社畜OLが異世界転生したら、冷酷騎士団長の最愛になっていた

タマ マコト

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第11話 焦げた羊皮紙、噂の温度

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 朝はいきなり走っていた。石畳を蹴る車輪の軋み、売り声、起き抜けのパンの蒸気。市場の空気はすでに温度を持っていて、そこに“伯爵家は魔女の血”という言葉が、油を垂らしたみたいに広がっていた。音は先に熱くなる。意味はあとから追いついてくる。

「“魔女の血”って、ほら、あの――」「いや、聞いた話だが……」「王命が出たって」

 噂は主語を置き去りにして加速する。私はミレイユと並んで通りの端を歩き、耳だけを市場に置いた。籠の中の青菜が光り、魚屋の台の上で鱗が朝日を跳ね返す。塩の匂いと小麦の匂いのあいだで、言葉が泡立つ。

「エレナ様、目線は下になさらないで。……噂の刃は、目を刺してきます」

「うん。耳だけ出す。顔はしまう」

 表の列は明るいのに、空気の底だけが少し冷えている。孤児院へ向かう寄付の籠が軽い。パン屋の娘が、いつもより少ない袋を胸に抱えて、申し訳なさそうに視線を落とした。

「ごめんなさい……粉の仕入れが止まって」

「謝るのはこっち。ただ、体だけは温めて」

 言うと、娘の頬の温度がほんの少し戻る。温度は連鎖する。噂も連鎖する。連鎖の方向を見ておくこと。私の足は市場に、心は書庫に残っている。ふたつの場所に同時にいる必要がある朝。

 屋敷に戻ると、辞職願が机の上に重なっていた。紙は淡く、筆跡は丁寧で、言葉はやさしいのに、内容は冷たい。恐怖は人をまっすぐにする。まっすぐに、逃がす。

「……仕方ない」

 口に出すと、ミレイユの肩が小さく動く。

「エレナ様」

「責めない。逃げるのは、悪い選択じゃない」

 私は一枚ずつ、辞職願に目を通してから、封をした。封をする所作は、離れる人にも礼を払う所作。礼は、残る人の背筋を守る。

 リオンの部屋に入ると、薬草と紙の匂いがいつものように重なっていた。窓から光が斜めに入り、写本の上で文字を暖める。

「姉さん、皆が怖がってる」

 リオンは寝台に半身を起こして、私に半分だけ笑いかけた。笑いの輪郭が薄い。私は椅子を引き、彼の枕の位置を手で整える。

「怖がるのは、人間らしさの証明。……だから、私たちは怯えたまま進もう」

「怯えたまま?」

「うん。怖さは消えない。だったら、怖さを“手順”で持ち運ぶ。こぼさないように」

 彼の目が少し光った。目は希望を貯める器だ。私は写本をひらき、昨日の“手洗い歌”に一行足す。

「『噂の川に足を入れたら、数を数えて渡りましょう』」

「四で吸って、七で止めて、八で吐く」

「そう。呼吸は橋」

 リオンが唇の端で笑い、指で机を軽く叩く。「橋の音」。私たちの合図みたいに、扉が叩かれた。ミレイユが文書の束を抱えて入ってくる。顔の色は、さっきより戻っていたが、目に硬さがある。

「文書室からです。……“同じ筆跡”を見つけました」

 差し出された書状は三通。宛先は孤児院の寄付者、商会、そして無名の“市井の友”。どれも伯爵家の署名が末尾に添えられている。“寄付は王命により凍結となりました。ご理解を”――。

「この書状、“伯爵家の署名”を真似してます」

 ミレイユの声は震えない。私は紙を鼻に寄せ、深く吸い込む。香りは裏切らない。インクの匂いは、時間を語る。

「インクが新しい。今週刷りたて。香料が変わってる。“松脂”に少し“スミレ”。アルバ・インクの今季の配合」

「……宰相府と同じ」

「うん。宰相の“都合”は甘い香りをつけるのが好き」

 紙を置く。置いた音が胸に残る。重さは軽いのに、意味が重い。リオンがその重さを見て、半身を起こそうとする。私はすぐに肩を支え、笑いで押し戻す。

「寝てて。あなたの出番は、嗅覚と知恵」

「姉さん」

「うん」

「怖い?」

 丁寧に問う。丁寧に答える。

「怖いよ」

 リオンの喉が小さく上下し、息を吐く音がする。「よかった」。よかった、の使い方はちょっと変だけれど、正しい。「姉さんが怖いって言うなら、僕も怖がってていい」。そういう意味の“よかった”。

「でも慣れてる。理不尽と戦うの」

「慣れたくは、ないんだよね」

「ない。……でも、慣れる」

 私はリオンの指を一度だけ握って、離す。ミレイユが静かに立ち上がる。「書状の写しを取って、便箋の目を拡大します」。彼女の“仕事する顔”は強い。私は頷き、部屋を出た。

 廊下の窓から市場が見える。人の流れは午前のピークを越え、ゆるやかな谷に入っていた。噂の温度は、まだ高い。昼の熱に混ざって薄まりはするが、夕方になればまた上がる。日暮れは怯えの時間。理性が体温に負ける。

「出所を追う」

 背後で低い声。振り返ると、ルーカスが影の層から抜けた。黒い軍服が光を吸い、表情は余白が少ない。

「市場、酒場、パン屋。周縁から中心へ戻る“経路”を逆に辿る。……でも、捕まえようとしないで」

「なぜだ」

「捕まえると“英雄譚”になる。噂は英雄譚が好き。代わりに“仕組み”を指さす。どこから流れ、どこで増幅され、どこで変質したか。主語を返す」

「主語」

「うん。“誰が言ったか”。“誰が得をしたか”。それが見えれば、温度は下がる」

 ルーカスの喉仏が上下した。理解の合図。彼は短く頷く。「俺は“音”を追う。情報屋の声は、音が澄んでいない」。音に敏い人の言い方だ。私たちは並んで廊下を歩く。壁と道の間。護衛の距離。触れない、でも伝わる。

「辞職願が来た」

「見た」

「責めないって、言っておいた」

「正しい」

「正しい、好き」

「知っている」

 短い言葉が足元に灯りをつける。昼でも、灯りはいる。心の足場を照らす小さな灯り。

 その日の午後、屋敷の文書室は紙の呼吸で満ちた。ミレイユが書状の筆致を拡大し、私が“伯爵家の本物の署名”の角度と重ねる。弧の浅さ、止めの跳ね、筆圧の痕。どれも少しずつ違う。違うのに、合わせてくる。最初の一撃で騙すための“似せ”。似せは似せであり、本物にはならない。

「ルーカスは?」

「市場。酒場は夜」

「帰りを待たない。先に、噂の角を押さえる」

 私は地図に印をつけた。孤児院の角、パン屋の角、井戸端。香りと声が溜まる場所だ。角は“気配”の貯水池。夜にそこを通ると、残り香と残り声が胸に貼り付く。剥がすには、水、風、笑い。

 夕暮れ。西日が階段に細長い影を並べ、屋敷の空気が温度を失い始める。私は厚手の羽織を取って、庭に出た。草の匂いは、都市の夜に入る前の、最後の柔らかさ。

 そこへ、使用人の少年が駆け寄ってきた。息が上がり、目が真っ直ぐだ。「これ、さっき門のところに……」

 差し出された封書は、無地の薄い羊皮紙。封蝋はない。中身は一枚の紙。“裏切り者の姫へ”。言葉は短く、幼稚で、残酷で、良く燃える。

 厨房の裏で火を借りる。針金に挟んで、紙を炎の上にかざす。火は迷わず文字の輪郭を舐め、黒を褐色に変え、端から白い灰を咲かせる。焦げた羊皮紙の匂いは、苦い。鼻腔の奥に残る苦さは、怒りではなく、空虚の味。

 火の向こうに黒が立った。夜に馴染む黒。ルーカスが、炎の渦の外側で視線を落とす。私は紙をさらに燃やしながら、目だけで合図した。

「怖いなら、俺を使え」

 彼の声は低く、水の底で響く鐘みたいだった。私は首を横に振る。火は紙の隅を食べ尽くし、光の中で文字が一つずつ崩れていく。

「使うじゃなくて、“一緒に”ね」

 彼の喉仏が一度上下し、次に、わずかに、笑いの形が唇の端に現れた。風が背後から吹き、炎が一瞬背伸びする。焦げた匂いが夜気に溶ける。

「市場の“角”を三つ押さえた。噂は、パン屋の裏口から夜に“戻る”。娘に“歌”を頼んだ。明日から、子どもたちが“手洗いの歌”を市場で歌う」

「拡声器の上書き。いいね」

「酒場には、情報屋の“耳”がいる。名はカサンドル。甘い声は嫌いだと言っていた。“蜂蜜は喉に絡む”とも」

「同業者だ」

 火が尽きた。針金から白い灰がふわりと落ち、地面の上で小さな雪になった。私は灰を靴で踏みつけない。踏んだ感触が心に残るから。灰は風に任せる。

「エレナ」

「ん」

「俺は、君に“使われたい”わけじゃない。……“一緒に”でいい」

「うん。仕様、合意」

 彼が半歩だけ近づく。触れない距離。触れないのに、体温だけが空気を通じて指先に集まる。夜の始まりの匂いが、花から土へ移る。遠くで門番があくびをする音がする。生活は、陰謀よりも強い。生活は、夜を薄める。

 その夜、私は書庫に戻った。机の上には、昼間の表が全部、整列している。封蝋比較、筆致比較、搬入動線、商会ネットワーク。そして新しい欄がひとつ。“噂の温度”。市場/酒場/孤児院/パン屋/井戸端。時間ごとの“熱”を点で記し、線で結ぶ。赤い点が、夕刻に濃い。夜半に薄くなり、朝にまた濃くなる。

「噂の温度、測れた」

 独り言に、静かな返事が落ちた。「ああ」。扉の影からルーカス。彼は書庫に入らず、敷居のところで止まる。境界を守る癖。私は顎で招いた。彼は一歩だけ中へ。

「明日、商会へ行く。アルバ。香料の配合を聞く。『最近、香りが変わった?』って。誇りは喋るから」

「俺は、壁と道の間」

「ミレイユは、屋敷の中。リオンは、歌の指導と匂いのラベリング」

「抜けは?」

「あるよ。……だから、同時に祈る」

 私が笑うと、ルーカスが喉の奥でわずかに笑いを飲んだ。彼の笑いはいつも、半分だけ音になる。残り半分は体温になる。体温は、紙じゃ記録できない。だから、私の胸に書き留める。

「焦げの匂い、嫌い?」

「嫌いだ」

「私も」

「だが、今夜は、役に立った」

「うん。噂は燃やせないけど、紙は燃やせる。燃やした火で、私たちは少し、暖まれる」

 ミレイユが湯を運んでくる。三人分のカップ。湯気がランプの光と混ざり、書庫の天井に薄い雲を作る。雲は雨にはならない。けれど、乾いた喉には良かった。

「エレナ様、孤児院から。子どもたちが歌を覚えてくれました」

「早い」

「カイ君がリードを」

「優秀」

 報告の一行一行が、温度を少しずつ上げる。温度が上がれば、噂の刃は刃こぼれする。刃こぼれした刃は、ただの鉄だ。鉄は道具になる。道具は、手に馴染む。

 私は羽ペンを取り、ToDoの欄に新しい行を三つ足した。

 ⑰噂の温度マップ:時間×場所(赤点化)
 ⑱アルバ商会=香料“松脂+スミレ”→照合
⑲歌で上書き(市場・パン屋・井戸端)/主語を返す

 書いてから、もうひとつ、誰にも見せない行を小さく。

 →“怖いなら、俺を使え”=「一緒に」。仕様合意。体温記録。

 ランプの火を落とす前、紙の白が最後の呼吸をした。外で風が鳴り、夜が屋敷に入り込む。噂はまだ燃えている。けれど、こちらにも火がある。焦げた羊皮紙の匂いはもう薄い。喉の奥で、小さく残る苦みを水で押し流し、私は深く息を吐いた。

 明日、インクの匂いに会いに行く。噂の温度を、数字にする。数字を、線にする。線を、道にする。道の端を、彼が歩く。真ん中を、私が歩く。壁と道の間に、ミレイユが影を伸ばす。遠くで、リオンの歌が夜を薄める。

 そうやって、朝へ。噂は走るけれど、私たちは歩幅を合わせて、追いかけない。先に、待つ。待って、橋をかける。渡って、戻る。その繰り返しで、世界は少しずつ、私たちの側に傾く。私はそう信じることにして、ペン先を丁寧に拭いた。明日も、手は使える。心も、たぶん。
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