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第13話 灰の会議室、刃の影が走る
しおりを挟む王城の審問室は、色を持たない部屋だった。石壁は灰、天井の梁も灰、陽を遮る重たい帳も灰。床に敷かれた古い絨毯だけがかすかに葡萄酒の褪せた赤を残しているが、それすら灰に喰われかけている。空気は冷たく乾き、息をすると喉の内側に粉がつく。人の声はここで研がれ、言葉は刃の形になる。
半円形の机の中央に、宰相ヴォルフが座っていた。蜂蜜を薄く伸ばしたような笑み、銀の留め金で飾られた杖。彼が杖の先を一度だけ床に触れる――小さな金属音が、室内の温度をさらに下げた。
「――禁呪の証拠、すべてここにある」
運び込まれた黒い布包み。封蝋は“狼”、牙は六本。私はその狼を視線の端で刺し、真正面は見ない。獲物の顔を真正面から見るのは、最後の瞬間だけでいい。
椅子に腰を下ろした私の右斜め後ろ、ルーカスが立っている。壁と道の間。護衛の距離。彼は視線を宰相にも私にも向けない。見ているのは、部屋全体の呼吸――出入り口、窓、法衣の擦れる音、紙のめくれる愚直なリズム。彼の存在は剣帯のように私の腹に落ち着きをくれる。
左後ろではミレイユが控え、膝上で帳面を開いたまま、姿勢一つ崩さない。彼女の胸ポケットには、リオンが病床から送ってよこした“商会の記録写本”が差し込まれている。革の縁が新品のようにまっすぐで、紙は薄い――昨夜、徹夜の手で書かれた証拠だ。
審問官が形式上の問いをいくつか投げる。私は丁寧に答え、答えながら室内の“噂の温度”を測る。ざわめきは浅い。誰もまだ、自分の言葉で語っていない。ここは主語のない部屋だ。主語を持ち込んだ者が、空気の相場を決める。
「伯爵家書庫より押収した“禁呪の書”」審問官が黒布を捲る。偽りの威厳が露出する。私は視線を落とし、ゆっくりと手を挙げた。
「拝見しても?」
許可。布ごと本を引き寄せ、封蝋に顔を近づける。香りは薄い松脂とスミレ。アルバ・インク今季の配合。蝋の縁はまだわずかに艶を持ち、押圧角度は手首――“王家の狼”は肘で押すのが規範。私は指一本で机の木目をとん、と叩き、声の刃先を整えた。
「このインク、王都東区の“新興商会”の調合ですね。宰相閣下の仕入れ先」
室内の灰が、一瞬だけ色を持った。視線が動く。空気に“主語”が戻る。ヴォルフは笑い、笑いの幕をほんの少し厚くした。
「面白い。市井の調合までご存知とは」
「ええ。書類は正直者ですから」
ミレイユが一歩進み、帳面から写しを取り出して審問官へ手渡す。紙は二種類――“アルバ・インク商会の納入帳簿”と、“宰相府購買記録”。日付は重なる。印章は“狼”。牙は六本。私は二枚の紙が重なる“この一点”を指で示した。
「宰相府が“狼印の修繕”を依頼した記録。牙の数は五から六へ――修繕というより“増歯”ですね」
ざわり、と灰が揺れた。審問官の一人が眼鏡を指で上げ、紙へ身を乗り出す。ヴォルフは杖をもう一度だけ床に触れさせ、乾いた音で空気を押さえた。
「印章の修繕など、珍しくもない。狼は咆哮の象徴、牙が多い方が――」
「美意識の話ではなく、規格の話です。王室印章の牙は五。数は“制度”。制度は勝手に増えない」
制度。ここにいる誰もが逃れられない単語。私は次の刃を抜く前に、呼吸を整えた。四で吸って、七で止めて、八で吐く。胸の中の火が、燃えすぎない範囲で静かに立つ。
「さらに、封蝋の縁。“濡れ”が残っています。最近押した証拠。伯爵家書庫の気温では、ここまで艶は残らない。……押収の前夜、あるいは当日朝に“仕込んだ”と見るのが妥当です」
審問官が互いを見やる。誰かが咳払いをして、灰を舌先で転がした。私は続ける。紙の流れをこちらに引くために、主語を増やす。
「禁呪を作ったのは、伯爵家ではなく――宰相府のほう」
言い切る。灰色の空気がぱちんと割れる音が、私にははっきり聞こえた。ざわめきが二度、三度、波のように巡り、背後の壁で砕ける。ヴォルフの笑みが氷のように停止した。停止はひび割れの予告。彼は静かに口を開く。
「根拠は、乙女の嗅覚と“市井の帳簿”かね」
蜂蜜の皮を被った嘲り。私は笑いを返し、すこしだけ甘くする。蜂蜜に蜂蜜を重ねると、喉は絡まず流れる。
「嗅覚だけではありません。――ミレイユ」
「はい」
ミレイユが新たな紙束を差し出した。筆致の比較表。末尾署名の“L”、起筆角度、圧痕の深さ、呼吸の癖。私が指先で上へ滑らせるたび、グラフの線が異なる方向を示す。
「押収命令書の署名は、騎士団長閣下の筆跡に似せられています。しかし“L”の起筆角、“止め”の跳ね――ここが違う。団長の“L”は、左肩で落ちる。これは手首で落ちている」
ルーカスの眉が、わずかに動いた。微細な揺れ。肯定。彼は何も言わず、ただ顎を一度だけ引く。職務の鎧は着たまま、心の火だけをこちらへ渡す。
「そして、こちらが“アルバ・インク商会”の納品伝票。宰相府と王都東区の情報屋“カサンドル”が“紹介料”名目で帳尻を合わせている。紹介料は、噂の増幅器の燃料」
机の端で紙が跳ね、誰かが「馬鹿な」と呟き、別の誰かが「ありうる」と呟く。二つの呟きが中空で交差し、灰に小さな火花を飛ばした。ヴォルフは笑わない。笑わないで、静かに目を細める。薄い膜の奥で、計算の歯車が忙しく回る音がする。
「王命により押収されたものだ。君の“推論”で覆ると思うかね」
「推論ではありません。記録です」
私は最後の紙を持ち上げた。リオンの写した“香料配合の比較表”。今季のアルバは、松脂にスミレを薄く足している。王城の書庫にある伝統の蝋は、草の乾いた匂い。混ざらない。混ぜてはいけないものだ。美学の話ではなく、衛生の話に近い。匂いの衛生。
「病床から、弟が書いてくれました。医療の感覚で。匂いは、嘘をつかない」
ミレイユが小さく頷き、審問官の一人――年嵩の男が興味深そうに身を乗り出す。「拝見」。紙が渡り、視線がそれを追って動く。動く視線の流れに合わせて、私は言葉の流れを重ねる。
「宰相閣下、あなたは狼の牙を増やした。制度に“都合”を足した。禁呪を作ったのは伯爵家ではなく――宰相府。噂は“周縁から中心へ”増幅され、押収は“劇”として演出された。……劇には観客が必要です。でも、今日ここにいるのは観客ではなく、記録者」
灰の部屋が、一瞬だけ呼吸を忘れた。ヴォルフの指先が杖の銀留めを一度だけ叩く。カン、と音が出る。彼はその音を舐めるように微笑んだ。
「記録者、ね。では、記録しておくがいい――“伯爵令嬢は、宰相を侮辱した”と」
刃。来る。私は先に鞘を差し出した。侮辱の刃は、正面で受けない。角度をつけ、滑らせる。
「侮辱ではありません。仕様確認です」
――仕様という言葉は、この部屋で誰も使わない語彙だ。耳が一斉にこちらを向くのが分かる。私は続ける。仕様の説明は、世界を一度平らにする。
「“王命”という仕様の強度、“印章”という仕様の一貫性、“購買”という仕様の透明性。三つの仕様が守られていれば、この部屋は灰色でいられる。でも、一つでも歯抜けにしたら、灰は黒になる。――今、黒に近いのは、どちらでしょう」
ヴォルフの笑みが、今度こそ薄くひび割れた。割れ目の向こうに見えるのは、蜂蜜ではない。乾いた砂だ。彼は砂を口に含み、滑らかに飲み込む仕草で言った。
「騎士団長。君はどう見る」
視線がルーカスに向く。彼は一拍だけ間を置き、氷の表情のまま、短く言った。
「記録は、整合すべきだ」
それだけ。だが、その“だけ”が刃だった。彼は自分の刃を抜かなかった。抜かずに、室内の全ての刃の角度を変えた。審問官のうち二人が、紙にもう一度目を落とす。灰が少し湿る。湿った灰は、火を嫌う。
「裏付け、完了しました」
ミレイユが囁く。彼女の指は、帳面の余白に小さくチェックを入れ、次の動線を引いている。“狼印の規格書原本、謄写請求”。その矢印は王城文庫へ伸びていた。
私は一度だけ目を伏せ、深く息を吸う。喉に灰が入る。咳が出そうになるのを、数字の列で押し返す。列は盾。盾があれば、咳は祈りに変わる。
「――本日のところは、ここまでと致しましょう」
審問官長が槌を打った。乾いた音が灰の部屋に三度跳ね、壁に吸い込まれる。ヴォルフは立ち上がり、杖を軽く鳴らし、蜂蜜の皮をもう一枚重ねてから、薄く会釈した。
「実務、お見事だったよ、伯爵令嬢。次も、楽しみにしている」
蜂蜜の膜を残して、彼は退場する。蜂蜜は喉に絡む。私は水を一口飲み、舌で喉の膜を剥がす。ルーカスが半歩、近づいた。距離の精密さが可笑しいほど正確で、私は危うく笑うところだった。
「よくやった」
「“読みやすい”が、欲しい」
「読みやすい」
胸の真ん中で、何かがほどける。ミレイユが近寄り、ポケットからそっと薄い封を私に渡す。リオンからだ。中には細い紙切れが一枚。〈松脂+スミレ=アルバ 狼牙=5固定 君は大丈夫〉。筆致は少し震えているのに、言葉はすっと立っている。私は紙を握りしめ、指の温度で折り目を一つ作った。
「帰りましょう」
ミレイユの声。私は頷く。灰の部屋を出ると、外の回廊に薄い光が走っていた。石の床が冷たく、廊下の窓から見える王都の空は、今にも雨を選びそうな曖昧な灰色。けれど、風の中にパンの匂いが混じる――酵母の息。生活の匂いは、灰を薄める。
階段を降りる途中、私はルーカスの横顔を盗み見た。氷の彫像みたいな横顔。でも、喉の下で小さく動く筋肉が、いまの戦いの温度を隠しきれていない。彼は私の視線に気づき、ほんのわずかに顎を引いた。“見ている”。その一言の代わり。
「帰ったら、図表を更新する。狼印の規格書、商会の支払い期日、情報屋カサンドルの証言――」
「俺は兵の動きを“整える”。……噂の刃が暴れないように」
「うん。刃の影は、さっき走ったから」
「見えたか」
「影は、いつも先に走る。刃は後から」
彼が短く息を吐いた。その吐息は、灰の部屋にはなかった湿りを含んでいる。私たちは同時に歩調を合わせた。壁と道の間。護衛と被疑者と、記録者と実務屋と。役割はバラバラでも、足音は揃う。
王城を出ると、曖昧だった空が少しだけ青を選んだ。微かな陽が石畳に落ち、蹄鉄の跡が光る。馬車に乗り込む前、私は手帳を開き、項目を三つ増やす。
㉓王城文庫へ:狼印“規格書”謄写請求
㉔アルバ・インク“紹介料”の流れ→カサンドル証言取り付け
㉕審問室温度=灰(主語の奪還で変色)
余白に、小さく落書き。
→“記録は整合すべきだ”=刃なき刃。好き。
ペン先を置く。窓の外で、パン屋の煙突から白い煙が上がる。蜂蜜の匂いが、灰の中に細い道を作る。今日、刃の影は走った。次は本物の刃を走らせないために、図表の線をもう少しだけ濃くする。私はそれを確かめるみたいに、胸の前で両手を組み、軍式の呼吸をひとつやった。四で吸って、七で止めて、八で吐く。吐いた息が、灰の残り香を押し出して、車内に新しい空気を満たした。
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