木野友則の悪意

水沢ながる

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二日目 事件

二日目・7 あの人の背中を追いかける

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 戸田さんは昼食の後片付けが終わると、ふらり、と校舎の中へさまよい出た。僕は慌ててその後を追った。
「どこ行くんです?」
「音楽室。どっちだか教えてくれや」
「なにかあるんですか?」
「明智クンがいるんじゃないかな、って」
 明智さん。そう言えば名美の二人は学食に姿を見せなかった。上月さんはさっきのことがあるから気まずいんだろうけど……明智さんはどうしたんだろう?
 戸田さんはやけに自信たっぷりに──まあこの人はいつもそうだけど──音楽室に向かって歩を進める。やがて音楽室のドアが廊下の先に見えて来て──その奥から、ピアノのメロディが聞こえた。
 僕はそっとドアを開けた。
 女の子のように髪を長く伸ばした人が、一心にピアノの鍵盤を叩いていた。そのメロディは聞いたことのないものだったけど、実に美しく僕の胸に響いた。僕がほうっとそれを聞いていると、不意に音が止まった。
「やあ、小泉君、戸田君」
 戸田さんは軽く拍手をしながら明智さんに近づいた。
「いい曲だなぁ。おまえさんの?」
「ああ……君達の演技を見てたら、うずうずしちゃってね。とにかく何か弾きたくてたまらなくなったんだ。だから、悪いとは思ったけど、勝手に使わせてもらったよ。後で柴田君にも謝っとくから、大目に見てくれるかい?」
 明智さんは僕に向かって手を合わせた。元より、僕に反対出来るはずもない。あんなに綺麗な曲を聞いてしまった後では。
「そうそう、戸田君にも謝っとかなきゃ。うちの陽介が迷惑かけちゃったようで。根はいい奴なんだけど、どうも血の気が多くてね」
「いやぁ、うちのも似たようなもんさ。さらっとかわすってことを知らねえんだから。ま、てめーでカタつけろって言っといたから、どうにかするだろ」
 明智さんは少し安心したように微笑んだ。そして、戸田さんの顔を見上げ、訊いた。
「ねえ、戸田君。君はどう思ってる? ──菅原君を殺した犯人について」
 何か含みのある笑顔を、戸田さんは返した。
「そいつは、おたくも判ってんじゃないの? 昔っから、明智と言やあ名探偵だ」
「いや、僕のはきっと、謀反人の方の明智だよ。それに僕は、死んだ菅原君のことをよく知らないしね」
 僕は完全に置いてきぼりにされていた。なんだか、二人には二人だけの共通の認識があって、その上で話をしているらしい。共通の認識──つまり、真相だ。
「ま、そうだな、今俺に言えることは、犯人は“見失った奴”だってことくらいか」
「見失った?」
 僕は言葉をなぞることしか出来ない。
「どの犯罪にも言えることだけど、人が犯罪を犯さないのは、自分の中のモラルとか外からの規制とか、ブレーキになるものがあるからだ。でも、一瞬──そう、一瞬でいい──そのブレーキを見失って空白の中に落ちこんでしまったら、人は案外と簡単に犯罪を犯す。人を殺すのも、物を盗むのも、行為としては割と単純だ。その一瞬が過ぎ去ってしまった後ではもう遅い。それが過ぎ去った後、人はブレーキと折り合いをつけるために、小細工したり逃げてみたりする。余計な行動は逆効果となる例も多いんだけどな」
 語る戸田さんの姿は、ひどく年経て見えた。いや、外見じゃなく、中身が。千年を生きた大樹のような老賢者──そんなイメージが浮かんだ。
「そうだね、……」
 明智さんはあくまでも静かに応えた。
「でも、戸田君。君は違うね。君は、人を殺すその瞬間さえ、自分が今何をしていて、その結果どうなるかを冷静に分析しているタイプの人間だ。正直な話、菅原君を殺した犯人より──僕は君が怖いよ」
 そして明智さんは、戸田さんの眼をまっすぐに見て言い切った。
「だけど、その怖さがあるからこそ、僕は信じているんだ。この閉ざされた空間に崩壊をもたらすことが出来るのは、君しかいない、と」
 戸田さんは……薄く、微笑わら った。

       ★

 同じ頃。
 上月陽介は、一階の渡り廊下の出入り口に腰掛けて、ぼんやりしていた。不意に、その前に誰かの足が現れた。
「なんだ、ここにいたんだ」
 見上げると、男の目から見ても綺麗だと思える顔立ちが笑いかけていた。大江賢治だった。彼は陽介に向かって、ラップに包んだ握り飯を差し出した。
「戸田さんから。昼飯来ないから、腹減ってるだろって。非常食のアルファ米で作ったおにぎり」
「あ、ああ……」
 陽介は少し当惑しながらそれを受け取った。賢治は何事もなかったかのように、いつもの笑顔を見せている。
「……おまえ、怒ってねーのか?」
「別に。俺も反省してるから。──木野さん達に言われたよ、安易に切れるな、って」
「俺も明智さんに言われた。……八つ当たりはよせって」
 陽介は握り飯をほおばった。賢治はその隣に座り込んだ。
「……本当のコト言うと、俺、おまえに嫉妬してた」
 ぼそ、と陽介は言った。賢治は少し怪訝そうに彼を見た。
「さっきの舞台見てさ……俺、すげえゾクゾク来たんだ。明智さんの音楽を初めて聞いた時と同じくらい。──あの人さあ、今、プロ目指してんだ。あっちこっちにデモテープ送ったり、オーディション受けたりしてる。もし、あの人がプロんなったら、きっと日本中があの人に注目するぜ。そんくらいすごい人なんだよ、明智さんって人は」
 目が輝いている。ここまで嬉しそうに話せるのは、彼が明智悟の音楽に惚れ込んでいる証拠だ。賢治にも覚えがある。と、陽介はふっと目を伏せた。
「……でも、思っちまうんだよな。俺はあの人ほどの才能はねーから……いつか明智さんについて行けなくなっちまうんだろうな、って」
 陽介はにらみつけるように賢治を見た。
「おまえは、さ。あのゾクゾクした舞台に立ってたじゃん。戸田のあのものすげー演技に負けてねーじゃん。おまえは俺みてーなコト思わずにすむ……って思ったら、つい……」
「おまえ、一番肝心なところを勘違いしてる」
 賢治は静かに答えた。
「勘違いだぁ?」
「俺があの人の演技について行ってるんじゃない。あの人が俺に合わせてくれてるんだ。あの人がマジで芝居したら、俺なんか見る影もないよ」
 賢治の言葉に、陽介は驚きの色を隠せなかった。あれだけの芝居をしておきながら、まだ本気ではなかったと言うのか? 賢治は言葉を続けた。
「おまえと同じようなこと、以前に俺も考えたことあるよ。でも悟った。いずれのことなんか考えてもしょうがないって。そのいずれを少しでも遅くするために、ただあの人を追っかけてくしかないって」
 一生追いつけないかも知れない。途中で倒れるかも知れない。それでも、前にあの人の背中が見える限り、それを追うしかない。
 結局、惚れた者の負けってことかな、と賢治は笑った。
「俺達にもさ、夢があるんだ。いつか、あの人の周りに集まった連中で、劇団を作ろうって夢がさ。──本当は菅原さんにも参加して欲しかったけどね」
「──大江」
 笑顔の裏にさびしさが見えた。陽介は、思わずぶっきらぼうに言葉をかけていた。
「俺達は明智さんと一緒にトップミュージシャンになる予定だ。おまえらは……芝居でトップになれよ。誰にも負けんじゃねーぞ」
 言うなり、陽介はぷいっと顔をそむけた。賢治はふわりと微笑んだ。
「ああ。必ず」
 その時──二人の耳に、ピアノの旋律が聞こえて来た。そして、それに合わせて歌う声も。
「あれは……」
 二人は同時に立ち上がった。
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