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上海のロシア皇女

上海のロシア皇女殿下01 魔都のロシア租界

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強者の倫理10 魔都のロシア租界



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 昭和 5年(1928年)北京にアメリカ軍駐留キャンプが建設される
 昭和 6年(1929年)アメリカ、株価の大暴落暗黒の木曜日始まる。
           アメリカと中華民国との間で、駐留軍について協定締結
 昭和 8年(1931年)イギリス金輸出禁止
 昭和 9年(1932年)アメリカ金輸出禁止
           ソ連軍撤退と中共停戦協定交渉開始
 昭和10年(1933年)アメリカ、国家資本として、上海に自動車工場建設
           中共停戦協定締結
           北京自治政府保安隊、アメリカ軍憲兵隊襲撃(公安門事件)
           北京国民革命軍、アメリカ軍キャンプ襲撃事件発生(北平事件)
 昭和11年(1934年)国民党と共産党の和解、国共合作
           北京アメリカ移民居留地区で、米国市民虐殺事件(通州事変)
           アメリカ軍による、北京占領
           リットン調査団派遣「国際連盟米支紛争調査委員会」
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 上海は、欧州列強による大陸支配の拠点であった。開国され、上海が欧州の支配下に入ってから、大陸が欧州支配から逃れたことは無かった。ロシア帝国は崩壊したが、上海、南京といった都市部に、ロシア帝国の租界だけが残ったのである。
 ソビエトを国家として認めない、国際連盟各国は、ロシア帝国の資産を、ロマノフ王家の帝室資産として承認した。ロマノフ王家を無地領主Landless Lordとして承認したため、ロシア帝国からの亡命者は、租界に住む権利を有していたのである。
 都市の租界は、国際連盟の管理区域として、「特区」に準じる扱いを受け、英、露、仏、米、日を管理国としていた。

 上海租界では、工部局が各国の軍隊で組織され、参事会が各国代表1名に大陸の代表3名を執行部として、政府機関として組織されていた。長江流域の租界には、ロシア帝国の代表が1名参加していて、アナスタシア皇女殿下が名義となっていた。代理人としては、ロシア帝国から亡命した貴族から、ベズウーホフ伯爵が代理人として任命されていた。

 上海は、長江の河口部の巨大都市であり、非常に大きな経済利潤を上げる、欧州各国との玄関口でもあった。

 アメリカ軍が南進していても、上海は、平穏な時を刻んでいた。南京の国民党政府にとって、上海は、最大のスポンサーでもあった。上海を代表する、漢人の代表は、港湾荷役を担うだけでなく、アメリカの自動車工場に働く労働者斡旋を利益としていた。

 河川通行および租界地区以外は、中華民国領であり、アメリカの自動車工場は、借地料が払われていた。また、租界地区からの移動にあたっても、中華民国は税金を徴収することができた。

 アメリカ軍の南進は、そのまま、大陸政府への圧力であった。

「シン。アメリカは、上海を攻めると思う」

「皇女殿下、上海は、アメリカ企業の工場も多く、戦火が及ぶことは、論理的には無いと思います」

「論理的ねぇ、シン。感情としてはどうかしら」

「皇女殿下。アメリカが攻めたとしても、欧州からの民間人が住まう、租界地区への攻撃は避けます。租界を攻撃するとすれば、大陸の問題と思います」

「大陸の問題?」

「大陸は、欧州列強に支配されて、百年を超えますよ、殿下」

「そうね。父の国ロシア帝国を含めてね」

「はい、殿下。今の上海経済を支えているのは、アメリカの自動車工場ですよ」

 アメリカの自動車工場が建設されたことで、上海経済は、大きく拡大していった。長江流域の河川物流については、英、露、仏で独占していた。ロシア帝国が倒れてからは、英と仏の独占事業であった。

「アメリカと戦っている大陸の人達は、上海を嫌っているの、シン」

「殿下。嫌っているのではなく、アメリカからの援助で、アメリカと戦争する矛盾です」

「矛盾か、、、シン。イギリスとフランスは、中華民国を支援するのであろ」

「白人であることは、変わりませんよ、殿下」

 ロシア帝国貴族にとって、上海は、帝国の残照であった。白人でありながら、漢人以上に貧乏なロシア帝国貴族は、様々な仕事を漢人から請け負って、必死に働いていた。

 大量に流れ込んだ、ロシア帝国からの亡命者には仕事が無かった。参事会の代表に列せられていても、租界の権益は、イギリスとフランスがほとんどを握っていた。港湾荷役には、漢人の独占支配下であり、ロシア人の入り込む隙間は無かった。ボロクズのようなスラムの生活から、必死で生き残りを図った、ロシア人たちは、徐々に上海の町に溶け込んでいったのである。

 昭和(1930年代)に入ると、亡命してきたロシア人貴族は、一定以上の教養を持つことから、公証人や弁護士として、徐々に活躍するようになっていた。ボリシェビキとの抗争で、ツァーリと呼ばれる帝国軍人を中心とした、スラブ系ロシア人は、上海の闇にも地位を築いていた。参事会のメンバーでもあり、スラムの中から叩き上げたロシア人は、漢人達にとっては、大国に対抗するための、良き白人パートナーともなっていたのである。没落した帝国貴族も多く参加していることもあり、ボリシェビキに対抗するために、帝政時代を理想とする集団になっていったのである。

「シン。日本は、上海をどうするつもりですか」

「殿下。それは、判りかねます」

 ロマノフ家にとっては、日本の対応が、重要であった。フランスは、ロシアとの関係は悪くないが、大戦でアメリカからの支援を受けて、なんとかドイツを倒せたが、疲弊した本国の復興が優先されていた。アメリカに対抗できるほどの戦力は、大陸には無かった。

 アメリカ軍の行動に制約を加えられるのは、ロシア帝国を倒した、日本だけであった。

 アメリカ軍も、世界最強のロシア帝国陸軍を倒した日本陸軍を警戒していた。長城を越えて、蒙古へ侵攻したアメリカ軍は、馬賊を中心とした義勇兵の活動で、戦線が膠着し、南へ転身したことで、長城の北は親日国家である、蒙古共和国の勢力圏となっていた。アメリカが南へ侵攻できるのは、日本が長城の南へは出てこないからである。

 ただ、イギリスとの関係もあって、皇泰島には支援隊1万が進出しており、山海関にはシナ派遣軍5万が展開していた。5万の支援隊が、石河流域を含めた河川の治水事業を実施し、墾田をおこなって、食料生産を開始していた。山海関から天津まで、広大な田園地帯が広がっていったのである。治水事業には、働き口の無くなっていく北京、天津から逃れた漢人が、のべ100万を越えて参加していた。日本から寒さに強い、稲籾を導入することで、遼東半島一帯は、水田地帯に代わっていったのである。

「ねぇ、シン。貴方はあたしの夫でしょ」

「いえ、皇女殿下。わたしは、あやかしひとならざるものですので、夫にはなれません」

「もう、変わらないのだから」

 女帝に配偶者を迎えることは、なかなかに難しいことであった。これは、ロマノフ家だけでなく、日本でも同じであった。このため、日本では、賀茂斎宮家、伊勢斎宮家を支える、司家のあやかしひとならざるものを、女性皇族に仕える男性としていたのである。
 カザマ・シンこと、風間真は、あやかしひとならざるものの一族であり、仕えるべき姫宮を病で失った後、明石大佐の指揮下で活動していた。ロマノフ家救出作戦を実行し、皇太子や皇女を国外へと脱出させた。脱出行の中で、ロマノフ家の末妹アナスタシア皇女が、恋に落ちたのである。ロシア帝国日本大使館は、ロマノフ家大使館となったのである。駐日ロシア帝国大使が、アナスタシア皇女殿下であった。

 帝室の擁護者を名乗った、キリル大公は、妃ヴィクトリアと娘マリア、息子ウラジーミロヴィチと共に、上海へと亡命し、参事官となっていた。対ボリシェビキ抗争の旗頭となり、ボリシェビキとの戦いで狙われ、負傷するといった苦難に見舞われていた。結果的には上海から、ボリシェビキ勢力を一掃し、白系ロシア人を纏め上げ、火災で焼失したロシア正教教会の再建を果たしたのである。
 今回のアナスタシア皇女による上海訪問は、再建された、上海ロシア正教教会の式典へ参加するためであった。

 ロシア正教会は、反ボリシェビキ勢力の拠点となりやすく、ボリシェビキ勢力からの弾圧を受けていた。正教会は、一国に一つの教会組織としていたが、上海ではロシア正教会として建立された。キリル大公は、ロシア正教会の擁護者と名乗ってもいた。日本でも苦難に満ちた正教会であったが、ロシア帝国の崩壊と、皇太子亡命によって、大きく扱いが変わっていったのである。

 皇太子は、ニコラエフスク事件の謝罪と、北樺太が日本領であることを認める発言を行った。

 帝都で生まれた、アナスタシア皇女殿下の長子と、昭和になって生まれた大正上皇皇后陛下の皇女ひめみこの婚約は、新聞等で報道され、大きく歓迎されたのであった。滅びた国の姫とは、日本人に人気が出るシチュエーションなのだろう。
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