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第8話 狩人は祈り、祈りは刃になる
しおりを挟む森の空気が、祈りの匂いでざらついた。
雨上がりの湿りは葉に残り、土は重たく息をしている。なのに、風の粒にだけ砂の感触が混じる。誰かが言葉を砕いて粉にし、空へ撒いた気配。私は耳を澄ます。祝詞の音は、鈴より細く、刃物より真っ直ぐだ。
「——来る」
ノアの銀の瞳がわずかに細くなる。
彼は肩を回し、拳を握り、開く。握った掌の骨が白くきしむ。角の根元が風向きを嗅ぎ分け、彼の喉が低く鳴る。「祈祷師団」。王都の白で縁取られた黒。祈りを武器に変える職掌。セオドールの命が、森に入った。
第一陣は、鎖の音で来た。
姿より先に音。聖紋が焼き込まれた鎖が、幾筋も樹間を走る。葉を切らずに、空気と意味を縛って来る。「正しさ」の音色。鎖は物理じゃない。宣言だ。「汝、此処に留まれ」。
第二陣は、羽音。祝詞で編まれた矢が、光を羽根にして散る。狙いは心臓と喉。手練だ。声を捥ごうとしている。
「分かれよう」
「離れない」
「離れる、じゃない。役割を分ける」
「……言い方ズルい」
私は笑って、心拍の針を一段落とした。
背で吸う。三つ数える。離す。胸の湖に波紋が広がり、白い髪が首筋に触れて冷える。ノアは地面に踵を刻み、重さの軸を固める。彼の仕事は「殴る」のではなく「返す」。私の仕事は「ほどく」。ただし——
「殺さない」
「わかってる」
木立の陰から祈祷師団が現れた。
白い外套、額に銀の板、喉元に印章。顔は若い。声は古い。彼らの足元には祈りの糸が走り、足音は土ではなく、式の上で鳴る。先頭の一人が祝詞を掲げ、鎖が生き物のように私の足首を狙って跳んだ。
「下がれ」
声を低く落とす。
地面が静かに沈み、鎖の軌道が一拍分だけ遅れる。空白。そこにノアの足が入る。彼の甲が鎖の腹を擦り、火花が乾いた音を立てる。聖紋の刻印がひとつ欠けた。鎖は痛覚のない蛇みたいにのたうち、軌道を修正してまた来る。
「鎖、意味で来る」
「なら、意味で止める」
私は吸い、三つ数えて——「ほどけ」と言いかけた舌を噛む。禁じ札。代わりに、言葉の手前を選ぶ。鎖の「正しさ」を指で撫でて、結ぶ手を外す。
「——やわらげ」
命令ではない。勧誘。
鎖の光が一段階、柔らかくなる。鉄が布になるみたいにしなり、足首への輪が解体されて“ひも”に戻る。ひもは私の脛を撫で、地面に落ちた。祝詞の矢が来る。羽音。矢じりは光。「止まれ」を喉に積み上げかけ、私は呼吸で代用する。
「低く」
矢は墜ちない。だが、落ち「気味」になる。重さのわずかな変更で、狙いは手前に落ち、樹皮に吸われて消える。祈祷師のひとりが舌打ちし、別の音程で祈る。音程が変わるたび、刃は角度を変える。祈りは、刃になる。きれいな刃だ。きれいだから厄介だ。
「ノア、右」
彼はもう動いていた。
祈祷師のひとりが踏んだ式の図が、彼の踵で割られる。式が破れ、足元の支えを失った祈祷師が膝から落ちる。ノアは彼の喉を外して肩口に拳を叩き込み、意識を刈る。血が拳に滲む。祝詞は、ひとつ黙る。
「殺してない」
「当たり前だ」
胸の湖がざわめく。
次の鎖は、意味を増やして来た。「抵抗する者は咎ある者」。鎖が発する宣言に、私の名前が薄く載る。「リリア・クローデル」。縛りは名を欲しがる。名は鎖だ。私は首を振り、呼吸を数える。
吸って——三つ。
離す。
鎖の宣言の「主語」を少しだけ回す。
汝、は、我ら。我ら、は、彼ら。
指先で意味の矢印をひっくり返し、鎖に鎖を教える。
「返して」
鎖はわずかに狼狽し、祈祷師の足元で絡まり合った。足をすくわれた一人が尻餅をつき、後列の矢が前列の肩に刺さる——刺さらない。式の矢は肉を求めない。祈りの上でしか刺さらない。仲間に向けた瞬間、矢は自壊した。白い粉。粉は雨上がりの光を飲んで、儚く落ちる。
「お前たちは誰だ! 魔——」
“女”と言いかけた口を、私は指一本で黙らせる。
言葉じゃない。空気の流れ。喉元の筋肉の緊張に「楽」を与える。音が出ない。彼は驚いて舌を噛み、口の中で自分の祈りを迷子にした。彼の目が私を見、次にノアを見、最後に自分の足元を見る。
「やりすぎるな」
「わかってる」
祝詞の矢の雨脚が強まる。
矢は光の鱗粉になって空に舞い、降り注ぐ。私の白い髪に薄く付着し、冷たい。肌に触れた瞬間、罪と罰の定義が皮膚の上に文字で現れる感覚。「汝、罪びと」。私はうっすら笑って、その定義に「?」を付け足す。「本当に?」。
矢の角度が乱れ、空の上で互いにぶつかり合う。祈祷師の喉は焦りを覚え、祝詞の速度が上がる。速くなるほど、言葉は薄くなる。意味の密度が落ちる。私はそこを撫でる。
「眠って」
命令ではない。ただ、夜の音量にする。
鎖は床の上で蛇に戻り、矢は枝葉に花粉として残る。祈祷師の一人が私に突っ込んで来る。体術。うまい。喉を狙う掌底。私の肩がわずかに遅れる。背の包帯がきしむ。ノアが間に入るより早く、私は彼の手首を取った。
「——軽く」
彼の体重が、彼自身の足裏から離れる。
ふわりと浮いた体は、受け身の形を忘れ、一拍遅れて地面へ戻る。肘を打ち、息が漏れる。私はその呼気に「眠れ」を混ぜて返す。彼は目を閉じた。安らかに眠る戦士の顔。刃ではない。眠りだ。
「殺さず、無力化。……筋が通ってる」
「通し続けるの、疲れる」
「俺が殴る分、減る」
「減らさないで」
「わかった」
戦いは、長い。
祈祷師は交代で祈り、矢と鎖の意味を変えてくる。「赦し」が「拘束」に変わり、「救い」が「斬首」の比喩にすり替わる。祈りは文法の刃。美しい言葉ほど、切れ味がいい。私はその刃に指を添え、向きを変える。指に紙の切り傷のような痛みが増える。痛みは、記憶のタグだ。——はずだった。
ふ、と。
いきなり、ひとつ、記憶が、指から滑り落ちた。
床に落ちたパンくずみたいに。拾おうとしても、指が空を掴む。
「リリア——」
「待って。……あれ。私、あの子の……」
喉の奥が乾く。
階段の踊り場。帽子のほつれ。袖の汚れ。あの小さな手の温度。あの、咳の止まり方。あの——名前。
名前が、出ない。
胸の湖に、小さな穴が空いた。そこから、水が一滴だけ、こぼれる。
「パンを、あげた子の名前……思い出せない」
ちいさく言う。
言った瞬間、穴が少し広がる。
声は、穴を広げる。けれど、言わないと、私が私じゃなくなる。
ノアの拳が、祈祷師の肩に落ちる。彼は倒れる。ノアがこちらを向く。彼の拳は血で濡れて、皮膚が裂け、骨に近いところに赤が滲む。彼の目は、私の穴を覗き込む目だ。
「代償、か」
「ほどいてない。殺してない。なのに……」
「意味をほどいた。意味は記憶の隣にある。隣は、時々、壁が薄い」
「そんなの、聞いてない」
「俺も知らない」
「私、嫌だ。忘れたくないのに」
「忘れないものを、選べ」
「選べるの?」
「選ぶんだ」
祈祷師の最後の一人が、祝詞を捻じ曲げて突進してくる。
私は涙を吸い込み、胸の奥で一直線に刃を立てる感覚を作る。禁じ札は使わない。けれど、今日は境界の手前まで行く。
「——止まれ」
低い。短い。
彼の足は一歩前で止まり、膝が折れる。眠らない。ただ、止まる。止めたのは彼の筋肉の「意味」。動くことの意味を一瞬だけ奪う。彼の目が驚きに見開かれ、次の瞬間に恐怖が入る。私はその恐怖に、そっと「安心」を上塗りする。彼は呻き、意識を手放した。
静寂。
森の葉擦れが戻り、鳥が慎重に一声鳴く。
祈祷師団は地面に眠り、縛られ、呼吸を確かめられ、命は奪われていない。勝った。けれど、勝ち味は苦い。舌の裏に砂糖を隠し忘れた薬の味。胸の穴が、風に冷やされる。
「……勝った」
「ああ」
「嬉しくないね」
「嬉しくない勝ちも、ある」
「でも、選んだ。殺さないって」
「お前が選んだ。俺は殴った」
「あなたの殴り方、優しいよ」
「褒めるな。血が出てる」
「見せて」
私はノアの拳を取った。
皮膚が割れていて、細かい砂と祈りの粉が混じっている。祝詞の粉は、傷に沁みる。彼は平気な顔をしているけど、手の中の筋肉が硬くなる。私は自分のハンカチ——薄い布の端——を水で濡らし、そっと拭う。ミントの匂いが立ち上がり、血の鉄臭と混ざる。彼の指が、わずかに震えた。
「痛い?」
「痛い」
「いい。私が覚える」
「何を」
「あなたの痛みは忘れないから」
言ってから、泣きたくなる。
私にはもう、忘れてしまったものがある。名前。小さな声。あの笑い声。あのパンの裂け目。けれど、ここで私は決める。選ぶ。忘れないもの。忘れたくないもの。
ノアは目を伏せ、一瞬だけ、私の額に視線を置く。それから、いつもの平らな声で言った。
「事実だ」
「うん。事実にする」
包帯を巻き直し、指に力が入らないところは私の声で「楽」を渡す。筋肉が柔らかくなる。彼は一度握って、開く。拳はまだ赤いが、熱は引いていく。
「祈祷師団は?」
「起きる前に、縄で意味を縛っておく」
「意味を縛る縄、って表現、好き」
「実際は草だ」
「草でも効く?」
「効かないなら、効くように言えばいい」
「あなた、魔女の彼氏みたいな発言する」
「彼氏ではない」
「そうね。まだ」
口が勝手に走った。
耳が熱くなる。胸の穴の縁が少し締まる。冗談は、穴を詰める効果がある。私は草を編み、祈祷師の手首に巻きつける。縄に「ほどけるな」と囁く。意味が草に染み、結び目が固くなる。
「戻ろう」
「どこへ」
「廃教会。昨日の続き。パンも」
「糖が要る」
「うるさい。医者か」
「事実だ」
歩き出す。
土の匂いは変わらない。空の色は少し安全。葉の照り返しに光が戻り、風に刀の匂いはない。私は胸の穴を指の腹でそっと撫でる。埋まらない。けれど、縁は滑らかになった。
「ねえ、ノア」
「何だ」
「もし、もっと大事なのを忘れたら、どうしよう」
「俺が覚えてる」
「全部?」
「お前が嫌がるぶんだけ」
「嫌がらないでいる」
「難しいことを言う」
「あなたはいつも難しいことを簡単に言う」
「事実だ」
笑い合う。
笑いは軽い。私の声は軽い。けれど、誓いは重い。
——あなたの痛みは忘れない。
それは誰の祈りでもなく、私の選んだ「刃」だ。
祈りは刃になる。刃は切るだけじゃない。守るために、切るものを選べる。
森がその選択を見ていた。葉の先の露がひと粒落ち、地に静かに吸い込まれる。
歩幅が、少しだけ揃う。
心拍が、昨日より、もう一段、低く合う。
私は息を吸い、三つ数え、離した。胸の湖に、風紋がひとつ。穴の底に、微かな光。
忘れた名前に、いつか必ず辿り着く、と心のどこかで決めながら。
決めたことを、事実にするために。
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