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第7話「神殿の日常と、小さな違和感」
しおりを挟む朝いちばんに鳴るのは、鳥じゃなくて鐘だった。
カラン、カラン、と高い音が、まだ薄暗い空気を震わせる。
地方神殿の鐘は王都のものほど立派じゃないけれど、この小さな村では「一日の始まり」を告げる大事な合図だ。
レアは、その音を聞くと、ほとんど反射で目を覚ます。
「……ん」
白いシーツ。柔らかい枕。
指先で布をつまんで、ぎゅっと握ってから、ゆっくりと上体を起こした。
冬の終わりより少し進んだ、まだ朝の空気は冷たい季節。
窓から入る風が頬を撫でると、肩がぴくっと震える。
「さむ……」
小声で文句を言いながらも、習慣どおりベッドを降りる。
足に触れる床はひんやりしているが、その感触にももう慣れた。
白い簡素な服に着替え、腰まで伸びた淡い銀色の髪を、鏡の前でざっくりまとめる。
氷青の瞳が、まだ半分眠たそうに瞬いた。
「レア様、起きましたか?」
扉の向こうから、巫女のエナの声がする。
「おきたー。いま、いくー」
「寝坊してないだけえらい、ですね」
「あたりまえです」
ドアを開けると、エナがニヤニヤしながら待っていた。
エナはまだ若い巫女で、レアにとっては年の離れたお姉さんみたいな存在だ。
「さ、行きますよ。神殿長様、もう礼拝堂でスタンバってましたから」
「スタンバるって言い方、神殿ぽくないよ……」
「言葉ぐらいいいじゃないですか。ほら、遅れると“神の加護は待ってくれんぞ”って説教コースですよ」
「それは絶対やだ」
二人で廊下を小走りに進む。
石造りの廊下はひんやりしているけれど、窓から差し込む朝日がところどころに小さな金色の島を作っていた。
その光の中を通るたび、レアの髪がほんのりと光を返す。
礼拝堂に入ると、すでに数人の信者がベンチに座っていた。
農作業前に立ち寄った村人、体調を崩している老人、子どもを背負った若い母親。
神殿長が一番前で、いつもどおり背筋を伸ばして座っている。
「レア、来たか」
「おはようございます、神殿長様」
レアは小さく頭を下げて、神殿長の隣にある、小さな祈り用の台に膝をついた。
鐘の余韻が消える。
礼拝堂の空気が、少しだけ張り詰める。
「では、今日も神々に感謝を捧げよう。――レア」
「はい」
レアは両手を胸の前で組んだ。
目を閉じ、ゆっくりと息を吸う。
(きょうも、みんなが、すこしでも楽になりますように)
言葉にならない祈り。
それを、胸の奥でそっと形にしていく。
次の瞬間、じんわりとあたたかいものが指先から溢れた。
真昼の太陽みたいな強烈さではない。
冬の日向に座ったとき、じわじわと背中に染み込んでくるような、柔らかな熱。
そのあたたかさが、レアの身体を通って、周囲へと流れ出していく。
礼拝堂の空気が、ふっと柔らかくなった。
最前列に座っていた老人が、咳をしようとして――途中で止まる。
さっきまで胸の奥でひっかかっていた痰が、すっと下りていくような感覚。
「おや……?」
老人が自分の喉をさする。
横に座っている孫らしき少年が、不思議そうに首を傾げた。
別の場所では、若い母親がこめかみを押さえていた肩をそっと下ろした。
頭痛が、いつの間にか少し軽くなっている。
誰も大袈裟には騒がない。
でも、その表情には確かな変化があった。
「……ふむ」
神殿長が、横目でレアを見る。
レアは祈りに集中している。
眉間に少しだけしわが寄っているのは、真剣な証拠だ。
祈りの時間が終わると、神殿長はいつものように短い祝詞を述べた。
「本日もまた、神々の加護が我らと共にあらんことを」
「「アーメ……じゃなかった、はい」」
エナが隣の巫女にこそっとツッコまれている声が聞こえてきて、レアは思わず笑いそうになる。
笑いを飲み込みながら、そっと席を立った。
◇ ◇ ◇
祈りのあと、神殿長室。
レアは出されたハーブティーを両手で包み込みながら、椅子に座っていた。
湯気が、ふわふわと白く揺れる。
「今日も、よく祈っておったな」
「ありがとうございます」
神殿長は机に肘をつき、レアをじっと見る。
その視線は厳しくもあるけれど、どこか孫を見守る祖父のような優しさも混じっている。
「レア。お前の祈りのあと、信者たちの顔がどうなっておったか、分かるか?」
「……すこし、楽になったように、見えました」
「そうじゃ。あれは、“お前の力”でもあり、“神々の加護”でもある」
神殿長は、指先で机を軽く叩く。
「いいか、お前の中には、普通よりずっと強い聖属性がある。それは事実だ。
じゃが、その力は決して“お前だけのもの”ではない」
「……はい」
「神の加護が、お前を通って流れておる。ただそれだけのことじゃ。
だから、決しておごるな。『自分が救った』と勘違いするな。
同時に――『自分なんかが』と、必要以上に自分を貶めすぎてもいかん」
レアは、一瞬びくっとしながら、すぐに姿勢を正した。
「……みえてます?」
「何年お前を見ておると思っておる」
神殿長は、わざとらしくため息をつく。
「お前は昔から、褒められるとすぐ『私なんか』と言おうとする。それは謙遜に見えてのう」
「見えてのう?」
「自分を守る殻にもなるし、自分を傷つける刃にもなる」
レアは、ハーブティーのカップをぎゅっと握った。
温かいはずのカップが、一瞬冷たく感じる。
(自分を……傷つける)
図星だったから。
前世の記憶は、まだ霧の中だ。
でも、「自分を悪者にする癖」だけは、なぜかしっかり残っていた。
「でも、お前は偉い。ちゃんと『ありがとうございます』と言えるようになったからな」
「……えへ」
素直に嬉しくて、少し笑う。
神殿長も口元を緩めた。
「それでよい。それでこそ、“聖女候補”じゃ」
聖女候補――その言葉を聞くたび、レアは、くすぐったいような、申し訳ないような気持ちになる。
(わたしが……聖女)
まだ「候補」とは言え、村の人たちは、レアをどこか神様みたいに扱ってくる。
病気の子どもを抱いて駆け込んでくる人もいれば、畑の収穫を祈って頼んでくる人もいる。
(そんなに、すごいのかな、わたし)
自分では、実感がない。
祈ったら誰かが楽になって、泣いたら花が咲いて、
触れた鳥が飛べるようになって、転んだ子の膝の傷がすぐ消える。
それは、レアにとってはもう「日常」だった。
そのすごさを一番分かっていないのは、本人かもしれない。
◇ ◇ ◇
午前の祈りと神殿長との話が終われば、しばらくは自由時間だ。
神殿の裏庭には、小さな広場がある。
そこは、神殿で育てられている子どもたちや、近所の子たちの遊び場だ。
「レア、かくれんぼしよ!」
「えー、また? きのうもやった」
「じゃあ、今日はおいかけっこ!」
誰かがそう提案すると、レアの目がきらっと光る。
「おいかけっこ、やる!」
「ちょ、レアが本気出したら誰も勝てないって、この前学んだでしょ?」
「本気はださないから!」
あやしい宣言をしつつ、レアはスカートの裾を少しだけ摘まんで走り出す。
小さな足が地面を蹴るたび、空気がふわっと動いた。
風が、レアと一緒に走る。
普通なら髪が乱れるくらいの風なのに、レアの髪は不思議と顔にかからない。
代わりに、後ろから追いかけてくる子どもたちの背中を、そっと押してくれる。
「うわ、なんか速く走れる!」
「風が押してくれてるー!」
子どもたちは、きゃあきゃあと笑い声をあげる。
誰かが石につまずきそうになると、ふっと横から風が吹いた。
身体がわずかに浮いたみたいにバランスを取り戻し、その子は転ばずに済む。
「いま、風が助けてくれた!」
「レアが近くにいると、そういうの多いよなー」
そんな会話を聞きながら、レアは少しだけ照れくさそうに笑った。
「たまたまだよー」
そう言いつつ、内心ではちょっとだけ嬉しい。
(みんなが、ころばないで済むなら、それがいい)
自分の力が「役に立っている」と実感できる瞬間は、
レアの胸をじんわりと温かくしてくれる。
風は、彼女の無意識の願いに応じて動く。
「守りたい」「助けたい」と思った方向へ、やさしく吹く。
本人は、ただ「走っているだけ」のつもりなのに。
「レアー! こっち、こっち!」
「まってー!」
笑い声と足音が、裏庭に満ちる。
前世では味わえなかった、「同年代の子たちと無邪気に走り回る」時間。
レアはそのひとつひとつを、宝物みたいに胸にしまっていく。
――ただ、その宝物の底には、いつもすこしだけ、黒い影があった。
◇ ◇ ◇
(……こんなに、いいのかな)
ふとした瞬間、そんな考えがよぎる。
走り回って、笑って、誰かに「ありがとう」と言われて。
神殿長に褒められて、エナに頭を撫でられて。
村の人たちから祝福されて、「レア様」と呼ばれて。
(わたし、本当は……)
そこでいつも、思考は霧の壁にぶつかる。
その向こう側に、何かがある。
何か、とても大事なものが。
だけど、そこに行こうとすると、胸がぎゅっと痛くなる。
頭の奥で鈍い音が鳴って、「今はまだダメ」と言われているみたいだ。
罪悪感、という言葉を、レアはまだ知らない。
でも、それに似たものが、胸の奥にずっと居座っている。
(こんなに良くしてもらっていいのかな)
(わたし、本当は誰かをひどく傷つけたんじゃないのかな)
根拠はない。
でも、そう思ってしまう。
みんなが笑ってくれるとき。
自分の祈りで誰かが助かるとき。
(わたしなんかが、それをしていいのかな)
小さな影が、心の隅にちょこんと座る。
それはまだ名前を持たない。
でも、確かにそこにいて、レアの心に細いひびを作っていた。
◇ ◇ ◇
夜。
神殿の一日は早寝早起きが基本で、灯りが消えるのも早い。
廊下の松明が少しずつ落とされ、子どもたちの部屋にも「そろそろ寝る時間ですよ」という声がかかる。
「レア様、歯、ちゃんと磨きました?」
「みがいたー」
「お水、飲みました?」
「のんだー」
「えらい」
エナとお決まりの確認を終えて、レアはベッドに潜り込んだ。
窓の外には、星がいくつか瞬いている。
村にはあまり明かりがないから、夜空は王都よりずっと近くに見えると、誰かが言っていた。
「おやすみ、レア様」
「おやすみ、エナ」
部屋の扉が静かに閉まる。
闇が、ゆっくりと濃くなる。
それでも、レアはもう、暗闇を怖がる子どもではない。
神殿の壁の向こうには人の気配があって、外には村の灯りがある。
布団の中で丸くなって、目を閉じる。
しばらくすると、意識がふわふわしてきた。
眠りの入り口。
その境界線を越えたあたりで――。
また、「それ」が始まった。
◇ ◇ ◇
唐突に、世界が変わる。
目を開けたわけでもないのに、景色がはっきり見える。
そこは、ラグナリアじゃない。
白い石造りの広場。
高い塔と、整いすぎた建物。
夜なのに明るく、人がたくさん集まっている。
(ここ、しってる……)
レアは、夢の中の景色を「初めて」ではないと感じていた。
何度も、何度も見た。
中央に立っているのは、金髪の女の子。
今日は昼間、子どもたちと走り回っていたからか、
その姿がいつもより鮮明だった。
金色の髪は、きっちりと縦ロールに巻かれている。
深紅の瞳は、強く見えるけれど――近くで見ると、奥で怯えが震えている。
(このひと……)
名前は分からない。
でも、レアの胸が、異様な速度で高鳴る。
(しってる。しってる、はず)
その子の周りには、人の輪ができている。
王子のような格好をした少年が、冷たい目で彼女を見ている。
彼の口が動く。
聞こえてくる言葉の断片。
『罪』『聖女』『追放』『公爵令嬢』『悪役』
レアの耳に、鋭く刺さる音だ。
女の子は、必死に何かを言い返している。
でも、その声はざわめきと断罪の音にかき消されていく。
広場の空気は、冷たく、残酷で、圧迫感がある。
誰も、彼女の本当の声を聞こうとしない。
レアの指先が、ぎゅっと握られる。
(やめて)
そう言いたいのに、声が出ない。
喉に何かが詰まっているみたいだ。
場面が切り替わる。
暗い森。
白い霧。
湿った土。
肋の奥を冷やすような冷気。
女の子が、一人で歩いている。
ドレスの裾は泥だらけで、足取りは重い。
胸の中に、ぞわっとした嫌な感覚が広がった。
(ここ、いやだ)
黒い影が、霧の向こうからにじみ出るように現れる。
二つの赤い光――獣の目。
レアは、夢の中なのに、体が硬直するのをはっきり感じた。
女の子が振り向く。
恐怖が、顔ににじむ。
次の瞬間、黒い獣が飛びかかる。
牙が、白い胸元を貫く。
「――っ!」
レアの喉から、音にならない悲鳴が漏れた。
胸が苦しい。
息ができない。
何かが、レア自身の心臓を締め付けている。
血の匂い。
鉄の味。
耳鳴り。
全部、あの女の子のもののはずなのに――
なぜかレアの感覚にも重なってくる。
(やめて、やめて)
女の子の瞳から、光が消えていく。
そこで、夢は唐突に途切れた。
◇ ◇ ◇
「っ……はぁ、はぁっ……!」
レアは、ベッドの上で上半身を起こしていた。
心臓がどくどくと暴れている。
息が荒くて、喉が焼けるように痛い。
部屋は暗い。
月明かりがうっすらと差し込んで、床に淡い影を作っている。
頬を伝って、冷えた涙が落ちていった。
枕は、すでに少し濡れている。
「……また……」
小さく呟く。
何度目だろう、この夢を見るのは。
最初のうちは、ただの悪夢だと思っていた。
知らない場所、知らない人たち。
怖くて、悲しくて、目が覚めるたびに泣いていた。
でも――。
(なんで、こんなに、胸が、いたいんだろ)
夢の中の女の子が刺されるとき、レアの胸も一緒に締め付けられる。
断罪されているときの孤独感は、自分のものみたいに重い。
知らないはずの痛みが、「知っている」みたいにリアルだ。
そして――何より、怖いのは。
(わたし……)
レアは、自分の胸の前で両手をぎゅっと握った。
「……わたし、だれかを、きずつけた?」
声に出してみると、喉が震えた。
夢の中では、「聖女」と呼ばれている誰かがいて、
「悪役令嬢」と呼ばれている誰かが悪者にされていた。
レアは、「聖女候補」として神殿で大切にされている。
夢の中で断罪されていた女の子の胸の痛みが、自分のものみたいに感じるのは――
もしかして、本当は自分が誰かを傷つけたことがあるからなんじゃないか。
そんな考えが、頭の隅にこびりついて離れない。
(おもいだせないけど)
記憶は霧に隠れていて、はっきりした形を取らない。
名前も、声も、顔も。
でも、感情だけは強く残っている。
罪悪感。
後悔。
どうしようもない孤独。
「……ごめんなさい」
誰に向けたのか分からない謝罪が、唇から漏れる。
レアは、自分の膝を抱き寄せて、体を小さく丸めた。
涙が、またじわりと滲んでくる。
神殿の人たちは優しい。
村の人たちも、レアに感謝してくれる。
祈れば人の苦しみが少し軽くなって、「ありがとう」と笑顔を向けられる。
それなのに。
(わたしなんかが、こんなふうにしてて、いいのかな)
胸の中の“名付けられない影”は、少しずつ濃くなっていた。
それはまだ、「前世の記憶」という形にはならない。
でも、確実にレアの心を削り、
彼女の中に「よく分からない自己嫌悪」という種を植え付けていく。
その種が、いつか大きな扉を開けることになる――
そんな未来を、このときのレアは、もちろん知らない。
ただ、涙で濡れた枕に顔を押し付けながら、
小さな声で、何度も同じ言葉を繰り返した。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
誰のものとも知れない罪を、
まだ見えない過去に向かって、ひたすらに。
その夜、窓の外の星は、静かに瞬いているだけだった。
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私が死ぬまでには完結させます。
追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。
追記2:ひとまず完結しました!
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