愛され妻と嫌われ夫 〜「君を愛することはない」をサクッとお断りした件について〜

榊どら

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45-3 この佳き日に

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 クラスごとに指示されて講堂へ向かった。 

 ダンスの練習が行われ、夜会も開催される大きな会場だ。

 壇上の正面には大きなステンドグラスがあり柔らかな陽光が虹色に差し込んでいる。

 入場すると既に保護者と在校生が着席していた。

 前方の席へ両者の間の通路を抜けて歩いて行く。

 三百人を超える人間がいるのに不気味なくらい静まり返った荘厳な空気感。

 ただ座って学園長の祝辞を聞くだけなのに緊張してしまう。


(帰りにレイモンドを捕まえられるかな……)


 特進科は毎年最前列と決まっている。

 アデレードの座っている位置からは全く様子が確認できなかった。

 七月会わないだけで急激に容姿が変わるわけもない。

 解散した後、人混みの中でも見つける自信はある。

 ただ、レイモンドが一人になるタイミングがあるかが大きな疑問だ。

 他の人間と会話中に声をかけるのは気が引ける。


「では、続いて学園長より送辞です」


 アデレードがあれこれ考えている間に学園長が壇上へ上がった。おもむろに祝いの言葉が述べられる。


「百十六期卒業生の諸君。本日ここに、諸君の旅立ちの時を迎えられたこと、学園を預かる者として心より誇りに思います。この学び舎において、身分や出自を問わず共に学び、切磋琢磨した日々は、諸君の内に確かな力と気高さを培ったはずです。知識は力であり、教養は誇りです。そして、それらは社会にあって、己のみならず他者をも照らす灯火となりましょう。それぞれの道は異なれど、志あるところに誇りは宿るもの。どうか胸を張り、己の信じる道をまっすぐに進んでください。諸君の未来が実り多きものでありますよう、ここに深甚なる祝福を捧げます」


 声がよく通るよう設計された講堂の構造により、壇上の声が静謐な空間をゆっくりと伝っていく。

 拍手の後、司会役の教師が答辞を読み上げる生徒の名を呼ぶのが例年通りの式の流れ。だが、


「レイモンド・リコッタ卿。前へ」


 その名前を聞いてアデレードは息を呑んだ。壇上に視線が釘付けになった。


(レイモンド……)


 答辞は毎年、学年末試験で一位を取った生徒が担う。

 今年の特進科には、幼い頃から神童と噂されるヴァルモント公爵家の三男がいる。

 毎回レイモンドと成績を競り合っていたけれど、その殆どでヴァルモント公爵に軍配が上がっていた。だから、


「レイモンドは、勉強だけしているあの人と違ってリコッタ商会の手伝いもしているんだから、仕方なくない?」
 

 と慰めを言ったことがある。


「それはただの言い訳だろ。俺は公爵家じゃないんだから、もっと頑張らないと駄目なんだ」


「爵位関係ある?」


「アデレードにはわからないよ」


 突き放された口調に、それ以上何も言い返せなかった。

 でも、本当に余計な一言だったのだと今更理解できた。怒るのも無理はない。だって、


(一位になったんだ……)


 凛とした姿勢で壇上に上って行く長身で細身な後ろ姿。

 七月ぶりに見るレイモンドは七月前のままなのに遥か遠く感じる。

 答辞を読むなんて知らなかった。凄いね、おめでとう、とも言っていない。

 あんなに隣にいたくて必死に追いかけていたのに、もう全然別のところにいる。

 だけど、不思議と悲嘆した負の感情は襲ってこない。

 ひどく凪いた気持ち。でも、からっぽというのとも違う。

 自分がどんな顔をしているのか全くわからない。アデレードはただ、一心に壇上を見上げた。


「本日、我々百十六期生は、無事にこの学び舎を卒業いたします。静かに積み重ねてきた日々が、一つの区切りを迎えたことを、今ようやく実感しております。在学中、多くの教えに触れ、思索を重ね、自らに必要なものを選び取ってまいりました。その蓄積が確かに礎となっていると、今は確信しております。先生方のご指導と、共に学んだ者たちの存在に、心より感謝申し上げます。これから先の道はそれぞれに分かれますが、この場で得たものを支えに、自らの歩みを続けてまいります。有難うございました」


 久々に聞いたレイモンドの声が、一音一音耳に染み入る。


――必要なものを選び取った。


 その言葉が嫌なくらい頭に残った。


(必要なもの……)


 レイモンドはこの学園生活できっちりそれらを勝ち取ったのだろう。

 例えば卒業生代表の座も、リコッタ商会の仕事も、それからメイジー・フランツも。

 私がバリバラへ逃げた後も何も変わらず努力して、あの壇上へ上りつめたのだ、とアデレードは思った。

 凄いことだ。誇らしい。

 でも、同時に、自分は必要なものに入れてもらえなかったんだ、としんしんと積もる雪みたいな冷たさを感じた。

 あぁ、もう本当に道が違えてしまったな、と。

 きっと国境線を越えるよりもっと遠い。遥か彼方の手の届かない場所に。

 わかっていた。悲しくない。現実を淡々と受け止められる。平気だ。呼吸も何も乱れていない。

 一礼して壇上を下りるレイモンドに拍手が鳴り響く。

 あまり見ないちょっとこわばった表情。この上ない栄誉に緊張している顔だ。

 じっと見ていると一瞬目があった気がして、アデレードは咄嗟に顔を伏せた。

 俯きながらただの自意識過剰を苦く思う。でも、おかげで今日は声をかけるのはやめようと決断することができた。だって、


(……卒業式だものね)


 自分にとってだけではない。レイモンドにとっても。いや、レイモンドにとってこそ、実にめでたいハレの日だ。

 逃げ出した部外者がしゃしゃり出て行って自分の気持ちをぶつけていい日じゃない。

 アデレードは、もう一度顔を上げてレイモンドを見た。席へ戻る姿をじっと目で追う。

 もう、傍にいて「おめでとう」すら言えなくなった現実が喉の奥をチリチリ焼く。

 今日、自分が関わることはレイモンドにとって不快なこと。だから、やめよう。

 目が開いたみたいに、さっきまでの自分の浅慮な思考が薄ら寒く感じた。

 早くケジメをつけて、全部すっきりさせたい。そればかりだった。


(私、自分のことしか考えてなかったんだな) 


 レイモンドの卒業式をぶち壊すかも、とは微塵も考えていなかった。だからって、


(別に何も許していないわよ)


 強く言ってやりたいことがある。どうして私を邪険にしたの? 酷いじゃないか。おかしいじゃないか。私だって、もうあなたを全く好きじゃなくなった。バーカバーカって言ってやらなきゃ気がすまない。

 ただ、今日でなくていいだけだ。

 レイモンドのハレの日に泥を塗るのは駄目だと思うだけ。

 だって、レイモンドはこの世で最初にできた一番の友達だ。それだけは絶対に変わらない事実だから。

  
(……これって、きっと独りよがりなんかじゃないわよね)


 悲しくないのにじんわり視界が滲む。

 なんだというのか。やめてほしい。

 泣きたくなくてそっと宙を仰いだ。

 なのに一粒、勝手に溢れ落ちていく。無性に悔しくてならない。

 やっぱり私はへなちょこかもしれない。

 アデレードは苛つきながら天井を見つめ続けた。
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