面影湖奇譚

水沢ながる

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面影湖奇譚

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「この先の湖には伝説があるのよ」
 女はそう言った。
 天頂で満月が硬質の光を放つ中、私は車を走らせていた。月は明るかった。こんなにも月が明るいものだったとは、私はついぞ知らずにいた。
 街灯もろくにない山道だった。その中を私は、女と二人きりで湖に向かっていた。
「どんな伝説だい?」
 私は何気ない風を装って訊いた。
「あの湖が『面影湖』と言う名前なのは知ってるでしょ?」
「ああ」
 ぐねぐねとしたカーブを曲がる。
「あの湖はね、こんな満月の夜に水面を覗くと、自分の心の中にある顔が映るんですって。……昔、庄屋の息子と貧しい小作の娘が恋に落ちた。しかし周囲の者に反対され、娘は満月の夜にあの湖に身を投げて死んでしまった。男が悲しんで、次の満月の夜に湖に向かうと、水面に娘の姿が映った──」
 女はねっとりとした視線を私に向けた。
「あなたの場合、誰の顔が映るのかしら? やっぱり奥さん?」
「やめろ」
 妻の話は聞きたくはない。
 妻が死んで、もう半年になる。病弱で陰気な女だった。私の記憶の中での妻は、常に病室で蒼白い顔をしていた。私が尋ねて行くと、それでも弱々しい笑みを浮かべて見せたものだ。だが私はその表情が嫌いだった。死者に微笑まれたようで、内心薄気味悪くさえあった。もちろん、そんなことは表には決して出さず、妻思いのいい夫を演じていたのだが。
 今にして思えば、私は本当に妻を愛していたのかどうかさえ怪しい。結婚した当初は確かにこの女を愛していると思っていたのだが──どうやらあれはただの同情心だったのでは、と考えている。結婚生活も終わりの方になると、私は明らかに妻の看護に疲れていた。
(だから──)
 私はちらりと助手席の女を見た。
 だから、息抜きが欲しかったのだ。
 女は何処か楽しげに、カーステレオから流れる音楽に合わせてハミングしている。まるでピクニックにでも行くように。女はこの歌が好きだと言った。私は良くは知らないのだが、最近人気のあるバンドの曲らしい。甘ったるい男性ヴォーカルがねちっこく歌うラヴ・ソングだった。
(湖の伝説、か)
 伝説に残る悲恋のカップル。だが、女が早々と死んでしまって、実は男は幸せだったのではないか。いくら惚れた女でも、共に暮らせばどんな粗が見えてくるか知れない。二人で手に手を取って駆け落ちでもしたとしても、坊ちゃん育ちの男はとても生活など出来ないだろう。いや、それを知っていたからこそ、男はそんな手段を選ばなかったのではないか。
 その点、女が死んでしまえば、男は女の美しい想い出だけを抱えて生きて行ける。この先誰と結婚しても、「俺が本当に愛していたのはあの女だけだ」という想いに浸れる。死んだ人間はいつでも美化された過去の中の存在であり、ごみごみした現実に侵されることはない。
 夜の中を車は走って行く。

       ☆

 以前、私の家に刑事が来たことがある。 武田と名乗ったその男は精悍な顔立ちをした二枚目だったが、人の全てを見透かすような眼をした嫌な男だった。彼自身が元々そんな男なのか、刑事であるからそうなったのかは判らない。
 彼は、近所で起きた通り魔殺人の聞き込みに回っているらしかった。何となく虫が好かなかったので、何も知らないとそっけなく答えておいた。男はああ、そうですか、と事務的に答え、意外と大人しく引き返した。
 だが、私は知っている。
 引き返す間際、男の口元に皮肉な笑みが浮かんでいたのを。
 実に嫌な笑い方だった。二度と来るな、と反射的に私は思った。
 彼の姿はその後見てはいないが、あんな男につきまとわれるのは御免だ。
 そうだ。
 あんな奴にかぎつけられないようにしなければならない。

      ☆

「ねえ、婚姻届、もう出してくれた?」
 女が甘ったれた声を出した。その声で私は我に返った。
「ああ、もちろん」
「嬉しい」
 私は車を停めた。ここから先は、歩いて行かなければならない。背の高い草が一面に生えている。女はきゃあきゃあ言いながら先を歩いて行った。
 女は知っているのだろうか。今から行こうとしている湖が、景色の美しさばかりでなく──自殺の名所としても知られていることを。沈んでしまえば二度と浮き上がらないと言われている、魔の湖であるということを。
 死んだ妻は資産があるだけが取柄のような女だった。この女は、若く美しいだけが取柄のような女だ。私の他にも男がいることなど──判っていた。

 ざわり。草が揺れた。

 女が……見えない。

 背の高い草の中に、女の姿は完全に隠れてしまっていた。

 くすくすくすくす。

 女の忍び笑う声。

「おい、何をしてるんだ。子供みたいなことを」

 ──くすくすくす。知ってるのよ。

「何を言ってるんだ? おい!」

 ──あなたが本当は、婚姻届なんて出してないってこと。

「……なに……?」

 ──私を殺す気でしょう? 本当は。あの湖に沈める気でしょう?

「……おまえ……!」

 ──あなたに沈められるくらいなら、

「私があなたを沈めてもいいわよね?」

 衝撃。
 私は声もなくその場に倒れた。女はいつの間にか、私の背後に回っていたのだ。女の手には何か黒っぽいものが握られていた。青白い火花が散った。スタンガンか。
 満月の光を背にして、女が立っていた。その顔には、明らかに尋常ではない笑いが貼りついていた。私は本能的な恐怖を感じ、その場を離れようとじたばたとあがいた。体が上手く動かない。
「心配しないで。人を殺すのは初めてじゃないのよ」
 女は何処からかナイフを取り出し、刃をぺろりと舐めた。死と生の狭間で、その仕種はひどく扇情的に見えた。
 そう言えば、この所通り魔殺人事件が多発していた。被害者は皆スタンガンで昏倒させられ、刃物で致命傷を負わされていたという。新聞でもTVでも、連日報道していたじゃないか。それが……この女だと?
「私ね、こうしないと燃えないのよ。どうしてかは判らないけど。ナイフを突き刺す瞬間がたまらなくイイの。結婚してからでもいいと思ってたけど……仕方ないわよね。最初に仕掛けて来たのはあなたの方だし」
 女がナイフを振り上げた。銀色の刃が、月光を受けてきらりと光った。

「そこまでにしとけよ」

 女の手を誰かがつかんだ。そのまま腕をねじり上げる。刃はあっけなく草の上に落ちていた。
 何処から現れたのか、一人の背の高い男が女を組み伏せていた。月の光が男を照らした。
 まだ若い男だった。恐らく二十代後半だろう。何処か野性味のある、端整な顔立ち。男が女を取り押さえたのと同時に、数人の男が草をかき分けて近寄って来た。制服警官も混ざっている。男は手錠を出し、女の細い手首にかけた。
「殺人未遂の現行犯だ。ついでに今までの犯行もしゃべってもらうぜ」
 女は挑戦的な眼で男を見上げた。
「やっぱりあんたが邪魔しに来たのね、刑事さん。最初に見た時から、虫が好かなかったのよ」
「俺もだよ」
 男は動じなかった。
「まずあんたを殺してやれば良かった。同じ殺すんなら、あんたみたいなイケメンの方がいいもの」
「そりゃどーも。続きは取調室で聞かせてくれ」
 そう言葉を投げつけ、刑事は警官達に女を引き渡した。引きたてられて行く女の背中を見送ってから、刑事はまだその場にへたり込んでいた私に手を差し伸べた。
「大丈夫か?」
「あ、は、はい」
 私は刑事の手につかまり、何とか立ち上がった。
 男の眼が一瞬すっと細くなった。
 続いて、唐突に男はしゃべり始めた。
「あの女は殺人という行為に快楽を見出していた。どちらかと言うと本能でやってたに等しい。多分証拠も出るだろうな」
「そ、そうなんですか」
「だが──」
 男の眼は全てを見透かしたように深い色をしていた。
「それが殺人であるとさえ思われない犯罪もある。立証することは難しいが、当事者は間違いなく知っている──それが犯罪だということを」
「な……何を言ってるんです」
「別に」
 皮肉めいた笑み。先程の女の笑みとは違う意味で、戦慄すべき笑みだった。
「ただ……そうだな。この湖の伝説は、残された男が幸せに暮らしたとは、一言も伝えちゃいないんだ。その上であんたがここの水鏡に誰の顔を見るか、そいつに興味があってね」
 す、と男の指が伸びた。私はつられたように後ろを見た。

 湖があった。湖面には真円を描く月が映っている。

 ざわ。湖面が波立った。

 ざわざわざわざわ。

 波が。

 月の光に照らされ、形を成して行く。

 湖いっぱいに。

 顔が、現れた。

 蒼白い女の顔だった。

 湖面の顔は弱々しく微笑んだ。

 それは紛れもなく、死んだ妻の顔だった。

 妻が口を開いた。


  ──ああ、やはり

  ──あたしを殺したのは、あなただったのね。


 私は、悲鳴を上げた。

       ◇

 停めてあったパトカーに戻って来た武田春樹は、軽く溜め息をついた。
「どうかしましたか?」
 そこにいた制服警官が訊いた。
「いや……世の中なんと殺伐としてるんだろう、と思ってな」
「全くですねえ。特にこんな仕事をしてると、つくづくそう思いますよ」
 警官は素直にうなずいた。
 武田は内心の言葉を飲み込んだ。まあ最初から言えるわけがない──あの二人を殺し合わせて残った方一人だけを逮捕した方が手間が省けたかも知れない、などとちらっと考えてしまったとは、口が裂けても。
 結局、俺もあの連中とさして変わらないということだ。
 武田は湖の方を見た。数百年の昔、この湖で何があったかは、人に視えないものを視られる能力を持つ俺しか知らない。今は伝説の彼方にある惨劇が、あいつらや俺みたいな輩を引きつけるのかも知れない。
 何故って──満月の夜に面影湖が写すのは、己が殺した者の顔なのだから。
 武田はポケットから煙草を取り出し、火をつけた。満月の空に紫煙がたなびき、静かに消えて行った。
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