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神殿編
変装作戦
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閉ざされた神殿の中にも、待ちわびた春の香りがほのかに漂うそんなある日のことだ。
朝の祈りを終えて部屋に戻ると、唯一私と言葉を交わしてくれる侍女、サーシャが朝食の盆を静かに置いた。
いつもと変わらない、冷めかけたスープと冷たい白パン。
これまで疑問を抱いたことはなかったが、ふと胸に一つの違和感が芽生えた。
(……神を戴く“神聖国”なのに。どうして、神子の扱いはこんなに粗末なの?)
エルダールに来たばかりの頃、私は壮麗な水晶宮に息を呑んだ。
大国セレスティアですら皇宮は質実を重んじ、ここまでの華美さはない。
莫大な税が費やされているのは明らかだ。
なのに、神子となる私の食事は、庶民以下の質だ。
この矛盾に、ようやく気づいたのだ。
「ねぇ、サーシャ。あなたは……ちゃんと食べているの?」
私の問いに、サーシャは目を瞬かせた。
まるで正しい返答を探すかのように、慎重に言葉を選ぶ。
「あ、はい……。神殿で働く者には、毎日二回の食事が支給されますので」
「そうなの。どんな食事なの?」
「パンや粥が多いですね」
「パンって……これと同じ?」
盆の上の白パンを指さすと、サーシャは慌てて首を振った。
「と、とんでもございません! 白いパンなど……私たちが口にできるはずが……!」
「白いパンって、そんなに珍しいの?」
「珍しいどころでは……。白パンは王侯貴族や富裕層が食べる贅沢品です。
庶民は精製された小麦なんて買えませんから」
「そう……なのね」
私は自分がどれほど世間を知らないのかを思い知らされる。
だが、白いパンであればノアと歩いたあの街でも売っていたし、帝都では祭りの屋台に串に刺さった肉も出ると聞いた。
――なのに、ここだけが妙に貧しい。
「変な質問してごめんなさいね。
私、世間知らずだから……勉強できる場所があればいいのだけれど」
「……え? べ、勉強……ですか?」
サーシャは素っ頓狂な声を出した。
無理もない。神子候補として“半ば監禁”されている私に、自由が許されるはずがない。
私が小さく俯くと、サーシャはそっと私の手を取った。
その手は震えていたが、決意が宿っていた。
「セラ様……今から申し上げることは、ただの独り言です。
どうか、聞き流すふりをなさってください」
「……ええ」
「ハルシオン様がお住まいのハニー宮には、図書館がございます。
そこは水晶宮と同じく“神殿領域”に含まれますから、掟には触れません」
「本当……? サーシャ、ありがとう!
あなたから聞いたことは、口が裂けても絶対に言わないわ!」
胸が弾む。
図書館でこの国のことが少しでも分かれば、突破口が見つかるかもしれない。
そして――ノアに再会した時、今の“無知な私”のままでは、きっと隣に立てない。
変わりたい。
変わるためには――知識が必要だ。
「でも……どうやってハルの宮殿へ行けばいいのかしら」
「し、忍び込む……ご予定、なのですか?」
サーシャは青ざめている。
「だって、ハルが招待してくれるとは思えないし……あっ、そうだわ!
侍女として潜入するのってどうかしら? サーシャ、侍女服って借りられる?」
「せ、セラ様……!」
次々と飛び出す無鉄砲な案に、サーシャはこめかみを押さえた。
しかし、それでも諦めず、深く息を吸うと小さく頷いた。
「控え室に、古くなった侍女服を集めた袋があります。
そこから一着……拝借すれば、誰も気づかないと思います」
「本当に? ありがとう、サーシャ!」
本来なら私が取りに行くべきなのに――
サーシャは「それくらいなら」とその日の夜、着替えの下にこっそり古い侍女服を忍ばせてくれた。
恐怖を抱えながらも、私のために動いてくれたのだ。
その温かさに、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
早速、侍女たちが着る象牙色の修女のような服に着替える。かなり古びていて裾もほつれていたが、これなら“ただの侍女”に見えるだろう。
髪を低い位置で結び、頭巾をつけると、鏡に映る私は別人のようだった。
(大丈夫……落ち着いて。サーシャが言った通り、図書館は神殿領域内なんだから、掟には触れないはず)
そう自分に言い聞かせて部屋を出る。
深夜の回廊は冷え冷えとして、壁にかけられた聖印が月明かりにぼんやり光っていた。
侍女として歩けば、視線を向けられることはほとんどない。
彼女たちは神子を見ても目を合わせないよう訓練されているのだから。逆に“普通の侍女のふり”をしている方が自然だった。
(意外と……いけるかも!)
そんな小さな手応えを感じた頃、私はハニー宮への通路に辿り着いていた。
回廊には警備の神官が一人、立っている。
(どうしよう……)
足を止め、息を殺して考える。
けれど神官は俯きがちで、とても退屈そうに欠伸を堪えている。
(今だ……!)
私は掃除道具を運ぶように俯き、足音を殺してすれ違う。
胸をぎゅっと締めつけながら通り抜けると――
神官はまったくこちらを見なかった。
(成功した…!)
小さくガッツポーズをして、うっすらと開いた扉からハニー宮の中へと滑り込む。
中は、水晶宮とは違う。
装飾は少ないのに、どこか温かみがある。
壁には古い絵画が飾られ、所々を蝋燭の灯りが照らしていた。
しばらく進むと、ほのかなインクの匂いが漂っていた。
(……あ、図書館の匂いだ)
胸がわずかに弾む。
奥へ進むと、重く大きな扉があり、その先に膨大な書物が積まれた広間が広がっていた。
高い天窓から月光が差し込み、埃がきらきら舞っている。
古い紙の匂いが染みついた静かな空間。
(すごい……ここなら何でも調べられそう)
そう思った瞬間――。
背後から低い声がした。
朝の祈りを終えて部屋に戻ると、唯一私と言葉を交わしてくれる侍女、サーシャが朝食の盆を静かに置いた。
いつもと変わらない、冷めかけたスープと冷たい白パン。
これまで疑問を抱いたことはなかったが、ふと胸に一つの違和感が芽生えた。
(……神を戴く“神聖国”なのに。どうして、神子の扱いはこんなに粗末なの?)
エルダールに来たばかりの頃、私は壮麗な水晶宮に息を呑んだ。
大国セレスティアですら皇宮は質実を重んじ、ここまでの華美さはない。
莫大な税が費やされているのは明らかだ。
なのに、神子となる私の食事は、庶民以下の質だ。
この矛盾に、ようやく気づいたのだ。
「ねぇ、サーシャ。あなたは……ちゃんと食べているの?」
私の問いに、サーシャは目を瞬かせた。
まるで正しい返答を探すかのように、慎重に言葉を選ぶ。
「あ、はい……。神殿で働く者には、毎日二回の食事が支給されますので」
「そうなの。どんな食事なの?」
「パンや粥が多いですね」
「パンって……これと同じ?」
盆の上の白パンを指さすと、サーシャは慌てて首を振った。
「と、とんでもございません! 白いパンなど……私たちが口にできるはずが……!」
「白いパンって、そんなに珍しいの?」
「珍しいどころでは……。白パンは王侯貴族や富裕層が食べる贅沢品です。
庶民は精製された小麦なんて買えませんから」
「そう……なのね」
私は自分がどれほど世間を知らないのかを思い知らされる。
だが、白いパンであればノアと歩いたあの街でも売っていたし、帝都では祭りの屋台に串に刺さった肉も出ると聞いた。
――なのに、ここだけが妙に貧しい。
「変な質問してごめんなさいね。
私、世間知らずだから……勉強できる場所があればいいのだけれど」
「……え? べ、勉強……ですか?」
サーシャは素っ頓狂な声を出した。
無理もない。神子候補として“半ば監禁”されている私に、自由が許されるはずがない。
私が小さく俯くと、サーシャはそっと私の手を取った。
その手は震えていたが、決意が宿っていた。
「セラ様……今から申し上げることは、ただの独り言です。
どうか、聞き流すふりをなさってください」
「……ええ」
「ハルシオン様がお住まいのハニー宮には、図書館がございます。
そこは水晶宮と同じく“神殿領域”に含まれますから、掟には触れません」
「本当……? サーシャ、ありがとう!
あなたから聞いたことは、口が裂けても絶対に言わないわ!」
胸が弾む。
図書館でこの国のことが少しでも分かれば、突破口が見つかるかもしれない。
そして――ノアに再会した時、今の“無知な私”のままでは、きっと隣に立てない。
変わりたい。
変わるためには――知識が必要だ。
「でも……どうやってハルの宮殿へ行けばいいのかしら」
「し、忍び込む……ご予定、なのですか?」
サーシャは青ざめている。
「だって、ハルが招待してくれるとは思えないし……あっ、そうだわ!
侍女として潜入するのってどうかしら? サーシャ、侍女服って借りられる?」
「せ、セラ様……!」
次々と飛び出す無鉄砲な案に、サーシャはこめかみを押さえた。
しかし、それでも諦めず、深く息を吸うと小さく頷いた。
「控え室に、古くなった侍女服を集めた袋があります。
そこから一着……拝借すれば、誰も気づかないと思います」
「本当に? ありがとう、サーシャ!」
本来なら私が取りに行くべきなのに――
サーシャは「それくらいなら」とその日の夜、着替えの下にこっそり古い侍女服を忍ばせてくれた。
恐怖を抱えながらも、私のために動いてくれたのだ。
その温かさに、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
早速、侍女たちが着る象牙色の修女のような服に着替える。かなり古びていて裾もほつれていたが、これなら“ただの侍女”に見えるだろう。
髪を低い位置で結び、頭巾をつけると、鏡に映る私は別人のようだった。
(大丈夫……落ち着いて。サーシャが言った通り、図書館は神殿領域内なんだから、掟には触れないはず)
そう自分に言い聞かせて部屋を出る。
深夜の回廊は冷え冷えとして、壁にかけられた聖印が月明かりにぼんやり光っていた。
侍女として歩けば、視線を向けられることはほとんどない。
彼女たちは神子を見ても目を合わせないよう訓練されているのだから。逆に“普通の侍女のふり”をしている方が自然だった。
(意外と……いけるかも!)
そんな小さな手応えを感じた頃、私はハニー宮への通路に辿り着いていた。
回廊には警備の神官が一人、立っている。
(どうしよう……)
足を止め、息を殺して考える。
けれど神官は俯きがちで、とても退屈そうに欠伸を堪えている。
(今だ……!)
私は掃除道具を運ぶように俯き、足音を殺してすれ違う。
胸をぎゅっと締めつけながら通り抜けると――
神官はまったくこちらを見なかった。
(成功した…!)
小さくガッツポーズをして、うっすらと開いた扉からハニー宮の中へと滑り込む。
中は、水晶宮とは違う。
装飾は少ないのに、どこか温かみがある。
壁には古い絵画が飾られ、所々を蝋燭の灯りが照らしていた。
しばらく進むと、ほのかなインクの匂いが漂っていた。
(……あ、図書館の匂いだ)
胸がわずかに弾む。
奥へ進むと、重く大きな扉があり、その先に膨大な書物が積まれた広間が広がっていた。
高い天窓から月光が差し込み、埃がきらきら舞っている。
古い紙の匂いが染みついた静かな空間。
(すごい……ここなら何でも調べられそう)
そう思った瞬間――。
背後から低い声がした。
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