社畜OLが異世界転生したら、冷酷騎士団長の最愛になっていた

タマ マコト

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第12話 孤児院の子どもたち、罪のない質問

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 朝の空気は、冷やしたミルクみたいに白かった。王都の外れ、石垣に抱かれた孤児院の庭は、まだ夜露の名残を足首に纏っている。土はやわらかく、草は膝丈で、洗いざらしのシーツが風に揺れて空を浅くする。台所の窓からは薄いスープの匂いと、刻んだ玉ねぎの甘さが漏れていた。

「エレナ様!」

 門を開けると、一番に走ってきたのはカイだ。昨日よりも目が大きく、足音は相変わらず元気で、靴紐はやっぱり少し緩い。彼は私の手を掴んで、躊躇いがちな笑顔を浮かべる。

「手、洗った?」

「うん! ほら、爪も短くした」

「優等生」

 褒めると、彼の背中が一段軽くなるのが分かった。私は手をぎゅっと握り返し、庭の真ん中へと進む。石畳の端で、ミレイユが修道女と簡単な確認を済ませている。帳面、配給、今日の体調。彼女の動作は、見ているだけで心拍数が整う――きっちり、静か、優しい。

 背後で、鎧の擦れる音が一度だけ鳴って止まった。ルーカスが距離を測り、壁と道の間に立つ。いつもの位置。子どもたちに背中を見せず、でも存在を押し出さない。彼の「在り方」は、音のない防壁だ。

「おねえちゃん」

 細い声が裾を引いた。小さな女の子――髪は麦色、瞳は水たまりの色。躊躇いながら、でも逃げない目で、私をまっすぐに見上げる。

「なあに」

「……魔女なの?」

 庭の空気が、薄く震えた。隣でカイが息を止め、遠くの箒が動きを止め、台所の音までもが一瞬だけ黙る。私はしゃがみ、女の子と同じ高さになる。鼻先で土の匂いが濃くなった。彼女の瞳に、私が小さく映る。

「魔女はね、“分からないもの”を怖がったときに生まれる言葉なの」

「こわがったら、でてくるの?」

「そう。夜、見えない場所が怖くなるみたいに。――でも、見えるようにしたら、怖さは小さくなる」

 私は笑って、女の子の掌をそっとすくった。細い指、温度はちゃんとある。掌を返して、てのひらの真ん中に小さな円を描く。

「ここに、小さい灯りがある。名前は“わたし”。灯りを大きくするのが、私の仕事」

「おねえちゃんの、しごと?」

「うん。手順を書いて、歌を作って、みんながちゃんと眠れて、朝、ちゃんとお腹が鳴るようにする仕事」

 ぽかんとした顔のまま、女の子は「ふうん」と頷いた。頷き方が、春の芽に似ていた。後ろからカイが顔を出す。

「じゃあ、魔女じゃないの?」

「魔女って呼ぶかどうかは、みんなが決める。私は、“エレナ”。あるいは、“ミサキ”。好きなほうで呼んで」

「ミサキ!」

 無邪気な宣言に、庭の空気がいっせいに明るくなる。子どもたちがわらわらと寄ってきて、袖、腰、指に、色んな温度の手が絡む。そのとき、背中に、しずかな熱が触れた。ルーカスの手が、ほんの一瞬だけ私の手を握り、すぐ離れた。視線は子どもたちの輪に。私は振り向かない。指先に残った温度だけを、胸の内側でそっと包む。

「姉さん!」

 呼ばれて顔を上げると、廊下の影からリオンが現れた。カーディガンを羽織り、胸に抱えたのは厚みのある写本。顔色は昨日よりいい。目の奥に灯りが増えている。

「これを孤児院の先生に見せていい?」

「いいよ。歌と一緒に届けて」

 リオンはこくりと頷くと、子どもたちの輪に入り込んだ。最初の一歩はぎこちない。けれど二歩目からは、彼の身体が“誰かの隣に立つ方法”を思い出す。彼は写本を台所のテーブルに置き、先生と二言三言話し、すぐこちらへ戻ってくると大きく息を吸った。

「みんな、歌を歌おう」

 カイが「やった!」と跳ねて、他の子たちも集まってくる。リオンは手を胸の前で合わせ、数を刻む。二、三、四――。

「♪あわあわ こしこし ゆびのあいだ
 くるりと おやゆび てくびまで
 ひとつ ふたつ みっつ よっつ かぞえたら
 きれいなてで あしたを さわろう」

 最初の一行は控えめだった。二行目で声が揃い、三行目で笑顔が増え、四行目で手が本当にきれいになる。水音が庭に広がり、泡の光が日差しを割って小さな虹を作る。修道女が目を細め、ミレイユは懐からハンカチを出して一回だけ目頭を押さえた。押さえ方が慎重で、涙を仕事に邪魔させない人の手つき。

「もう一回!」

 カイが叫び、もう一回。二回目は、リズムが体に入って跳ね始める。足踏みが加わり、笑いが合いの手になる。私は手拍子でテンポを支え、ルーカスは壁際の影で「四で吸って、七で止めて、八で吐く」を小さく刻んでいた。彼の呼吸が、全体の呼吸の“基準”になっているのが分かる。存在が拍だ。拍があれば、乱れない。

 歌を終えると、子どもたちは自分たちの手を見て、においを嗅いで、満足げに見せ合った。手がきれい、ということの誇り。誇りは、自己効力感の最初の芽だ。それが芽吹く場所に立ち会えるのは、ずるいほど嬉しい。

「先生、これを」

 リオンが写本を先生に渡す。ページをめくる手が、恐る恐るから、確かに変わっていく。紙の端に“なぜ”が一緒に載っているからだ。手順には、理由が必要。理由があれば、守れる。

「煎じ時間を具体化、手袋の代わりに“清潔な布”を。高熱時は交代で看護。徹夜は判断を鈍らせます」

「……ありがとうございます。本当に」

 先生の声は薄く震え、でも芯は強かった。彼女は子どもたちの頭に手を置きながら、写本を胸に抱く。抱き方が、命を抱く人の抱き方。私は室内の空気が少し暖かくなるのを、頬で受け取った。

 庭の隅で、女の子がまた裾を引いた。先ほどの子だ。彼女は今度は少しだけ笑っていた。

「みさき」

「ん?」

「わたしも、うた、つくりたい」

「作ろう。君の歌は、きっと甘い」

「なにのうた?」

「今日のスープのにおいの歌」

 彼女は本気で考える顔をした。それから、鼻をひく、と鳴らして、指を一度だけ上に向けた。

「♪くつした みたいな たまねぎの
 なみだを あしたの つよさにするの」

「天才」

 私は真剣に拍手した。後ろでリオンが肩を震わせ、ミレイユが口元を覆って笑い、ルーカスがほんの少しだけ目尻を和らげた。和らいだ、という語がぴったり来る。彼の表情は緩むというより、凍った湖面の上に薄い春が降りて、色だけが柔らかくなる――そんな変化をする。

「ルーカス」

 名前を呼ぶと、彼は顎をわずかに引いた。返事の代わり。私は声を落として訊く。

「あなたも、怖い?」

 彼はすぐには答えない。視線は子どもたちに残したまま、呼吸だけが一度深くなる。沈黙が悪意のないものであることを、私はもう知っている。沈黙にも種類がある。彼の沈黙は、言葉の準備運動だ。

「……怖い」

「うん」

「だから、刃を見せる」

「うん」

 うん、しか言わない私に、彼はわずかに片眉を上げる。からかいの寸前。私は笑って肩をすくめた。

「それでいいよ。答えは、夜の馬車で続きを」

「了解」

 了解。彼の了解は、どうしてこんなに胸にいいのか。喉の奥に温かい水を流し込まれたみたいに、体の中の角が丸くなる。

 子どもたちは“手洗い歌”を覚え、庭の水桶は小さな虹を配る機械になった。ミレイユが修道女に帳面のつけ方をレクチャーし、リオンは先生と煎じ時間の実験をする。「沸騰後七分」と「沸騰前十分」の薬効の差――数字が命に近づく瞬間だ。

 帰り支度をしていると、カイが走ってきて、私にぴたりとくっついた。胸の真ん中あたりに彼の額が当たる。

「ミサキ。ぼく、まほうのこと、まだこわい」

「うん。怖くていい」

「でも、ぼくのうた、つよい?」

「うん。靴下みたいな玉ねぎの歌、すごく強い」

 カイは満足して、靴紐をまた少しだけ緩めたまま走り去った。靴紐はまた、少しだけ緩んでいていい。完璧に締めないで、走れる強さもある。

 馬車に乗る前、修道女が小さな包みを渡してくれた。中には、焼きすぎて角が焦げた小さなクッキーが二枚。「手洗い歌の記念に」。私は本気で頭を下げた。焦げの匂いは、今日の午前の“怖さ”と同じ匂い。食べれば、少し甘くなる。

 馬車の中。扉が閉まり、外の喧噪が薄い布一枚向こう側になる。クッションに背を預けると、肩甲骨の間に溜まっていた疲れが、ぬるい水みたいに下へ落ちた。ルーカスは向かいの席。窓の外に目をやり、街の輪郭をひとつずつ確認するように視線を移動させる。見張りの習慣。彼の「職務」は、座っていても消えない。

「ねえ」

 私が囁くと、視線が窓から私に移る。氷の色の目の底に、今日の空の薄い青が混ざっている。

「あなたも、怖いから刃を見せるの?」

 問いは棘ではない。包帯だ。彼は数拍、息を止める。それから、窓の外に目を戻した。沈黙が、馬車の内側の空気をゆっくり撫でる。

「……刃を見せれば、近寄らない者がいる。俺が近づかれたくないのは、“この馬車の中”にあるものだ」

「この馬車の中?」

「君と、書類だ」

「書類?」

「図表。……あと、歌」

 思わず笑いが漏れて、私は口元を手で覆った。笑いは、砂糖をまぶした咳みたいだ。彼は唇をわずかに噛んで、目元だけ柔らかくした。

「刃は、俺のやり方だ。怖さは消えない。だから、刃で距離を作る」

「うん」

「君は、図表で距離を測る」

「うん」

「同じことだ」

「うん」

 私の「うん」が三回重なったところで、彼の喉仏が上下し、笑いが本当に喉を通った。短い、低い、清潔な笑い。窓の外の石畳が、馬車の車輪の下で規則正しく揺れる。揺れが心拍を整える。整った心拍の上で、言えなかった言葉が、やっとすべる。

「私ね、今日、子どもに“魔女なの?”って訊かれて、たぶん、ちゃんと答えた。でも半分は、あなたに訊いてた」

「俺に?」

「うん。“あなたも、怖いから刃を見せるの?”って」

 ルーカスはまた窓へ目を戻した。沈黙。沈黙の奥で、何かがゆっくりと溶けていく。氷の塊に小さな穴が開いて、そこへ春の水が差し込んでいくように。彼はやがて、まっすぐに私を見た。

「怖い。……君を失うのが」

 胸の真ん中が、短く跳ねた。痛いほどではない。けれど、確かにそこにある事故のような衝突。私はその場所に手を当て、押しつぶさず、撫でる。

「じゃあ、刃と図表、両方使おう。刃で今を守って、図表で明日を守る。歌でその間をつなぐ」

「歌は、俺には難しい」

「鼻歌でいい」

「なら、できる」

「正直者」

「職業柄だ」

 馬車が石橋を渡る。下を流れる水の音が一瞬だけうねり、また遠ざかる。遠くの鐘がひとつ鳴って、昼と夕方の境目を指でなぞった。ルーカスが窓を少しだけ開ける。外の空気が入ってきて、焦げたクッキーの匂いと混ざる。焦げは甘さを深くする。恐怖も、手順と混ざれば、優しさを深くする。

「今日のToDo」

 私は膝の上の手帳を開き、羽ペンを走らせる。

 ⑳孤児院:手洗い歌定着、煎じ時間“沸騰後七分”共有
 ㉑噂の主語探し→パン屋裏口/酒場“耳”カサンドル
 ㉒“魔女”の言い換え:灯り/手順/歌

 余白に、もう一行。

 →“怖い=なくならない”。刃と図表で、距離と道。歌で、橋。

 ペン先が止まる。ルーカスの視線が、私の手元に落ちた。「読みやすい」。その四文字が、今日の締めにふさわしい。私は頷いて手帳を閉じ、彼の目をまっすぐに見る。

「明日、インクの匂いに会いに行こう」

「ああ」

 了解の音が、馬車の内側で静かに鳴った。沈黙の奥で溶けていた何かは、もう液体になっていた。触れれば、指が濡れる。濡れた指先は、紙をめくるのにちょうどいい。

 馬車はゆっくりと屋敷へ向かう。街の角を曲がるたび、小さな噂の泡が車輪に弾け、私たちの背中で消えていく。消えきらない泡は、歌が、明日が、きっと処理してくれる。今夜は、呼吸を整えて、手を洗って、焦げたクッキーを半分こにする。甘いのは正義。正義は、声を荒げなくても届く。届いた場所から、世界は少しずつ、やさしくなる。私はそう信じて、深く息を吐いた。
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