悪魔の頁

kawa.kei

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第33話

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 手元には魔導書が二冊ある。
 どんな奴が来ようと水を用いた窒息と言う単純な攻撃手段の前には無力だ。
 彼の保有している魔導書は二冊。 少し前に溺死させた男から奪った『5/72マルバス』。

 病を起こさせたり治したりすることができる。
 試しに使ってみたが、気持ち体が軽くなった気がした。 
 もしかすると体のどこかに何かしらの病を抱えてたのかもしれない。

 ただ、欠点として外傷には効果がないのでこの場ではあまり使えない能力だった。
 場合によっては取引などに使えるかもしれないが、彼は他を殺して生き残る方針なのでそういった面でも出番はなさそうだ。 そして彼が最初から保有している魔導書。

 『41/72フォカロル』。 能力は水を生み出して操る事。
 使用位階に比例して操れる水量が変化するので、少し水を飲む程度なら第一位階で充分だが、人間を溺死させるレベルになると第三位階以上が必要となる。 第二でもできなくはないが、下手に出し惜しんで失敗してしまえば目も当たられないので確実に仕留められる第三を使用していた。

 欠点としては図体の大きな怪物に対して効果が非常に薄い事だ。
 巨体であればある程に溺死させる為に必要な水量が変わって来る。 付け加えるなら人間と異なった方法で呼吸している場合は効果がない、または効果が出るまで時間がかなりかかってしまう。

 一度試したが、失敗したので素直に人間を狙う事にしたのだ。
 黒河は闇の向こうから聞こえる声に耳を傾ける。 怪物であるならさっさと逃げを打ち、人間であるなら様子を見て殺せばいい。 可能であるならさっき殺したチンピラのように殺しても心が痛まない相手なら最高だと祈りながら耳を済ませ――唇の端を釣り上げた。

 人間の足音だったからだ。 そして明らかに音の間隔と大きさから小柄、女性ではなく子供だろう。
 流石の彼も子供を殺す事には抵抗があったが、素直に渡さない生意気な態度を取るクソガキなら問題なく殺せる。 

 ――頼む、殺しても一切心が痛まないクソガキであってくれ。
  
 そんな彼の祈りは裏切られふらふらと歩く子供が一人、闇の向こうから滲み出るように現れる。
 俯いていて表情は分からないが手ぶらだった。 それを見て小さく舌打ちする。
 どう見ても魔導書を持っている様子はない。 体格から隠している可能性も低いだろう。

 つまり、どこかで落としたか何者かに奪われたかのどちらかだ。
 流石に丸腰の相手が現れるとは想像できなかったので、対処に迷う。
 真っ先に浮かんだのは知らない顔をして放置する事だ。 どうせ赤の他人の子供で、自分には何の関係もない。 仮に保護したとしても何だかんだと面倒事になるのが目に見えている。

 そして何より、彼は子供が大嫌いだった。
 問答無用で殺せるほど道を外れてはいなかったが、保護しようと思えるほどの優しさもない。
 
 「おい、一人か? 親はどうした?」

 それでも最低限、見捨てる言い訳の為、声をかけた。
 子供はトボトボと俯いたまま近寄って来る。 その様子に不信感を抱いた黒河は魔導書を構えた。
 明確な何かがあった訳ではない。 ただ、嫌な予感がした。

 「止まれ。 止まらないと攻撃するぞ!」

 子供は止まらない。 距離が詰まってその姿が良く見えるようになり、違和感が更に大きくなる。
 見た所、五、六歳程度の子供。 手足は妙に白く、まるで血の通っていない人形のようだ。
 そして最大の違和感は着ている服だ。 胸を中心に大きく黒いシミのようなものが広がっている。

 転んでできた汚れかとも思ったが、よくよく見ると転んだ程度であんな汚れ方をするとは思えない。
 あんな汚れ方をするのは刺されたか何かして出血でもしなければできないのではないか?
 いや、あれだけの出血なら明らかに命に関わる。 ならば返り血?
 
 怪物を乱暴に殺せば飛び散った血液であれぐらいの汚れは――
 はっきりとした事は不明だが、近寄らせると不味い事ははっきりした。
 子供は黒河の警告に一切反応せず、歩く速度はそのままだ。

 「け、警告はしたからな!」

 ――<第三レメゲトン:小鍵アルス・パウリナ 41/72フォカロル

 子供の足元に水溜まりが発生し、生き物であるかのようにその体を這い進む。
 そのまま球体状になって頭部を水で覆うが、子供の足は止まらない。
 
 「おい、嘘だろ? どうなってるんだ?」

 呼吸を封じられた状態で歩ける事も異様だが、それ以上におかしなことがあった。
 水球の中に気泡が一切発生しない・・・・・・・・・・のだ。
 呼吸をする以上、内部にボコボコと気泡が発生して効果がある事を分かり易く示してくれる。

 事実、仕留めたチンピラはボコボコと発生した気泡で顔が隠れたぐらいだ。
 それが一切ないという事はこの子供は呼吸をしていない事になる。
 
 ――そんな馬鹿な!?

 黒河の思考に混乱が発生する。 何故このガキは息をしていないんだと考えたが、もしかしたらそれこそがこいつの魔導書の能力かもしれない。
 そう思い直し、攻撃手段を変える。 水球の中で子供の頭部がメキリと軋んだ。

 水球の内部に圧力をかけたのだ。 このまま圧壊させてやると開いた手を握り潰すように閉じた。
 首が不自然な曲がり方をして子供の顔が正面を向く。
 それを見て黒河は思わず目を見開いた。 何故なら子供の表情からは生気が一切感じられなかったからだ。

 半開きの口に何処も見ていない視線。 同時に納得もした。
 この子供は最初から死んでいたのだ。 死体は呼吸をしない。
 喋らない。 そして本来なら動く事もしないはずだ。 恐らくこの子供を嗾けた相手の能力だろう。

 あまりの悍ましさに吐き気すら込み上げる。 悟ったと同時に水圧に耐え切れずに子供の頭部が砕け、水球内部が血液によって赤く染まった。
 それを見た黒河の判断は早く即座に踵を返す。 恐らくあの子供は魔導書を奪われた上で殺されたのだ。 やった相手はそれだけでは飽き足らずに死体を囮に利用した。

 狂っている。 自分も大概だと思っていたが、ここまでではない。
 これは理屈ではなく、彼の持つ根源的な恐怖心から来る行動だった。
 勝てる勝てないの話ではなく、この相手と対峙したくないといった恐怖、それが彼の足を逃亡へと走らせたのだ。 恐怖からの逃避は人に想像以上の力を齎す。
 
 黒河は自分でも驚く程の挙動で逃げる体勢に入ったが、彼の判断はこの悍ましい所業を行った者からすれば少しだけ遅かったようだ。
 彼の周囲から無数の足音や移動する音が蠢くように響いた。 
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