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第10話「光と出会う刹那」
しおりを挟む次の街まで、半日くらい――と、村の宿の女将は言っていた。
実際のところ、その距離感をちゃんと把握できているわけじゃない。
王都から一歩外へ出た世界は、ユナ・アークレットにとって、まだ地図の白紙部分みたいなものだ。
舗装もされていない土の道。
両脇には、低い草と、まだ若い木々。
朝の光は柔らかく、昨日までのどんよりした雲が嘘みたいに、空は澄んでいた。
「……天気、変わるの早いなあ」
昨日の雨を思い出して、ユナはぽつりと呟く。
あの雨の夜。
倒れ込んだ先で、女神と出会った。
泉のほとりで受け取った三つの加護は、今も胸の奥で静かに息をしている。
(癒しの雫、真実の香、女神の祝福……)
ゆっくり呼吸をすると、そのたびに体の内側で小さな光が膨らんでは縮むのが分かる気がした。
昨日の村で、何人かの痛みを軽くした感触が、まだ手のひらに残っている。
「やっぱり、怖いけど……」
誰かを楽にできるのは、うれしい。
でも、その一方で、“選ばなきゃいけない”ことも、昨日ははっきり思い知らされた。
湿った土の匂い。
他人の優しさにすがるための嘘。
(全部は……救えないんだよね)
それは残酷な真実だけど、同時に、背中をまっすぐ押すための現実でもあった。
だから、今は――
「目の前の人を、ちゃんと見よう」
ユナは自分にそう言い聞かせながら、歩を進める。
小さな石を踏む音だけが、道にリズムを刻んでいく。
◆
しばらく行くと、道が少しだけ曲がりくねり始めた。
斜面が緩やかに下り、片側には林、もう一方にはちょっとした窪地。
風が通り抜けるたび、草がさらさら音を立てる。
その中に――
似合わない音が、混ざった。
ぐ、と。
押し殺したようなうめき声。
「……今の」
ユナは足を止める。
耳を澄ますと、もう一度、短いうなり声が聞こえた。
道の脇。少し下った窪地の影。
草が不自然に倒れている。
胸の奥が、嫌な予感でざわついた。
「すみません、誰か――」
声をかけながら、慎重に斜面を降りていく。
近づくにつれて、鼻に金属の匂いが届いた。
鉄、ではない。
もっと……生々しい。
血だ。
(いやな匂い……)
草をかき分けた先。
「っ……!」
ユナは息を飲んだ。
そこには、少年が倒れていた。
年の頃は十か十一くらいだろうか。
短く刈った髪は汗で額に張りつき、頬は真っ赤に火照っている。
腕と足には、布切れで巻いただけの粗末な包帯。
その下から、赤黒い染みがじわりと広がっていた。
「ねえ、大丈夫!?」
ユナは慌てて駆け寄る。
脈を測ろうと手を伸ばした瞬間、少年の体がびくりと震えた。
「……あ……つ……」
掠れた声。
触れた額は、火がついているみたいに熱い。
呼吸は浅く、汗は冷たくなりかけている。
(このまま放っておいたら……)
頭の中で、最悪の結末がよぎる。
でも、同時に。
胸の奥の光が、ざわ、と強く揺れた。
(――使って、って)
癒しの雫が、まるでそう訴えかけてくるようだった。
ユナは、ぎゅっと唇を噛む。
怖さはある。
あの夜、泉でエリュシアが言っていた。
この加護は、きれいなものだけじゃなく、汚れや呪いにも触れてしまうかもしれない、と。
でも。
目の前で小さな命が、必死にしがみついている。
「……大丈夫、大丈夫だから」
ユナは自分に言い聞かせるみたいに呟いた。
少年の手をそっと握る。
その手は、信じられないくらい軽くて細い。
「ちょっと、冷たいかもしれないけど、怖くないからね」
胸の奥に意識を沈める。
エリュシアの声は聞こえない。
でも、泉の光景と、女神の視線は、ちゃんと覚えていた。
(この子の痛みを、少しでも……楽にしてあげたい)
願いを、真っ直ぐに。
その瞬間。
ユナの胸の奥から、すうっと何かが流れ出した。
それは、冷たい雫。
だけど、その冷たさは、夏の熱気をさます夕立の最初の一滴みたいな、ほっとする冷たさだった。
雫は、腕を伝い、指先へ。
少年の手のひらから、体の中に入り込んでいく。
ユナの視界の端で、何かが揺れた。
黒い、靄。
少年の胸のあたりから、ふわりと黒い煙のようなものが立ち上っていく。
「っ……」
ユナは反射的に息を止めた。
その靄は、ただの“病”ではなかった。
何かに怯え、何かに怨み、何かを諦めかけた心の、どす黒い澱み。
熱と痛みと恐怖が絡み合って、塊になっている。
(こんなに……抱えてたんだ)
胸の奥がじくりと痛む。
癒しの雫は、その黒い靄に触れるたび、じゅう、と音を立てるように光を放った。
真っ黒だったものが、少しずつ薄くなっていく。
少年の顔から、少しずつ歪みが取れていく。
「……あつく、ない……」
掠れた声で、そんな言葉が零れた。
額に触れると、さっきまでの焼けるような熱が、嘘みたいに和らいでいた。
(よかった……)
安堵で膝から力が抜けそうになる。
そのときだった。
ふ、と。
自分の周りの空気が、光り始めた。
気のせいじゃない。
ユナの体から、淡い光の粒がじわじわと溢れている。
泉で見た、女神の祝福の残り香。
普段は胸の奥におとなしく収まっているそれが、癒しの雫と共鳴して、外に漏れ出していた。
柔らかな光の輪が、ユナと少年を包む。
青白くはない。
暖炉の火とも違う。
春の日差しを、もう少しだけ濃くしたような――そんな光。
野の花の香りが、ふわりと周囲に広がる。
「なんだ、あれは……」
遠くから、誰かの声がした。
◆
同じ頃。
街道を、十数騎の馬が走っていた。
先頭を行くのは、黒い髪の男。
王宮騎士団長ディラン・グレイ。
その後ろには、王宮騎士たちが続く。
「団長、本当にこの辺りなんですか?」
若い騎士が、馬を並ばせながら問う。
「“光の娘”の噂だと、ここから半日ほど行った村で目撃情報があったと」
「ああ。ただな」
ディランは、前を見据えたまま答えた。
「そういう話は、大抵、酒の飲みすぎか、脚色だ」
「じゃあ、やっぱり――」
「……ただ」
ディランは、言葉を切って、空の端を見やった。
なんとなく、胸騒ぎがしている。
王太子ルシアンの命が、じりじり削れているのを知っているからか。
それとも、“光の娘”という言葉の裏側に、どうしてもユナの姿がちらついてしまうからか。
(まさかな。
いや、でも)
彼女の“手”を、知っている。
あの屋敷で、疲れた兵士やメイドの背中にそっと触れていた、あの手。
そこから流れていたのは、たしかに、少しだけ楽になるような、不思議な温度だった。
「……団長?」
騎士が不安そうに名前を呼びかけた、その時。
視界の端で、何かが光った。
「……おい」
ディランは、手綱をぐいと引く。
馬がいなないて止まる。
彼の視線の先――少し離れた窪地の方。
木々の隙間から、淡い光が漏れていた。
焚き火にしては、色が違う。
魔法の光にしては、揺れ方が違う。
「あれ……なんですか」
別の騎士が目を凝らす。
見えるのは、人影が二つ。
一人は地面に横たわり、一人はその傍らに膝をついている。
膝をついた方の影が、柔らかな光に包まれていた。
羽衣をまとったみたいに、光が揺れる。
春の花の香りが、風に乗って微かに届いた。
「まさか……」
ディランの心臓が跳ねる。
手綱も忘れて、馬から飛び降りた。
「団長!?」
「お前らはここで待ってろ」
短く命令して、斜面を駆け下りる。
草を踏みしだく音。
心臓の音。
それらをかき消すように、胸の奥で叫び声がしていた。
(頼む。
人違いでも、幻でもいい。
でも――できれば)
草をかきわけた先。
「……っ」
息が止まる。
そこにいたのは、間違いなく、見慣れた横顔だった。
茶色の髪を一つに結んだ少女。
あの屋敷の地味なメイド服はもう着ていない。
けれど、その表情も、誰かの手を握る手の形も――何一つ変わっていなかった。
「ユナ……」
ディランの喉から、知らない間に声が漏れていた。
◆
光がゆっくりと収束していく。
少年の呼吸は、さっきよりずっと穏やかだ。
赤かった顔も、少しずつ元の色に戻っている。
胸の奥の癒しの雫が、静かに落ち着いていくのを感じながら、ユナはほうっと息を吐いた。
「よかった……」
その時。
背後で、草を踏む音がした。
鋭くも、重たい足取り。
ユナは反射的に振り返る。
そこにいたのは――
「……え」
目を疑った。
鎧。
マント。
見慣れた姿。
そしてその真ん中。
「ディラン、様……?」
名前を呼んだ声が震えた。
夢かと思った。
でも、彼の瞳はいつも通り鋭くて、額にはうっすら汗が滲んでいて、靴には道の土がしっかり付いている。
「……やっぱり、お前か」
ディランは、息を吐くように言った。
「まさか本当に“光の娘”が、お前だとはな」
「ひ、光の……?」
ユナはきょとんとする。
ディランの後ろ。
斜面の上から、数人の騎士たちがこちらをうかがっていた。
彼らの視線は、驚きと、警戒と、どこか祈るような何かが混ざった複雑な色をしている。
ユナは慌てて立ち上がろうとして――足元がふらりと揺れた。
「っ」
「危ねえ」
ディランがさっと手を伸ばし、ユナの腕を支えた。
大きな手。
固いけれど、力の入れ方は覚えている。
あのときと同じ。
パーティーの日に転びかけたとき、支えてくれた腕。
体が、その感触を覚えていた。
「あ、ありがとう……ございます」
「礼はあのとき聞いた」
ディランは短く言い捨ててから、ユナの周囲を一度ぐるりと見回した。
地面。
少年。
まだ残っている光の名残。
花の香りが、微かに鼻をくすぐる。
「今の、見てたんですか……?」
ユナが不安そうに問うと、ディランは「全部じゃねえがな」と頷いた。
「遠目にも分かる。
倒れてたガキに触れたら、お前ごと光りやがった」
ユナは思わず視線を落とす。
「ごめんなさい……驚かせてしまって」
「謝る理由があるなら教えてくれ」
ディランは、眉間に皺を寄せた。
「そこまで誰かを楽にさせて、“ごめんなさい”はねえだろ」
「でも、なんか……私、ただのメイドのままじゃ、いられなくなっちゃって」
口に出してみると、途端に実感が押し寄せてくる。
オルフェリア侯爵家で「分相応でいなさい」と言われ続けてきた自分とは、もう違う。
女神の加護を受けた“ユナ”として、世界の中に立たされている。
その重さが、足元をふわふわさせていた。
「……話を聞きたい」
ディランは、真っ直ぐに言った。
「ここじゃなんだから、とりあえずそのガキを日陰に移してやる。落ち着いてからでいい」
「は、はい」
二人で協力して、少年を少し離れた木陰へ運ぶ。
ユナが上着を下に敷き、少年の体勢を整える。
呼吸は安定している。
「この子……どうする?」
ディランが問うと、ユナは少し考えてから答えた。
「近くに村があれば、そこまで運びたいです。家族がいるかもしれないし……」
「だろうな」
ディランは頷き、斜面の上の騎士たちに声をかける。
「おい! 二人、馬を置いて降りてこい! この子どもを村まで運ぶ」
「了解!」
騎士たちが慌てて駆け降りてくる。
少年の処遇が一旦決まり、ようやくユナとディランは、向き合って座る形になった。
土の上。
木陰。
少しだけ涼しい風。
それでも、胸の奥は熱くて、どきどきしている。
「……元気そうで、よかった」
最初にそう口にしたのは、ディランだった。
ユナは、少し目を丸くしてから、ふわりと笑う。
「追い出されたやつが元気だったら、ちょっと腹立ちません?」
「腹は立たねえよ」
ディランは即答した。
その声には、いつもの軽さがない。
「立つとしたら、俺自身にだな」
「え……」
ユナが首を傾げると、ディランは視線を逸らし、小さく息を吐いた。
「ユナ」
名前を呼ぶ声が、どこか苦そうだ。
「お前が追放された日のことは……聞いた。
“不吉だ”とか、“屋敷の平穏のため”とか。くだらねえ理由も全部」
胸の奥が、きゅっと縮む。
あの日の光景が、フラッシュバックみたいに蘇る。
エレナ。
侯爵夫妻。
ミレイユ。
自分に向けられた視線と、突きつけられた“烙印”。
「止めようと思えば、止められたかもしれない」
ディランは低く続けた。
「少なくとも、“不吉だ”なんて話には、異議を唱えられた。
“あの子はそんなことをするやつじゃない”って、言えた」
拳が、ぎゅっと握られる。
革手袋が、きし、と鳴った。
「でも俺は、黙ってた。
“騎士団長の立場”とか、“侯爵家との関係”とか、そんなものを言い訳にして」
ユナの胸が、ちくりと痛む。
「守るべきだったな」
ディランは、苦笑に近い笑みを浮かべた。
「守るべきだったのは、お前だった。
俺はあのとき、屋敷と自分の立場ばっかり守って、“一番守らなきゃいけないもん”を見てなかった」
その言葉は、冗談でも自己憐憫でもなく、“事実の告白”だった。
ユナは、しばらく何も言えなかった。
あの時、ディランが何も言わなかったのは、正直、少しだけ寂しかった。
でも、同時に分かってもいた。
彼は“騎士団長”だ。
その立場には、守るべきものが多すぎる。
自分一人のために全部投げ出せなんて、言えるはずもない。
「……ディラン様のせいじゃ、ないですよ」
だから、ユナはそう言った。
ディランが顔を上げる。
「私が、“私のまま”何も言えなかったから。
“違います”って、ちゃんと言えなかったから。
あの場で、私が自分を守ることを選べなかったから」
言葉にしてみると、喉が少し痛くなる。
「それに……」
ユナは、胸に手を当てた。
あの日の雨と、その先にあった光景が、胸の中で繋がる。
「追い出されなかったら、エリュシア様にも会えてなかったと思うので」
その名前を出した瞬間、空気が少しだけ変わった。
「……女神の名前を、“さま”付けで呼ぶやつ、初めて見たな」
ディランが、若干呆れ混じりで言う。
「えっ、皆さん呼ばないんですか?」
「“エリュシア神”とか“女神”とかだろ普通」
「う、うちの孤児院ではけっこう“様”って呼んでました……」
そんな他愛もないやりとりが挟まったことで、少しだけ張り詰めていた空気が柔らかくなる。
ディランは、改めて問うた。
「さっき、“エリシュア様”って言ったよな。
エリュシア神と……会ったのか、お前」
「はい」
ユナは、こくりと頷く。
あの泉での出来事を、そのまま全部話すには時間が足りない。
だから、かいつまんで。
雨の夜。
倒れた先で、光が降りてきたこと。
白銀の髪の女が、自分の前に膝をついたこと。
自分がどれだけ“守られてきたか”を聞かされたこと。
そして――
「三つの加護を、正式に授かりました」
癒しの雫。
真実の香。
女神の祝福。
その名前を、ひとつひとつ口にする。
ディランは、途中で茶化すこともなく、真剣な顔で聞いていた。
「信じられない、ですよね」
話し終えてから、ユナは苦笑した。
「自分でも、たまに“夢だったんじゃないかな”って思います」
「いや」
ディランは、首を振った。
「さっきの光、あれ見たら……否定しようがねえ。
それに――」
彼は、少し視線を伏せて笑った。
「“女神の加護を受けてる”って言われた方が、俺は安心する」
「安心、ですか?」
「お前みたいな、変な強さのあるやつが、この世界で完全に放り出されてたら……こっちの方が落ち着かねえよ」
「変な強さって、褒めてます?」
「最大級に褒めてる」
真顔で言われて、ユナは吹き出した。
笑うと、胸の奥の不安が少しだけ軽くなる。
ディランも、口元にうっすら笑みを浮かべたまま、深く息を吸った。
「――本題に入るぞ、ユナ」
彼の声のトーンが、少し変わる。
騎士団長としての顔。
ユナは思わず背筋を伸ばした。
「王宮に来てほしい」
その言葉は、驚くほど真っ直ぐだった。
「……王宮?」
「お前の力を、必要としている人間がいる」
ルシアン。
その名前を出す前に、ディランの目に、一瞬だけ影が落ちた。
「殿下が、倒れた。
原因不明の病だ。どんな治癒魔法も、神殿の聖水も、祝福の儀式も効かない」
ユナは息をのむ。
さっきまで見てきた“外の世界の痛み”とは別種の、“国の中心の痛み”。
「王太子殿下……」
「医者も神殿もお手上げだ。
……だから、噂に賭けた。
“光の娘”を探してこいって、殿下自ら命じた」
ディランは、ユナを見つめる。
「“悪魔でも女神の娘でも、どちらでも構わない。
このまま何もしないで終わるくらいなら、噂話に賭ける方がまだ王太子らしい”ってな」
その言葉を聞いて、胸の奥がふっと熱くなった。
(会ったこともない人なのに)
絶望の中で、“何かに賭ける”ことを選んだ王太子。
その姿勢は、どこか自分の“明日も歩く”って決めた気持ちと重なるところがあった。
「陛下――国王陛下も同意なさった。
だから、これは“王家からの正式な依頼”だ」
ディランは、まっすぐユナを見据える。
「もちろん、強制はしない。
お前には、お前の事情もある。
王都に戻るのは怖いかもしれないし、オルフェリア家と顔を合わせる可能性だってある」
「……こわい、です」
ユナは、正直に言った。
「また“いらない”って言われるかもしれないって考えると、足がすくみます」
あの応接室の冷たい視線。
“不吉”と決めつけられたあの日。
全部が、まだ消えていない。
「それに、私の力で王太子殿下が助かるかどうか、分からない。
できることなんて、本当に少しだけで……」
「それでも」
ディランは、静かに言葉を重ねた。
「お前がそこにいてくれたら、“まだ試してないことがある”って胸を張って言える。
殿下にとっても、国にとっても、それはでかい」
ユナの胸が、ぎゅっと締め付けられる。
“光の娘”としてではなく、“ユナ”として必要とされている。
そう言われた気がして、涙が出そうになる。
ディランは、立ち上がった。
そして。
「ユナ」
彼は、すっと頭を下げた。
騎士団長が。
王家直属の男が。
追放された元メイドの前で。
「王宮に来てくれ。
殿下を――この国を、助けてほしい」
斜面の上からそれを見ていた騎士たちが、ざわっとした。
「団長が……頭を下げてる……!?」
「マジかよ……」
ユナは、慌てて両手を振る。
「や、やめてください、そんなっ。頭を上げてください!」
「嫌だ」
ディランは、即答だった。
「俺はお前に頼んでる。
“守るべきだったものを守れなかった騎士”として。
今度こそ俺なりに、筋を通したい」
その頑固さに、ユナは笑いそうになって――結局、笑った。
涙のにじんだ視界の中で、空が少しだけ近く見える。
(エリュシア様)
心の中で、静かに呼びかける。
胸の奥の光が、ふわりと明滅した。
街道に、花の香りが広がる。
“行け”とも、“やめろ”とも言われていない。
でも、“見ているよ”という気配だけは、はっきりと伝わってきた。
「……分かりました」
ユナは、ゆっくりと息を吸い込んだ。
そして、はっきりと言った。
「王宮に、行きます。
私の力が、どこまで届くか分からないけど……それでも、やってみたい」
ディランが顔を上げる。
その目に、少しだけ安堵の光が宿った。
「助かる」
「助けられるかどうかは、まだ分かりませんよ」
「それでもだ」
ディランは立ち上がり、手を差し出した。
「行こう、ユナ。
お前が追放された街へ。
そして――今度は、お前を待っている場所へ」
ユナは、その手を見つめる。
大きくて、ごつごつしていて、でも、不思議と安心する手。
恐怖もある。
けれど、それ以上に。
あの夜、女神に言われた言葉が、胸に浮かんだ。
『あなたを捨てた場所が、あなたを求めて泣きついてくる日が来るわ』
(本当に……そうなりかけてるのかな)
まだ実感はない。
でも――
「よろしくお願いします、ディラン様」
ユナは、その手をしっかりと握り返した。
立ち上がる。
一歩。
その一歩は、ただの街道の上の一歩に過ぎない。
土を踏む音も、風の匂いも、昨日と変わらない。
でも。
その一歩が、王宮へ続く道の最初の一歩で。
崩れかけた王宮と、“光の娘”と呼ばれる少女と、沈黙を続ける女神と――
国全体の運命を、そっと動かし始めている一歩なのだと。
この瞬間のユナは、まだ知らなかった。
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