愛され妻と嫌われ夫 〜「君を愛することはない」をサクッとお断りした件について〜

榊どら

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SIDE2-12 本音

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***
 侯爵に会ったら、猛抗議するつもりでいた。

 約束が違う。どうしてアデレードを嫁がせたのか。俺にくれると言ったじゃないか。今すぐ返してくれ、と。

 血が上った頭で不躾に暴れまわりたい衝動に駆られていた。

 しかし、人の怒りは長く持たないと文献で読んだ通り、バルモア侯爵邸へ向かう馬車の中で段々と熱が冷めていった。

 怖気づいてしまったというのが正確な表現かもしれない。

 明白に後ろ暗いことがあったから、侯爵を一方的に非難することはできないと不安に思った。

 いや、それでもまだ、話し合いに応じてもらえない可能性を微塵も考えていなかったこと自体が、厚顔無恥だった。

 思い返せば、あっさり屋敷へ入ることを許可されたことがどれほどの温情だったか。



 
 馬車から降りて、玄関の呼び鈴を鳴らすとすぐにメイドが現れた。


「レイモンド様。お久しぶりでございます。アデレード様はいらっしゃいませんが……」


 と告げられた。


「いや、バルモア侯爵に面会を頼みたい」


「お約束は?」


「……いや」


 そんな会話を繰り広げていると、家令がやって来た。当然に知っている顔で、しばらく待つように言われた。

 追い返されたらどうしよう。格上の侯爵家へ約束もなく押しかけてしまった。その時になってようやく自分の非礼に背筋が冷たくなった。

 だが、すぐに戻ってきた家令は、


「お待たせして申し訳ありません。旦那様はすぐに参られますのでこちらへ」


 と屋敷の中へ誘ってくれた。

 しかし、ほっとしたのも束の間で、通されたのは客間でなく侯爵の執務室だったことに、一層緊張が強くなった。

 かつて、アデレードとよく遊んでいた頃「ここはパパのお仕事するところだから入ったらダメなんだって。すごく怒られるよ」と言われたことが妙に思い出された。

 部屋に入って少しして、見慣れない赤毛のメイドがお茶を運んできた。

 が、そのことにも気持ちが落ち着かなくなった。

 昔は、バルモア家の使用人全てと顔見知りだった。

 この屋敷に来たのはいつ以来か。

 こんな状態になってのこのこ来たことに羞恥心が襲ってきた。

 それでも自分を律して待っていると、ノッキングの音がして、バルモア侯爵が入室してきた。

 アデレードと同じ栗色の髪に茶色の瞳。上の兄と姉は、母親のナタリアと同じ髪色だから、自分に似たアデレードをバルモア侯爵は殊更に可愛がっている。

 アデレードは、子供の頃は、父親に似ていると言われるたびに「違うもん。ママに似てるんだもん」と泣きじゃくっていたが。

 なんだろうか。バルモア邸にいるからか、昔のことばかり浮かんでくる。

 いや、昔のことじゃない、これからも、この先の人生も、アデレードと二人でいる。その為にここへ来た。


「先触れもなく申し訳ありません」


 勉強に追われるようになり、子供の頃のようにこの屋敷へ訪れなくなってからも、バルモア侯爵とは、時折、父に同伴する商会の顔繫ぎの夜会で挨拶することはあった。

 しかし、バルモア侯爵にアデレードに関して何か言われたことは一度もなかった。

 そのことに関して、アデレードは自分が悪いと自覚しているから侯爵には黙っているのだな、と都合のよい解釈をするようになった。

 アデレードは昔からパパよりママの方が好きだったけれど、泣きつくのはいつも自分に甘いパパで、それは成長してからも変わらなかったから、嫌なことがあったら侯爵に告げるはず、と。


「いや、構わないよ。座りなさい」


 着席したものの、何から切り出せばいいのか。沈黙の中、お茶を勧められるが到底飲む気にはなれなかった。

 意を決して、アデレードが結婚したのかと尋ねると、


「あぁ、今朝嫁いで行ったよ」


 とまるでその辺のカフェにでも行っているような答えが返り、不快な気持ちが湧きあがる。


(俺にくれるといったじゃないか)


 だけど、言葉にはできずにいると、


「言いたいことがあるなら言いなさい。この部屋でのことは不問にしよう」


 バルモア侯爵が見透かしたように告げた。

 穏やかな声だったけれど、なんだか寒々しいものを感じた。


「アデレードを私の元へ嫁がせてくださる約束だったはずです」


「……そうだね。でもそれはアデレード次第とも伝えていたはずだよ」


「それ、は……アデレードが望んで結婚したと言うことですか?」


「この結婚は、アデレードが自分で決めたことだよ。君のことはもういい、とも言っていた。私は最初はただの喧嘩だと思って、結婚は承諾しなかった。あの子は、カッとなると激情のまま動いてしまうから、後になって先方にやはりなかったことにしてくれとは言えないからね。でも、そうではないと理解して話を進めた。この一月、アデレードは隣国へ向かう準備を自分でずっとしていたし、君とのコンタクトもまるでなかった。むしろ、何故、今更、君が訪ねて来たのか疑問に思っているよ。メイジー・フランツ嬢の勉強はいいのかい?」


 何も知らないと思っていたバルモア侯爵が、何もかも知っているような口振りで語ることに、言い知れない恐怖を覚えた。

 言葉の一つ一つがショックだった。

 アデレードが自分で決めて、自分で嫁いでいったと言われたことも、この一月会おうと思えばいつもで訪ねられたのに、会いに行かなかったことを指摘されたことも。メイジーのことを知られていることも。


「……彼女の就職試験に集中するあまり、アデレードを蔑ろにしました。しかし、メイジー嬢に対してやましい気持ちはなく、私は彼女が男性でも同じように手助けをしたと断言できます。人の人生を左右する試験を優先させて何が悪いのか、と思ってしまっていました」


 それでも必死に取り繕った。

 何故、大丈夫と思ったのか。

 何故、メイジーの試験に時間を費やしてしまったのか。

 ただの親切心だった。

 本当に一ミリもメイジーを女性として意識したことがなかったから。

 そんなつもりはなかった、と必死で告げてみたが、ただの言い訳にしかならなくて、ほとほと自分が嫌になった。

 だけど、それよりもっと苦しかったのは、


「君は、本当に根本的な問題がフランツ嬢にあると思っているのか?」


 問題はメイジーのことではないのだ、と全て見抜かれていたことだ。

 アデレードに辛くあたっていたことも、他の令嬢に秋波を送られていたことも、痛いところを次々に突かれて狼狽えるしかできなかった。

 それでもアデレード以外に心を移したことなどただの一度もなかったから、必死に食い下がった。

 けれど、バルモア侯爵には一つも届いていないみたいだった。


「君は一体、アデレードをどう思っているのかね?」


 尋ねられて、そんなのもちろん愛している、と言葉にしようとした。

 が、侯爵に遮られた。「話の途中に一体何だ?」と意味がわからなかった。けれど、文句を言える立場でないことは重々承知だ。

 侯爵が立ち上がり、執務机から取り出してきた誕生日のメッセージカードを並べて行くのを黙って見つめた。

 ぼんやり眺めていると、また、昔のことが色濃く蘇ってきた。

 アデレードは、字を覚えるのが遅かった。教えたのは自分だった。

 右に折れる部分を、左に曲げてよくわからない字を書いた。

 注意したら「じゃあ、後ろ向けて読んだらいいんじゃない?」と突拍子もないことを言って、紙を反転させて太陽に透かしてみせた。

 他の部分は間違っていないので、上手くいくわけもなく、余計に見知らぬ文字になるのだが。

 何のわだかまりもなく笑っていられた遠い善き日だ。

 そんなことを思って、レイモンドの心は一瞬緩んだが、


「君に比べて、確かにアデレードは周囲から評価されるほどの成果をだしていない。けれど、何もしていなかったわけじゃない。君は、大人しく待っていてくれればいいと言ったがアデレードも君の頑張りに見合うために自分を磨く努力はしていた。君は、フランツ嬢に勉強を教えていると言ったが、アデレードに教えてやったことはあったか? あの子は試験勉強は、自分でしていた。わからなければ教師か友人、或いは私に尋ねることもあった。毎朝一緒に登校している優秀な君に手伝って貰うのが、一番早かっただろうけどね。君の邪魔をしないようにしていたのだろう。普通科のただの定期考査だ。成績が悪くても進級できるし、就職試験とは重大さが全く違う。でも、フランツ嬢を教える君を、あの子はどう思って見ていただろうね」


 聞かれてまた息が詰まった。

 確かに、字を書く練習は一緒にしたのに、学校の勉強を一緒にした記憶がない。

 アデレードは勉強せずに遊んでいるのだと思い込んでいたし、別にアデレードが勉強しなくてもいいと思っていた。 
 
 自分と結婚するのだし、困ったことは助けてやれる。

 メイジーをどういう思いで見ていたか? 気の毒だと思っていたんじゃないのか。

 目の前に並べられたカード。

 レイモンドの記憶の中のアデレードの文字は、癖のある少し斜めに上がった文字だ。こんな字は知らない。

 いや、自分も毎年誕生祝いにメッセージカードは貰っていた。

 ちゃんと読んだし、多分部屋に置いてある。毎日見る文字が少しずつ変化しても気づかなかっただけ。

 そもそもアデレードが字の練習をしているのだと、教えてくれたら良かったのではないか。

 そこまで考えて、レイモンドはアデレードは本当に話していなかったか? と嫌な動悸に見舞われた。


「今勉強中だから少し黙ってくれないか」


 たびたびそんなことを言ってアデレードが話すのを止めた。挙句に、


「俺、喋るの嫌いなんだよね」


 とまで言ったこともある。


「そっかぁ」


 アデレードはあの時確かそう言った。どんな顔をしていたかは教科書を読んでいたから見なかった。


「君は本当はアデレードをどう思っていたんだ?」


 本日二回目の質問にレイモンドは硬直した。
 
 先ほど、すぐに答えようとした回答が、この世から消えたみたいに出てこない。

 愛している、好きでいる、その為に、どれだけの努力をしてきたか。
 
 堂々と、胸を張って言えばいい。嘘なんかじゃない。本当なんだ。

 顔を上げると侯爵がこちらを向いている。

 長い沈黙を根気強く待っている。

 アデレードと同じ薄い茶色の瞳。ただ、アデレードと違うのは非常に容赦がないということ。今答えを間違えれば、多分、もうそれで終わりだ。

 レイモンドは視線を彷徨わせて再びテーブルを見た。「パパ、だいすき」という下手くそな文字が目に入る。


「……アデレードは、みんなのことを、好きだったから……」


 自分の耳に届くか届かないかの声だった。

 なんの話をしているのか。面接試験なら質問の的を射ていなくて不合格になる。

 自分のことを聞かれているのに、何故アデレードが誰を好きかを話すのか。

 どう考えてもおかしいだろう。

 回答になっていない。

 こんなのは自分らしくない。それでも、


「……あれも好き、これも好きって、いつも言ってました。俺はアデレードが一番だったけど、アデレードは、みんな、どれも大好きで……俺は、ずっとそれが気に入りませんでした」


 上がってくる吐瀉物を呑み込むことができないみたいに吐き出される。喉が熱い。

 侯爵の顔を見れなくなって俯いた。

 アデレードの下手くそな文字だけを見ていた。

 幼い顔のアデレードが笑っている場面が浮かぶ。「えー、みんなで遊んだ方が楽しいよ? レイも行こうよ!」アデレードがそんなことをよく言うようになったのは、初めて茶会に参加した後くらいだっただろうか。

 全然関係ないことを考えながらも、言葉が堰を切ったように出てくる。


「別に友達を作るなとか、誰とも口を利くな、とかそんなことじゃなくて、皆を好きでいいから、俺のことは特別に好きでいて欲しいって、ずっと思っていて、でも、そんなことは恥ずかしくて言えなかった」


 見ないようにしてきた。誰にも知られたくない。こんな子供じみたことは言えない。ならば永遠に黙っていろ、と俯瞰的に思う自分が遠くの方でぼんやりしている。役立たずで止めてはくれない。


 アデレードをどう思っているのか。


「……だから、ずっと、アデレードが嫌いでした」


 自分の言葉に息を呑む。

 そんなことはあるわけない。顔がじんじん熱くて、息苦しい。とんでもないことを言ってしまった。なのにつっかえていた重い塊が消えたみたいに胸がすいた。

 嫌いだった。

 そうだ。ずっと憎くてたまらなかった。いつも後ろを追いかけてばかりで、なんでなんだって思っていた。振り返らないアデレードに腹が立ってたまらなかった。いつか、仕返ししてやろうと、ずっと思っていた。「皆で遊んだ方が楽しいだろう?」そう言ってやりたかった。

 そうだ、嫌いだったんだ。嫌いで、嫌いで、


「嫌いだった……」


 視界がじんわり滲んでいく。自分の世界が壊れていく。上と下がひっくり返る。嫌いだった。アデレードを、嫌いで、それで、


「でも、好きだった。大好きだった。本当に、ずっと……嫌いで、憎かったけど、好きだった。好きだったのに、好きだった……本当に、本当に、今も、ずっと、会いたい。ごめんなさい。諦められない。すみません……すみません……」


 後から後から涙が出て、止めようと思うのに止まらなくて、気づけばむせび泣いていた。
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