琉球お爺いの綺談

Ittoh

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人を殺してはいけません?

諸族協和は、日ノ本の在り様でもあります 宗教と言う壁を、いかに捉えるか

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 お爺ぃ自身は、教会に行かない、けどキリスト教徒だったりします。ただし、一神教という感覚ではなく、万物に「神が宿る」ではなく、「神の欠片かけら」が宿るという考え方を持っています。結果として、既存の宗教や教会というモノとは、なかなかなに一致しないというのがあります。内村鑑三からの流れからすれば、無教会派ということになりますが、人知が及ばぬ世界があり、受容することから出発すべきであるという考え方になっています。

 日本にキリスト教が入ってきたのは、天平期にネストリウス派が到来して、日ノ本の中では、そのまま日ノ本の神々に習合されたようである。ヘキサグラムとかが、日ノ本に残っているのは、天平期に到来したキリスト教の結果であったのかも知れない。まぁ、天平期以前にも、入ってきたキリスト教もあったとも言われます。

 戦国期にカトリックを広めるために、フランシスコ・ザビエルが、伝道者として日本に布教するためにやってきた。

 14世紀から18世紀の世界は、地球全体が気温が低下する、小氷河期と呼ばれる時代となり、冷害が多く、飢饉の起きやすい時代であり、歴史的に動乱が多かったのは、気候という背景も影響していたと言われています。冷害といった天候不順は、人知の及ばぬ世界で、他者から奪い栄えようとするモノ、救世主を求め地力救済を破棄するモノ、相互扶助の中で生きようとするモノ、様々な行動が生まれます。

 こういった時期には、神への救いを祈りながら、宗教の在り様へ問いかけが行われることにもなります。

 欧州でのキリスト教活動は、ウィクリフ、ヤン・フス、ツィングリ、ルター、カルバンといった、現行の教会組織への反発が生まれます。対抗して教会組織では、イエズス会、ドミニコ会といった教会組織の改革派も活動を開始します。

 フランシスコ・ザビエルという伝道師が、はるばる海を渡って、日本に訪れます。当時のスペインにとっては、布教は侵略と同義であり、宗教は侵略手段として使われます。しかしながら、伝道師個人個人は、神の教えを広めること、神に従う羊とすることが、伝道師の使命としたのです。

 宗教もまた、信仰心を取引というテーブルに載せることとすれば、最初の取引には、強権ではなく誠実さが要求されます。そういった意味では、ザビエルは、伝道師として使命感を持ち、命を賭けて日本に訪れ、誠実さに溢れた人であったのだと思います。結果として、九州を中心として、ザビエルの教えを受け入れる人たちが増えたのだと思います。

 だからこそ本当の意味で、キリスト教を受け入れた人たちは、国に捨てられようとも信仰を捨てられず、殉教への道を進むこととなります。これは、ローマ帝国に迫害を受けていて頃の、キリスト教徒と同じような精神状態であったのだと思います。

 日ノ本の民というのは、神の暴虐とも言うべき、地震や噴火、洪水、大風、冷害が、非常に起きやすい地域に住んでいます。その中で、神の恵みと言うべき、天然自然の助けを受容して、畑を耕し、稲を刈り、獣を獲って暮らしているのです。日ノ本で暮らしてきた、十万年以上の歳月は、神の恵みと暴虐の中で、翻弄されながら生き続けた歳月であったのです。だからこそ、日ノ本の民は、相互扶助に篤く、誠実さを基本として、想いのために命を賭けるを厭わない民に、育っていったというより育てさせられた民なのです。

 天然自然が齎す破壊と言う、神の暴虐を前にしては、人の知恵や力だけでなく命すらも、紙屑よりも小さく弱きモノでしかない。そして天然自然が齎す、神の恵みが無ければ、吸う息に酸素なく窒息し、飲む水に砂混ざりて苦しみ、食を得られずに餓える生活をすることとなります。

 天然自然に生きる中で、「神」を自覚するというのは、人にとっては当たり前のことであり、自然が齎す法なのです。

 問題は、「神」を自覚しながら、人の反応は異なります。受容する、拒絶する、抗う、超越する、利用する、騙す、様々な対応の在り方があります。どういった形で、「神」と向き合うのかは、人の選択でしかありません。

 お爺ぃとしては、「受容する」ということを起点として、そのうえでできる限り誠実に生きることを前提としています。
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