秘密のモデル ―清楚な経理の私が壊れるまで 「ノーパンで出社しなさい」冷酷な作家の言葉責めと、画家に秘部を凝視される熱い午後」 代表作

くんりん

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視線のあいだ

序章

春が近づいているはずなのに、朝の空気にはまだ冬の名残があった。通勤電車のホームに立つと、冷たい風が足元からゆっくりと上がってくる。千尋はコートの前を軽く押さえ、肩に触れるボブカットを指先で整えた。コートの下には、柔らかなブラウンのセーター。落ち着いた色で、目立つわけではないけれど、着ていると少し安心する。その下にはミモレ丈のスカート。そして、冬の間ずっと履いている黒いタイツ。特別おしゃれなわけでもない。けれど、鏡を見るたびに「これでいい」と思えるくらいの、控えめな整い方だった。

会社に着くと、千尋はいつものように経理の席へ向かった。
フロアにはまだ人が少なく、コピー機の低い作動音だけが静かに響いている。椅子を引き、バッグをデスクの横に置く。それから慣れた動きで、パンプスを脱いだ。デスクの下から社内用のサンダルを引き寄せ、タイツの足をそっと差し入れる。外の空気で少し冷えていた足先が、ゆっくりと落ち着いていく。この瞬間が、千尋はわりと好きだった。

外の世界から会社の中へ。一日の空気が静かに切り替わる時間。ブラウンのセーターの袖を少しだけ引き上げ、パソコンの電源を入れる。モニターが淡く光り、いつもの画面が立ち上がった。メールのチェック。昨日の伝票の続き。月末が近いせいで、数字の確認も少し多い。キーボードを叩く音が、静かなフロアに小さく響く。ふと、千尋は窓の外を見た。ビルの隙間に見える空は、冬よりも少しだけ明るい色になっている。春は、もうすぐだ。そのとき、不意に思い出す。彼氏と別れて、もう一年になる。特別な別れ方ではなかった。大きな喧嘩もなく、劇的な出来事もなく、ただ少しずつ連絡が減っていき、気づいたときには会わなくなっていた。悲しかったはずなのに、その感情も、時間と一緒に静かに薄れていった。それから一年。新しい恋人はいない。出会いも、特にない。千尋はキーボードを打ちながら、ぼんやり思う。
寂しいわけではない。

でも、何かが変わる気配もない。同じ朝。同じ仕事。同じ帰り道。やがてフロアに人が増え始める。
コーヒーの香り。誰かの小さな笑い声。コピー機の動く音。それでも経理席のあたりは、いつもどこか静かだった。机の下では、タイツの足がサンダルの中でほんの少し動く。足先にはまだ冬の冷えが残っている。千尋はブラウンのセーターの袖口を指先で整え、静かに息を吐いた。春は、もうすぐ来る。でも自分の毎日は、まだ冬の終わりのように、少しだけ動かないまま続いている気がしていた。メールを開いた瞬間、千尋は少しだけ眉を上げた。受信メールの数が、いつもより多い。月末が近いとはいえ、経理の朝にしては少し多すぎる。一通目を開く。取引先からの請求書の確認。
二通目。営業からの経費申請。三通目。上司からの資料の修正依頼。

「千尋さん、昨日の伝票って確認終わってます?」

背後から声がした。振り返ると、営業の男性が書類を持って立っている。

「えっと……まだ途中です。午前中には終わると思います」「あ、助かります。あとこれもお願いします」

差し出された封筒を受け取る。中には領収書が何枚も入っていた。席に戻ると、電話が鳴った。「はい、経理です」請求書の確認。振込日の問い合わせ。社内からの細かい質問。いつもより少しだけ、やることが多い。パソコンの画面には数字。机の上には書類。電話のランプが時々光る。キーボードを打つ音が、普段より少し速くなっていた。気がつくと、フロアにはもうほとんどの社員が揃っている。コーヒーの香り。誰かの笑い声。コピー機が忙しそうに動く音。
千尋はブラウンのセーターの袖を少しだけ引き上げ、またキーボードに指を置いた。今日は、いつもより少し忙しい。でも――その忙しさが、どこか心地よくもあった。画面の数字を追いながら、千尋はふと思う。こうして何かに追われているほうが、余計なことを考えなくて済むのかもしれない。彼氏と別れて一年。春もまた近づいている。

けれど今は、それを考える余裕もない。机の下では、タイツの足がサンダルの中で小さく動いた。千尋は書類を一枚めくり、静かに息を整える。今日という一日が、いつもより少しだけ速い速度で進み始めていた。仕事終え気がつけば、窓の外の光は朝とは少し違っていた。午後のやわらかい色が、オフィスの窓から静かに差し込んでいる。千尋はパソコンの画面を見つめたまま、最後の数字を確認した。もう一度だけ計算を見直す。桁も、伝票番号も、問題ない。小さく息をついて、エンターキーを押した。画面のデータが保存される。机の上には、朝から積まれていた書類の山がほとんどなくなっていた。いつもより少し多かった仕事も、気づけば一つずつ片付いている。

ふと時計を見る。もう定時に近い時間だった。千尋は背もたれに少し体を預け、肩をゆっくり回す。ブラウンのセーターの袖が、わずかに擦れる音を立てた。今日は、思ったより忙しかった。電話も多かったし、書類も多かったし、確認する数字もいつもより多かった。でも、その分、時間が過ぎるのは早かった。
机の下で、サンダルに入ったタイツの足をそっと伸ばす。長く座っていたせいで、少しだけ足が重い。周りでは、帰り支度を始める人の気配が出始めていた。引き出しを閉める音。パソコンをシャットダウンする音。誰かが「お先に失礼します」と言う声。千尋もマウスを動かし、パソコンの電源を落とす。モニターの光がゆっくり消えた。静かになった画面を見ながら、千尋は思う。今日は、いつもより少し忙しかった。でも
――こういう一日のほうが、悪くないのかもしれない。

余計なことを考える時間が少ないから。ただ今日の仕事が終わったという事実が、小さな区切りのように感じられた。千尋は椅子を少し引き、机の下に視線を落とす。サンダルの中のタイツの足を抜き、朝脱いだパンプスに履き替える。床にかすかな靴音が響いた。バッグを肩にかけ、ブラウンのセーターの裾を軽く整える。そして小さく息を吐く。「お先に失礼します」その声は、いつものように静かだった。会社の一日が終わる。外の空気はきっと、朝より少しだけやわらかくなっている。

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