追放された悪役令嬢、転生先で最強聖女とか神級とか聞いてないんだけど!?

タマ マコト

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第15話「世界が触れ合う音、静かなる前兆」

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 それは、本当に一瞬のことだった。

 夕暮れと夜のあいだ――空が青から群青へと、ゆっくり色を変えていく時間。

 ラグナリア王都の空に、すっと一本、不自然な光の筋が走った。

 流れ星、と呼ぶにはあまりにもまっすぐで、
 雷、と呼ぶにはあまりにも静かで。

 白く、細く、空の高みを横切る一条の線。

 それは街の人々の大半には、ただの「見間違い」にしか見えなかっただろう。
 忙しい人たちは空を見上げる暇もなく、子どもたちは今日の遊びの続きを考え、商人たちは明日の利益に頭を悩ませていた。

 けれど――そのとき。

 大神殿の中庭にいたレアだけは、全身を貫くような違和感に、ぴたりと足を止めた。

「……今の」

 胸の奥で、何かがざわりと揺れた。

 洗いかけの桶の水が、何もしていないのに勝手に波打つみたいに。

「レア様?」

 一緒に花壇の手入れをしていた巫女見習いの子が首を傾げる。

「どうかしました?」

「……空」

 レアは、ゆっくりと顔を上げた。

 中庭の高い位置から見える、大神殿の上の空。

 さっきまでそこには、白い筋が確かにあった。

 今は――何もない。

 いつもの、静かな夕空だけ。

 それでも、肌の表面を何か透明なものが撫でていった感覚は、まだ残っていた。

 冷たい指先で、世界の外側からふっと触れられたみたいな――ぞわ、と背筋を冷やす感覚。

「……何かが」

 レアは、自分の胸元をそっと押さえた。

「この世界の“外”から、触ってきた」

 自分でも何を言っているのか分からない。

 でも、そうとしか言いようがなかった。

◇ ◇ ◇

 ほぼ同時刻。

 大神殿の地下にある、魔力観測室。

 壁一面に、魔法陣と測定器が並んでいる。
 水晶球、魔力針、波形を記録する紙の巻物。

 そのうちのひとつが、突然、激しく震え始めた。

「観測値、急上昇!」

「聖属性と……不明属性の混ざった波です!?」

「世界の外側からの干渉値が――跳ね上がっている!」

 魔道学者たちが一斉に慌ただしく動く。

 水晶球の中の光が、外側から叩かれるように揺れた。
 針は限界値ぎりぎりまで振れ、紙の上には大きな山のような波形が刻まれていく。

「このパターン……以前、理論上でしか見たことがありません」

 ひとりの学者が、紙を握る手を震わせながら呟いた。

「世界の壁が、一瞬だけ“破られた”ときの波だ」

「や、破られた!?」

 別の学者が青ざめる。

「誰が……いや、どこが……?」

「方角からして、向こう側の世界線からの干渉です。
 あくまで一瞬……“門”が開いてすぐ閉じたようなパターン」

「ラグナリア側から何かしたわけではないな?」

 低い声が、その場を締めた。

 観測室の入口に立っていたのは、大神殿長と神殿長、その隣に――黒髪の騎士。

 アルヴァ・グレンフォード。

「はい。我々の陣は、今は待機状態です」

 魔道学者は慌てて頭を下げた。

「この波は、完全に“外からの”干渉です。
 向こう側で、何者かが一時的な門を開いたとしか」

 大神殿長は、水晶の光を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。

「世界の壁が“一瞬だけとはいえ破られた”ということか」

「穴というより、針で突いたような小さな穴、と表現するのが近いですが……」

「十分じゃ」

 神殿長が唸る。

「紙に穴が開いたら、そこから水は染み込む。
 一度ルートをつけられたら、繰り返しやろうとするのが人間というもんじゃ」

 その言葉に、アルヴァの眉がわずかに動いた。

「レアへの影響は?」

「直接的なダメージはありません。
 ただ――」

 魔道学者は、水晶球の中心部を指差した。

「この波が立った直後、“こちら側にある聖属性の一点”が、強く共鳴しました」

「“一点”?」

「ラグナリアの聖の座標で見るなら、“レア様の位置”に相当します」

 観測器の針が、具体的な数字以上の意味を持っていた。

 アルヴァの目が細くなる。

「つまり、“向こう側”からの干渉は、まずレアに触れたと」

「厳密には、“世界の膜を経由して”レア様の光に触れた形です。
 しかし、あの波の形状からして――あちら側の何者かは、“こちらの光の座標”をある程度特定している可能性が高い」

 アルヴァの全身から、空気の温度が下がるような気配が立ちのぼった。

「……誰かが」

 低く呟く。

「お前の力を“奪おう”としているのかもしれん」

◇ ◇ ◇

「え、奪うって……何ですかその物騒な言い方」

 部屋に戻ったレアは、説明を聞き終えるなり、情けない声を上げた。

 アルヴァと神殿長が並んで座っている。
 その前の椅子に、レアはちょこんと腰かけていた。

「あり得る話だ」

 アルヴァは、表情ひとつ変えずに言う。

「こちらから見て“神級の聖女”がお前であるように、向こうから見ても“異常な光”としてお前が見える。
 世界に大きな影響を与える力は、欲しがる者が必ず出る」

「……リースとか?」

「例え話に出すな」

 レアが以前出会った、小物感あふれる悪徳貴族の名前を出すと、アルヴァが一瞬だけ顔をしかめた。

「規模が違う」

「ですよね」

 笑いかけて、すぐ真顔に戻る。

 気軽に冗談を言ってごまかせるほど、話は軽くなかった。

「誰が、何のために、お前の力を狙っているのかは分からん」

 アルヴァは続ける。

「ただ、世界の壁を叩いてきたという事実がある以上、“敵意”か“利用価値”のどちらか、あるいは両方だろう」

 世界のどこかで、自分を「駒」として数えている誰かがいるかもしれない。

 掌の上に乗せて、都合のいいように動かそうとする誰かが。

 レアの背筋に、ぞわりと冷たいものが走った。

「……やだな」

 ぽつりと、本音が漏れた。

「やっと、“自分のために生きていいんだ”って思えるようになってきたのに、
 今度は“見えない誰か”に、力ごと狙われてるかもしれないって」

「だから、俺たちがいる」

 アルヴァは当たり前のように言う。

「護衛体制は今日から強化する。
 お前の部屋の周囲に、常時結界を張る。
 俺の詰所も、お前の部屋の前に移す」

「前!?」

「距離は近いほうがいい」

「もうほぼ同棲……」

「妙な言い方をするな」

 神殿長が横で咳払いして、話を戻した。

「とにかくじゃ、レア。
 何か“視線”のようなものを感じたら、すぐに教えるんじゃぞ」

「視線……」

 レアは、自分の胸の辺りを押さえた。

 何もない。

 でも、一度「そうかもしれない」と考え始めると、
 さっきの空の光も、頬を撫でた感覚も、全部「誰かの手のひら」のように思えてくる。

「分かりました」

 レアは、小さく息を吸った。

「でも、わたし、ちゃんと言えるかな……
 もしかして“気のせいかも”って思ったら、黙っちゃいそうで」

「黙るな」

 アルヴァが即答する。

「“気のせいかも”と思った時点で報告しろ」

「……はい」

 その口調があまりにもきっぱりしていて、レアは苦笑した。

(また、“心配されすぎてる”)

 ありがたい。
 でも、同時に、申し訳なさもある。

(わたし一人のせいで、こんな大事になってるんじゃないかって)

 その思考が、胸の奥でじわじわ膨らむ。

◇ ◇ ◇

 その日から、レアは自分に向けられる“得体の知れない視線”に敏感になった。

 もちろん、大神殿で彼女を見る目は、もともと多い。
 聖女候補としての敬意、期待、憧れ、好奇心。

 お祈りのときに向けられる真っ直ぐなまなざし。
 廊下をすれ違う神官たちの、どこか憧れ混じりの視線。

 それらは慣れていた。

 でも、最近――それとは違う種類の感覚が、時折胸の奥を掠めるようになった。

 白日の廊下。
 人がいないはずの角を曲がる瞬間。

 ふ、と。

 背中に、氷の針みたいなものがちくりと刺さる。

 振り返る。
 誰もいない。

 風が吹き抜けただけ。
 カーテンが揺れただけ。

 それでも、「何か」が自分を見ていた、という感覚だけが、皮膚の裏側に残っていた。

(……いやだ)

 夜、ベッドの中で、レアは布団をぎゅっと握った。

 暗闇の中で、天井を見上げる。

 隣の部屋――いや、ほぼ扉一枚隔てた廊下の向こう側からは、アルヴァの気配がする。

 彼は今日から、レアの部屋の前の詰所を本気で拠点にしている。
 夜も、簡易ベッドを持ち込んでそこに寝ているらしい。

 扉越しに微かに聞こえる寝返りの音。
 ときどき、誰かが廊下を歩く足音と、それを確認する鎧のきしむ音。

 それらは確かに心強いのに――。

 胸の奥の「見えない視線」は、彼らの結界の外側から、世界の外側から、じっとこちらを覗いている気がした。

(こわい)

 名前をつけられない恐怖が、一番怖い。

 「魔物」と言ってしまえば、倒し方はある。
 「病気」と言ってしまえば、癒し方を探せる。

 でも、「世界の外からの視線」と呼ばれても、どう対処すればいいのか分からない。

(……寝よう)

 考えても仕方ない。
 そう自分に言い聞かせて、目を閉じる。

 薄い眠りが、ゆっくりと降りてきた。

◇ ◇ ◇

 夢の中で、レアは知らないはずの場所に立っていた。

 白い大理石の広場。
 夜なのに、燭台と魔法の光で明るすぎるくらいの空間。

 周囲をぐるりと囲むように、階段状の観客席。
 そこにぎっしり詰め込まれた、生徒たちと教師たち。

 ざわめき。
 ひそひそ話。
 好奇と嫌悪と期待が混じった視線。

 中央には、一人だけが立つための円形の台。

 そこに――レアではない「誰か」が立っていた。

 金糸みたいな髪。
 きっちりと巻かれた縦ロール。
 深紅の瞳。

 豪奢なドレス。
 見慣れないデザインの宝石。

 姿勢は完璧。
 顎の角度も、視線の高さも、礼儀作法の教本に載せたくなるくらい整っている。

 でも、その内側で。

(どうして)

 叫び声が、喉の奥に張り付いている。

(どうして、わたしがここに立ってるの)

 足が震えている。
 手のひらに汗が滲んでいる。

 怖い。
 でも、怖いと言ってはいけない。

 ここで「みっともない顔」をしたら、「公爵令嬢として失格」だと、何度も叩き込まれてきたから。

「――公爵令嬢リオネッタ・フェルディア」

 前方の壇上から、よく通る声が響く。

 レアの心臓が、ぎゅっと掴まれた。

 その名前は、「夢の中の誰か」のものではなく――今ここで、自分の胸に突き刺さる。

 リオネッタ・フェルディア。

 前世、断罪された悪役令嬢の名前。

 その名を呼んだのは、黄金色の髪を持つ青年だった。

 アレス・エルメリア王太子。

 整った顔。
 蒼い瞳。
 民の前ではいつも柔らかな笑みを浮かべていたその唇が、今は冷たく結ばれている。

「公爵令嬢としてあるまじき罪を、お前は犯した」

 その言葉は、もう何度も夢で聞いたことがある。

 でも今回は――「ここ」から先が、今までと違った。

 視界が、フラッシュのように鮮明になっていく。

「聖女エミリアに対する、悪意ある嫌がらせの数々。
 祈りの時間を妨害し、階段から突き落とし、食事に毒を混ぜようとした」

 周りから、ざわ、と空気が動く。

「ひどい……」

「前から怖いと思ってた」

「やっぱり悪役令嬢だったんだ」

 耳に刺さるささやき。

(違う)

 喉の奥で、声がかすれる。

(そんなこと、してない)

 聖女エミリア。

 薄い栗色の髪を肩のあたりで切り揃えた、可愛らしい少女。
 今は、アレスの隣で、震えるように俯いている。

 袖をぎゅっと握りしめ、小さな肩が揺れている。

 その姿は、「守ってあげたくなる存在」の見本みたいに、丁寧に作られていた。

「エミリア。怖い思いをさせてすまなかった」

 アレスが、柔らかな声で語りかける。

「もう大丈夫だ。
 君を苦しめる者は、ここで断罪する」

 優しい王子。
 それを見守る聖女。
 悪辣な公爵令嬢。

 ――物語としては、美しい構図だ。

(違う。そんなの、誰も確かめてない)

 リオネッタ――いや、今のレアの中にいる「彼女」が、必死で叫ぶ。

 でも、その叫びは声にならない。

 喉が凍りついたみたいに動かない。

「申し開きはあるか、リオネッタ」

 アレスが問う。

 視線が、冷たく突き刺さる。

 レア(リオネッタ)は、必死に息を吸った。

「わたしは――、そんなことは―—」

 否定しようとした言葉が、震えでうまく出ない。

 感情を抑える訓練ばかりしてきたせいで、「必死の弁解」がどう見えるか、彼女は知らない。

 それは――冷静さを欠いた、「逆ギレ」にしか見えなかった。

「見苦しいぞ、リオネッタ」

 アレスの声が、さらに冷たくなった。

「エミリアは、お前が“あんなことはしていない”と言うなら、それを信じようとしていた。
 だが――状況証拠は揃っている」

「状況証拠って……!」

「君の周囲にいた令嬢たちの証言もある。
 エミリアの傷も、毒を混ぜられた痕跡も」

 それらが、「演出」だったことを、彼は知らない。
 あるいは、知ろうとしなかった。

「もういい、リオネッタ」

 アレスは、目を伏せた。

「君と話すことは、何もない」

 ガラスの塔が、一瞬で粉々に砕け散るみたいな音がした。

 ――と、レアは感じた。

 胸の中で積み重ねてきたものが、一気に崩れる音。

 努力。
 期待。
 義務。
 「完璧であろう」とした自分。

 全部全部、まとめて。

「リオネッタ・フェルディア」

「聖女に危害を加えた罪により、そなたをエルメリア王国より追放する」

 広場が、沸いた。

 歓声でも、悲鳴でもない。
 「見世物のクライマックス」を楽しむ観客のざわめき。

「やっぱり」

「これで安心ね」

「悪役令嬢、ざまぁ」

 その言葉は、ナイフより鋭く、簡単に心を切り裂いた。

 リオネッタは、唇を噛みしめる。

「お父様と……お母様は……」

 震える声で問う。

「公爵家からは、既に縁切りの書状が届いている」

 側近が淡々と告げた。

「フェルディア公爵家は、“国と聖女に仇なした娘は、公爵家の者ではない”と」

 視界の色が、少しずつ褪せていく。

 足元がふらふらする。

 広場にいた人々が、一歩ずつ距離を取るのが見えた。

 まるで、疫病にかかった人間を見るような目で。

 さっきまで「公爵令嬢」として取り入ろうとしていた者たちまで。

(わたし……そんなに、ひどいことをしたんだっけ)

 頭の片隅で、ぽつりと疑問が浮かぶ。

 否定する声は、もう出てこない。
 何度も何度も、自分の中で「もしかしたら、本当に気づかないうちに誰かを傷つけていたのかもしれない」と責め続けてきたから。

 自分で自分を、「罪人」として納得させてきたから。

 最後に、ただ一度。

 人混みの向こう側で、栗色の髪の少女と目が合った。

 エミリア。

 彼女は、震える瞳でリオネッタを見ていた。

 罪悪感と恐怖と自己保身と――いろんな感情がごちゃ混ぜになった目。

(どうして)

 リオネッタの心が、最後に問いかける。

(あなたを傷つけたことなんて、一度もなかったはずなのに)

 答えは、返ってこない。

 次の瞬間には、彼女は衛兵に囲まれ、広場から連れ出されていた。

◇ ◇ ◇

 国境の森。

 霧。
 泥。
 冷たい風。

 靴擦れで痛む足。
 ドレスはボロボロ。

 護衛騎士は、国境ぎりぎりのところで「ここから先は同行できません」と告げて消えた。

 リオネッタ――今のレアの中にいる「彼女」は、一人で森の中を歩いた。

(わたしって、そんなに悪いことをしたのかな)

 何度も、何度も、同じ問いを繰り返しながら。

 最後に見た家族の顔すら、思い出せないまま。

 森の奥で、低い唸り声がした。

 赤い目の黒狼。

 牙。
 飛びかかる影。

「たすけて」

 声にならない声。
 誰にも届かない叫び。

 胸に走る痛み。
 温かい血が服を濡らす。

 世界の色が、静かに薄れていく。

(わたしの人生、何か一つでも、誰かの役に立てたかな)

 最後の最後に浮かんだ問い。

 その答えは、闇に飲まれて――。

◇ ◇ ◇

 レアは、叫びながら飛び起きた。

「――――っ!!」

 息がうまく吸えない。
 喉が焼けるように痛い。

 視界が滲んでいるのは、涙のせいだとすぐに分かった。

 布団は汗でぐっしょり濡れている。
 髪も張り付いている。

 胸が痛い。
 心臓のあたりが、じんじんと熱い。

「はぁ、はぁ……」

 荒い呼吸を繰り返しながら、レアは震える手で自分の胸を押さえた。

 そこに、何の傷もないことを確かめる。

 今の身体は、森で黒狼に食い破られてはいない。

 でも――。

「……思い出した」

 喉の奥から、かすれた声が漏れた。

 自分でも驚くほど、はっきりとした言葉。

「わたし……」

 唇が震える。

「わたし、リオネッタ・フェルディアだった」

 その名前を口にした瞬間。

 胸の奥が、ズキンと痛んだ。

 追放された公爵令嬢。
 断罪された悪役令嬢。
 聖女いじめの罪を着せられて、誰にも信じられずに死んでいった少女。

 それが、自分の前世。

 レアは、唇を噛んだ。

 涙がぽろぽろとこぼれる。

 でも、不思議なことに――。

(“それだけ”じゃない)

 胸の奥で、別の感覚が同時に膨らんでいた。

 地方神殿で生まれた赤ん坊。
 花が開いた夜。
 神殿長の大きな手。
 エナの笑い声。

 ラグナリアで過ごした十数年。
 転んでは笑い、泣いては慰められ、祈って、失敗して、褒められて。

 アルヴァに「希望」と言われた日。
 「今のお前を見ている」と言われた夜。
 手を握ってもらった温もり。

(わたしは、リオネッタだった)

 それは否定できない事実。

(でも今は、レアだ)

 その上に、しっかりと積み重なった日々。

 リオネッタとしての人生の「終わり」の、その先に――
 レアとしての「始まり」が、確かに存在している。

 それを感じたとき、胸の痛みは少しだけ和らいだ。

「……あの世界とは」

 レアは、涙声のまま呟いた。

「あの世界とは、もう二度と、関わりたくない」

 断罪の広場。
 冷たい視線。
 国境の森。
 黒狼の牙。

 全部まとめて、二度と触れたくない記憶。

 あの世界に戻りたいとは、欠片も思わない。
 誰かの王子妃にも、聖女の噛ませ犬にもなりたくない。

 ラグナリアで、レアとして。

 自分の意思で、誰かを救いたい。
 自分の意思で、笑いたい。

 その願いを、胸の奥でぎゅっと握りしめる。

 外では、夜明け前の風が、静かに大神殿を撫でていた。

 まだ誰も知らない。

 彼女の「もう二度と関わりたくない」という願いとは、真逆の方向へ――
 すでに運命の歯車が、きしり、と音を立てて回り始めていることを。

 世界と世界が、触れ合う音は、
 まだ、誰の耳にもはっきりとは届いていない。

 ただ、レアの胸の奥だけが、
 今起きたことが「静かなる前兆」に過ぎないと、薄々気づき始めていた。
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