婚約破棄された瞬間、隠していた本性が暴走しました〜悪女の逆襲〜

タマ マコト

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第19話 風の中の微笑み

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 朝一番、ニュースアプリが一斉に鳴った。「家名で正す」。Eの声明。白いバックに黒いフォント、古い家紋。胸に入ってくる前に、指で「既読」にして流す。受け止めるのは、手順だけでいい。

 久遠からメッセ。 『家名パンチ、来た。手順で受ける。テンプレ準備』 『“意思決定ログ公開の雛形”を出す。家名じゃなく、ログで正すってこと』 『了解。9:30に一次、11:00に補足Q&A』

 キッチンで西園寺がコーヒーを淹れている。湯気の向こうで、彼は短く言う。 「今日は風が強いそうです」 「ちょうどいい。風通しの資料、出す日だし」 「洒落が効いています」 「意図してない」

 9:30。一次投稿。「意思決定ログ公開の雛形」。誰が・いつ・どこで・何に賛成/反対・理由・代替案・利益相反の申告欄・公開期限。PDFとスプレッドシートの両方。本文は短く、「家名ではなくログで正す」。投稿後、背中の真ん中に糸を結び直す。4で吸って7止めて8吐く。体の内側が少し冷える。冷たいのはいい。切る前の刃は冷たいほうがいい。

 すぐに社内の“修理図”チャンネルから反応。「これ、経営会議にも使える」「外にも出せる」。現場の声の速さが心拍をいい方向に引っ張る。E側からは「古いものを壊すな」の合唱。壊してない。翻訳している。

 11:00の補足Q&Aを書いていると、父から一行だけ来た。 「署名、断った」  十文字に血が通っている。私は「了解」と返して、続けて打つ。「母にプリン」。既読だけ付いた。返事はない。でも、たぶん、病院へ寄るつもりだ。

 午後いち、病院。エレベーター待ちの吹き抜けに、外の風がひゅうと入ってくる。冷たいというより、軽い。病室でプリンの蓋を開けると、母の睫毛が一回だけ揺れた。 「今日はね、“莉桜”で行くって宣言した次の日。まだ生きてる」  スプーンで角をちょっと崩して、香りを鼻先へ。看護師が静かに頷く。「風が強い日、食べられる患者さんが多いんですよ。理由は分からないけど」。そうなんだ、と返して、ポケットの中でスマホが震える。真白。

『理科の実験で風の向き測った。髪が全部東にいった』 『動画希望』  送られてきた十秒。校庭で彼女が笑いながら髪を押さえてる。風の中の笑いは、音が少し透けて聞こえる。

 病院を出て、その足で区立図書館の会議室へ向かう。「白紙の街」の最初の小さなワークショップ。資料の目録づくりの練習会だ。窓を少し開けると、紙がぱらぱらとめくれ、風が見える。参加者は十数人。会社員、パートの人、大学生、退職者。全員、誰かの生活を持っている顔。

「今日は“アーカイブの入口”を作ります。題名、作成年、書いた人、関わる合図、閲覧の条件、公開期限。難しくない。難しくしない」  そう言って、最初のカードを手本に書く。「タイトル:会議録(昭和56年○月)」「作者:不詳」「合図:桜」「閲覧レベル:申請」「公開期限:翌年度末」。年配の男性が手を挙げる。 「“合図”って、なんです?」 「隠語です。『桜』『月』『雨』みたいな。意味を確定しないまま、まずは“ある”ことを記録しましょう」 「確定しない?」 「はい。今は“ある”と“ない”の管理で十分。意味づけは、後から」  女性が隣で頷いて、ペンを走らせる。隣の大学生がスマホで手の動きを撮っている。「弟に教えるんで」。いい、とだけ返す。

 途中で窓から一陣、強い風。机の上のカードが少し浮き、誰かが笑う。誰かが拾って渡す。笑いが連鎖していく。いい空気だ。呼吸が楽になる空気って、案外こういう小さい場から生まれる。

 休憩のとき、入口に帽子を目深にかぶった男が立っていた。Dだった。右手に封筒、左手はポケット。空っぽの目に、色が少し戻っている。 「……邪魔したくない。外でいい」  図書館の外、木の下。風が葉をひっきりなしに裏返す。Dは封筒を差し出した。 「Eの甥が作った“合図変換表”。全部じゃない。途中で変わってる。けど、初期の対応が見える。『桜=寄付』『月=会食』『雨=調整』。日付と金額、合う場所がある」 「あなたは、どうするの」 「証言する。体調が戻ったら。——俺は、間違った」 「謝罪は、被害に向けて。ここでは受け取らない」 「ああ。分かってる。……妹さんに、いつか、直接」 「彼女が選ぶ。私じゃ決めない」  Dの喉仏が上下する。 「風が強いな」 「強い日ほど、匂いが抜ける」  Dは帽子のつばに触れ、足早に去った。封筒の重さは、紙の重さと同じだったのに、腕の筋肉は確かに少し張った。

 会議室に戻って一息に二本、短い投稿をする。一本目は「目録づくりの手順」。二本目は「合図の“変換”は歴史的資料として扱う。意味づけは乱用しない」。久遠へ封筒の控えを撮って送る。 『受けた。クロスで点を打つ。出すのは、早くて明後日』 『了解。急がない。呼吸優先』

 ワークショップの終盤、参加者の一人がぽつりと言う。 「“悪女”って言葉、テレビでは嫌だったけど……今日ここに来てみたら、ちょっと違って見えました」 「違って見えるのは、あなたのほうが強くなってるからです」 「そうかな」 「うん。こっちは何も変わってない。構造に刃を当てているだけ」  その人は小さく笑って、またカードに向き直った。風でめくれた髪を耳にかける動作が、軽い。

 図書館を出ると、夕方の風が街路樹を撫でながら流れていく。信号待ちで、制服の男子が友だちの背中をぐいっと押してわははと笑い、ベビーカーの母親が帽子を押さえて微笑む。誰も私に気づかない。気づかれない時間は、ご褒美だ。

 別邸の門。西側のセンサーは既に交換済み。西園寺が門を開けるタイミングで、風が廊下を走っていく。「今日はよく入りますね」と彼が言う。「風通しの日だから」。自分で言って笑いそうになって、笑わない。笑いは夜のプリンまで取っておく。

 応接に入ると、父が座っていた。ネクタイは外している。珍しい。テーブルの上には、透明なファイル。第三者委員会の設置書類、保全命令の一覧、そして——母の病室のプリンのスプーン。洗ってある。 「食べた?」 「半分」 「半分の正義」 「……そうだな」  父の目尻が少し下がる。王の癖が抜けて、人の顔が出る瞬間。長い時間が必要だった。

「Eはまだ“家名”を言ってる」 「言わせておけばいい。家名は、呼び名。呼び名は、変えていい」 「変えるのは、怖い」 「怖いときは、背中」 「糸だな」 「そう」  父が椅子の背に指を添えて、背筋を伸ばす。ぎこちない。けど、真っ直ぐだ。

 夜、録画インタビューのテキスト版が公開された。「善は善、免罪符じゃない」の見出し。賛否がいつものように立ち上がるが、波が小さい。昼に出した“ログ雛形”が意外と伸びて、会社の人たちのタイムラインでも話題になっている。「うちの会議にも入れたい」「これ、学校の生徒会に使えそう」。いい。使ってほしい。名前を書き換えて、どこでも使えるように作った。

 真白が階段から顔を出す。 「お姉ちゃん。今日、帰り道で“がんばれ”って言われたけど、風が強かったから、ぜんぶ飛んでった」 「飛んでってよかった」 「うん。かわりに、知らないおばあさんが“いい風だねえ”って言ってて、なんか、笑っちゃった」 「それは止めないで笑っていい」 「笑った」  真白の笑いは短い。短い笑いは、長く残る。

 仕事部屋で、目録づくりのルールを締める。アクセスログは公開、ただし個人情報は黒塗り。申請の理由は短文化、却下の理由も短文化。短いほうが責任が見える。見えるものは、だいたい強い。

 窓を開ける。夜風がカーテンを押してきて、部屋の空気をやさしく動かす。スマホが震える。久遠。

『Dの封筒、初期の“桜=寄付”は一致。ただし途中で“桜=迂回支出”に変わる点あり。Eの線が太い』 『ありがとう。急がないと言ったけど、今日の風なら、少しだけ急いでもいい』 『少しだけ』 『うん。少しだけ』

 彼が続ける。 『……君のインタビュー、“悪女”の定義よかった。冷たい説明が、救いになる人がいる』 『冷たさは、やさしさの予備電源』 『節電モードの同志として同意する』 『うるさい』

 最後のメッセージは父からだった。 「明日、母さんにプリン。持っていく」 『固めの正義』 「了解」

 階下へ降りる。西園寺が冷蔵庫からプリンを出し、スプーンを二本。テーブルに座ると、真白が髪を結び直しながらやって来る。三人でスプーンを入れる。角が崩れると、ふっと香りが立つ。甘さは規則だ。ルールをひと匙、口に入れる。今日の雑音が遠のく。

「ねえ、お姉ちゃん」 「なに」 「“悪女”、まだ呼ばれる?」 「呼ばれる。たぶん、しばらく」 「じゃあ、“悪女と呼ばれても”、笑ってていい?」 「いい。風の中で、笑って」 「うん」  真白が頷く。窓の外で、木がざわざわと笑う。

 寝る前、ノートに短くまとめる。

——家名のパンチは、ログで受ける。王国の言葉には、街の仕様書で返す。病室でプリンは半分。風の中の笑いは軽くて強い。図書館の机で誰かが笑って、カードが回って、目録が増える。Dは来た。封筒は軽く、意味は重い。父は署名を断って、糸を結んだ。私は“莉桜”でいる。呼ばれ方は勝手に決まる。決めるのは、やることの順番。朝は雛形、昼は練習、夕方は風、夜はプリン。明日も、風が吹く——

 灯りを落とし、背中の真ん中に糸。4で吸って7止めて8吐く。目を閉じる直前、病院の廊下で看護師が言った「風が強い日は食べられる人が多い」の一言がふと戻ってくる。たぶん、それは、笑える日だという意味でもある。風は余計な匂いを抜いて、笑いをそのままにする。私も同じことをやる。余計なものを抜き、必要なものだけ残す。残ったものの中に、微笑みがひとつぶんあれば十分だ。そう思って、眠りに落ちた。翌朝の風の音まで、まっすぐに。

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