追放された悪役令嬢、転生先で最強聖女とか神級とか聞いてないんだけど!?

タマ マコト

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第12話「前世世界での不穏な動き」

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 ――季節は、何度か過ぎ去っていた。

 リオネッタ・フェルディアが「聖女いじめ」の罪で断罪され、
 王都エルメリアから追放され、国境の森でその生を終えてから。

 白い大理石の城も、煌びやかな貴族街も、あの日の喧騒をすっかり飲み込んで、何事もなかったかのように時間を進めている。

 ただ、ほんの少しだけ、ひびが入った場所があった。

◇ ◇ ◇

 エルメリア王宮、東翼のバルコニー。

 夕焼けが、王都の屋根をオレンジ色に染めていた。
 遠くからは市場の喧騒と、教会の鐘の音がかすかに重なって聞こえる。

 アレス・エルメリア王太子は、手すりにもたれ、下界を見下ろしていた。

 蒼い瞳は相変わらず整った顔立ちに映えている。
 黄金の髪も、礼服も、立ち居振る舞いも、「王太子」としては完璧だ。

 ただ――視線の奥にあるものが、数年前と少し違って見えるのは、王宮の古株たちだけが気づいていることだ。

「殿下、今日のご公務はここまででございます」

 執務室からついてきた侍従が、恭しく頭を下げる。

「ああ、分かった。下がっていい」

「はっ」

 侍従が去り、バルコニーに残るのはアレスひとり。

 日が落ちていく。

(……聖女エミリアの“奇跡”の成功率が、また下がったか)

 今日の会議の議題のひとつが、頭の隅で渦巻いていた。

 数年前。
 異世界から召喚された少女エミリアは、「神託の聖女」として熱狂的に迎えられた。

 病人の床に立ち、祈れば病が治る。
 干ばつを祈れば恵みの雨が降る。
 国境の魔物は退けられ、聖女と王太子の絵は神殿に飾られ。

 ……少なくとも、そういう「物語」が必要だった。

 実際には、神殿の裏側で魔道具と儀式が並行して動き、
 聖女に足りない聖属性は、あらゆる手段で補われていた。

 だが、持たないものは、持たない。

 年月が過ぎ、エミリアの「奇跡」は、徐々に成功率を落としていった。

(最初の頃は、五割……いや、七割は“成功”にできていたはずだ)

 アレスは、淡々と数字を並べる。

(今は、裏で支えを入れても三割がいいところか)

 民に公表される「奇跡の記録」は、数字を一部盛られている。
 それを黙認したのは、自分だ。

 国の安定のため。
 聖女信仰の維持のため。
 そして――自分の選択を正当化するため。

(あの日、俺は“リオネッタ”ではなく、“エミリア”を選んだ)

 断罪の夜。

 聖女をいじめた悪役令嬢。
 そういう筋書きは、民にとって都合がよく、国政にも便利だった。

(……それで、国が動きやすくなるなら、それでよかった)

 そう、思っていた。

 いや――今も、おおむねそう思っている。

 ただ。

 聖女の「奇跡」が揺らぎ始めたときから、その選択の重さが、別の意味を持ち始めた。

(エミリアが“本物”でないなら)

 その事実そのものよりも――「それを自分が知っている」という点が、厄介だった。

「……殿下」

 背後から控えめな声がした。

 アレスは振り返る。
 そこに立っていたのは、白いローブをまとった神官長と、黒いローブの魔導士数名。

「来たか、魔道学者たち」

「は。ご報告がございます」

 神官長の後ろに控えていた魔道学者のひとりが、前に出る。

 灰色の髪を後ろでまとめ、眼鏡越しの目が興奮に光っている。

「例の“異世界干渉の門”の研究について、進展がありました」

「聞こう」

 アレスは、バルコニーから執務室へ戻る。
 大きな机の向こう側に座り、手で「続けろ」と促した。

 魔道学者は、懐から一枚の魔法陣の写しを広げる。

 そこには、複雑な円と線、それから見慣れぬ符号がぎっしりと書き込まれていた。

「以前より、我々は“世界樹理論”に基づき、世界と世界の接続について研究を進めて参りました。
 世界は一本の幹から分かれた枝葉のように、幾つもの“世界線”として存在している、と」

「世界樹がどうのという話か。神官たちは好みそうだな」

 アレスが皮肉気に言うと、神官長が苦笑する。

「宗教的表現と理論上のモデルは、必ずしも一致しておりませんが……概ねそのようなものとお考えください」

 魔道学者が頷いて続きを語る。

「その中で、ここ数年、“ある世界線”から異常に強い聖属性の波が確認されるようになりまして」

「……異常に強い?」

「はい。我々の世界と比べて、明らかに“神級”の聖属性が一点に集中している。

 さらに調査した結果、その世界線は、かつて我がエルメリアが“聖女召喚”を行った際に接続した世界と、同じ系統にあると判明しました」

 アレスの眉がぴくりと動く。

「つまり」

「“聖女エミリア”が元いた世界のごく近く――あるいは、類似性の高い世界、と考えられます」

 部屋の空気が、少しだけ重くなる。

 エミリアの故郷。
 それは、アレスにとって「聖女」という存在以外の、彼女のかけらを実感する唯一の情報だった。

(あの夜、涙ながらに語っていたな。
 “元の世界では普通の学生だった”と)

 アレスは、昔の記憶を押し流すように、あえて冷静な声で問う。

「要件を、簡潔に」

「はい」

 魔道学者は頷き、眼鏡を押し上げる。

「その世界に、我々の基準から見て“神級”と呼べるレベルの聖女が存在します。
 彼女が動くたび、世界全体の聖属性の流れが変わるほどに」

 神級――。

 部屋の中の誰かが、息を呑む。

 神官長が小さく呟いた。

「……神話の中の聖女レベル、ということか」

「誇張抜きで、そう表現しても差し支えないかと。
 実際、疫病の鎮静、大規模魔物の封殺、天候の操作などを短期間に複数回引き起こしているようです」

「天候の操作、だと?」

 アレスの目が細くなる。

 雨乞い程度の儀式なら、この世界にもある。
 しかし、成功率は低く、規模も限られる。

「ここまで明確に“雨を降らせた”“光の壁で侵攻を防いだ”という記録が複数残っている例は、極めて稀です。
 しかも……」

 魔道学者は、少しだけ声を潜めた。

「その聖女とおぼしき者の“魂の波形”を解析したところ……
 どうやら、“こちら側”からの転生者である可能性が高いと出まして」

 室内の空気が、一瞬ぎくりと固まる。

 神官長が眉をひそめる。

「こちら側……というと?」

「我々の世界、エルメリアを含む世界系統から分岐した魂、ということです」

「つまり」

 アレスは、机の上で指を組んだ。

「その聖女は――元は、こちら側の人間だった、と」

「はい。少なくとも、その可能性が非常に高い。
 古い記録では、“魂は同じ系統の世界を巡る”と言われておりますが、それを裏付ける結果かと」

 転生。

 アレスは、その言葉に特別な感慨は抱かなかった。

 神官たちは「輪廻」だの「罪の清算」だのと語るが、彼にとって重要なのは――。

「……で、その聖女を、こちらの世界に連れてくることは可能なのか?」

 魔道学者の目がぎらりと光る。

「そこが、我々の“異世界干渉の門”の出番です、殿下」

 机の上の魔法陣を指差す。

「この術式を完成させれば、“門”を開き、一時的に世界と世界を接続できます。
 距離と位相差の調整次第ですが……理論上は、その聖女を直接呼び込むことも不可能ではありません」

 アレスは少し考え、口元にうっすら笑みを浮かべた。

「我が国の聖女として迎え入れられれば、国力は飛躍的に増すな」

 神級の奇跡。
 疫病も干ばつも、魔物の侵攻も、今よりずっと軽減できる。

 民心はさらに王家に傾き、他国への発言力も増す。

 ――そして何より。

(今の“聖女”の不安定さを、補える)

 アレスは、無意識に握った指を少し緩めた。

「神官長。神殿としての見解は?」

「……正直なところ申し上げれば、危険が大きすぎます」

 神官長は、慎重な口調で答えた。

「世界と世界を繋ぐ“門”は、古い禁忌にも記されております。
 “向こう側”の存在を呼ぶことはできても、“何が一緒についてくるか”までは制御できないと」

「だが、可能性はあるのだろう?」

「……理論上は、はい」

 神官長は言い淀む。
 しかし、アレスはそこで話を切り上げることはしなかった。

「現状のまま、エミリアひとりに“聖女”の役割を背負わせ続けることはできない」

 静かな言葉。

 神官長は、返す言葉を失った。

 アレスは、その沈黙を「肯定」と解釈する。

 自分の選択を、正当化するために。

「異世界干渉の門の研究を、優先度を上げて進めろ。
 王宮としても支援を行う」

「はっ」

 魔道学者たちの目が、欲望と好奇心で輝く。

「殿下のご期待に沿えるよう、全力を尽くします」

 彼らが部屋を出ていくと、執務室には、アレスと神官長だけが残った。

 しばしの沈黙。

「……殿下」

 先に口を開いたのは、神官長だった。

「エミリア様のことは」

「何だ」

「“新たな聖女”の存在を知れば、彼女は――」

 アレスは、少しのあいだ目を閉じ、短く答えた。

「……必要以上に知らせることはない」

 その声には、わずかな疲労が混じっていた。

「彼女には、彼女の役割がある。
 国民にとって、“聖女エミリア”という記号は、まだ必要だ」

「記号、ですか」

「そうだ」

 アレスは、冷静に言い切る。

「この国にとって“聖女”とは、もはや一人の人間ではなく、“象徴”だ。
 ……それは、彼女をあの日ここへ呼んだときから、決まっていたことだろう」

 神官長は、目を伏せた。

 それ以上、何も言えなかった。

◇ ◇ ◇

 同じ頃。

 王宮の別棟――聖女専用居館の一室。

 エミリアは、鏡の前に座り込んでいた。

 栗色の髪は、昔より少し伸びている。
 巻き髪にセットされ、白いドレスを纏っている姿は、絵に描いた「清らかな聖女」そのもの。

 ……のはずだった。

 鏡の中の瞳は、ぎりぎりで笑顔を保っている。

 頬のあたりに、疲れの影が落ちているのが自分でも分かった。

(また、ひとつ失敗)

 今日もまた、「奇跡」は成功しなかった。

 重病の貴族子息。
 祈りを捧げたが、容体は変わらず。
 あとで神官たちが裏で魔術を施し、何とか命をつなぎとめた。

(最初の頃は……もっと上手くできてたのに)

 召喚されたばかりの頃。
 何も分からないまま「あなたは聖女です」と告げられて、必死で訓練した日々。

 そのときは、うまくいった。

 ……ように「演出されていた」。

 今なら分かる。

 儀式用の魔道具が、自分の足りない部分を補ってくれていたこと。
 神殿側と一部の貴族が、己の権威のために「聖女」という飾りを必要としていたこと。

 でも、ある程度まで来てしまえば、後戻りはできなかった。

(今さら、“わたし、聖女じゃないです”なんて言ったら)

 想像するだけで、背筋が冷たくなる。

 この国にとって“聖女”は象徴であり、信仰の要だ。
 その看板を自分で叩き割るような真似をすれば――。

(きっと、全部、わたしひとりの“裏切り”にされる)

 王宮からも、神殿からも、民衆からも。
 その視線の重さを、エミリアは知っていた。

 だから、黙っているしかない。

 奇跡が上手くいかなくなっていくのに、黙って笑っているしかない。

(……しんどいな)

 無意識に、胸の前で手を握る。

 そのとき、扉がノックされた。

「エミリア様、失礼いたします」

「どうぞ」

 入ってきたのは、神殿付きの女官と、神官だった。

 二人とも、表情に微妙な硬さをまとっている。

「どうしたの?」

 エミリアが問いかけると、神官のほうが一歩前に出た。

「エミリア様に、お耳に入れておくべきことがありまして」

「……なに?」

 嫌な予感がする。
 胸のあたりが、ざわざわと騒ぎ始める。

「王宮及び神殿に、“ある情報”がもたらされました」

 神官は、慎重に言葉を選んだ。

「別世界に、“本物の神級聖女”がいる、という話です」

 エミリアの指先から、血の気が引いた。

 彼女の世界にも、噂くらいは届いていた。
 異世界には他にもいくつか世界があり、そのどこかに強力な聖女がいるとかいないとか。

 でも、それはもっとぼんやりとした話で、あくまで「遠いどこかの出来事」だったはずだ。

「……それ、本当なの?」

「魔道学者たちの調査によれば、かなり信憑性が高いと」

 神官は淡々と続ける。

「聖属性の波形から判断して、我々の基準で“神級”と呼べるレベルの力を持つ者が、確かに存在するとのこと」

「神級……」

 その単語が、耳の奥で何度も反響する。

 自分は、「聖女」と呼ばれてここに連れてこられた。

 でも、実際のところ、自分の聖属性は低い。
 魔術も、祈りも、補助がないとろくに成功しない。

 そう自覚しているからこそ、「本物の聖女」という存在は、一番見たくない現実のひとつだった。

「それで、王宮は……?」

「“異世界干渉の門”を開く計画を本格的に動かすようです」

 神官の眉根が寄る。

「その聖女をこちら側に招き入れ、“エルメリアの聖女”として迎えられれば、国にとって大きな利益になる――と」

 エミリアの喉が、ぎゅっと締め付けられた。

(それってつまり)

 自分は――。

「……わたしは?」

 やっと絞り出した声は、驚くほど小さかった。

「わたし、どうなるの?」

 神官は、言葉を飲み込んだ。

 答えづらい、と顔に書いてある。

 女官のほうが、先に口を開いた。

「エミリア様は、これまで通り“聖女”としての務めを果たされれば、と」

 それは、半分事実で、半分は嘘だ。

 エミリアにも、そのくらいは分かるようになっていた。

(“これまで通り”なんて、あるわけない)

 本物の神級聖女が来れば。
 自分など、較べるまでもなく見劣りする。

 人々はすぐ、新しい光に目を奪われるだろう。

(わたしは、“偽物の聖女”になる)

 そのラベルを貼られる恐怖が、全身を薄氷みたいに覆った。

 女官と神官が去ったあと、エミリアはひとり、部屋に残された。

 鏡の前に座り、震える指先を組む。

(いやだ)

 心の底から、そう思った。

(いまさら、“じつは偽物でした”なんて言われたら、全部終わりだ)

 自分だけじゃない。

 この数年、エミリアを「聖女」として担ぎ上げてきた神殿や貴族たちも、責任を問われるだろう。

 そのとき――誰が「生贄」にされるか。

(きっと、いちばん弱いわたしから)

 想像すると、息が苦しくなる。

 喉の奥から、昔と同じ感情がせり上がってきた。

 恐怖。
 自己保身。
 そこから伸びていく、歪んだ残酷さ。

(わたし、あのときも)

 数年前の記憶が、フラッシュのようによみがえる。

 白い学園の広場。
 聖女召喚の儀式。
 偶然見てしまった「裏側」。

 リオネッタ・フェルディアの視線。
 彼女が見たものを、知ってしまったときの、神官長たちの顔。

(“この子が真実を喋ったら、どうなるんだろう”って思って)

 想像した。

 自分が「聖女じゃない」とバレる未来。
 捨てられる未来。
 どこにも居場所がなくなる未来。

 ――それが、怖かった。

 だから。

 リオネッタを、落とす側に回った。
 彼女を悪者に仕立て上げれば、自分は“清らかな聖女”の座に残れる。

 そう信じた。
 そう、信じたかった。

(あのとき、わたし……)

 エミリアは、ぎゅっと目を閉じた。

 あれは事故だった。
 仕方なかった。
 周りにそう言われ、何度も自分にそう言い聞かせてきた。

 でも、本当のところ――自分の中に、あのとき確かにあった感情を、彼女は知っている。

 「これで、わたしは聖女でいられる」。

 安堵。
 安堵のために、誰かを断罪することを選んだ自分。

(また、同じことを)

 ざらり、と胸の奥で何かが擦れた。

 “本物の神級聖女”が来れば。
 自分は完全に「いらない子」になる。

 王宮はきっと、「今までありがとう」「あなたにも居場所は用意する」と言うだろう。
 でも、その言葉の軽さを、もう彼女は信じられない。

(いやだ)

 鏡の中の聖女は、唇をかんだ。

 爪が掌に食い込む。

(絶対、いや)

 自分の立場を守るために、今度は何をするのか。

 その答えは、まだ形を取っていない。
 でも、あのときと同じ「自己保身のための残酷さ」が、ゆっくりと目を覚ましつつあった。

◇ ◇ ◇

 一方その頃。

 王宮の謁見室では、アレスが側近たちと短い会話を交わしていた。

「異世界干渉の門の件、進めます」

「ああ。くれぐれも慎重にな」

 側近が下がったあと、アレスはひとり、窓際へ歩み寄る。

 夕闇が深まっている。
 城下の灯りが、星のように点々と広がっていた。

(異世界の聖女)

 彼は、先ほど聞かされた情報を、心の中で整理する。

 神級の聖女。
 別世界の存在。
 転生の可能性。

(もし、うまくいけば――)

 この国は、もう一段階上へ行ける。
 他国への抑止力にもなる。

 エミリアの負担も、ある意味で軽くなる。

(……リオネッタのことを、持ち出す者も、もういないだろう)

 ふと、数年前の夜の光景が脳裏をよぎる。

 広場の真ん中で、ドレス姿で立たされていた金髪の少女。
 深紅の瞳。
 冷たい言葉を投げつけられても、誇りを失わない背筋。

 その名を、アレスは久しぶりに、心の中で思い出した。

 リオネッタ・フェルディア。

 公爵令嬢。
 学園の悪役令嬢。
 聖女いじめの罪で追放された「罪人」。

(あれから、どうなったのか)

 国境の森で命を落としたという報告は受けている。
 護衛騎士の報告書には、「魔物に襲われ、逃亡のすえ死亡」と記されていた。

(あのときの選択は、間違っていなかったはずだ)

 アレスは、無意識にそう自分に言い聞かせる。

 リオネッタを切り捨てることで、聖女の権威を守り、国の秩序を維持した。

 そういう判断だった。

 上に立つ者の選択として、合理的で、必要だった。

(……かつての罪人のことなど、もう誰も気にしていない)

 ぽつりと、口の中で呟く。

 彼女の名は、公文書からもほとんど消された。
 学園でも、貴族社会でも、その話題に触れる者は減っている。

 新しい噂が、生まれては消える。
 聖女エミリアと王太子の婚約。
 神殿の新しい儀式。
 隣国との小競り合い。

 世界は、個人ひとりを飲み込んで、何事もなかったように回り続ける。

(そういうものだ)

 アレスは、そう結論づける。

 自分の過去の選択が、ひとりの少女をどれだけ追い詰めたか。
 どれだけ孤独に、どれだけ惨めに、終わりへ追いやったか。

 その具体的なイメージを、彼は一度も真正面から見ようとしていない。

 見る必要がない、と判断している。
 見れば、自分の足元がぐらつくのを知っているから。

 だから、彼はただ前を見る。

 別世界の聖女。
 異世界干渉の門。

 ――その先に待つ、新しい「物語」を。

 その物語のどこかで、
 かつて断罪された悪役令嬢の魂が、別の名前で、別の世界で、静かに光を放ち始めていることなど。

 この時点のアレスも、エミリアも、まだ何ひとつ知らなかった。
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