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縄文文明
縄文文明期05 縄文文明期は、日ノ本に様々な文化圏が形成される時代である
しおりを挟む縄文文明の象徴は、「土偶」である。日本全国で一万数千点の「土偶」が発見され、非常に特徴のある「土偶」が造られている。
一万年以上前に造られた、初期の土偶は、土器を作った余りの粘土で作ったような、ヒトデのような姿を基本とする、「土偶」であり、意味合いとして「遊び」の要素が強かったのではないかと思われる。古い土偶は、越王国の勢力圏で発見されていて、文明形成の流れが、一万年前に生じていたことを示している。
縄文期の人口は、西日本が少なく、東日本が多い、これは植生にもよるが、縄文海進や鬼界カルデラ噴火の影響も強かったと推定している。
瀬戸内沿岸は、水害の多発地域でもあったが、海上交通の要衝でもあった。日向の民は、筑紫を築き、海民の血族でもあり、海洋勢力として、筑紫から瀬戸内沿岸に勢力圏を広げていた。
しかしながら、瀬戸内の中心には、「美」の国があり、巨大な勢力圏を形成していたので、筑紫は、畿内へ拠点を築いて、勢力圏を拡大していたのである。
縄文の文明圏は、本来はゆるやかな繋がりであり、「出雲」による血族支配が浸透していく流れでもあった。
海民と山民が契りを交わして、里民が生まれた、里民が日本民族の始まりであり、縄文文明の終焉期でもある。
豊葦原は、当時の日ノ本に生まれた、里民の水郷であり、日本文化の始まりを形成した時代である。
日本文化圏では、降水量が梅雨、秋雨、降雪という形であり、琵琶湖における一年間の水位変化は、令和の時代でも1m前後あり、治水の未熟な時代であれば、氾濫する河川を含めれば、数mの変化を見込む必要がある。
豊葦原という表現は、単にヤマトの表現ではなく、日ノ本の文化圏が形成された流れの中で生まれた、定住生活のための流れである。成長した葦原を水位が下がり、乾燥する冬に刈り取って、乾かし建材として用いる。雪解け前の初春に、野を焼き払って灰にして肥料として、雪解け水で水位が上昇し、生き物が芽吹く素地を造り上げ、葦原が形成されて、里は漁場となる。山手には、椎・楢・樫といった木を植生し、定住の採取生活を構築していく。
里民の生活は、縄文中期以降に形成された、日本の原風景であった。この時期には、まだ米は、伝来していない。
東シナ海を南から北へ流れる海流は、そのまま稲穂を日ノ本へと運び、豊葦原の水位利用は、そのまま水稲の水位利用として活用されていった。しかしながら、この時期のコメは、黒米や赤米が中心であり、特別に美味しいコメというわけではない。また、脱穀も不十分であり、おそらくは籾も一緒に食べていた時期でもあった。
日本の原風景が変化するのは、古来よりの豊葦原が持つ風景が、水稲の風景と重なり、浸食されていく流れでもあった。
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