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生人 

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第1章 幼少期の夢

1.静かな朝

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鈴が目を覚ましたとき、部屋の中はしんと静まり返っていた。

耳を澄ませば、アパートの壁越しにどこかの家のテレビの音や、赤ん坊の泣き声がぼんやりと聞こえてくる。窓の隙間から差し込む朝の光は、薄汚れた障子に遮られて、ほこりっぽく淡い。

母の姿はなかった。もう仕事に行ったのだろう。
玄関には昨日のままの靴が揃えられていて、台所には洗っていない食器が積まれている。

父は、まだ起きていない。いや、起きてはいるのかもしれないけれど……。
部屋の奥、いちばん端の布団からは、酒の匂いといびきが聞こえてきた。

「……まだ寝てるのかな」

鈴はそうつぶやくと、使い古しのちゃぶ台の上に手を伸ばし、昨日の晩に近所のスーパーでもらったチラシを裏返す。クレヨンの箱を開けると、赤と青と緑だけが短くなっていた。

「今日は……お花と猫、描こっかな」

チラシの裏に、ふにゃふにゃした丸い花を描く。真ん中に笑っている顔を描くと、ちょっとだけ楽しい気持ちになる。
猫は鈴の想像の中の猫。ほんとうは本物の猫が欲しいけど、父は猫が嫌いだったし、母は「そんな余裕ないでしょ」と言う。

それでも、クレヨンが紙をなぞる音が、少しだけ孤独をまぎらわせてくれた。
テレビの音も、隣の赤ちゃんの泣き声も、もう気にならなかった。
チラシの裏に、色とりどりの鈴の世界が少しずつ広がっていく。

ちゃぶ台の上で描いていた猫に、最後のひげを描き終えたとき。
障子の向こうで、畳がぎし、と鳴った。

「……あ、おにいちゃん」

部屋の襖が少し開いて、眠たげな目をした兄が顔をのぞかせた。髪はぼさぼさで、パジャマのままのその姿に、鈴はちょっと安心する。

「おなか、すいた……」

兄のその言葉に、鈴のお腹も、ぐぅ、と小さく鳴った。

「……うん。じゃあ、起こそっか」

でも、2人の視線が自然と向いたのは、部屋の一番奥、布団の中の父だった。
変わらず、重たい寝息と、酒のにおい。

怖いけど、お腹が空いてるのは嫌だ。

鈴は立ち上がって、そろりと父のそばへ歩いていく。
畳に足をすべらせる音すら、耳に刺さるような静けさだった。

「……パパ、起きて」

布団の端に膝をついて、そっと父の肩に手をのせる。
何も反応がない。

「パパ……おきてよ。ねえ」

今度は少しだけ揺らしてみる。それでも、返事はない。
兄が心配そうに部屋の隅から見ていた。

「ねえってば……!」

もう少し強く揺らすと、父の喉の奥から低いうなり声のような音が漏れた。

「……ぅ……うるせぇ……」

その声に、兄はびくりと肩をすくめて、足音を立てないようにしながら隣の部屋へ逃げていった。

鈴は、動けずにいた。でも、ここでやめたら、ご飯はない。
もう一度、ぐっと勇気を出して、今度はもっとはっきりと声をかけた。

「パパ! 起きてよ、おなか、すいたの!」

布団の中でぐしゃぐしゃと髪をかきむしるような音のあと、父が重たいまぶたを開けて、鈴を睨みつけた。

「……なんじ……」

顔がこわばる。でも、鈴は少しだけ踏ん張って答える。

「……もう朝だよ。おなか、すいたの」

父はしばらく鈴を見つめていたが、やがてふうっとため息をついて、布団から体を起こした。

「ったく……わかったよ。ご飯、な……」



台所から鍋が沸く音がして、湯気と一緒にインスタントラーメンの香りが漂ってくる。

ちゃぶ台の上には、具材の何も入っていないラーメンのどんぶりが2つ。

「いただきますっ」

鈴と兄は、チュルチュルと麺をすすり始めた。
あったかい。味は濃くて、少ししょっぱい。でも、お腹が空いてたから、それだけでおいしかった。

「……美味いか?」

後ろから父の声がして、2人は顔を見合わせて、うんうんと嬉しそうに頷いた。

「おいしい!」

父はそれを見て満足そうに鼻を鳴らすと、冷凍庫を開けた。

「ほら、今日は特別に……これもやるよ」

出てきたのは、小さなカップに入ったチョコ味のソフトクリーム。蓋を開けると、ふんわりした渦巻きの形がそのまま残っている。

「やったー!」

朝からラーメンにアイスなんて、ちょっと贅沢な日。
舐めたひと口目は、冷たくて、甘くて、ほんの少しだけほろ苦い。

3人で並んで静かにそれを味わっていると、父がふっと笑って言った。

「……やっぱ、もう少し寝るかな」

アイスを食べ終えた父が立ち上がり、あくびをしながら布団に戻っていく。

鈴と兄は顔を見合わせて、小さく笑った。

「ねえ、ちょっと外行こっか」

「うん、行こー!」

着替えを済ませて、2人はアパートのドアをそっと開ける。
外の光は、少しだけ眩しかった。
ぼろぼろのアパートの外階段を、トントンと駆け下りながら、どこに行くかなんて決めていなかったけど、ふたりならそれで良かった。

鈴は、チョコの後味がまだ口の中に残っていることに、ほんの少しだけ幸せを感じていた。
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