私が行方不明の皇女です~生死を彷徨って帰国したら信じていた初恋の従者は婚約していました~

marumi

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神殿編

恐怖の支配

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 朝の祈りを終えて聖域へ戻ると、これまで冷酷で怖いとしか思えなかった侍女たちの表情が、どこか普通の人間のものに見えた。

 ここでは、失敗すれば終わり。
 秩序と呼ばれる曖昧な線を少しでも踏み外せば、すぐ隣に“死”が口を開けている。
 そんな場所で生き延びるために、彼女たちも必死だったのだ。
 今になって、ようやくそれが理解できた。

 思い返す。
 以前、湯殿で誤って私に熱い湯をかけてしまった侍女がいた。あれは本当に些細な事故だったのに、彼女は蒼白になって震え、泣きながら私に謝罪を続けていた。しかし、あれ以来、彼女の姿は見ない。

 お湯をかけられたのは私だったのに、苦しげだったのは彼女のほうだった。
 もしかしたら――あの時、彼女は“浄化”という名の罰を受けたのかもしれない。

 胸の奥に、冷たいものが流れ落ちていくのを感じた。

 私はようやく気づいていた。
 この神殿を動かしているのは信仰なんかじゃない。
 もっと原始的で、もっと残酷なもの――恐怖が、この場所の心臓なのだ。

 夜になり、私は夜の祈りを捧げるため、侍女たちと礼拝堂へ向かっていた。

 聖堂に続く回廊には松明が揺れ、壁に踊る影が生き物のように蠢いている。
 奥の白壁には大きな聖印が掛けられ、月光に照らされて淡く光っていた。

 その聖印の下で立ち止まっていたのは、ハルシオンだった。
 いつもの無表情――だが、どこか疲れが滲んでいる。

 そのとき、壁の向こうから、抑えきれない悲鳴のような叫びが響いた。

「……また“浄化”なの?」

 思わず漏れた悲痛の声に、彼は淡々とうなずいた。

「ここで生きるには、何も感じないことだ」

「……何も感じないで、生きていけるの?」

「感じれば壊れるだけだ。悲しいとも、怖いとも思わなければ……楽に呼吸ができるぞ」

 その言葉は静かすぎて、逆に胸を刺した。
 それは諦めを固めて結晶のようにした声だった。

 思わず彼の横顔を見つめる。

 その瞳には、光がなかった。
 怒りも、泣き声も、救いを求める影すらもない。
 ただ、生きることをやめられないから、立っているだけの人の目――。

(ノアがいなかったら、私もこんな目をしていたかもしれない)

「でも……それって、本当に生きているって言えるの?」

 ハルシオンは振り返らなかった。
 けれど、その沈黙こそが答えだった。

 神殿の奥で祈りの鐘が鈍く鳴り響く。
 まるで命を沈める鎮魂の合図のように。

 その音を聞きながら私は思った。
 ここでの“祈り”とは、神に捧げるものではない。
 恐怖に屈し、命の代わりに差し出されるものだ。

 そのとき、ずっと胸の奥で消えかけていた灯が、ふっと小さく光を取り戻した。

(……もしかしたら、この場所は変えられるかもしれない)

 "信仰でなく、恐怖での支配は崩れやすい"
 皇女として皇太子宮で過ごしていた頃に習った本に書いてあった。
   だから、恐怖で国を治めてはならないと…。

   (簡単に壊れると言うけれど、壊すにはどうしたらいいんだろう…)

   もし、この場所から抜け出すことができたなら…。外と連絡が取れるようになるかもしれない。

 まだ諦め無くていいのかも……。

 淡い期待は日に日に膨らみ、やがて私の支えになっていた。
 祈りと称して沈黙を強いられる時には、どうすれば状況を動かせるかを考えるようになっていった。

 この神殿を変えられるなら、まずは立場の上にいる人を変えなければいけない。

 今、私が会える中で一番影響力を持つ人物――それは恐らく、ハルシオンだ。

 あの金色の瞳を思い浮かべるだけで、背筋がぞくりと震える。

(そんな勇気、私にあるかな?)

 でも、もしできたなら……
 ノアと連絡を取る手段を作ることができるかもしれない。

 人を変えたいなら、まずは自分が変わらなきゃ。

「よし……頑張る……!」

 そう小さく呟いたときには、季節は冬から春へ移る気配を帯び始めていた。
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