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第4話 汚れは落ちない、と決めつける手
しおりを挟む午前の鐘が二度、石の腹で鈍く鳴った。
私は洗い場で布を絞っていた。泡の白は軽く、匂いはきつい。指のひびがまた開いて、赤い細線が一つ増える。——そのときだった。
「リリア。謁見の間まで」
上級メイドの声は、光沢のある靴のように固く冷たい。
私の名前を呼ぶのは珍しい。たいていは“雑巾”で済む。まともな名前に一瞬だけ救われそうになるが、その顔を見て救いの蓋は閉まる。笑っているのに、目の奥だけがまったく笑っていない。
「はい。何か、ありましたか」
「あなたが壊したものの件よ」
「……壊し、た?」
心当たりはない。
壊れかけのものを直した記憶ならいくつもある。だが、壊した覚えは——
「王妃の鏡。王城の宝物。朝、礼拝前にひびが入ってたわ」
息が詰まる。
王妃の鏡。礼拝室の脇に置かれた古い鏡。金の蔦模様の枠。背面には王家の紋。髪の乱れを直す人々の気に当てられ、私が通るたびに曇っていた鏡。確かに今朝、布で枠を拭いた。でも——
「触れて、いません。枠だけ……」
「枠を拭くときに倒したのね。そういうことにしましょう」
そういうことにしましょう、は、そういうことに決めた、だ。
私は口を開きかけるが、胸の紋がちくりと刺して、言葉の端を切る。ここで反論する声は、白い壁に吸われるだけ。
「参りましょう。王子はお待ちかね」
謁見の間は、今日も冷蔵庫みたいに冷たい。
赤い絨毯の上に靴音が連なり、ひな壇の上にはセオドール。笑っている。浅く、楽しく、退屈しのぎを見つけた子どものように。左右には文官、司祭、侍女長。吊るされた大燭台は昼なのに灯っていて、炎が小刻みに震えている。
「雑役係。前へ」
私は歩く。
足裏の布越しに、石の筋が数えられる。膝をつくと、石の冷たさが骨を通って心臓に届く。胸の紋がじり、と熱を上げる。
「器物破損。王妃の鏡にひび。お前はそこにいた。拭いた。触れた。結果、ひび」
セオドールは芝居がうまい。
言葉は短く、間は長く、余韻を聴衆に渡す。
背後の列から、ささやく音。「まあ」「やだ」「下々は手元が」——私の背中を舐める声。冷たい薄氷みたいな笑い。
「弁明は?」
「枠しか触れていません。鏡面には、指一本……」
「指一本、で、充分だ」
間に挟まれた“で”の柔らかさが、刃物の研ぎ目みたいに細く光る。
私の喉は乾く。舌の先に金属の味。言いたい言葉はある。——“ほどけて”。けれど、ここでほどいたら、何がほどける? 私の立場? 王妃の機嫌? 城の“秩序”という綺麗な言葉の糸? ノアの言葉がよぎる。「ほどきすぎるな」。私は唇を噛んで、飲み込む。
司祭が前に出て、羊皮紙を広げる。
形式的な問いが続く。「何時」「何処」「誰が見た」「誰が言った」。証言はすでに揃っている。上級メイドが「私が見ました」と虚飾のない声で言い、侍女見習い二人が「確かに」と合わせて頷く。私の言葉は、最初から必要とされていない。
セオドールはゆっくりと立ち上がり、ひな壇の縁で指を組む。
笑う。美しい。氷菓子みたい。甘いのに冷たい。
「王城の歯車を鈍らせ、宝物に傷をつけ、秩序を乱し、上の慈悲を知らぬ者に、相応しい扱いがある」
私は息を止める。
この先の文句は、知っている。昨日、彼は「不要」と言った。今日は——
「不要物の退去は王の慈悲だ」
言った。
ひとつ高い段の上から降ってきた言葉は、赤い絨毯に落ち、跳ねず、そのまま私の膝に沈む。沈むのに、刺さる。不思議な物理。周りから拍手が起こる。抑制の利いた、礼儀作法に従った拍手。冷笑の音色。
膝の下の石が少しだけ、震えた気がした。私の体の震えか、石の震えか。わからない。わからないが、胸の紋は針で突かれたみたいに鋭く疼き、視界の端に星の細粉がふっと舞う。
「判は以上。明日の日暮れまでに城外へ。持ち出してよい荷は一つまで。門番に名を告げよ。——名はあるのか?」
彼はおどけたように首を傾げる。
笑いが漏れる。「雑巾で良かったんじゃ」と、誰か。
私は頭を上げ、正面を見る。目が合う。刃物のような青。そこに映る私は、小さく、薄い。
「リリア・クローデル」
自分の声が、石を撫でるみたいに低く出た。
セオドールは唇をわずかに持ち上げ、「覚えておこう」と言った。覚える? 本当に? あるいは、覚えたふりをして、忘れる訓練をしているのかもしれない。
「下がれ」
それが合図。
私は立ち上がる。足が軽い。軽いのは、宙づりだからだ。足場は、もうない。
背を向ける寸前、背後の列の端。柱の陰。——銀いろの光点が一つ、ふたつ、瞬いた。ノア。彼は列の外ではない。列の“下”にいる。影の定位置。拳が、固く握られていた。指の骨が白く浮くほどに。
彼の目と、刹那、視線が絡む。
「今は、動かない」
言葉は交わさない。けれど、伝わる。私は首を小さく振る。大丈夫、などと言えない。けれど、今じゃない。ここじゃない。ほどく場所を間違えたら、世界は最悪の縫い目を持つ。
謁見の間を出たとき、足が震えた。
廊下の白は、今日ほど冷たかったことがない。壁の魔法灯が呼吸をひとつ乱し、床の石は音を飲み込んだ。人の目は通り過ぎ、声は私を素通りする。存在の輪郭が薄いほうが、痛みは少ない。そんな慰めは今、役に立たない。
部屋に戻る。
引き出しは少ない。持ち物も少ない。手帳、針と糸、祖母の形見の木の櫛、乾いたパンの端、修理の小さな工具袋、薬草を少し。布袋に入れると、それだけで“荷”の規定に触れる。重さは大したことがないのに、意味が重い。
窓を開ける。風は黒霧を含み、喉の奥にざらざらを置いていく。遠くで子どもの泣き声。咳。鐘の音。封印陣の寝返り。全部が、私の背中を外へ押す。
夕暮れまでに、扉に鍵をかけ、布団を畳み、部屋に「ありがとう」と小さな声で言った。この狭い空間は、私を薄くしたけど、私を隠してもくれた。二つは矛盾しない。
夜。
裏門へ。
城壁の影は濃く、門の鉄は冷たく、衛兵の顔は眠そうだ。名を告げると、帳面に字が増える音がした。彼らの目には哀れみはない。ただの手続き。私は頷いて、門の片側に立つ。
荷包みは一つ。
粗末。布の端から薬草の匂いがする。ミント、タイム、少しラベンダー。黒霧の気配を少しだけ押し返す香り。けれど霧はしつこく、肌に薄い膜を張る。頬を舐める冷たさ。胸の紋が、それに反応して刺すように疼く。内側から「まだだ」と言っているみたいに。
「——行くのか」
背中に、低い声。
振り向くと、ノアがいた。いつもの影の服装。だが今日は、肩にコートをかけている。厚手の、城の備品でも寄付でもない、個人の匂いのするコート。何年も着込まれた布の重み。
「追ってきたら、怒られる?」
「怒られている」
「先に怒られてるの、ずるい」
「俺はいつも先に怒られる」
肩で、笑う気配だけが動いた。
ノアはコートを私の肩に掛けた。生地が重く落ち、体温の膜が一枚できる。彼の匂い。土、鉄、煙。わずかにミント——いや、たぶんそれは私だ。私の指に残った香りが、布に移って重なったのだ。
「行け。北門の外で待つ」
「……あなたは?」
「地下に縛られてる」
いつか聞いた言葉。
けれど、次が違う。
「けど、約束する。すぐ行く」
胸の奥で何かがほどけ、同時にきゅっと結ばれる。
ほどけたのは恐怖の糸。結ばれたのは、期待の糸。
私は頷く。頷くしか、ない。
「本当に? “すぐ”って、王族の“すぐ”じゃないよね」
「王族じゃない」
「知ってる」
「俺は約束を守る。守らないと、生き残れない」
「生き残って」
「お前も」
会話が短くなるほど、体の中心がはっきりする。
彼は門の陰に半歩退き、衛兵の視界を遮る。私は門の線を越える前に、振り向いた。
「ノア。ねえ」
「何だ」
「私、泣く時間を、もうけてもいい?」
「泣け。二十呼吸」
「短っ」
「三十」
「四十で手を打とう」
「……わかった」
笑いながら、喉が詰まる。
笑いは水に強いけれど、涙は火に弱い。胸の紋が、霧に反応して尖り、刺してくる。刺された場所から熱が溢れて、目に集まる。私は荷包みを抱き締め、コートを強く掴む。
「行け」
ノアの声が低く、近い。
私はうなずき、門の線を越える。石から土になる足裏。土から草に変わる匂い。草から霧へ。外の空気は冷たい。冷たいはずなのに、火傷みたいな痛みを持っている。頬の上を舐め、耳の裏に入り、髪の根元を湿す。
振り返ると、ノアは影の中。
角の輪郭だけが星明かりで淡く光る。銀いろの瞳は、門の鉄越しにこちらを見ている。衛兵は無関心を装って横を向き、石の柱の上で火が揺れる。城の中は白く、外は灰色。境界線に私は立っている。
「北門の外。古い楢の木の根元。そこに」
「わかった。……すぐ?」
「すぐだ」
「信じていい?」
「信じろ。疑うなら、見張れ」
「見張る。見届ける、でしょ」
「そうだ」
私はもう一度だけ頷いて、背を向ける。
足を出すたび、霧が足首に絡みつく。草の先端が濡れて、裾を撫でる。音は小さい。世界が音量を絞っている。私の内側だけが、音を上げている。心臓、呼吸、封印紋。三つがずれて、やがて揃いかけて、またずれる。リズムの迷子。
城壁から少し離れたところで、一度止まった。
コートの襟を立て、頬に当てる。布の内側に自分の吐息がこもり、ミントの匂いと混ざる。目を閉じる。涙は熱で蒸発し、皮膚に塩を落とす。四十呼吸。数える。吸って、数えて、吐いて、数える。
一。二。三——
十。十一。十二。
二十七で、足音。
いや、足音ではない。地面の下で、糸が震えるような、封印陣の寝返り。東塔からは遠い。けれど、王城全体の底に張られた見えない網が、一斉に小さく軋んだ。黒霧が、息を吸った。世界の肺が、冷気を満たした。
三十五。三十六。
胸の紋が、鋭く刺す。
まるで誰かが内側から爪で引っ掻いたみたいに。視界の端で星の粉が爆ぜ、暗闇の中に白い微粒子が散る。痛い。けれど、痛みの先に何かがある。ドアの鍵穴に小さな鍵を合わせている感触。鍵はまだ回らない。けれど、鍵穴がそこにあることだけは、確かだ。
四十。
私は涙を拭き、顔を上げる。
振り返らない。振り返ったら、戻りたくなる。戻れない。戻らない。私は北に向けて歩く。城壁の曲線は背中で丸くなり、空の星は霧の布越しに鈍く光る。遠くで犬が一度吠え、すぐ黙る。人の声はない。風の声だけが、草の縁を撫でる。
足元の道は、石から土へ、土から砂利へ、砂利からまた土へ。
私の靴底は薄い。石の角で足裏が痛む。痛いと、現実に戻る。現実は、今、私に優しくない。けれど、嘘ではない。私は生きて歩いている。荷包みは軽く、コートは重く、心は軽くて重い。相反する荷物を両手で持って、バランスを取る。
北門の外、古い楢の木の根元。
そこまで、あと少し。
私は一度だけ、声にならない声で囁く。胸の中、小さく、小さく。
「——ほどけないで。今は、まだ」
封印にも、霧にも、恐怖にも、そして私の弱さにも。
言葉は霧に吸われ、消えたように見える。けれど、胸の紋の角は、ほんの少しだけ鈍くなる。針が縫い針から待ち針に変わるくらいの差。今夜を越えるには、それで十分だ。
私は歩く。
約束の場所へ。
ノアの言葉へ。
「すぐ行く」という短い未来へ。
冷たい霧が頬を舐めるたび、私は顔をしかめて笑う。痛いけれど、痛みは合図。生きている、という簡単で強い合図。
城の灯りは遠く、星の灯りは薄く、地面の灯りはない。
それでも、足は前へ出る。
“不要”と宣告された足が、まだ、私のために進む。
汚れは落ちない——と、誰かが決めつけた手を、私は背に感じながら。
その手を、いつか言葉でほどくために。
その“いつか”を早めるために。
私は、夜の北へ。
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