愛され妻と嫌われ夫 〜「君を愛することはない」をサクッとお断りした件について〜

榊どら

文字の大きさ
49 / 119

17 要らないケーキ

しおりを挟む
 アデレードは夕食から戻ると、早々と寝る準備をして寝台に横になった。お日様の匂いのするフカフカの布団に一瞬心が緩んだ。

 しかし、夕食のことを思い返すとなんとも言えない気持ちになった。

 凄く好きだった人、と言葉に出した時、考えないようにしてきたレイモンドの顔が浮かんだ。

 でも、くっきりはっきり鮮明には思い出せなかった。

 まるで自分の想像のレイモンドが思い出の中で動いているように見えた。


(もしかして、私はずっとレイモンドの幻想を追っていたのかもしれない)


 レイモンドとの関係が決定的に破綻したのはカフェ・ド・ルグランへ行った日だ。

 今年開店したばかりの有名ショコラティエが手掛ける店で、一日十個限定のチョコレートケーキに人気が殺到している。

 半年待ってようやく来た予約日だった。


「人生の中で一番美味しいケーキだったの! レイモンドにも食べて欲しい!」

 
 そんなことを興奮しながら言ってレイモンドを誘った。

 レイモンドは「あぁ」とか「へぇ」とか答えたはず。

 快諾はしないけど、嫌とも言わないみたいな。

 振り返れば、いつも自分ばかりがはしゃいでいた気がする。

 独りよがりで色々痛かったのかもしれない。

 俯瞰的に蘇ってくる記憶に居た堪れなくなった。

 やはり周囲の言うように、厚顔無恥にしつこく付き纏っていたのだろうか。

 でも、だったら、もっとはっきり迷惑だと言って欲しかった。あの日みたいに。

 ルグランへ行く約束をした日、レイモンドはメイジーをエスコートしてカフェに来た。「なんでよ!」と怒りの感情が噴き上がるより、空虚な気持ちになった。

 
「二人分の予約しかしてないのに……」


「ごめんなさい。やっぱりわたしはお邪魔よね。どうしても一度来てみたくて」


「だったら自分で予約すれば済む話でしょ」


「俺が誘ったんだよ。いいじゃないか。そんな意地の悪いこと言わなくても、席ぐらい用意してくれるだろ」


 確かに限定のチョコレートケーキに関しての予約であって、カフェ自体は当日でも入店できるし、店内はどのテーブルもゆったりした配置になっていて二人から三人に増えたところで、店側に負担は掛からないのかもしれない。でも、


(意地が悪い? 私が? 非常識なのはそっちでは?)


 憤りが拭えなかった。

 しかし、全部呑み込んで、レイモンドに言われるままに入店して席に着いた。

 以前からメイジーはレイモンドとの外出についてこようとする言動があった。

 その度、レイモンドの母であるポーラが嗜めてくれていた。

 しかし、最近それがなくなって、レイモンドとメイジーの関係は急速に深まっていた。

 ポーラが二人の仲を認めたのかもしれない。メイジーは華やかな美人だし、息子が疎う人間より、大切に扱う令嬢を選ぶのは当然だ。

 ポーラが味方でいてくれたことは大きな心の拠り所だった。

 だから、それがなくなっていたあの時、既に気持ちは折れていたのだろう。

 入店後しばらくして、紅茶と限定のチョコレートケーキ二つ、洋梨のタルト一つが運ばれてきた。


「それが噂のチョコレートケーキ? 本当に美味しそうね」


 メイジーの発言に、そんなこと言うな、食べにくくなる、と黒い感情が湧いた。

 勝手に来た相手に譲ってやる義理はない。元々メイジーが嫌いだったから尚のこと。無視してフォークを握ると、


「じゃあ、交換しようか? 俺はそのタルトを食べるよ」


「え! いいの?」


 目の前で繰り広げられる会話に腹底の不快さが抑えきれなくなった。


「それは私がレイモンドに食べてもらいたくて予約したケーキよ」


 私が世界一美味しいと思って、私が予約して、私が半年待って、私が楽しみにしていて、私がレイモンドに食べてもらいたかった、私の気持ちじゃないか。何故それをメイジーに与えるのか。


「お前の分をやれと言っているわけじゃない。支払いは当然俺が持つのだし、別にいいじゃないか」


「そういう問題じゃない!」


「そうよね。わたしが勝手についてきたんだし、これはレイモンドが食べるべきよ」


「いや、いいんだ。俺はそんなにチョコレートケーキが好きじゃないし、大して食べたいわけでもない。要らないから君が食べたらいい」


 レイモンドがメイジーの皿と自分の皿を交換する。取り替えられていくケーキを見ながら頭の中が妙にすっきりしていった。

 あぁ、そうか。要らないのか。そうか、そうか、要らなかったのか。だったら、もっと早く言ってくれたらよかった。そしたら、レイモンドを誘わなかったし、二個とも自分で食べたのに。でも、もうこんなケチのついたケーキは私も要らないや、と。


「わかりました。では、これも二人で食べてください。私は帰ります」


「何を言っているんだ。お前の分はお前が食べたらいいじゃないか」


「もう要らないの」


「おい、待てよ。たかがケーキで何をそんなに怒っているんだ? 馬鹿馬鹿しい。座れよ」

「貴方に命令される謂れはないわ。さよなら」


 テーブルに一万リラを叩きつけて帰ってきた。

 屋敷に戻り今日と同じようにすぐ寝台に横になった。

 十八歳の令嬢がケーキ一つで癇癪を起こすなんて滑稽な醜態だ。

 だから、レイモンドとの絶縁の理由を聞かれても誰にも教えなかった。

 でも、あれは自分にとってただのケーキではなかったのだ。長年のレイモンドへの執着が解けるくらいに。


(……執着か)


 寝台横のランプだけが灯っている薄暗い部屋。ぼんやり天蓋を見つめる。

 昔観に行った演劇のヒロインが、しつこく言い寄ってくる男へ向けて「それは愛じゃなくてただの執着よ」と放った台詞が頭に浮かんだ。

 愛と執着は同じじゃないの? とその時は思った。

 でも、レイモンド一色だった日常がなくなった今は、あの台詞の意味がわかった気がする。

 失うのが怖かったし、変わるのが不安だった。

 レイモンドを一生懸命好きで、好きになってもらえるように努力してきた時間を無駄にしたくなかった。

 これを失ってしまったら、今までの人生の意味がなくなる。

 しがみついて離さなかったのは、そんな気持ちが心の底にあったからだ。

 もし、記憶をもったまま過去に戻れたら、レイモンドを好きになるのをやめると思う。やめたいと思う。

 やはりあのヒロインの発言は正しい。

 愛と執着は違う。でも、執着はかつては愛であったはずだ。腐って落ちた成れの果てだ。


(あの男は、結局ヒロインの誘拐を企てて牢屋に繋がれたのだっけ……)


 自分がそんな強行に走るとは思わないけれど、レイモンドと物理的に離れて良かったと思う。

 その手段が白い結婚だったことも。

 自分から望み、家同士を巻き込んだ結婚を反故にして、途中で自国へ帰るほど無責任ではない。

 結婚している身でレイモンドに復縁を迫るほど非常識でもない。

 顔を合わせない期間が一年間あれば、現実をきちんと消化できるはず。

 現に四ヶ月はレイモンドのことは考えずに過ごせた。

 予定外だったのは、女嫌いで傲慢な男のはずの結婚相手が、案外普通で非常に穏やかな日常を暮らしていること。

 相手も親の意向で嫌々結婚するのだから、こちらも利用してよいと思ったし、実際第一印象は最悪だったのに、どういうわけか。

 多分、根が悪い人間ではないんだろう。

 アデレードは、先程の夕食でのペイトンを思い浮かべた。


(あんなに同情してくれるとは思わなかったわ)


 酷い振られ方をしたのだ、と打ち明けた時、ペイトンはこの世の終わりみたいな顔をした。

 アデレードの身近な人間は殆どが「あんな男とは絶縁して正解!」と喜んだから、ペイトンの表情に面食らってしまった。

 今更結婚理由などを尋ねてきて若干苛ついていたけれど、あの顔を見た瞬間、そんな感情は砂地に水が染み入るように引いた。

 逆に慰めの言葉をかけようかと思ったくらいだ。

 でも、何をどう慰めればよいのやら。

 ペイトンには関係のない話なのに、落ち込む理由が意味不明すぎて困った。

 同時に、結婚理由について改めて考えると、ペイトンばかりに理不尽な契約を強いるのはどうかと思った。

 本人には言わなかったが、本当は「碌でもない男と結婚したらレイモンドが罪悪感を抱くかもしれない」というのが発端だ。

 隣国の悪名高き屑男だから結婚した。相手のことなどどうでもよかった。

 「君を愛することはない」くらいの自己中心的思考。

 いやしかし、こっちは口に出しては言っていないのだから、やはりペイトンの方が悪い。

 なので、契約破棄の提案をするのはやめた。

 言い訳するならペイトンは、事あるごとに「契約だから仕方ない」と口にする。

 つまり契約がなかったら不当な扱いを受ける可能性がある。

 尤もペイトンに悪態をつかれても倍返しにしてやる自信はあるのだが。


(まぁ、後七ヶ月だし)


 所詮今の生活は仮初。ずっと続くわけでもない。

 契約続行でもペイトンに圧政を強いなければ問題ないはず。

 それより家へ戻った後の生活の方が心配だ。両親や姉から手紙がくるが、レイモンドのことには一切触れられていないし、こっちからも尋ねたことはない。

 しかし、帰国したら社交界で顔を会わせるのは避けられない。

 再会したら、レイモンドは何か言うだろうか。


(……考えるだけ無駄よね。メイジーと楽しくやっているもの)


 また自分だけが空回りするのは御免だ。やめよう。やめよう。やめよう。

 アデレードはランプの灯りを消して目を閉じた。

 悪い思考を吐き出すイメージで、深く呼吸する。

 静寂の中に自分の吐く息の音だけ小さく聞こえる。

 上質の布団に包まれて眠るのは幸せなことだ。

 一定のリズムに意識を集中させていると、やがて眠りに落ちていった。
しおりを挟む
感想 396

あなたにおすすめの小説

八年間の恋を捨てて結婚します

abang
恋愛
八年間愛した婚約者との婚約解消の書類を紛れ込ませた。 無関心な彼はサインしたことにも気づかなかった。 そして、アルベルトはずっと婚約者だった筈のルージュの婚約パーティーの記事で気付く。 彼女がアルベルトの元を去ったことをーー。 八年もの間ずっと自分だけを盲目的に愛していたはずのルージュ。 なのに彼女はもうすぐ別の男と婚約する。 正式な結婚の日取りまで記された記事にアルベルトは憤る。 「今度はそうやって気を引くつもりか!?」

婚約破棄の代償

nanahi
恋愛
「あの子を放って置けないんだ。ごめん。婚約はなかったことにしてほしい」 ある日突然、侯爵令嬢エバンジェリンは婚約者アダムスに一方的に婚約破棄される。破局に追い込んだのは婚約者の幼馴染メアリという平民の儚げな娘だった。 エバンジェリンを差し置いてアダムスとメアリはひと時の幸せに酔うが、婚約破棄の代償は想像以上に大きかった。

寵愛のいる旦那様との結婚生活が終わる。もし、次があるのなら緩やかに、優しい人と恋がしたい。

にのまえ
恋愛
リルガルド国。公爵令嬢リイーヤ・ロイアルは令嬢ながら、剣に明け暮れていた。 父に頼まれて参加をした王女のデビュタントの舞踏会で、伯爵家コール・デトロイトと知り合い恋に落ちる。 恋に浮かれて、剣を捨た。 コールと結婚をして初夜を迎えた。 リイーヤはナイトドレスを身に付け、鼓動を高鳴らせて旦那様を待っていた。しかし寝室に訪れた旦那から出た言葉は「私は君を抱くことはない」「私には心から愛する人がいる」だった。 ショックを受けて、旦那には愛してもられないと知る。しかし離縁したくてもリルガルド国では離縁は許されない。しかしリイーヤは二年待ち子供がいなければ離縁できると知る。 結婚二周年の食事の席で、旦那は義理両親にリイーヤに子供ができたと言い出した。それに反論して自分は生娘だと医師の診断書を見せる。 混乱した食堂を後にして、リイーヤは馬に乗り伯爵家から出て行き国境を越え違う国へと向かう。 もし、次があるのなら優しい人と恋がしたいと…… お読みいただき、ありがとうございます。 エブリスタで四月に『完結』した話に差し替えいたいと思っております。内容はさほど、変わっておりません。 それにあたり、栞を挟んでいただいている方、すみません。

私のことは愛さなくても結構です

ありがとうございました。さようなら
恋愛
サブリナは、聖騎士ジークムントからの婚約の打診の手紙をもらって有頂天になった。 一緒になって喜ぶ父親の姿を見た瞬間に前世の記憶が蘇った。 彼女は、自分が本の世界の中に生まれ変わったことに気がついた。 サブリナは、ジークムントと愛のない結婚をした後に、彼の愛する聖女アルネを嫉妬心の末に殺害しようとする。 いわゆる悪女だった。 サブリナは、ジークムントに首を切り落とされて、彼女の家族は全員死刑となった。 全ての記憶を思い出した後、サブリナは熱を出して寝込んでしまった。 そして、サブリナの妹クラリスが代打としてジークムントの婚約者になってしまう。 主役は、いわゆる悪役の妹です

さようなら、わたくしの騎士様

夜桜
恋愛
騎士様からの突然の『さようなら』(婚約破棄)に辺境伯令嬢クリスは微笑んだ。 その時を待っていたのだ。 クリスは知っていた。 騎士ローウェルは裏切ると。 だから逆に『さようなら』を言い渡した。倍返しで。

幼馴染を溺愛する旦那様の前からは、もう消えてあげることにします

睡蓮
恋愛
「旦那様、もう幼馴染だけを愛されればいいじゃありませんか。私はいらない存在らしいので、静かにいなくなってあげます」

貴方なんて大嫌い

ララ愛
恋愛
婚約をして5年目でそろそろ結婚の準備の予定だったのに貴方は最近どこかの令嬢と いつも一緒で私の存在はなんだろう・・・2人はむつまじく愛し合っているとみんなが言っている それなら私はもういいです・・・貴方なんて大嫌い

さようなら、私の愛したあなた。

希猫 ゆうみ
恋愛
オースルンド伯爵家の令嬢カタリーナは、幼馴染であるロヴネル伯爵家の令息ステファンを心から愛していた。いつか結婚するものと信じて生きてきた。 ところが、ステファンは爵位継承と同時にカールシュテイン侯爵家の令嬢ロヴィーサとの婚約を発表。 「君の恋心には気づいていた。だが、私は違うんだ。さようなら、カタリーナ」 ステファンとの未来を失い茫然自失のカタリーナに接近してきたのは、社交界で知り合ったドグラス。 ドグラスは王族に連なるノルディーン公爵の末子でありマルムフォーシュ伯爵でもある超上流貴族だったが、不埒な噂の絶えない人物だった。 「あなたと遊ぶほど落ちぶれてはいません」 凛とした態度を崩さないカタリーナに、ドグラスがある秘密を打ち明ける。 なんとドグラスは王家の密偵であり、偽装として遊び人のように振舞っているのだという。 「俺に協力してくれたら、ロヴィーサ嬢の真実を教えてあげよう」 こうして密偵助手となったカタリーナは、幾つかの真実に触れながら本当の愛に辿り着く。

処理中です...