仙人様、小間使いいりませんか?

タウタ

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 悲鳴のような声で目が覚めた。門扉を叩く音も聞こえる。部屋の中は真っ暗だ。空気は冷え切っていて、夜明けが遠いのが感じられる。寝間着の上に袍を重ねているが、布団から出るだけで身震いするほど寒い。璃央は足先で履を探し、寝台から下りた。戸を開けると、灯火を持った士鵠と鉢合わせた。士鵠も起こされたらしい。
「士鵠さま! 璃央さま!」
 遊明だ。急いでかんぬきを外すと、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした遊明が飛びついてきた。
「早く来て! 早く!」
 璃央の寝間着をつかんで走り出そうとする。璃央は地面に膝をつき、遊明の腕をさすってなだめた。
「遊明、落ち着け。どうしたのか話してみな」
「母さんが、母さん、死んじゃう」
 母がひどい熱で苦しんでいると、遊明は泣きながら訴えた。昨日から咳が止まらず、今日の夕方血を吐いたそうだ。息を吸うのも吐くのもつらそうで、薬もうまく飲みこめないらしい。
見れば、遊明は裸足だった。履はどうしたのだろう。履くのも忘れて飛び出してきたのか、途中で脱げてしまったのか。どこかで転んだのだろう。膝に擦り傷がある。握りしめている提灯は壊れ、火が消えている。今夜は月があるとはいえ、こんな状態でひとり山道を登ってきたのかと思うと、喉が詰まった。
「わかった。すぐ行こう。大丈夫だ。士鵠様が助けてくれる」
「俺は行かない」
 士鵠の声は刺すように冷えていた。璃央も遊明も呆けたように士鵠を見上げた。
「どうしてですか」
「俺は医者じゃない」
「俺の手を治してくれたじゃないですか」
「俺は薬を塗っただけで治してはいない。傷がふさがったのはお前の治癒力の結果だ」
「士鵠様の薬のおかげです。薬が駄目なら他の方法でもいいです。士鵠様なら何かできますよね」
 何百年も生きているのだから知識はあるに違いない。士鵠は黙っている。
「なんでですか。放っておいたら死ぬかもしれない人間を見過ごすんですか」
 璃央が野宿をしようとしたら、狼が出るからと家に入れてくれた。
「お願いします、士鵠様。遊明の母さんを助けてください」
 士鵠は首を振り、門をくぐって戻っていった。璃央は奥歯を噛みしめた。怒りは喉までせり上がっているのに、浴びせる言葉が出てこない。なんて薄情な男だろう。夜の山道を必死に登ってきた幼い子どもを前に、顔色ひとつ変えなかった。
「遊明、来な」
 璃央は遊明の手を引いて部屋に戻った。遊明に自分の外套を着せ、裾を引きずらないようにたくし上げて帯で留めた。遊明の提灯に火をつけ、予備のろうそくと火打石を懐に入れた。
「なんで士鵠さまは来てくれないんだろう。おれが夜中に起こしたから、怒ってるのかな」
「遊明は何も悪くない」
 土だらけの小さな足を拭って手拭いを巻いてやる。何もないよりはましだろう。
 遊明は納得していないようだった。璃央だって納得がいかないが、先ほどの士鵠の様子では説得しても無駄だろう。
「士鵠様より、早く母さんのところへ行こう」
 うながすと、遊明は唇を結んでうなずいた。夜露が凍って地面が滑りやすい。気が急いているし、坂道だし、何度も転びかけながら山を下る。梢から注ぐ月光は細くて頼りない。一人で山を登ってきた遊明はどれだけ不安だっただろう。考えるだけで苦しくなる。
 道が平坦になり、二人はどちらともなく走り出した。小川にかかった橋を駆け抜ける。遊明の家には灯りが見え、人が出入りしていた。誰もが気遣わしそうな視線を遊明に向け、道を空ける。遊明は戸口で立ち止まり、手の甲で涙と鼻水を拭った。
「母さん、璃央さまが来てくれたよ」
 痛々しいほど明るい声に応答はなかった。青臭い香の匂いが立ち込めている。部屋の四隅で灯火が揺れている。袖口が広く開いた長衣の男が遊明の母の枕元に座し、一心不乱に神仙へ治癒の祈りを捧げていた。近くの道観――道教寺院――の道士だと、老女が手拭いを絞りながら囁いた。
 遊明は手拭いを受け取り、母親の額を拭いた。血の気がないのに汗が噴き出している。呼吸が不安定だ。母親が痙攣するように咳き込むたび、遊明は母さん母さんと呼びかけた。触れた指先が冷たかったので、璃央は袍を脱いで母親に着せかけた。遊明がその上から外套をかける。
「しっかりしてください。すぐに温かくなります」
 薬はない。治療法もわからない。何もせずにはいられなくて、細い手を擦りながら声をかける。持ちこたえてくれと念じる。
「母さん!」
 遊明が声を張り上げる。必死に母を引きとめようとしている。子どもの頃の自分を見ているようだ。毎日、為す術なく母の手を握っていた。死なないでくれと願うしかできなかった。昔も、今も、自分は無力だ。
「大丈夫だ、遊明。大丈夫だから」
母親の呼吸の間隔が広くなっていく。吸って、吐いて、次に吸うまでが長い。全身で息を吸っている。
「がんばってください。きっとよくなります」
 遊明を置いていかないでほしい。ひとりぼっちにしないでほしい。
「母さん」
 閉ざされていたまぶたが震える。遊明が母の顔をのぞきこんだ。
「母さん」
 遊明の母は一際大きく息を吸った。璃央の手の中で、かすかに指先が動いた。
「母さん」
 息が塊になって吐き出される。遊明も璃央も身じろぎせずに次の呼吸を待った。道士の祈祷が続いている。吸って。生きて。目を開けて。祈りながら手を握る。
 次の呼吸はなかった。道士が祈祷をやめ、遊明が泣き出した。骨の浮いた肩を揺すり、しゃくり上げながら母を呼んでいる。喉が詰まって苦しかった。子どもだった璃央も同じように母を揺すって泣いた。生き返るとは思っていなかったが、目を開けて微笑んで名前を呼んで抱きしめてほしかった。
 翌日、朝早いうちから質素な葬儀が行われた。遺体は魔物が入りこまぬよう符で鼻と口を覆われ、粗末な木の棺桶に入れられた。遊明の母は村と山の境目にある共同の墓地に埋葬された。符を用意したのも弔いの詞を唱えたのも昨晩の道士だった。道士は疲れた顔をしていたが、泣きすぎてぼんやりしている遊明の頭をやさしく撫でて道潅へ帰っていった。
「預かってるお金が少しはあるけれども」
「どうするんだい。まさかあの子から取るわけにはいかないだろう」
 ひそひそと交わされる葬儀代の話を聞かせたくなくて、璃央は遊明の手を引いて家に戻った。璃央の母が死んだときも近所の人たちが葬式をしてくれた。代金をどうしたのかはわからない。庶民は女性を中心に互助会を作るから、そこから捻出されたのだと思う。遊明の母も積み立てていただろうが、さっきの会話からすると足りなさそうだ。
「遊明、俺ちょっと士鵠様の家に行ってくる。すぐ戻ってくるから」
 荷物の中に路銀がある。少しなら使っても問題ない。帰りの宿を室内から軒先にするだけだ。留守番をしていてくれと言うと、遊明は泣きながら首を振った。誰もいない部屋に一人でいる不安は知っている。ひとりぼっちになってしまった事実が胸の奥まで染み込んでくるのだ。
「いっしょに行けたらいいけど、昨日ほとんど寝てないだろ。休んだ方がいい。眠れなくてもいいから、横になってな」
「璃央さまも寝てないよ」
「俺は大人だからいいんだ」
 やさしい子だ。悲しみでつぶれそうなはずなのに、璃央を気遣ってくれる。外套にくるまった遊明が部屋の隅で丸くなるのを見届け、璃央は袍を羽織って山へ向かった。
 士鵠の家に着いたときには昼を過ぎていた。疲労と空腹で足下がふらつき、璃央は門の前で立ち止まって息を整えた。眠っていないのに恐ろしく目が冴えている。異様な高揚感のまま、璃央は荷物を広げた。金を数え、最低限の帰りの路銀を残したが、考え直してすべて持っていくことにした。財布ごと懐に入れて部屋を出ると、老馬の鳴き声が聞こえた。遊明で頭がいっぱいで世話を忘れていた。水をやらなければないけない。汚れた寝藁も掃き出してやろう。ついでに鶏に餌もやって、と考えながら中庭へ向かう。
 厩の前には士鵠がいた。
「終わったか」
 士鵠は璃央を見て言い、取っ手がついた木桶から老馬の盥に水を入れた。顔を撫でようとして老馬に嫌がられている。普段ならくすりと笑いがもれるような光景が、やけに癇に障った。
「明け方に亡くなりました」
 士鵠は老馬を撫でるのを諦めたようで、木桶を持ち上げた。
「どうして来てくれなかったんですか」
 士鵠が薬を持って来てくれれば、遊明の母は助かったかもしれない。遊明はひとりぼっちにならずにすんだかもしれない。
「すごく苦しそうでした。士鵠様が来てくれれば、たとえ助からなくても、少しは安心できたかもしれないのに」
「たとえ助からなくても、じゃない。助からない」
「すぐに治る病気じゃないのはわかってます。でも、もっと先延ばしに」
「先延ばしはできない。夜明けを待たずに死ぬのはわかっていた」
「わかっていた?」
「発作を乗り越えるだけの体力がないからな」
「知ってたならどうして何もしなかったんですか。別の薬を処方したり、気をつけるように忠告したり、何かできましたよね」
「そもそも治らない病だ。別の薬を飲ませても変わらない。気をつけるとは、具体的に何にどう気をつけるんだ」
 璃央は言葉に詰まった。特効薬があるなら、士鵠はとうに処方していただろう。死は目に見えず、音にも聞こえない。足下の小石のようには避けられない。
「あの薬だって気休めだ。悪足掻きにすぎない」
 首の後ろに火を押し当てられたようだった。
「遊明が夜中に山を登ってきたのは悪足掻きだって言うんですか」
「あの餓鬼に限らず、人の行いはたいてい悪足掻きだ」
 体が震えた。怒っているのに、疲れた体では怒りを外に出せない。腹にたまった憤りが渦を巻いて吐き気がする。璃央は首を振った。士鵠は間違っている。人の行いが悪足掻きだと言うなら、皆なんのために生きているのだろう。何かせずにはいられない強い思いはどうして生まれるのだろう。
 遊明がたった一人で助けを呼びにきたのも、苦しむ母に懸命に呼びかけたのも、汗を拭ってやったのも、無駄だったとは思えない。思いたくない。
「士鵠様が来てくれれば、母親は救えなくても遊明の気持ちは報われたんです。それは、無駄じゃなかったはずです」
 母のために頑張った。最後に何かしてやれた。その記憶は遊明の心を支えるだろう。
 働いても働いても薬は買えなかった。寒い部屋に母を一人残して死なせてしまった。愛してもらったのに、大事にしてもらったのに、何もできなかった。子どもの璃央が遠くで泣いている。
「結果は同じだ」
「過程が違います」
「どうにもならないとわかっているのにのこのこ出かけていったあげく、己の無力を確認するだけなんて、俺は嫌だ」
「遊明をかわいそうだと思わないんですか」
「あの餓鬼を救うために俺に犠牲になれと言うなら、俺の犠牲の対価を払う算段はあったんだろうな」
「人の心を金みたいに言わないでください」
「同じだろう。いいか、この世の総量は決まっている。何かを満たすには何かを損なう」
 何十斤もの丹砂や宝石や珍品を損なって、たった一粒の金丹を手に入れる。
 小間使いとして一生分の時間を損なって、たった一粒の金丹を手に入れる。
「お前がお前を損なってあの餓鬼を満たすのはいい。好きにしろ。だが、俺に犠牲を強要するな」
 周囲から音が消えた。
「あんた、人の心がないのかよ!」
 璃央は士鵠に背を向けた。様々な感情が一気にあふれて頭の中がぐちゃぐちゃだ。
腹が立った。母を救いたくて必死だった少年に、思うことはそれなのか。
 がっかりした。士鵠はぶっきらぼうだが誠実で、貧しい人にも手を差し伸べるやさしい人間だと思っていた。
情けなかった。士鵠の考えをおかしいと思いながら否定できなかった。
 感情は渦巻くばかりでやり場がなく、村に着いたときは疲労だけが背中に貼りついていた。
「璃央さま!」
 遊明に力いっぱい抱きつかれ、璃央は少しふらついた。
「大丈夫だからな、遊明。俺がいる」
 頭を撫でると、遊明はますます璃央に抱きついた。母親の代わりにはなれないけれど、少なくとも一人にはしない。遊明には、ひとりぼっちで虚空を見ているような時間を過ごさせない。この子は自分が守るのだと思ったら、脚に力が入った気がした。士鵠とわかり合えなくても構わない。璃央はただの人間なのだから、ただの人間の遊明とわかり合えればいい。
 遊明の母の葬儀代は、璃央が持ってきた路銀の一部でまかなえた。路銀はいくらか手元に残ったが、都ほど貨幣の流通していない村ではあまり役に立たない。悲しみに暮れる間もなく遊明は仕事を再開した。璃央も働きたかったが、畑仕事も織物も経験がない。加えて、人を雇う余裕のある家が少なかった。下っ端とはいえ都から来た役人の璃央を煙たがり、距離を置く村人もいる。璃央は日々薪割りや馬の世話などの雑用を点々としながら、村長が役所へ出す書類の代行を請け負った。
「遊明、寒くないか」
「うん、平気だよ」
 戸口には筵が一枚、窓にはめる板は風雨にさらされて歪み、すきま風がひどい。璃央と遊明は火のない家で身を寄せ合って眠る。昼間は元気に振る舞っている遊明も夜になると気分が落ち込むらしく、涙をこぼすときがあった。璃央は何をしてやればいいかわからず、しゃくり上げる背を撫でるばかりだ。
「大丈夫。明日も俺がいっしょにいる」
 その明日がいつまで続くのか。いつまで続けられるのか。展望がないのは金丹と同じだ。士鵠の小間使いの仕事は止まっている。一生かかってもまかなえないと言われているのだから一日だって無駄にできないが、どうしても小さな手を離せない。今は駄目だ、遊明が落ち着くまでは、とあやふやな期限を設けて一日をやり過ごす。
 先細り、不安だけが積み重なったある日、薪を割っている璃央のもとへ老婆がそっとやってきた。
「璃央様、ちょいといいかね」
 この家の主人の母親で、目がほとんど見えない。長く使っているらしい杖は先端がすっかり擦り切れ、長さに合わせて老婆の腰も年々曲がっていくようだった。
「遊明のことだがね」
 遊明と言われ、璃央は身を固くした。気配が伝わったのだろう。老婆は悪い話ではないと言い、璃央を手招いた。
 聞けば、遊明には街道沿いの町に親戚がいるらしい。
「あの子の母親とはよく身の上話をしたもんさ。そのときにね、ちらっと聞いたんだよ」
 老婆も詳細は知らなかった。遊明の母と話したのも何年も前らしい。記憶しているのは小さな旅館を営んでいるのと、「真っ赤な羊」という風変わりな店名だけだった。
「ここらのもんはみんなあの子を案じとるよ。けどねぇ、引き取れはせんのさ。引き取ったら食わせにゃならんからね。あんただっていつまでもここにはおれんだろう」
「……はい」
「もう十分だ。十分だよ」
 老婆は皺だらけの手を璃央の方へ伸ばした。璃央が差し出した手をぎゅっと握る。
「あんたは、やさしい子だねぇ」
 遊明は親戚の話を知らなかった。母親から何も聞かされていないらしい。
「おれ、その人たちのところに行くの」
「まだ何も決まっていない。行きたくないか」
 遊明は唇を尖らせ、うなずいた。
「ずっとここで璃央さまと暮らすのはだめ?」
「駄目じゃないけど、難しいな」
 璃央はいつか都に帰らなければいけない。その前に、士鵠の元に戻って小間使いをしなければいけない。遊明もいっしょに小間使いにしてもらえたらと考えたが、士鵠の悪足掻きという言葉を思い返すと、遊明を連れていく気にはなれなかった。
 親戚なら遊明を無下にしないだろうし、新しい家族もできる。本当の意味で、遊明はひとりぼっちにならなくて済む。所詮、璃央は他人だ。
「とりあえず、親戚の人たちに手紙を書いてみよう。遊明と母さんのことを伝えて、返事を待とう」
 遊明は渋々といった様子でうなずいた。
「遊明、俺は遊明が嫌になったんじゃない。もしも俺が父上みたいに力や金を持っていたら、ずっといっしょにいる。でも、俺には何もないんだ」
 権力があれば、戸籍を書き替えて遊明を弟にするのも可能だ。財力があれば、遊明と都で暮らせる。夢のような話だ。
「ごめんな」
「ううん、璃央さまは悪くない。わがまま言ってごめんなさい」
 璃央は路銀の一部を払って村長に紙と墨を借りた。紙は草の繊維が目立つ粗悪品だったが、田舎の村では大変な高級品だ。できるだけ小さな文字で簡潔にしたため、行商人に手間賃をやって預けた。璃央は心が軽くなるのを感じていた。少なくとも返事が来るまでは、遊明の傍にいてやれる。士鵠の小間使いをしなくていいし、金丹について悩まなくてもいい。
「お前、最近何をしているんだ」
 手紙を出してから五日、村長の家から畑へ向かう途中で沈圭に呼び止められた。薄汚れた土壁の間で、沈圭の上等な絹の着物はひどく場違いに見えた。
「餓鬼といっしょに野良仕事するのも、あの仙人の言いつけか」
「士鵠様は関係ない。遊明は母親を亡くしてひとりぼっちだから、力になってやりたいんだ」
「は? 皇帝陛下の命より餓鬼が大事だって?」
 沈圭はまるで誰かに聞かせるように大げさに驚いてみせた。形だけとわかっていても、背筋が冷たくなる。ここに父はいない。怯える必要はないはずだ。
「陛下のご命令はもちろん大切だ。遊明だって陛下の臣民だし、税を徴収するにも労働力を無駄には」
「ああ、そういうのいいからさ」
 沈圭は手を振り、早口に言い訳をする璃央を遮った。
「金丹を手に入れる算段はできているんだろうな」
 算段なんてない。今度こそ士鵠を怒らせてしまっただろうから、状況は最初より悪くなっている。
「一応」
 とても正直には言えなかった。沈圭は口が軽い。都へ戻って言いふらされては困る。もしも父の耳に入ったらと思うと恐ろしい。
「ふうん。まあいい。進捗があったら教えろ」
 沈圭はいつもこうだ。年も位も仕事も同じなのに、璃央を見下して命令する。璃央は、どうしてお前に教えなきゃいけないんだ、と喉元まで出掛かった本音を飲み込んだ。
「必要があればな」
 逃げ道を作っておくと、沈圭は尖り気味の鼻をぴくりと動かした。璃央をにらみ、黙って去っていく。そう言えば、沈圭はどこに寝泊まりしているのだろう。この村には宿らしい宿がない。街道沿いに西に行けば比較的大きな宿場町があるが、半日ほどかかる。そもそも、沈圭はここで何をしているのだろう。閑職とはいえ、璃央と沈圭の二人が抜けて、倉庫の仕事は大丈夫だろうか。疑問や心配がわいたが、沈圭より気に掛けるものがある。璃央は畑へ向かった。
 手紙の返事が来たのは、さらに数日が経ってからだった。手伝いのために村長の家に行くと、薄い木の板を渡された。
「あちらは何と?」
 村長は複雑な表情だった。律儀にも内容は読んでいないらしい。
「遊明を引き取るって言ってます」
 手紙は簡潔だった。母親の死を悼む言葉と、遊明を引き取る意思があるとだけ書かれている。村長は複雑な表情のままうなずいた。遊明は子どもだがよく働くし、成人していないので税の対象にはならない。村から純粋な労働力がいなくなるのは痛手だろう。反面、誰かが面倒を見てやる必要はなくなる。
 璃央もどういう顔をすればいいかわからなかった。遊明にとっては、親戚のもとへ行くのが一番だ。村人は遊明に親切だが、いざというときは我が身と家族で手いっぱいになる。新しい家族ができれば遊明はひとりではなくなるし、生きるうえでも安心だ。わかっていても、さびしさが勝る。
「遊明に話します」
「よろしくお願いします」
 互いになんとも言えない表情のままうなずき合い、璃央はその日の仕事に取りかかった。
 夕刻、それぞれの仕事から帰った璃央と遊明は灯りのない部屋で向かい合った。手紙の内容を聞いた遊明は、うん、と言ったきり動かなくなった。うつむき、じっと床を見つめている。慣れ親しんだ故郷を去るのはつらいだろう。母の墓も気掛かりだろう。顔も知らない親戚とうまくやっていけるか不安だろう。
「遊明、すぐに決めなくていい」
 璃央も住み慣れた下町を離れるのは悲しかったが、父に対する期待だけはあった。母は父を愛していたし、立派な人だと繰り返し語っていた。璃央は母の墓所を知らない。遊明よりは未練が少なかった。
「ううん、今決める」
 遊明は首を振り、膝の上で小さな拳を握った。この子はえらい。目の前の問題から逃げない。すぐに決めなくてもいいなんてと言った自分が恥ずかしかった。璃央は居住まいを正し、遊明の決断を待った。
 遊明は動かなかった。頭を振り絞って考えている。損得と、感情と、短い腕に抱えた様々なものを秤にかけている。地面の硬さも夜の冷たさもわからなくなった頃、遊明は顔を上げた。真っ暗な家の中で、大きな丸い目は不思議に輝いていた。
「おれ、行く」
 胸が空っぽになるようなため息が、璃央の口からこぼれた。心のどこかでわかっていた。遊明なら行くだろう。
「わかった。じゃあ、手紙で知らせよう」
 迎えが来るのか、通りがかりの行商人をつかまえていっしょに行くのか、いつ出発するのか決めなければならない。旅支度や戸籍の手続きも必要だ。片づけるべきことが積み上がっていくのを感じながら、璃央の胸はさびしさでいっぱいだった。
 遊明が引き取られる話は翌日の昼には村人全員が知っていた。皆が少しずつ蓄えを崩して持ち寄ったので、旅支度はあっと言う間に終わった。処分する家財もほとんどないのでなおさらだ。
「実は、死んだときと生まれたときのしか知らねぇんです」
「俺が代わりにやります」
 おろおろする村長に代わり、璃央は戸籍を移す届けを書いた。親戚との手紙は二往復で諸々の段取りが決まった。
 出立の日、見上げた空は晴れていた。遊明が行く空の下も、同じ光にあふれていたらいいと思う。
 太陽が空のてっぺんにかかる頃、遊明の迎えが来た。精悍な顔立ちの男で、腕が太く体もがっしりとしている。年は遊明の母よりも下だろう。遊明を見て人懐こい笑みを浮かべた。遊明が戸惑ったように璃央を見上げる。
「遊明を頼みます。この子の母親に代わって、お願いします」
「お役人様にそったら頭下げられたら困っちまう。任せてくだせぇ。ひもじい思いはさせねぇです」 
「ほら、遊明」
 璃央は遊明の背を押した。遊明の荷物は餞別で亀の甲羅のように膨れている。
「璃央さま、おれ、璃央さまみたいにがんばるよ」
「俺?」
「うん。璃央さまは遠くから来てがんばってるから、おれも遠くへ行ってもがんばる」
 お前が行くのは都ほど遠くないぞ、と見送りの村人から野次が飛ぶ。
「そういう心意気って意味だよ!」
「おやまあ、あんた心意気なんて難しい言葉、いつ覚えたんだい」
「おれだってそれくらい知ってる!」
 遊明が言い返し、皆が笑った。村人たちの笑い声と晴れ渡った空が門出を祝う。遊明の旅は穏やかなものになるだろう。
「それから、士鵠さまにありがとうって伝えてほしいんだ。士鵠さまが薬をくれなきゃ、母さんはあんなに長生きできなかったから」
 璃央は目を見張った。遊明は士鵠が母の容体を見に来なかったのを恨んではいないのだろうか。もっと生きられたのに、とは思わないのだろうか。問い返したかったが、璃央は堪えた。新しい道を行く子に、恨みつらみは似合わない。
「わかった。伝える」
「璃央さま、ほんとにありがとう」
 遊明は璃央の腰に抱きつき、ぱっと離れた。何度も振り返り、手を振りながら迎えの男と歩いていく。璃央はまぶしさに目を細めながら、遊明の背を見送った。
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