揺れと生きる

立華あみ

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第十三章 傾く重心

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それは、とても静かで、けれど大きな出来事だった。
雨が降っていた。強くもなく、弱くもない。ただ、外に出るのが億劫になる程度の雨。

「今日は、秋頼さんのところ寄ってくる」
「……うん」

彼は引き留めなかった。想定内…けれど、信じているという圧を感じさせる声だった。
だから、間違えたら、取り返しがつかないのは分かっていた。

秋頼の家は、薄暗かった。

「濡れただろう」

玄関に立った僕を見て、すぐにそう言う。責めない。驚かない。ただ、当然のように気遣う。

「少し、上がりなさい」

命令でも、誘いでもない。拒まないという態度。
それが、胸に沁みる。タオルを差し出される。無言。距離近く、けれど、触れない。

「……ありがとうございます」

声が、少しだけ小さくなる。秋頼は、何も言わない。ただ、頷く。ソファに座る。外の雨音が強くなる。

「悠は?」
「……遅いと思います」
「そうか」

それだけ。
一緒にいる理由を問わない。それが、どれほど救いか。
しばらく、何も話さない。沈黙は、重くない。むしろ、包まれている感覚さえ与えてくれる。

「……最近、眠れているか」

秋頼が、低い声で言う。その問いは、診察でも、確認でもない。揺れを前提にした問い。

「……前よりは」 

正直な答え。彼の前では、嘘をつく必要がない。
秋頼は、それ以上聞かない。評価もしない。

「そうか」

それだけで、胸が軽くなる。
雨音が、一瞬、強くなる。僕は、ぽつりと漏らしてしまう。

「……悠は、正しいんです」

唐突な言葉。
でも、止められなかった。

「優しくて、壊さなくて、手を離さなくて…それが、分かるから」

一度、息を吸う。

「淋しい」

声が、震える。秋頼さんは、すぐに何も言わない。答えを急がない。その沈黙が、僕に話をさせる。

「……僕、揺れてるときの方が生きてる感じがして。でも、揺れると、誰かを困らせる。それが、嫌で」

言葉が、溢れる。止まらない。秋頼は、真っ直ぐ僕を見る。逃げない視線。

「……困らせていると思うのは、君だけだ」

低い声。断定でも、慰めでもない。事実として置く言葉。その瞬間、胸の奥で何かがほどける。

——揺れてもいい。
——困らせていない。

それを、初めて信じられる。

「絢聖君」 

名前を呼ばれる。丁寧な呼び方。

「私は、君を正そうとは思わない」
「直そうとも思わない」
「ただ、揺れているならそのままでいい」

その言葉は、許可でも、保証でもない…受容。
その瞬間、はっきりと分かってしまった。

——もう、戻れない。
——ここに、傾いている。

大きな感情じゃない。激情でも、恋の宣言でもない。
重心が、ほんの少し移った。でも、その少しが、すべてを変える。
外の雨が、止み始める。帰れる。帰りたくないと感じてしまった、離れたくないと。

「……そろそろ、帰ります」

自分から言う。
秋頼は、頷くだけだった。触れない選択をした。けれど、一線を越えようと、踏み止まろうと、戻れないところまで来ているのは事実だった。

玄関で、靴を履く。背後に、気配。

「気をつけて」

それだけ。

「……はい」

振り返らない。振り返ったら、完全に崩れる。
外に出る。雨は、止んでいた。空気が、少しだけ軽い。でも、胸は重い。

その夜、悠の腕の中で眠りながら、僕は思う。
——もう、戻る場所は一つじゃない。
その自覚が、すべての始まりだった。
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