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5フィート鉄道開発物語 天祐である。満洲鉄道およびシベリア鉄道は、ロシア帝室の資産でとなった

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 「天祐であるッ」
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 はじめての世界大戦の知らせを受けて、日本は、日英同盟の下で、連合国側で参戦することとなったのである。アメリカは、日本の大陸利権拡大を嫌って反対したため、日本は、青島攻略及び南洋諸島の制圧に限定して、大戦に参戦したのである。

 はじめての世界大戦は、ロシア帝国が東プロイセンに侵攻したことで、ドイツとの戦闘を開始したのである。フランスとロシアの東西双方に戦闘正面が形成されたことで、ドイツは二正面作戦を遂行せざるを得なくなった。

 日本は、ロシア帝国に対し、支援を行うことで、奉天までの鉄道運用権を獲得したのである。さらに、戦争が長期化するにつれて、日本からの支援品を運ぶために、満洲里、チタまでの一時利用権を獲得し、シベリア鉄道を介した、ロシアへの支援体制を確立していったのである。アメリカも借款および支援を開始し、ウラジオストクからシベリア鉄道を介して、支援体制を確立していたのである。

 大正5年(1916年)11月に、ウィルヘルム1世が許可を出した、ドイツの無制限潜水艦作戦に激怒した、アメリカが大正6年(1917年)3月に参戦したのである。

 大正6年(1917年)、悪化するロシア経済の崩壊から、ドイツはレーニン以下の共産主義者をロシアへと帰国させ、2月革命が勃発し、ボリシェビキによる皇帝打倒を推進したのである。

 ドイツの支援による、2月革命から始まるロシア帝国崩壊は、ロシア帝国を支援していた、日米両国にとっては、借款が焦げ付くことを意味していた。イギリスとフランスは、ドイツの東部戦線から西部戦線に戦力が移動することを恐れたのである。日本は英国と共同で、ロシア皇帝一家の国外逃亡支援を計画し実行に移した。

 ロマノフ一家の救出作戦は、英国側の皇帝逃亡に失敗し殺害されたが、皇太子殿下を含めた皇女殿下一行の脱出に成功し、臨時ロシア帝国亡命政府を、樺太豊原に設立し、内外に公表した。

 日本とアメリカは、シベリア鉄道や満洲鉄道については、ロシア帝室の資産であるとした。ロシア帝室の権益を保全し、確保を推進するため、アメリカはウラジオストクからシベリア鉄道確保を目指し、日本は奉天から満洲里、チタまでの侵攻を開始したのである。

 日本は、満洲里からザバイカル鉄道を通り、チタまでの路線を鉄道運用を貸借していたため、シナ派遣軍の侵攻支援が、計画的に進めることに成功した。日本は、満洲全域における鉄道敷設運用権を獲得し、シナ派遣軍が侵攻を開始した。満洲鉄道都市警備局は、奉天から哈爾濱、斉斉哈爾、満洲里、チタとシナ派遣軍の侵攻に並行して、鉄道施設の確保および設備の接収を進めたのである。

 5フィート路線で運行可能な、満洲鉄道都市警備局は、物資の搬送を鉄道を使用して、チタへ駐留するシナ派遣軍の支援体制を確立していた。チタからザバイカル鉄道を介して満洲里に接続される路線は、そのまま大連まで接続する、鉄道網として運用された。

 アメリカは、ウラジオストクから鉄道を介して、チタまでの支援体制を確立し、陸軍への支援体制を確立した。ハバロフスクに5万のオーストラリア軍が進駐し、ニコラエフスクには、イギリス軍1万が駐屯したのである。

 アメリカは、ウラジオストクから哈爾濱まで、5フィートの広軌鉄道路線を日米共同で敷設作業を開始した。大正9年(1920年)に開始された鉄道建設作業は、if昭和元年(1924年)に完成し、ウラジオストクからは、ハバロフスクを経由してチタへ至るルートと、ウラジオストクから哈爾濱を経由して、満洲里からザバイカル路線となり、チタへと至る第二のシベリア鉄道ルートが、完成したのである。
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