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第1章
第1話
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「そもそも、貧乏な村人なんてもんはいないのよ。領主や大商人以外は、みんな貧しいんだから」
ふらりと立ち寄った街の酒場。
主人から話を聞いたセシルは、固いチーズを醸造酒で流し込みながら肩をすくめてみせる。
炎のように赤い髪をした女冒険者。
皮鎧をまとった軽装で、腰の後の鞘に収まっているのは短刀だろうか。
軽戦士か盗賊といった風情だ。
「ちげぇねえや」
言い回しが気に入ったのか、主人が大きな腹をゆらして笑った。
街道に山賊が出る。
珍しくもなんともない話である。
貧乏な村人が食い詰め、野盗に堕するなど。
「ただよ。気になる話もあるんだわ」
ひとしきり笑ったあとに声を潜める。
ようするに、ここから先は有料という意味だ。
情報を買うのにだって金はかかる。無料でできるのは、息をすることくらいのもの。
セシルのような生業の者でなくとも、そのあたりは常識である。
「乗り合い馬車の護衛の仕事が出てるね」
ちらりと、視線を壁に貼られた依頼書に投げる。
顔の動きにあわせて髪が揺れた。
ごく短いツインテイルにまとめた赤毛。大きくて真っ赤な瞳は溶鉱炉で燃える石炭のように、好奇心で輝いている。
「あんまオススメできねぇ依頼だ」
「そのこころはー?」
何枚かの銀貨を差し出しながら問う。
そのうち一枚だけをポケットに収める主人。
情報に定価は存在しない。ゆえに、売り手と買い手の暗黙の了解で値段が決まる。
セシルが出したのは相場に近い銀貨。
主人が受け取ったのは、相場より明らかに過小な額。
つまり、信憑性は高くない情報だということ。
「魔法使いが噛んでるんじゃねえかって話だ」
「うっそくさー」
苦笑を浮かべる女冒険者。
万人に一人ともいわれる魔法の才。
そんなものを持っているような奴が、山賊になるはずがない。
仕官先など、それこそいくらでもあるだろう。
「眉唾くせぇ話なのはたしかさ。けどよ、乗り合いが襲われたのは二回、どっちも死人が出てねえんだぜ? 並の山賊じゃねえよ」
風のように襲撃し、風のように去る。
さすがに怪我人くらいは出るが、一人も殺さない。
「ふうむー」
おかしな話である。
山賊が殺人をためらうわけがない。
そもそも、殺人をためらうような人間なら、強盗だってためらうだろう。
奪うのは可だが、殺すのは不可。
ファウルラインが曖昧だ。
だいたい、目撃者を出すというのは、山賊にとっては死活問題である。
死人に口なしの言葉通り、皆殺しにしてしまった方が後腐れがなくて良い。
こちらの戦力を死人は伝えないし、どこで襲われたのか報告することもない。
その点だけでも、生き残りを出さない理由としては充分だろう。
ただし、皆殺しが何度か続くと、王や領主が本格的な討伐隊を編成する可能性がぐんと跳ね上がる。
そのあたりの兼ね合いが悩みどころにのだが、そこまで考えてプランを立てられるような手合いが山賊などを生業とするだろうか。
ちょっと意味不明すぎる。
微妙な顔をするセシル。
「だろ? 凶状もちの魔法使いが、食い詰めて事件を起こしてるってのが、もっぱらの噂だぜ」
その顔を見た主人が笑う。
知恵が回り、人を殺さない山賊。
どこかの宮廷魔術師が追放され、行き場を失って山賊になったのではないか。
たしかにありそうな話だ。
であれば、遅かれ早かれ領主が討伐隊を出す。
ただの山賊でないなら、ほぼ確定だろう。
「どうせ話に乗るなら、そっちの尻馬に乗っかった方がお得だぜ」
乗り合いの組合が出した護衛依頼よりずっと報酬が良いし、なにより安全だ。
冒険者と正規兵では、連度も装備も違うのだから。
というのが、主人が提示した情報である。
「ありがと」
軽く礼を述べ、女冒険者が席を立った。
もう一枚、追加で銀貨を放りながら。
「毎度」
ぱしんと音を立てて、器用に主人が受け取る。
持っている情報は伝えた。
それをどう判断するかは、買い手次第である。
「受けるよ。この仕事」
「酔狂なこって。口入れはこの街の斡旋所だ」
「あとで顔を出してみる。次の馬車はいつ出るの?」
「二日後」
「良いタイミングだね」
くすりとセシルが笑った。
吹き上がる火柱。
もともと連携力の低い冒険者たちが乱れる。
間隙を突いて躍り出る影。
まだ遠いが、前衛の位置にいた戦士が二人、相次いで倒れた。
「やっぱり魔法使い。でも一人とか、わけがわからないねー」
慎重に間合いを計りながら、セシルがひとりごちた。
遠距離から魔法で攻撃されたら、戦士などひとたまりもない。
だが、本来魔法使いというものは一人では戦わない。
接近されたら終わりだからだ。
「まず馬を落ち着かせて。できそう?」
御者に声をかける。
もともと高いところにある御者台だが、背の低いセシルからは、いっそう見上げるようなかたちだ。
なんとか、という返答を得て、軽く頷く赤毛の少女。
この状況で馬車が暴走するのが一番まずい。
街道といっても森の中だ。
たいして道幅は広くないし、けっこううねっている。暴走したあげくに横転などしたら目も当てられない。
「見たところ相手は一人だけみたいだし、なんとかするよ」
にぱっと笑ってみせる。
花が咲きほころぶような笑顔。
それによって御者は、ごくわずかに安心感を高めた。
郡都で売り出し中の若手でも、ホープと噂されている女冒険者。
トレードマークは、真っ赤な髪と頭に乗せた変なゴーグル。
人呼んで、風のセシル。
背負っていた短弓を外し、慎重に矢をつがえる。
相対距離は百メートルほど。
馬鹿正直に走って詰める必要などない。
「山賊さんとしては距離のあるうちにこっちの数を減らしたいだろうけどね。そうは問屋が卸さないよー」
狙いを定める。
その瞬間、音高く弓弦が切れた。
小さな舌打ちをして、咄嗟に弓を投げ捨てる。
不規則に踊る弦で手や顔を切るのを避けるため。
手入れ不足ではない。
道具の手入れを怠るような馬鹿はいないからだ。冒険者だろうと職人だろうと。
となれば導かれる結論はひとつ。
攻撃されたのだ。
「ピンポイントで弦を切るとか、魔導師級ってかい?」
ぺろりと上唇を舐める。
艶めかしいというより子供っぽい仕草だった。
魔法使いたちの称号である。
魔法使い、魔導師、大魔法使い。
べつに試験を受けて昇進するという類のものではない。
宮廷魔術師などして招かれるのは、ほとんどがそのソーサラーだ。
万人に一人の魔法の才。
その中でも選りすぐりの者だけが魔導師の称号を得る。
希少価値の中でも希少価値。
ちなみに大魔法使いというのは、世界に十二人しかいないらしい。
会ったことはおろか、見たこともないので、真偽のほどはセシルには判らないが。
「けど、そいつは悪手だよ。山賊魔導師さん」
役立たずのものとなった右手の矢を捨て、腰の隠しからダガーを引き抜く。
弓矢を使用不能にしたというのは、その攻撃を嫌がっているという証拠だ。
それだけの精度で魔法が放てるなら、直接セシルを攻撃すれば良いのに、武器だけを破壊した。
技量の高さと同時に、限界も露呈している。
「あんた、人を殺せないんだね? 性格的なものか戒律的なものかは、判らないけどね」
聞こえるはずのない問いかけ。
少女が一直線に山賊へと向かう。
至近で炎が吹き上がり、風の刃が襲っても、表情すら変えずに。
致命傷になるような魔法を使ってこないと知っているから。
回避は最低限で良い。
みるみる距離が詰まってゆく。
五十メートル。
強烈な眠気が襲う。
催眠魔法だ。
わりとベーシックな魔法である。多くの魔法使いが習得しており有用性は証明されている。
迫りくる敵に対して用いれば、その出鼻を挫くことができるだろう。
「でも、だからこそ、対処法だって研究されてんのよ」
手にした短刀で左手の甲を浅く切る。
痛みによって眠気を追い払う。
末端部というのは痛みが強い。そして痛いだけで行動は阻害しない。
速度を落とすことなく駈ける。
三十メートル。
突如としてバランスが崩れる。
見えない手によって足首を掴まれたように。
「大地の手!? 精霊魔法も使うの!?」
魔法使いたちが行使する魔法とは系統を異にする魔法である。
大地の精霊の力を借りて相手を転ばせる。ただそれだけの効果だし、けっこう初級に分類される魔法だが、全力疾走しているときに転んだらどうなるか、推して知るべしだろう。
問題なのはそこではない。
勢いに逆らわず、前方に身を投げ出すようにして一転する。
反転した視界の中、彼女に続いていた冒険者が二人ほど無様に転倒するのが確認できた。
六人の護衛のうち、四人が無力化されたことになる。
瞬く間に。
「魔族語魔法と精霊魔法の両方を使うとかっ どんなインチキよっ」
固い地面を転がり、ばんと左手を突いて立ちあがる。
二十メートル。
もう呪文を唱えられる距離ではない。
インチキだろうが何だろうが、ここまでだ。
一挙に間合いを詰める。
敵は腰間の剣を引き抜いた。
逃げることもせずに。
瞬間、女冒険者が右に横っ飛びする。
赤い髪を数本引きちぎり、風の刃が通過した。
「かわしたっ!?」
「無詠唱っ!?」
驚愕の声は双方から。
山賊にしてみれば、絶対に外さない間合いからの攻撃が回避されたことが信じられなかった。
わずか二十メートルの距離で、高速で迫りくる見えない刃を避けるなど。
逆に、セシルからすればそんなものは児戯にも等しい。
魔法使いが剣を抜いた時点で、なにか仕掛けようとしていることは火を見るよりあきらかだ。
近接戦闘に移ると見せかけて罠を張る。
読んでいたから回避は容易かった。
驚いたのは、まったく呪文を詠唱することなく魔法を使ったことである。
不可能だ。
魔導師クラスには、略式詠唱で魔法を発動させることができる者もいるとも聞くが、それだって発動言語は必要になる。
詠唱なしで魔法を使うことなどできない。
少なくとも人間には。
であれば……。
冷たい汗が背筋を伝う。
「嗤えよ。指をさして。魔族だってな」
剣をかざしたまま、山賊が吐き捨てた。
ふらりと立ち寄った街の酒場。
主人から話を聞いたセシルは、固いチーズを醸造酒で流し込みながら肩をすくめてみせる。
炎のように赤い髪をした女冒険者。
皮鎧をまとった軽装で、腰の後の鞘に収まっているのは短刀だろうか。
軽戦士か盗賊といった風情だ。
「ちげぇねえや」
言い回しが気に入ったのか、主人が大きな腹をゆらして笑った。
街道に山賊が出る。
珍しくもなんともない話である。
貧乏な村人が食い詰め、野盗に堕するなど。
「ただよ。気になる話もあるんだわ」
ひとしきり笑ったあとに声を潜める。
ようするに、ここから先は有料という意味だ。
情報を買うのにだって金はかかる。無料でできるのは、息をすることくらいのもの。
セシルのような生業の者でなくとも、そのあたりは常識である。
「乗り合い馬車の護衛の仕事が出てるね」
ちらりと、視線を壁に貼られた依頼書に投げる。
顔の動きにあわせて髪が揺れた。
ごく短いツインテイルにまとめた赤毛。大きくて真っ赤な瞳は溶鉱炉で燃える石炭のように、好奇心で輝いている。
「あんまオススメできねぇ依頼だ」
「そのこころはー?」
何枚かの銀貨を差し出しながら問う。
そのうち一枚だけをポケットに収める主人。
情報に定価は存在しない。ゆえに、売り手と買い手の暗黙の了解で値段が決まる。
セシルが出したのは相場に近い銀貨。
主人が受け取ったのは、相場より明らかに過小な額。
つまり、信憑性は高くない情報だということ。
「魔法使いが噛んでるんじゃねえかって話だ」
「うっそくさー」
苦笑を浮かべる女冒険者。
万人に一人ともいわれる魔法の才。
そんなものを持っているような奴が、山賊になるはずがない。
仕官先など、それこそいくらでもあるだろう。
「眉唾くせぇ話なのはたしかさ。けどよ、乗り合いが襲われたのは二回、どっちも死人が出てねえんだぜ? 並の山賊じゃねえよ」
風のように襲撃し、風のように去る。
さすがに怪我人くらいは出るが、一人も殺さない。
「ふうむー」
おかしな話である。
山賊が殺人をためらうわけがない。
そもそも、殺人をためらうような人間なら、強盗だってためらうだろう。
奪うのは可だが、殺すのは不可。
ファウルラインが曖昧だ。
だいたい、目撃者を出すというのは、山賊にとっては死活問題である。
死人に口なしの言葉通り、皆殺しにしてしまった方が後腐れがなくて良い。
こちらの戦力を死人は伝えないし、どこで襲われたのか報告することもない。
その点だけでも、生き残りを出さない理由としては充分だろう。
ただし、皆殺しが何度か続くと、王や領主が本格的な討伐隊を編成する可能性がぐんと跳ね上がる。
そのあたりの兼ね合いが悩みどころにのだが、そこまで考えてプランを立てられるような手合いが山賊などを生業とするだろうか。
ちょっと意味不明すぎる。
微妙な顔をするセシル。
「だろ? 凶状もちの魔法使いが、食い詰めて事件を起こしてるってのが、もっぱらの噂だぜ」
その顔を見た主人が笑う。
知恵が回り、人を殺さない山賊。
どこかの宮廷魔術師が追放され、行き場を失って山賊になったのではないか。
たしかにありそうな話だ。
であれば、遅かれ早かれ領主が討伐隊を出す。
ただの山賊でないなら、ほぼ確定だろう。
「どうせ話に乗るなら、そっちの尻馬に乗っかった方がお得だぜ」
乗り合いの組合が出した護衛依頼よりずっと報酬が良いし、なにより安全だ。
冒険者と正規兵では、連度も装備も違うのだから。
というのが、主人が提示した情報である。
「ありがと」
軽く礼を述べ、女冒険者が席を立った。
もう一枚、追加で銀貨を放りながら。
「毎度」
ぱしんと音を立てて、器用に主人が受け取る。
持っている情報は伝えた。
それをどう判断するかは、買い手次第である。
「受けるよ。この仕事」
「酔狂なこって。口入れはこの街の斡旋所だ」
「あとで顔を出してみる。次の馬車はいつ出るの?」
「二日後」
「良いタイミングだね」
くすりとセシルが笑った。
吹き上がる火柱。
もともと連携力の低い冒険者たちが乱れる。
間隙を突いて躍り出る影。
まだ遠いが、前衛の位置にいた戦士が二人、相次いで倒れた。
「やっぱり魔法使い。でも一人とか、わけがわからないねー」
慎重に間合いを計りながら、セシルがひとりごちた。
遠距離から魔法で攻撃されたら、戦士などひとたまりもない。
だが、本来魔法使いというものは一人では戦わない。
接近されたら終わりだからだ。
「まず馬を落ち着かせて。できそう?」
御者に声をかける。
もともと高いところにある御者台だが、背の低いセシルからは、いっそう見上げるようなかたちだ。
なんとか、という返答を得て、軽く頷く赤毛の少女。
この状況で馬車が暴走するのが一番まずい。
街道といっても森の中だ。
たいして道幅は広くないし、けっこううねっている。暴走したあげくに横転などしたら目も当てられない。
「見たところ相手は一人だけみたいだし、なんとかするよ」
にぱっと笑ってみせる。
花が咲きほころぶような笑顔。
それによって御者は、ごくわずかに安心感を高めた。
郡都で売り出し中の若手でも、ホープと噂されている女冒険者。
トレードマークは、真っ赤な髪と頭に乗せた変なゴーグル。
人呼んで、風のセシル。
背負っていた短弓を外し、慎重に矢をつがえる。
相対距離は百メートルほど。
馬鹿正直に走って詰める必要などない。
「山賊さんとしては距離のあるうちにこっちの数を減らしたいだろうけどね。そうは問屋が卸さないよー」
狙いを定める。
その瞬間、音高く弓弦が切れた。
小さな舌打ちをして、咄嗟に弓を投げ捨てる。
不規則に踊る弦で手や顔を切るのを避けるため。
手入れ不足ではない。
道具の手入れを怠るような馬鹿はいないからだ。冒険者だろうと職人だろうと。
となれば導かれる結論はひとつ。
攻撃されたのだ。
「ピンポイントで弦を切るとか、魔導師級ってかい?」
ぺろりと上唇を舐める。
艶めかしいというより子供っぽい仕草だった。
魔法使いたちの称号である。
魔法使い、魔導師、大魔法使い。
べつに試験を受けて昇進するという類のものではない。
宮廷魔術師などして招かれるのは、ほとんどがそのソーサラーだ。
万人に一人の魔法の才。
その中でも選りすぐりの者だけが魔導師の称号を得る。
希少価値の中でも希少価値。
ちなみに大魔法使いというのは、世界に十二人しかいないらしい。
会ったことはおろか、見たこともないので、真偽のほどはセシルには判らないが。
「けど、そいつは悪手だよ。山賊魔導師さん」
役立たずのものとなった右手の矢を捨て、腰の隠しからダガーを引き抜く。
弓矢を使用不能にしたというのは、その攻撃を嫌がっているという証拠だ。
それだけの精度で魔法が放てるなら、直接セシルを攻撃すれば良いのに、武器だけを破壊した。
技量の高さと同時に、限界も露呈している。
「あんた、人を殺せないんだね? 性格的なものか戒律的なものかは、判らないけどね」
聞こえるはずのない問いかけ。
少女が一直線に山賊へと向かう。
至近で炎が吹き上がり、風の刃が襲っても、表情すら変えずに。
致命傷になるような魔法を使ってこないと知っているから。
回避は最低限で良い。
みるみる距離が詰まってゆく。
五十メートル。
強烈な眠気が襲う。
催眠魔法だ。
わりとベーシックな魔法である。多くの魔法使いが習得しており有用性は証明されている。
迫りくる敵に対して用いれば、その出鼻を挫くことができるだろう。
「でも、だからこそ、対処法だって研究されてんのよ」
手にした短刀で左手の甲を浅く切る。
痛みによって眠気を追い払う。
末端部というのは痛みが強い。そして痛いだけで行動は阻害しない。
速度を落とすことなく駈ける。
三十メートル。
突如としてバランスが崩れる。
見えない手によって足首を掴まれたように。
「大地の手!? 精霊魔法も使うの!?」
魔法使いたちが行使する魔法とは系統を異にする魔法である。
大地の精霊の力を借りて相手を転ばせる。ただそれだけの効果だし、けっこう初級に分類される魔法だが、全力疾走しているときに転んだらどうなるか、推して知るべしだろう。
問題なのはそこではない。
勢いに逆らわず、前方に身を投げ出すようにして一転する。
反転した視界の中、彼女に続いていた冒険者が二人ほど無様に転倒するのが確認できた。
六人の護衛のうち、四人が無力化されたことになる。
瞬く間に。
「魔族語魔法と精霊魔法の両方を使うとかっ どんなインチキよっ」
固い地面を転がり、ばんと左手を突いて立ちあがる。
二十メートル。
もう呪文を唱えられる距離ではない。
インチキだろうが何だろうが、ここまでだ。
一挙に間合いを詰める。
敵は腰間の剣を引き抜いた。
逃げることもせずに。
瞬間、女冒険者が右に横っ飛びする。
赤い髪を数本引きちぎり、風の刃が通過した。
「かわしたっ!?」
「無詠唱っ!?」
驚愕の声は双方から。
山賊にしてみれば、絶対に外さない間合いからの攻撃が回避されたことが信じられなかった。
わずか二十メートルの距離で、高速で迫りくる見えない刃を避けるなど。
逆に、セシルからすればそんなものは児戯にも等しい。
魔法使いが剣を抜いた時点で、なにか仕掛けようとしていることは火を見るよりあきらかだ。
近接戦闘に移ると見せかけて罠を張る。
読んでいたから回避は容易かった。
驚いたのは、まったく呪文を詠唱することなく魔法を使ったことである。
不可能だ。
魔導師クラスには、略式詠唱で魔法を発動させることができる者もいるとも聞くが、それだって発動言語は必要になる。
詠唱なしで魔法を使うことなどできない。
少なくとも人間には。
であれば……。
冷たい汗が背筋を伝う。
「嗤えよ。指をさして。魔族だってな」
剣をかざしたまま、山賊が吐き捨てた。
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