“平凡”だって思ってるでしょう?」
「えっ……」
図星を突かれ、言葉が喉につかえる。
「髪も目も地味な色だし、背も高くないし、貴族でもないし。器量も、“すごく美人!”ってわけじゃない」
エレナの言葉は、刃物のように整えられているのに、微笑みでコーティングされているから、ぱっと見優しい。
それでも、じんじんと胸に刺さる。
「……はい。そう、思ってます」
ユナは正直に頷いた。
嘘をつくのは、なんだか苦手だ。自分の中に棘が残る気がするから。
「でもね、ユナ。人って不思議よ」
エレナは鏡から目を離し、くるりとこちらを振り返る。
光が彼女の髪を金の糸みたいに照らす。
「そういう“平凡”な子に、なぜか人が寄っていくときがあるの。……あなたみたいに」
「え……?」
「厨房の人たちも、騎士の人たちも、女中たちも。みんな、あなたには妙に甘いもの。何か、あるんじゃない?」
その問いに、ユナは言葉を失う。
自分には、これと言って誇れるものなんてない。
ただ、怒鳴られないように、役に立てるように、と必死で動いてきただけだ。
「私にはない何かが」
エレナの声が、ほんの一瞬だけ低くなる。
その顔に、完璧な微笑みから外れた影が差した。
(エレナ様……?)
ユナがその変化に気づく前に、エレナはまたいつもの笑顔に戻る。
「冗談よ。気にしないで。……今日はもう下がっていいわ、ユナ。ありがとう」
「はい。失礼いたします」
頭を下げ、部屋を出る。
扉が静かに閉じる音が、やけに重く響いた。
◆
夜。
使用人用の廊下は、一日の喧騒が嘘みたいに静かになっていた。
仕事を終えたメイドたちはそれぞれの小さな部屋に戻り、明日に備えて眠りにつき始めている。
ユナは自室に戻る前に、そっと遠回りをした。
向かった先は――中庭。
石畳を抜け、小さな扉を開けると、ひんやりした夜気が頬を撫でる。
昼間は色鮮やかだった花々も、今は月明かりに溶けて淡く揺れていた。
「……わぁ」
ユナは思わず声を漏らす。
夜の庭は、いつ見ても特別だ。
葉っぱを通して落ちる月の光が、地面にレースみたいな影を作っている。
遠くで虫の声。少し冷たい土の匂い。風に混じって、昼間に咲いていた花の名残の香り。
ベンチに腰を下ろし、深く息を吸う。
胸の中に溜まっていたいろんな感情が、少しずつ溶けていく。
「私なんて、平凡なんだけどなぁ……」
ぽつりと、本音が零れ落ちる。
「怒鳴られたくないし、嫌われたくないから、必死で動いてるだけなのに。みんなが優しくしてくれるの、逆に不思議」
孤児院にいた頃もそうだった。
喧嘩して泣いてる子の傍に座って、一緒に泣いて、一緒に笑って。
それだけで、「ユナがいると落ち着く」って、みんなが言ってくれた。
「エレナ様には、嫌われてる……わけじゃない、よね。あれは、ただの、気のせい」
さっき見えた、瞳の奥の火花。
胸に引っかかっているけれど、うまく言葉にできない。
「大丈夫、大丈夫。明日もちゃんと仕事して、怒られなかったら、それでいい」
自分に言い聞かせるように呟いて、空を見上げる。
夜の王都の空は、街の明かりで少し淡くなっているけれど、それでも星はちゃんと瞬いていた。
――ふと。
「あれ?」
ユナの視界の中で、一つの星が、ほんの少しだけ強く光った気がした。
次の瞬間、それに釣られるみたいに、いくつかの星が瞬き方を変える。
まるで、彼女の方へと合図を送っているかのように。
「……気のせい、かな」
目をこすってもう一度見る。
星々はもう、いつもの静かな光に戻っていた。
ユナは首をかしげ、それでもなんとなく胸の奥が温かくなっているのを感じる。
(変なの。でも、綺麗だった)
その“変な感覚”の正体が、彼女がまだ知らない“誰かの視線”だということを、今のユナは知る由もない。
夜風がそっと、彼女の髪を撫でる。
見えない何かが、そこに触れているみたいに優しく。
「……明日も、ちゃんと頑張れますように」
小さく両手を組んで、願いを空に投げる。
その祈りに応えるように、彼女の頭上で、一つの星がほんの少しだけまた瞬いた。
ユナ・アークレットの、ごく平凡で、ささやかな一日。
けれど、その日常の上空では、すでに静かに運命の歯車が回り始めていた。
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