1 / 1
第1章 幼少期の夢
1.静かな朝
しおりを挟む
鈴が目を覚ましたとき、部屋の中はしんと静まり返っていた。
耳を澄ませば、アパートの壁越しにどこかの家のテレビの音や、赤ん坊の泣き声がぼんやりと聞こえてくる。窓の隙間から差し込む朝の光は、薄汚れた障子に遮られて、ほこりっぽく淡い。
母の姿はなかった。もう仕事に行ったのだろう。
玄関には昨日のままの靴が揃えられていて、台所には洗っていない食器が積まれている。
父は、まだ起きていない。いや、起きてはいるのかもしれないけれど……。
部屋の奥、いちばん端の布団からは、酒の匂いといびきが聞こえてきた。
「……まだ寝てるのかな」
鈴はそうつぶやくと、使い古しのちゃぶ台の上に手を伸ばし、昨日の晩に近所のスーパーでもらったチラシを裏返す。クレヨンの箱を開けると、赤と青と緑だけが短くなっていた。
「今日は……お花と猫、描こっかな」
チラシの裏に、ふにゃふにゃした丸い花を描く。真ん中に笑っている顔を描くと、ちょっとだけ楽しい気持ちになる。
猫は鈴の想像の中の猫。ほんとうは本物の猫が欲しいけど、父は猫が嫌いだったし、母は「そんな余裕ないでしょ」と言う。
それでも、クレヨンが紙をなぞる音が、少しだけ孤独をまぎらわせてくれた。
テレビの音も、隣の赤ちゃんの泣き声も、もう気にならなかった。
チラシの裏に、色とりどりの鈴の世界が少しずつ広がっていく。
ちゃぶ台の上で描いていた猫に、最後のひげを描き終えたとき。
障子の向こうで、畳がぎし、と鳴った。
「……あ、おにいちゃん」
部屋の襖が少し開いて、眠たげな目をした兄が顔をのぞかせた。髪はぼさぼさで、パジャマのままのその姿に、鈴はちょっと安心する。
「おなか、すいた……」
兄のその言葉に、鈴のお腹も、ぐぅ、と小さく鳴った。
「……うん。じゃあ、起こそっか」
でも、2人の視線が自然と向いたのは、部屋の一番奥、布団の中の父だった。
変わらず、重たい寝息と、酒のにおい。
怖いけど、お腹が空いてるのは嫌だ。
鈴は立ち上がって、そろりと父のそばへ歩いていく。
畳に足をすべらせる音すら、耳に刺さるような静けさだった。
「……パパ、起きて」
布団の端に膝をついて、そっと父の肩に手をのせる。
何も反応がない。
「パパ……おきてよ。ねえ」
今度は少しだけ揺らしてみる。それでも、返事はない。
兄が心配そうに部屋の隅から見ていた。
「ねえってば……!」
もう少し強く揺らすと、父の喉の奥から低いうなり声のような音が漏れた。
「……ぅ……うるせぇ……」
その声に、兄はびくりと肩をすくめて、足音を立てないようにしながら隣の部屋へ逃げていった。
鈴は、動けずにいた。でも、ここでやめたら、ご飯はない。
もう一度、ぐっと勇気を出して、今度はもっとはっきりと声をかけた。
「パパ! 起きてよ、おなか、すいたの!」
布団の中でぐしゃぐしゃと髪をかきむしるような音のあと、父が重たいまぶたを開けて、鈴を睨みつけた。
「……なんじ……」
顔がこわばる。でも、鈴は少しだけ踏ん張って答える。
「……もう朝だよ。おなか、すいたの」
父はしばらく鈴を見つめていたが、やがてふうっとため息をついて、布団から体を起こした。
「ったく……わかったよ。ご飯、な……」
⸻
台所から鍋が沸く音がして、湯気と一緒にインスタントラーメンの香りが漂ってくる。
ちゃぶ台の上には、具材の何も入っていないラーメンのどんぶりが2つ。
「いただきますっ」
鈴と兄は、チュルチュルと麺をすすり始めた。
あったかい。味は濃くて、少ししょっぱい。でも、お腹が空いてたから、それだけでおいしかった。
「……美味いか?」
後ろから父の声がして、2人は顔を見合わせて、うんうんと嬉しそうに頷いた。
「おいしい!」
父はそれを見て満足そうに鼻を鳴らすと、冷凍庫を開けた。
「ほら、今日は特別に……これもやるよ」
出てきたのは、小さなカップに入ったチョコ味のソフトクリーム。蓋を開けると、ふんわりした渦巻きの形がそのまま残っている。
「やったー!」
朝からラーメンにアイスなんて、ちょっと贅沢な日。
舐めたひと口目は、冷たくて、甘くて、ほんの少しだけほろ苦い。
3人で並んで静かにそれを味わっていると、父がふっと笑って言った。
「……やっぱ、もう少し寝るかな」
アイスを食べ終えた父が立ち上がり、あくびをしながら布団に戻っていく。
鈴と兄は顔を見合わせて、小さく笑った。
「ねえ、ちょっと外行こっか」
「うん、行こー!」
着替えを済ませて、2人はアパートのドアをそっと開ける。
外の光は、少しだけ眩しかった。
ぼろぼろのアパートの外階段を、トントンと駆け下りながら、どこに行くかなんて決めていなかったけど、ふたりならそれで良かった。
鈴は、チョコの後味がまだ口の中に残っていることに、ほんの少しだけ幸せを感じていた。
耳を澄ませば、アパートの壁越しにどこかの家のテレビの音や、赤ん坊の泣き声がぼんやりと聞こえてくる。窓の隙間から差し込む朝の光は、薄汚れた障子に遮られて、ほこりっぽく淡い。
母の姿はなかった。もう仕事に行ったのだろう。
玄関には昨日のままの靴が揃えられていて、台所には洗っていない食器が積まれている。
父は、まだ起きていない。いや、起きてはいるのかもしれないけれど……。
部屋の奥、いちばん端の布団からは、酒の匂いといびきが聞こえてきた。
「……まだ寝てるのかな」
鈴はそうつぶやくと、使い古しのちゃぶ台の上に手を伸ばし、昨日の晩に近所のスーパーでもらったチラシを裏返す。クレヨンの箱を開けると、赤と青と緑だけが短くなっていた。
「今日は……お花と猫、描こっかな」
チラシの裏に、ふにゃふにゃした丸い花を描く。真ん中に笑っている顔を描くと、ちょっとだけ楽しい気持ちになる。
猫は鈴の想像の中の猫。ほんとうは本物の猫が欲しいけど、父は猫が嫌いだったし、母は「そんな余裕ないでしょ」と言う。
それでも、クレヨンが紙をなぞる音が、少しだけ孤独をまぎらわせてくれた。
テレビの音も、隣の赤ちゃんの泣き声も、もう気にならなかった。
チラシの裏に、色とりどりの鈴の世界が少しずつ広がっていく。
ちゃぶ台の上で描いていた猫に、最後のひげを描き終えたとき。
障子の向こうで、畳がぎし、と鳴った。
「……あ、おにいちゃん」
部屋の襖が少し開いて、眠たげな目をした兄が顔をのぞかせた。髪はぼさぼさで、パジャマのままのその姿に、鈴はちょっと安心する。
「おなか、すいた……」
兄のその言葉に、鈴のお腹も、ぐぅ、と小さく鳴った。
「……うん。じゃあ、起こそっか」
でも、2人の視線が自然と向いたのは、部屋の一番奥、布団の中の父だった。
変わらず、重たい寝息と、酒のにおい。
怖いけど、お腹が空いてるのは嫌だ。
鈴は立ち上がって、そろりと父のそばへ歩いていく。
畳に足をすべらせる音すら、耳に刺さるような静けさだった。
「……パパ、起きて」
布団の端に膝をついて、そっと父の肩に手をのせる。
何も反応がない。
「パパ……おきてよ。ねえ」
今度は少しだけ揺らしてみる。それでも、返事はない。
兄が心配そうに部屋の隅から見ていた。
「ねえってば……!」
もう少し強く揺らすと、父の喉の奥から低いうなり声のような音が漏れた。
「……ぅ……うるせぇ……」
その声に、兄はびくりと肩をすくめて、足音を立てないようにしながら隣の部屋へ逃げていった。
鈴は、動けずにいた。でも、ここでやめたら、ご飯はない。
もう一度、ぐっと勇気を出して、今度はもっとはっきりと声をかけた。
「パパ! 起きてよ、おなか、すいたの!」
布団の中でぐしゃぐしゃと髪をかきむしるような音のあと、父が重たいまぶたを開けて、鈴を睨みつけた。
「……なんじ……」
顔がこわばる。でも、鈴は少しだけ踏ん張って答える。
「……もう朝だよ。おなか、すいたの」
父はしばらく鈴を見つめていたが、やがてふうっとため息をついて、布団から体を起こした。
「ったく……わかったよ。ご飯、な……」
⸻
台所から鍋が沸く音がして、湯気と一緒にインスタントラーメンの香りが漂ってくる。
ちゃぶ台の上には、具材の何も入っていないラーメンのどんぶりが2つ。
「いただきますっ」
鈴と兄は、チュルチュルと麺をすすり始めた。
あったかい。味は濃くて、少ししょっぱい。でも、お腹が空いてたから、それだけでおいしかった。
「……美味いか?」
後ろから父の声がして、2人は顔を見合わせて、うんうんと嬉しそうに頷いた。
「おいしい!」
父はそれを見て満足そうに鼻を鳴らすと、冷凍庫を開けた。
「ほら、今日は特別に……これもやるよ」
出てきたのは、小さなカップに入ったチョコ味のソフトクリーム。蓋を開けると、ふんわりした渦巻きの形がそのまま残っている。
「やったー!」
朝からラーメンにアイスなんて、ちょっと贅沢な日。
舐めたひと口目は、冷たくて、甘くて、ほんの少しだけほろ苦い。
3人で並んで静かにそれを味わっていると、父がふっと笑って言った。
「……やっぱ、もう少し寝るかな」
アイスを食べ終えた父が立ち上がり、あくびをしながら布団に戻っていく。
鈴と兄は顔を見合わせて、小さく笑った。
「ねえ、ちょっと外行こっか」
「うん、行こー!」
着替えを済ませて、2人はアパートのドアをそっと開ける。
外の光は、少しだけ眩しかった。
ぼろぼろのアパートの外階段を、トントンと駆け下りながら、どこに行くかなんて決めていなかったけど、ふたりならそれで良かった。
鈴は、チョコの後味がまだ口の中に残っていることに、ほんの少しだけ幸せを感じていた。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる