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第20話「女神の祝福と、私の選んだ未来」
しおりを挟む王都の空は、穏やかだった。
戦の煙も、疫病の呻きもない朝。
石畳を行き交う人々の顔は、前より少しだけ柔らかくて、笑い声の数も、ほんの少し多くなっている。
市場の片隅で。
「ほらほら、さっさと並ばないと、“光の娘”のお通りに巻き込まれちまうぞ!」
「えー、見たいからむしろ巻き込まれたい!」
「バカ、お前誰にでも“癒して下さい”とか言うなよ! もったいねえ!」
そんな賑やかな声が飛び交っていた。
“光の娘”
“女神に選ばれし巫女”
“国の守護者”
いろんな呼び名で呼ばれる彼女を、人々はもう“特別な異物”ではなく、“この国にいるのが当たり前の誰か”として受け入れ始めていた。
――ユナ・アークレット。
◆
王宮の中庭は、いつもより華やかに飾り付けられていた。
白と金の布が柱に巻き付けられ、季節の花々が円を描くように植えられている。
中央には、小さな舞台。その前には、王族席と、招かれた貴族たち、それから特別に入城を許された民衆のスペース。
今日は、王宮にしては少し珍しい“混ざった式典”の日だった。
王太子の婚約発表。
そして――女神エリュシアの加護を受けた“国の守護者”のお披露目。
それが、同じ場所で同じ時間に行われる。
「……ねえ、これ、逃げたらダメですか」
舞台裏。
半透明の幕の向こうから見える人の波に、ユナは軽く現実逃避した。
胸元に刺繍の入った、白を基調としたドレス。
派手すぎないけれど、メイド服に慣れた自分には、十分すぎるほど華やかな服装。
頭には、小さな花冠。
腰のあたり、手のひらを握ると、汗ばみ具合でいかに緊張しているかが分かる。
「ダメです」
隣で、深くため息をついたのは巫女のミアだ。
いつも通り、少しくだけた声。
「今日逃げたら、明日から王都中で“光の娘、逃亡す”って噂になりますよ。私も巻き添えです」
「巻き添えって言いましたよね今」
「言いました。だから逃げないでください」
そのやりとりに、背後から低い笑い声がかぶさる。
「逃がさないから安心しろ」
振り向けば、ルシアンがいた。
深い藍色の礼服に身を包み、王太子としての威厳を纏っているのに――いつも通り、目の奥には茶目っ気が残っている。
「逃げようとしてません」
「さっき、“逃げたらダメですか”って言ってただろ」
「聞いてました!?」
「舞台裏で君の声だけ響いてたら、そりゃ聞く」
からかうようなやりとり。
それでも、ルシアンがここに来てくれたという事実が、ユナの心を少し軽くする。
《真実の香》が、鼻先に花の香りを届けた。
ルシアンの胸から溢れている感情。
心配。
期待。
少しの照れ。
(ああ……本当に、この人は嘘つかないな)
そう思うと、不思議と落ち着いた。
◆
やがて、王宮の太鼓が鳴り響く。
式典開始の合図。
侍従の声が、中庭全体に響いた。
「――これより、王太子ルシアン殿下の、ご婚約者お披露目の式典を執り行う!」
歓声。
ざわめき。
ユナは、深く息を吸った。
(今日ここには、昔の私を知ってる人たちも、たくさん来てるんだよね)
牢屋みたいに寒かった孤児院で、同じ毛布を引っ張り合っていた子たち。
オルフェリア家で一緒に働いていた使用人たち。
森で、あの雨の夜から私を拾ってくれた女神。
みんな、それぞれの場所から今日を見ている。
胸の奥に、淡い光が灯った。
「行こうか」
ルシアンが、そっと手を差し出す。
その手は、かつて病の床で震えていたときより、ずっと力強かった。
「……はい」
ユナは、その手を取った。
温かい。
人間の温度。
神様の光よりも、今はそれがすごくありがたかった。
◆
幕が上がる。
光が差し込む。
人の波。人の顔。
式典の中心――王族席には、国王と王妃。巫女長セラフィナ。騎士団長ディラン。
その後ろには、重臣たちと、神殿関係者。
さらにその向こうに、ずらりと並ぶ貴族たちと、一般市民。
視線が、一斉にこちらに向かう。
ユナの膝が、反射的に震えた。
でも、その瞬間――
ぎゅっと、手を握り返してくる人がいる。
ルシアンだ。
横目で見れば、彼も少しだけ緊張していた。
それでも、前を見ている。
(あ、ずるい。
そんな顔されたら、私も頑張るしかないじゃん……)
胸の奥で、思わず笑ってしまう自分が、少しだけ頼もしかった。
◆
国王が立ち上がる。
場が、静まり返った。
「本日この日――我らの国は、新たな一歩を踏み出す」
国王の声は、いつもより少し柔らかかった。
「女神エリュシアの祝福を受けし娘。
我が息子ルシアンの命を救い、この国に光をもたらした者。
ユナ・アークレット」
名前を呼ばれる。
胸が、ぎゅっと熱くなる。
「彼女を、“王太子ルシアンの婚約者”として、また、“女神の加護を受けた国の守護者”として、ここに正式に迎え入れる」
歓声が、爆発した。
拍手の音。
誰かの「ユナ様ー!」という叫び。
子どもの笑い声。
それら全部が、混ざり合って押し寄せる。
ユナは、お辞儀をしながらも、その音の中にいくつもの“匂い”を感じていた。
花の香り。
「よかったね」と、「ありがとう」と、「これからも頼む」の匂い。
湿った土。
「不安」や「嫉妬」や、「本音では納得してない」人たちの感情。
鉄の匂いは、以前より少なかった。
“あからさまな悪意”は、控えめになっている。
完全になくなったわけではない。
でも、前よりずっと少ない。
それだけでも、世界は変わったと言っていい。
◆
(……ここに来るまで、本当にいろいろあったな)
歓声の中、ユナは少しだけ目を閉じた。
心は、自然と過去へと戻っていく。
――孤児院の寒い夜。
薄い毛布にくるまって、みんなで震えていた。
誰かの咳。
誰かの泣き声。
その中で、いつもなぜか自分だけが少し元気で、みんなの背中をさすっていた。
たぶん、あの頃から、加護はあったのだ。
――オルフェリア家の廊下。
水差しを抱えて走り回った。
床を磨き、シーツを干し、パンの匂いにお腹を鳴らして。
クラリスの笑顔。
厨房の少年たちの悪戯。
あの屋敷で、たしかに幸せな瞬間もあった。
――雨の夜。
“不吉な存在”と呼ばれて、荷物一つで追い出されたあの夜。
冷たい雨の中で、何度も自分のことを責めた。
「ごめんなさい、私……そんなにいけなかったのかな」
あのときの自分は、本当にちっぽけだった。
でも――
――森の中の泉。
女神エリュシアと出会ったあの場所。
全部を見ていてくれた存在が、自分にはいた。
孤児院でも。
屋敷でも。
雨の夜でも。
あの泉で、初めて「選ばれた」と言われた。
同時に、「あなたはあなたの選び方でいい」とも言われた。
それがずっと、心の中に残っている。
――王宮の廊下。
ルシアンと出会って。
ディランに助けられて。
セラフィナに諭されて。
“光の娘”と呼ばれるようになって。
女神と人間の狭間で、何度も立ち止まって。
それでも、手を伸ばせる相手にだけは、ちゃんと手を伸ばしてきた。
その全部が、今この瞬間につながっている。
(線だ)
孤児院の暗い部屋から。
侯爵家の廊下から。
あの森の泉から。
王宮の庭から。
全部が、一本の線になって、今、自分の足元につながっている。
そのことが、不思議で、少し泣きそうになるくらい嬉しかった。
◆
ふと、頭上から、柔らかな風が吹いた。
誰にも見えない場所。
王宮の塔の影。
人間の目には映らない場所に、女神エリュシアは静かに佇んでいた。
白銀の髪を、風が揺らす。
泉はない。
森もない。
でも、彼女はどこにいても「ユナの居場所」を見つけることができる。
中庭の中央で立つ娘の姿を眺めながら、エリュシアは小さく微笑んだ。
「あなた、本当に――」
少しだけ、目元が緩む。
「人間の世界を選んだのね」
孤児院で震えていた夜。
メイドとして走り回っていた日々。
追放された雨の夜。
その全部を知っている自分だからこそ、今のユナの笑顔がどれだけ眩しいか、痛いほど分かる。
「あなたの選んだ愛も」
視線は、隣に立つルシアンへと向かう。
彼の手が、ユナの手をしっかり握っている。
「あなたの選んだ優しさも」
これまで、どれだけ“助けたい”と願ってきたか。
どれだけ、“全部は救えない”と知りながらも、それでも誰かの手を握ってきたか。
「全部、私の祝福よ」
エリュシアはそっと囁いた。
その声は風に紛れ、誰の耳にも届かない。
けれど、ユナの胸の奥にだけ、柔らかな揺れとして触れる。
(……聞こえましたよ、エリュシア様)
心の中で、小さく返事をする。
その瞬間、空から静かな光が降り始めた。
まぶしすぎない、柔らかな光。
花びらのようにひらひらと舞って、ユナの周りを包む。
人々が息を呑む気配。
「女神様……」
誰かが呟いた。
セラフィナは、静かに目を閉じて頭を垂れた。
これは、祝福の証。
女神が、この選択を認め、この未来を祝っている証。
◆
ルシアンが、ユナの手を少しだけ強く握った。
視線が絡む。
その目には、真剣な光と、柔らかな笑み。
「ユナ」
中庭の真ん中で、彼は穏やかに言った。
民衆の歓声なんて関係ない。
この瞬間だけは、二人だけのものだ。
「一緒に、この国を見ていこう」
それは、プロポーズという言葉よりもずっと静かで、ずっと重い約束。
ユナの胸に、涙がこみ上げる。
女神の娘として。
ひとりの女の子として。
全部を抱えた自分に向けられた言葉。
「……はい」
声が震えないように、ぎゅっと唇を噛んでから。
ユナは、しっかりと返事をした。
「私なりのやり方で――
たくさんの人を、少しずつ、幸せにしていきたいです」
完璧にはできない。
全部は救えない。
でも、「手を伸ばしたい」と思える人には、ちゃんと手を伸ばす。
それが、ユナ・アークレットとして、この国に立つ覚悟だった。
ルシアンが微笑む。
その笑顔には、「一緒にやろう」という心強い肯定が詰まっている。
《真実の香》が、ふわりと花の香りを広げた。
この場にいる多くの人の「祝福」や「期待」や、「ありがとう」の匂いが、優しく混ざり合っていく。
◆
“平凡メイドの私が追放された結果、女神の加護を独占して国が騒然”
あの日、冷たい雨の中で震えていた少女には、想像もしなかった未来。
不吉と呼ばれ、切り捨てられた先で出会った女神。
女神に選ばれた先で出会った人々。
泣いて、迷って、怒って、笑って。
その全部が、一本の物語として――今、ユナの胸の中で静かに結ばれている。
(私は、もう“不吉なメイド”じゃない)
でも同時に。
(“ただのユナ”でもある)
孤児院の子どもでも。
メイドでも。
女神の娘でも。
王太子の婚約者でも。
全部ひっくるめて、「私」。
そう胸を張って言えるようになるまでに、長い時間がかかった。
けれど今、ようやくその言葉を自分で信じられる。
◆
空から降る光が、ゆっくりと薄れていく。
代わりに、中庭には花の香りが満ちていた。
庭に咲いた本物の花の匂い。
そして、《真実の香》が映し出す、人々の「祝福」の匂い。
それらが重なり合い、柔らかな風となって王宮を包む。
ユナは、ルシアンの手を握ったまま、そっと目を閉じた。
(これからも、きっといろんなことがあるんだろうな)
新しい悩みも。
新しい涙も。
でも、そのたびに。
女神と。
王子と。
仲間たちと。
そして、自分自身と向き合いながら――少しずつ前に進んでいける気がする。
それが、「女神の祝福」であり、「私の選んだ未来」なのだと、今なら分かる。
物語は、ここでひとつの幕を閉じる。
けれど、ユナ・アークレットの明日は、この先も静かに続いていく。
光と、香りと、たくさんの“少しずつの幸せ”と共に。
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