琉球お爺いの綺談

Ittoh

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日ノ本史伝

史伝08 命を奪う覚悟、生きることが「原罪」である。

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 「殺人は罪」という日本の考え方は、最終的には、「魂を持つモノを殺す覚悟」を要求する結果となる。

 「稲を刈り取って殺し、飯として喰らう」

 「魚を釣って殺し捌いて、肴として喰らう」

 「獣を狩り獲って殺し、肉として喰らう」

 殺生を戒律で禁じれば、人は生きていくことができない。日本で肉食が戒律で禁じられていても、表向きの話で、修行時以外では肉食が認められる流れがあったのは、本質として命を刈り取ることに対する「罪」からは逃れられないという大前提が存在しているからである。

 「一寸の虫にも五分の魂」という言葉があるように、虫の命に魂を感じる日本人にとって、生きることは命を喰らうことであり、殺生することである。

 生きる事が「原罪」であり、「御霊を持つモノを殺す覚悟」を持って、生きなければならないという厳しさが日本で生きることの厳しさとなっている。日本には殺生戒が無いというより、殺生を禁ずれば生きていけないのが、日本での律法の在り方に影響している。欧米でいう、ベジタリアンが日本で浸透し難いのは、殺生の範囲は動物だけでなく植物も入るからである。「野菜殺してる」に対して、反論することが、日本では難しいということである。

 様々な意見もあろうかと思うが、命を奪う覚悟を持ち、生きることを前提として、「すべての殺人はいけないことである」と規定するのが、日本の「原罪」という考え方の根本なのだろうと、お爺ぃは考えている。

 だからこそ、日本人は、蟻を潰すことにすら罪業を感じるように、人を殺すことも罪業と認識する。逆に言えば、蟻を潰すように人を殺せるということでもある。日本人ほどに、戦闘に適した民族はいないと思うからこそ、戦闘を忌避するように育てることは、間違いではない。





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 日本人にとっての魂は、軽重なく大切なモノであり、魂を奪うことを罪業とする。
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 生きる限り、命を奪う覚悟は必要で、自分の命は罪業の上に存在する。

 このような日本民族にWGIP:War Guilt Information Programは、プログラムの作成者自身が考えたよりも、効果的に作用していしまった。元々、日本人が「殺人」というモノへの忌避感は、「すべての殺人はいけないこと」という認識から生まれている。

 日本人は、最も戦闘に向いている民族であるからこそ、最も戦闘を忌避する民族である。

 おそらくは、殺せという命令が下っても、命令に従って引き金を引く「自分」という認識を残す。だからこそ、人を殺したという罪は、日本人からは消えることが無い。

 令和に入ったくらいから、人を殺したということを罪であるという認識と、賠償請求等を拒否することに対する認識について、ようやく乖離することができるようになった。乖離するのに、70年近くかかったことになるが、これは単にWGIPだけでなく、日本人の本質に「正義の殺人は存在しない」という認識があるからだとお爺ぃは認識している。





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 裁判的なお話でいえば、戦争での殺人は、起訴されない処分という形であり「殺人は殺人」である。
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